知識の宮殿を建てよ:AI時代に問い直すルネサンス期の「記憶術」【WORKSIGHT ARCHIVES#12】
隔週で過去のプリント版『WORKSIGHT』に掲載された必読記事を配信中──。AIが情報を生成する現代は、新大陸の発見に揺れたルネサンスと同じ「情報爆発」の時代だ。ルネサンス期に再び注目された、頭のなかに知識のための空間をつくる技法「記憶術」は、情報との向き合い方をわたしたちに教えてくれる。(2023年8月25日発行)
17世紀イギリスの医師/神秘主義者ロバート・フラッドが、記憶術体系を論じるなかで示した〈劇場〉。ルネサンスの記憶術では、ある情報や記憶を頭の中にいれるために、自分で建物のイメージを作っていく
photo by Ann Ronan Pictures/Print Collector/Getty Images
AIによって情報を探すこと、引き出すことが極端に容易になったいま、わたしたちの情報との向き合い方は大きく変わろうとしている。かつて、印刷技術の普及により情報のビッグバンに対峙したルネサンス期の知識人たちは、新たな「記憶術」を編み出し、実践していったという。その試みは、新しい情報ビッグバンを迎える現代にどのような問いをもたらすのか。『記憶術全史:ムネモシュネの饗宴』(講談社選書メチエ)や『ルネサンス:情報革命の時代』(ちくま新書)の著者・桑木野幸司に尋ねた。
2023年8月25日発行、プリント版『WORKSIGHT[ワークサイト]20号 記憶と認知症 Memory/Dementia』より転載。
text by Koji Fukuda
「情報爆発」と記憶術
ルネサンス期に西欧社会に広まった記憶術の方法を簡単に説明すると、心の中に仮想の建物を建て、そこに情報をビジュアル化して順序よく配置し、それらの空間を巡回するという極めてシンプルな仕組みです。たとえば、ある教会を頭の中に用意して、この柱にはこのイメージという一対一の対応のもと情報を配置し、あとは何度もその建物を自身で巡っていく。これだけの方法で効率的な情報の処理ができるというわけです。情報を取り出すときも、そのひとつひとつの場所から思い出すんですね。
こうした記憶術の基本的なシステムである「精神内での情報の受け皿となるヴァーチャルな器の作成」「記憶したい内容のイメージへの翻訳」「器の中へのイメージの配置」自体はルネサンスに生まれたのではなく、古代から方法論として教えられていました。もともとは「弁論術」という立身出世のための学問の一部として教えられていたんです。その後、キリスト教の宗教的瞑想の実践に取り込まれるなど紆余曲折を経ますが、ルネサンスの記憶術の特徴は、古代の方法論を意識的に創作などに活用しようとした点にあります。
私自身はもともとルネサンスの美術と哲学思想に興味があって、20世紀の哲学史家フランセス・イエイツによる金字塔的な研究書である『記憶術』などを読んで、面白いと思っていました。深く探究していくようになったきっかけは、博士論文の準備をしていた時に出会ったアゴスティーノ・デル・リッチョという、16世紀後半のフィレンツェで活躍したドミニコ会修道士です。この人物はルネサンスの造園芸術に関する歴史上重要な資料を多く書き残しているのですが、その中に理想庭園のモデルを記述する部分があります。彼もまた、その名も『記憶術』という本を書き残しているのですが、それらに記述されていることとイエイツの『記憶術』には共通点が多いと気づいたのです。
ローマ郊外の世界遺産ヴィッラ・デステ。「完全なる古代世界を現出」(桑木野)しようとした16世紀イタリア庭園文化の傑作 Bildagentur-online/Universal Images Group via Getty Images
そこから記憶術が生まれた背景について調べていくと、庭園だけではなく、その時代の文化的プロダクトや芸術品、知的生産活動全般に対して記憶術とそれを支える記憶文化の影響があることが分かってきました。私がルネサンス期を研究するにあたって、記憶術をひとつの手がかりとするようになったのには、こうした経緯があります。
ルネサンスは1492年のコロンブスによる新大陸の発見以降、西欧による南北アメリカの探検が進み、現地のさまざまな動植物や資源、文化などが流れ込んでくる「情報爆発」の時代でした。故に、商業活動や社会活動を円滑に行うためには、捌ききれないくらいの情報を管理することが喫緊の課題となり、記憶術が再注目されるようになり、当時、薄くて安価な記憶術マニュアルが非常によく売れていたようです。
当時起こっていたのが「知識のスタンダード化」という事態です。これには15世紀半ばのヨハネス・グーテンベルクによる活版印刷術の発明が影響しています。それまでも知識人と呼ばれた人たちは、文学・哲学等で必須とされる文献を読んでいましたが、その態度が共有されるのは非常に狭いサークルの中に限定されていました。
しかし、印刷術によってキケロやカエサル、オウィディウスなどの古代の文献が大量に流通することにより、備えておくべきとされるスタンダードな知識が社会全体で共有されるようになったのです。次第に社会全体で「お前はそんなものも読んでないのか」という空気が生まれていくのです。イメージの分野でも「知識のスタンダード化」は起きていきます。たとえば神話におけるヴィーナスを描く時にも、その格好や手の持ち物など、誰が見てもヴィーナスと分かるような描き方が共有されていきます。
そして当時の記憶術はそうした共通化された情報を巧みに利用していました。記憶イメージのつくり方の例として当時の記憶術のマニュアルには、水星であればメルクリウス、金星であればヴィーナス、火星であれば軍神マルスをイメージとして頭の中にストックしておきなさいと書かれています。これは神のイメージがスタンダード化されて、誰が見てもアイデンティファイできるようになっていたからです。
フィレンツェのメディチ家・シニョリーア宮殿内、復元されたストゥディオーロ(フランチェスコ一世・デ・メディチのコレクション・ルーム)。設計者が当時の記憶術の原理をよく理解し、反映した可能性が非常に高いと桑木野はいう DeAgostini/Getty Images
こうして記憶術は当時の「知識のスタンダード化」を上手く味方につけ、自分の体験や記憶と共通情報を組み合わせることで、膨大な情報を記憶する方法を生み出していました。つくり上げられた個人知識は、一部には共通情報を使っているので、他人とある程度共有することも可能になっていたのです。
また、こうした個人の記憶と共通の情報を上手く使った文章表現が修辞学の世界にはあります。「エクフラシス」というもので、読者の頭の中に生き生きとしたヴィヴィッドなメンタルイメージを描く文章表現のことを指し、それによって生まれる生理的反応を「エナルゲイア」と呼びます。エナルゲイアを生み出すことを目指した文章表現がエクフラシスであり、精神内での強いイメージの喚起が必要となる記憶術とエクフラシスは密接な関係を持っていました。
ただ細かく丁寧に描写するだけではエクフラシスにはなりません。読者がまったく見たこともない情景であっても、頭の中に生き生きとしたイメージを描いてもらえるようにするには、どのような文章を書けばいいかが課題になります。これは古代ローマの例ですが、クジラを見たことがない読者に対してクジラを描写するとき、そのまま外見を詳述しても伝わらないし、読者の心は沸き立たないわけです。そのときに書き手は、クジラはライオンのような口を持っていて、何頭もの象を連ねた大きさで……というように、読者が知っているであろうイメージをうまく組み合わせることによってエクフラシスを完成させていく。ルネサンス期にこのエクフラシスを十全に活用するには、まさに記憶術が必要とされた背景としての同時代的な知識のスタンダードを押さえないといけなかった、というわけです。
ルネサンス時代のヨーロッパ人にとって非常に深刻だったのが、新大陸アメリカに関する情報です。アメリカの原住民の文化や習慣はヨーロッパ人のスタンダードの考え方だと理解できない。メキシコの水上都市を描写する時にもヴェネツィアを引き合いに出して描写する。ヨーロッパでは見つからない動植物も、既に知られているものやそっくりな特徴をもつ動植物を使って理解可能なイメージに変換していくことが行われていました。そうでもしなければ読者に未知の知識を伝えることは困難でした。ここには当然、西洋の知と植民地主義という大きな問題もあります。
いずれにせよルネサンスの時代はどんどん流れ込む新しい情報を理解しなければならないため、エクフラシスのような未知のイメージを既知のイメージに当てはめる方法論が発達していきました。また、知識のスタンダード化が重要となり、そして、それを基盤として記憶術が発展していきます。その結果として、個人の記憶が他者とも共有できる状況が生まれていきました。
ドミニコ・ディ・ミケリーノ『ダンテ《神曲》の詩人』(1465)。『神曲』の天国・煉獄・地獄では、聖人や罪人たちが特性に応じた固有の場所を割り当てられている。フィレンツェのドミニコ会修道士コスマ・ロッセッリの著作『人口記憶の宝庫』では、『神曲』に登場する要素が記憶のロクスとして活用されている photo by DeAgostini/Getty Images
新たに創作するための記憶
ルネサンスの人々にとって記憶と創作は密接に関連するものでした。彼らにとっては、何か新しいものをつくる時、記憶は重要な手がかりであり、ごく自然に活用すべきものとしてありました。
実は当時、古典文献をたくさん読んだふりができる抜粋集や引用集が開発され、非常に売れているんです。これは今の「ファスト教養」にも通じる側面があり、だからこそ当時と現代の異同点にも目を配りながら見ていくことにしましょう。
当時のスタンダードな知識全体をカバーすることができたのは、本当にごく一部の人びと、現代に多少とも名前が伝わっているような人文主義者たちくらいだったと思います。多くの人は時間的余裕もなければ、理解力の点でも及ばない。スタンダードな知の体系をインプットした知識人という理想像はあったのですが、誰もがそれに追いつけるわけではないという事態になっていた。そんな背景もあり、抜粋集や引用集が流行ったのでしょう。
情報を巧みに抜粋して並べてある辞典のように分厚いファスト教養的な本は、受け身で使っていると書かれていることを鵜呑みにすることしかできませんが、使いようによっては積極的にクリエイティブに使うこともできました。
実は、いわゆる古典的教養人の理想を体現していたミシェル・ド・モンテーニュのような最先端の人文主義者たちでさえも、そうした抜粋集を時には使っています。彼らは抜粋集にストックされている情報や記憶をうまく組み合わせて、クリエイティブに活用していた。だから、自分が何か新しいことを発想するためのネタ本として使っていく分には、「ファスト教養」のようなものも非常に有効に活用できます。知識のスタンダード化は悪いことばかりではなく、スタンダード化された知識をうまく組み合わせていくことで、爆発的なクリエーションに繋がるということが、ルネサンスの記憶術とその周りの文化を見ていくと体感できます。
先ほど触れたアゴスティーノ・デル・リッチョの理想庭園も、基本的には聖書や古代ギリシア・ローマの神話をベースにつくられています。庭園の中につくられた人工洞窟の装飾、そのひとつひとつのイメージはよく知っているものなのです。しかし庭園全体として見ると、似たことを考えた人はおそらく同時代に一人もいないのではないかと思ってしまうくらい、大変独創的なんです。
文章におけるエクフラシスでも、みんなが知っているものだけをひたすら集めていくと、何の独創性もない、非常に陳腐な作品になってしまう。そのさじ加減がとても難しい。傑作として文学史の中で輝いている作品は、既存の材料を使いつつ、どうアレンジして新しさを出していくかが考えられていて、そこがうまくいっているものが評価されて残っているのではないかと思います。
ルネサンスの時代とは、誰もが使っている材料を使って、いかに高く独創的な跳躍を遂げられるかを競い合っていた時代だったのかもしれません。みんなが使っている知識を使っているからといってクリエイティブではないと言い切れなかった時代だし、それは現代の創作でも同じことが言えるのではないでしょうか。
「ファスト教養」の過剰なエナルゲイア
ルネサンスと現代の共通性について触れましたが、漠然とした情報を知識や記憶へと変換するプロセスという点においては異なってきているのではないかと思います。今まで話してきたようにルネサンスの頃までは、普遍的・客観的な情報でさえも個人の知的営みと切り離すことは難しかった。記憶術の実践をめぐる苦労はその象徴です。一方で現代はまとめサイトや動画などによって「ファスト教養」的な環境が広がり、知へのハードルがだいぶ下がっています。それ自体は一概に悪いことではないと思いますが、問題点があるとすると、受け手側の解釈や反応が、情報発信者側によってある一定の方向に固定されてしまっている、ということです。その情報をはじめて吸収する人たちが自分で試行錯誤し情報を血肉化していくというプロセスが、大幅にカットされてしまっている。
ルネサンスの記憶術では、ある情報や記憶を頭の中に入れるためには、まず自分でイメージをつくる必要があります。当時の記憶術マニュアルでも、「まず自分で自分の心に引っかかるイメージをつくれ」と盛んに言われているんです。自分で記憶しやすいイメージをつくって、頭の中に情報を格納していくというプロセス、つまり既存の知識に対する個々人のイマジネーションが、現代において弱まっているのが実は大変な問題ではないかと思っています。
この状況はエナルゲイアの話と繋げると、別の見方もできます。私も記憶や知の現代的な様相への関心から、歴史の出来事を5分ぐらいで語ってくれるような動画を時々見ることがあります。すると編集やビジュアル、情報の効果的な切り出し方の工夫にビックリするんですね。
こうした動画は本当によく考えられていて、記憶に残るかどうかと言われたら、たしかに記憶に残ることが多い。ただ、それは私自身が自分にとって記憶しやすいようにつくり上げたものではなくて、動画制作が巧みな人がつくってくれた出来合いのイメージです。それはある意味では、エナルゲイアが過剰すぎると言えるのではないか。次から次へとそういった過剰に知を刺激するイメージを消化していくと、エナルゲイア的なものの効果が薄れていき、鈍感になってしまうような気がします。
17世紀イギリスの医師/神秘主義者ロバート・フラッドによって描かれた、人間の精神機能を表す図。知性、想像力、感覚、記憶が描かれている Public domain, via Wikimedia Commons
「記憶の器」をつくり込め
ルネサンスの記憶術マニュアルでは、頭の中のヴァーチャルな器と、その器の中に入れ込むイメージとの間のマッチングに気をつけなさいということが盛んに言われています。キリスト教徒は地獄や天国がどういうストラクチャーになっているのかを教会の説教で聞くなどして覚えているので、地獄のストラクチャーが記憶の器として使われることが多かったようです。その時に、地獄にフィットした情報を選んで配置しないと駄目なんですね。たとえば天使の順番を覚えるために、地獄の器は使ってはいけない。
そう考えていくと、記憶を収蔵するためのヴァーチャルな器というのは、決してニュートラルな箱ではなく、その先に受け入れていくデータの性格に合わせて入念につくり込む必要があったというわけです。これは現代の情報の受け手側がどのような意識を持っていなければいけないか、ということにヒントを与えてくれるように思います。
エクフラシスではスタンダードなイメージを巧みに使っていくと言いましたが、書き手の誘導のままに自然と読者の頭の中にイメージができあがっていくというわけではなく、実は情報を受け取る側の読者の積極性も重要なのです。当時の読者はエクフラシスを読む時に、一生懸命頭を使って、想像力を駆使して、テクストに書いてあるイメージを能動的につくっていたのではないかと思われます。なぜならそうした読者の側からの積極的な参加がないと、エナルゲイアというものはおそらく生まれなかったはずだからです。
そう考えると、誰かがつくってくれた記憶がしやすい世界観をただ受け身的に享受するだけではなく、自分で記憶の器を用意するという記憶術の方法は現代的にも何かしらの意味を持ちそうです。
現代は、知識のスタンダード化がかなり進展していると思っています。そうした社会の知のありようを打ち壊したり、そこから完全に逃げたりすることは、もうできないような気もします。ならばスタンダード化された膨大な知識の使い方を工夫するしかないでしょうし、だからこそその前提としての自分の記憶の器へ意識を向けるということは、ひとつの手がかりになるかもしれません。
知識には「位置情報」が必要だ
だからといって、単純にかつての記憶術の時代に戻るのは難しいのではないかと思います。ルネサンス以降、記憶術は次第にその存在感を失っていきますが、その理由のひとつは、より気軽に記憶ができる別の方法が生まれたことにあります。
例えば、17世紀あたりには知識や記憶を分類用のカードにストックしてファイリングして管理するカード化の方法論が普及していきます。私のような研究者はよく実践していると思いますが、読んだ文献を紙に書き出してカード化して分類していく。このカードによる整理が、論文の執筆へもつながっていきます。若い人はこれをすべてデジタル化して検索できるようにしていると思うのですが、このように「知の外部化」が簡単にできるようになって、どんどん洗練されていったからこそ、記憶術が息をひそめていったという背景があると思います。
分類用カードを収納するための専用キャビネット Public domain, via Wikimedia Commons
ただ記憶術は完全に廃れたわけではなく、18世紀頃から発展していく「百科全書」には記憶術的な文脈が含まれていました。百科全書では項目立てをどうするかが当時の議論の中心的な争点になっていました。ABC順に並べれば一発解決であったはずなのに、この考え方はなかなか浸透しなかったんです。その時に根強く残っていたのが、古代からルネサンスを経てもずっと継承されてきた、世界のあり方そのものを順番に並べていく方法です。具体的には、最初の項目は神様で、次に天使、惑星、地球ときて、人類は後ろのほうに置くというような考え方ですね。
そういう世界のストラクチャーを本に収める考え方は、「情報に場所を与える」という記憶術的な考え方に通ずるものがあります。ただ、やっぱりその方法には欠点があって、ストラクチャーをきちんと理解していないと、どの言葉がどのページにあるのかというのが分からない。一方で、ABC順の場合は、単語の綴りさえ分かれば誰でも引ける。現代に至るまでの過程で、ABC順が勝利を得ていったというのは確かです。
しかし、記憶術が持っていた「その情報がなぜその場所にあるのかという位置情報を重視する」という知識の取り扱い方は、決して忘れてはならないものだとも考えています。それはGoogleで検索したらすぐ結果が出てきてしまうことや昨今のAIを巡る状況を見ると、より強く感じます。あれらの仕組みは、成果物が出てくるまでの知的葛藤が見えないという点が問題だと思いますから。
記憶術では頭の中に建物を建てるわけですが、その建物はつくった人が動かそうと思わない限り動くことはありません。そうした頭の中の知識の宮殿を持っている人が、記憶術でストックした知識を組み合わせて何かクリエイティブなものをつくり上げた場合、できあがったものとは別に、手に取らなかった知識や記憶はなくならずに建物のどこかに残っているわけです。制作物には直接繋がりませんが、つくる過程で大いに悩んだり参考にしたりした知識や記憶、選び取らなかった可能性というものが、ある種の位置情報的なコンテクストを持ったデータベースになっている。
記憶術的なシステムを活用しながらつくられた作品には、その作者にとって作品の背後に使われなかったコンテクストが張り巡らされている。つくられたものがすべてではない。そこからまたさらに、別の創作をどんどん繋げ、広げ、発展させることができる。ルネサンスの記憶術には、そんな現代的な可能性や問いが秘められていると感じます。
※『WORKSIGHT[ワークサイト]20号 記憶と認知症 Memory/Dementia』(2023年8月25日発行)より転載。
桑木野幸司|Koji Kuwakino 1975年、静岡県生まれ。大阪大学人文学研究科教授。専門は西洋美術・建築・都市史・ルネサンス思想史。2019年、『ルネサンス庭園の精神史:権力と知と美のメディア空間』でサントリー学芸賞を受賞。主著に『記憶術全史:ムネモシュネの饗宴』、『ルネサンス 情報革命の時代』など。
【WORKSIGHT SURVEY #67】
Q:ルネサンスの記憶術は、現代でも役立つと思う?
検索やAIによって必要な情報へ瞬時にアクセスでき、まとめサイトや解説動画など、膨大な知識を短時間で理解できるコンテンツも増え続ける現代。覚えていなくても、すぐに調べたり学んだりできる環境のなかで、ルネサンスの記憶術は、現代でも役立つと思う?どうしてそう思いますか?みなさんのご意見をお聞かせください。
【WORKSIGHT SURVEY #64】アンケート結果
(5月28日配信)
Q:食卓の記憶とともに思い出す友人はいますか?
【はい】わたし自身、ロシア、ウクライナを中心に旧ソ連圏に暮らしてました。
豚の背脂、ニシンの塩漬け、夏の冷たいスープアクルーシュカ、そして山盛りのザリガニ。週末に現地の仲間のダーチャに集まったり、原野にキャンプしに行ったり。そこで味わう食べ物、早く戦乱が収まって、まだ語り明かしたいです。【はい】食事の途中で相手が泣いたり、わたしが泣いてしまったこともあった。
『WORKSIGHT[ワークサイト]20号 記憶と認知症 Memory/Dementia』
photograph by Hiroyuki Takenouchi, cover photograph by Shion Sawada
個人としての一貫性を担保し、他者とのつながりや秩序ある社会を維持するために欠かせない「記憶」。認知症をもつ人を抱えた高齢化社会、国家や地域社会の衰退による集合的記憶の喪失など、記憶をめぐる社会問題が浮上しつつあるいま、オランダとフランスでオルタナティブな社会実践を試みる、認知症や精神疾患のケアの現場等を本誌編集長が取材。約90頁にわたる取材旅行の省察と見聞録のほか、ルネサンス期の情報爆発と記憶術を研究する桑木野幸司氏、レバノン内戦の都市の記憶とその傷跡をテーマに音楽作品を制作したベイルートの音楽家・建築史家メイサ・ジャラッド氏へのインタビュー、記憶をめぐるブックガイドを収録。記憶と認知症を手がかりに、来るべき社会のための態度や今日的な問いについて思索する。
【目次】
◉記憶をめぐる旅の省察
文=山下正太郎(WORKSIGHT編集長)
ザ・ホーグワイク|認知症居住者が自律協働する「町」
マフトルド・ヒューバー|ポジティブヘルスという新たな「健康」指標
エミール|ケアの技法を学生に授けるスタートアップ
ヴィラージュ・ランデ・アルツハイマー|認知ケアを社会に開くために
◉記憶・知識・位置情報
桑木野幸司・ルネサンス期の「記憶術」が教えること
◉記憶をめぐる本棚
◉内戦の記憶・時空を超える音楽
ベイルートの音楽家・建築史家が描く「ホテルの戦い」
【書籍情報】
書名:『WORKSIGHT[ワークサイト]20号 記憶と認知症 Memory/Dementia』
編集:WORKSIGHT編集部(ヨコク研究所+黒鳥社)
ISBN:978-4-7615-0926-2
アートディレクション:藤田裕美
発行日:2023年8月25日(金)
発行:コクヨ
発売:学芸出版社
判型:A5変型/128頁
定価:1800円+税









