レコードを万引きする:若者はいつから「消費者」なのか
若者にはお金がない。にもかかわらず、若者はいつの間にか「消費者」のなかに組み込まれていた。それはいつ、どのようにして正当化されたのだろうか。過去のレコード万引き体験について語られたX上の投稿から考える、若者の万引きという行為の根源と、投資財へと化していく若者のゆくえ。
1969年8月、「平和と音楽の3日間」と謳われたフェス「ウッドストック」に集った「若者」たち photograph by Howard Arnold Collection/Getty Images
ソーシャルメディア上で炎上した、レコードの万引きに関するある投稿は、「若者」と「消費」をめぐる根源的な問いへと誘うものでもあった。お金がないのに、消費者としてターゲットされる若者。その矛盾を社会はどう受け止めてこなかったのか。(プリント版『WORKSIGHT[ワークサイト]27号 消費者とは Are We Consumers?』から転載)
text by Kei Wakabayashi
発端はX上の無邪気な投稿(現在は削除済み)だった。
「サブスク、YouTube、SNSがない世代のキッズ←マジでどうやって音楽掘ってたん?」
これに、ある有名音楽評論家が、こうリプライしたことから、大きな炎上騒動が勃発した。
「発売日にFM雑誌買って めぼしい番組にマーカーで線を引いて 放送時にカセットにひたすら録音😬 学校のクラスメートや後輩、同じ学年の友達じゃないやつにもレコード買わせて それでも手に入れられないレコードはレコード屋で万引き」
これに対して、投稿者が、「なるほどラジオからカセット録音! 完全に盲点でした…友達同士でシェアしあったりはマストですが、最後のはご愛嬌ですね笑」と返し、音楽評論家は、さらに「レコードが死ぬほど欲しくて 万引きした経験のない同世代の連中は 基本的に信用してません😊」と投稿し、火に油を注いだ。
万引きがいかに小売店にダメージを与えるかを生真面目に論じる者から、この機に音楽評論家不要論をぶつ者まで、洋楽好きがこぞって馳せ参じた炎上劇は、それでも評論家がひとり大立ち回りを演じ続けたことで、途中からややコミカルな様相を呈していくこととなった。
そして、半ば大喜利と化したタイムラインのなかにポツポツと、ジョン・レノンの伝記映画『ノーウェアボーイ:ひとりぼっちのあいつ』には、若きジョンがレコードを万引きするシーンがある、ラッパーの2Pacが出演する映画『ジュース』にも少年たちがレコードを万引きするシーンがある、さらに大島渚の1969年公開作『新宿泥棒日記』は、横尾忠則演じる主人公が新宿紀伊國屋書店で本を万引きするシーンから始まる、といった投稿が現れることとなった。
上:『ノーウェアボーイ:ひとりぼっちのあいつ』のトレイラー。ビートルズ結成前のジョン・レノンと、母親、叔母との複雑な関係を描いた伝記映画 下:『ジュース』のトレイラー。2Pac演じるビショップをはじめ、4人の高校生がレコード店で万引きをするシーンがトレイラーから確認できる
試しに『ノーウェアボーイ』のレビューを検索してみると、問題の万引きシーンはこんなふうに語られている。
ジュリアと一緒に行った映画館で、エルビス・プレスリーを観てジョンはビビッときます。“キング・オブ・ロック”によるロックの洗礼を受けて、音楽に目覚めるんですが、まずはリーゼントでキメて、なりきりロカビリー。みんな、そこから始まるんだ。レコード店でごっそり、レコードを万引き。「ケッ!ジャズばっかりだぜ。」と、レコードを海にポイッ。バチあたりですねえ。しょうもないオイタをやらかして、停学になったジョンはほとんどジュリアの家に入り浸り。そこで彼はバンジョーを手にし、弾き方を教わります。彼がどんどん上達していくシーンがアートですねえ。
万引きは、もちろん犯罪だ。誰も、そのことを否定してはいない。上記の映画でも、「万引き」という行為は、それが誤った行為であることが前提の上で描かれている。けれどもその一方で、そのシーンをもって主人公や登場人物を犯罪者として糾弾する目的で万引きのシーンが挿入されているわけではないことも明らかだ。それを「若気のいたり」と見るか、体制への「反抗」と見るか、解釈はさまざまだろうが、そこに何らかの象徴的な意味合いが込められていることは明白だ。加えて、そのことが観客の側においても合意されているからこそ、そのシーンは意味をもつ。
仮に盗んだものが高級腕時計であったなら、万引きがもつ意味合いは大きく違ってくるだろう。また、万引きする人物が、稼ぎのある大人であったなら、これまた違った意味をもつ。大人の万引きは、盗んだのが高級腕時計であろうが、レコードであろうが、同じく犯罪と見なされる。おそらく世のすべての人がこのことには同意するはずだ。
もちろん対象が何であれ窃盗は窃盗だ。けれども、若者の万引きには、大人のそれと横並びにして同一化することを拒む何かがある。「若者」による「レコード」の「万引き」。この問題の焦点はどこにあるのか。それは「万引き」ではなく、むしろ「若者」と「レコード」のほうにあるのかもしれない。
若者とレコード
高級腕時計とレコードを分かつものは何か。高級腕時計は、若者のためにつくられたものではないが、レコードは若者のためにつくられている、という点だ。先に引用したブログは、端的にそのことを示唆している。劇中のジョン・レノンがせっかく万引きしたレコードを「ケッ!ジャズばっかりだぜ」と海にポイ捨てするとき、彼は「自分のためにつくられたレコード」を求めて万引きをしていたことがわかる。そこではジャズのレコードは、自分のためのものではない、大人のためのものと見なされる。「自分のためのレコード」とはすなわちロックンロールのレコードだった。
ここには時代の大きな転回が隠れている。レコードは、ある時期までは「大人」のための商品だった。ところが、いつからか明らかに音楽の「消費者」のなかに「若者」が組み込まれていた。ジョンの万引きは、この時点で、すでに若者が「消費者」としてターゲットされていたことを暗に示している。
一口に「若者」といっても、実際のところ、その社会的なステータスはさまざまだろうが、万引きという文脈で語られる場合においてそこに含意されているのは、「社会人ではない若者」、つまり自ら収入を得る手立てをもっていない若者ということになるだろう。なぜなら、先に書いた通り、それが社会人であれば、いくら若かろうが「それは犯罪です」でカタがついてしまうからだ。とするなら、ここで言う若者は、自分で稼ぐ手立てをもっていない、主に「学生」が中心となるが、そうであればなおさら、「若者」が「消費者」であるというのは、おかしな話ではないだろうか。
「若者」が収入の手立てをもっていないのは誰もが知っていることだ。にもかかわらず、そのクラスターは、ほぼ自明のこととして「消費者」と見なされている。
先の炎上騒動でも、「バイトして買ったらよかろうに」といった意見が見られたが、実際的な話としてはまったくの正論だとは思うものの、原理的なことを言ってしまえばバイトは学生の本分ではない。「レコードなんか聴いてないで勉強しろ」というならわかるが、「バイトしろ」は、やはり筋が違う。それでも「音楽に触れたり本を読んだりすることも、大事な勉強だ」というのであれば、「無料にしてやれ」「学割にしてやれ」と声を挙げるほうがよほど筋は通る。けれども、そのような声はほとんど上がらない。「若者は消費者である」という観念は、いつの間にか当たり前になりすぎて、もはや誰も疑う必要のないことになってしまっている。
それにしても、それは、いったいいつ、どのようにしてそうなったのだろうか。
上:空港建設に反対する全学連の学生たち。1967年3月、成田にて photograph by UPI/Bettmann Archive/Getty Images 下:1968年にパリで勃発した学生たちによるプロテスト © Hulton-Deutsch Collection/CORBIS/Corbis via Getty Images
ウッドストックのあとさき
どこで目にしたのか正確には思い出せないのだが、「資本主義への抵抗が資本主義のなかに組み込まれたのは1968年だった」とする文章を読んだ記憶がある。『資本主義の新たな精神』といった著作で知られる、社会学者のリュック・ボルタンスキーのことばだったはずだが、つい頷いてしまったのは、それがかねて感じていたことを言い表してくれているように思えたからだ。
例えば、60年代の若者文化のひとつの象徴として語られるアメリカの音楽フェスティバル「ウッドストック」は、自分も若いときにはいたく感激したものだったが、すれた大人になってから見直してみると、それが可視化したのは、ただ「暇な中産階級の子女は金になる」ということだったと言えなくもない。もちろん、このことはウッドストックには何の責任もないし、そこに集った子女にも何の責任もない。
とはいえ、音楽産業が目に見えて肥大化したのは、まさにそれ以降のことで、それはやがて「産業ロック」という撞着語さえも生み出すにいたる。音楽産業は言ってみれば、反逆や抵抗の神話を、さながら永久機関のごとく再生産し続けることで、生きながらえてきたのかと疑いたくもなる。
ちなみにウッドストックの翌年の1970年に英国で開催されたワイト島フェスティバルでは、お蔵入りになった映像資料によれば、金満化した音楽家たちと観客との間に亀裂があったことが明かされており、産業化しつつあったフェスビジネスに対する警戒と不信が、「愛と平和の祭典」とされるウッドストックの翌年にしてすでに若者の間に広まっていたことがわかる。(これ以外にもさまざまな要件が重なることで暴徒化寸前だった観客を一喝をもって制したジョニ・ミッチェルの勇姿は必見だ)
イングランド南部・ワイト島で開催された、1970年のワイト島フェスティバル。巨大化するフェス・ビジネスと無料化運動の衝突のなか、観客と真正面から向き合ったジョニ・ミッチェルの緊張のステージ
そもそもロックンロールが広く世間に浸透した背景には、トランジスタラジオの普及があったとされる。それまでは、音楽を聴こうと思えば、居間の中心に据えられた巨大な受信・再生装置に頼るしかなかった。昭和のある時期までのテレビがまさにそうであったのと同じように、それは「お父さん」の管轄下にあるものだった。そこにポータブルな受信機としてトランジスタラジオが登場するわけだが、それがもたらした最大の価値は、子どもたちが、自分の部屋で、自分の聴きたい音楽を聴くことができるようになったということだ。言うなれば、音楽の民主化が起きたのだ。
ここで言う「民主化」の観念は、ロックというものの価値を長らく規定してきたものだ。そして、いまなお強固に若者と音楽の関係をかたどっている。その民主化の価値を支えているのは、簡単に言えば、音楽をつくっている者と聴いている者は同一の感性と価値観によって結びついているのに、ミュージシャンの立場からすれば「レコード会社」が、リスナーの立場からすれば「お父さん」が、それを邪魔している、という世界観だ。その世界観に立てば、万引きはむしろ、「本来は自分たちのものであるはずのもの」を、企業や父親から奪い返すことを意味している。
インターネットの登場とともに、レコード会社の中間搾取を超えてつくり手とリスナーを直接結ぶことを謳ったNapsterやLimeWireといったサービスが勃興し、多くの若者に支持されたのも、底流にこの世界観があったからだ。もっとも、それがもたらしたのは、当のリスナーによってつくり手が不利益を被るという、あまりに無惨な状況だった。そのことにいの一番に異を唱えたのはメタリカというバンドだったが、Napsterを相手取って訴訟を起こしたメタリカに対して、多くの「若者」は、自分たちが得た自由を再び奪い取る守銭奴だの体制のイヌだのと、散々メタリカを詰ったのだった。
現在ではその振り子が逆に振れて、「若者」はSpotifyやApple、Amazonが、不当にクリエイターから搾取しているとして、つくり手の側へと立ち位置を修正したが、根源的な問題は変わらず残る。
若者には相変わらずお金がない。にもかかわらず、音楽は相変わらず「若者」を相手に商売している。しかも、何をもってそのことが正当化されているのかが、誰にもわからないのだ。
レコードの万引きという行為の根源には、自分たちが、何の合意もないまま知らぬ間に「レコード会社=資本主義」の肥やしにされていることに対する苛立ちと怒りがある。冒頭に挙げた音楽評論家が、猛批判を食らってなお、万引きが「アビー・ホフマンや三上寛、システム・オブ・ア・ドーンの思想に連なる行為でもある」と強弁したのは、こうした事情による。
アビー・ホフマンが70年代に『この本を盗め』と煽り、三上寛やシステム・オブ・ア・ダウンが自分たちのレコードにあえて「このレコードを盗め」と記したとき、もちろんそこにあったのは、反逆しても反逆してもそれを取り込んでメシの種にしてしまう経済システムの強欲さに対する怒りだが、一方でそこには、お金をもたない消費者を相手にビジネスしている自分自身に対する強い苛立ちが隠されていたようにも感じられる。
1969年、ニューヨーク州で開催された「Woodstock Music & Art Fair」のポスター photograph by Blank Archives/Getty Images
消費者から投資財へ
「若者の消費者化」は、さまざまな局面において、少なくとも20世紀後半の社会のあり方を大きく変えてきたはずだが、「若者 消費者」で検索してヒットするのは、「いかに若者を的確にターゲットするか」といったマーケティング指南ばかりだ。
そんななかかろうじて自分が行きあたったのは、コラムニストの堀井憲一郎の本だった。堀井はそこで、「若者」が日本で明確に定義され、経済的に搾取される対象となったのは80年代だったと分析する。
堀井によれば、それまで子ども向けのイベントだったクリスマスが「恋人」たちのためのイベントになったのは、1983年に雑誌『アンアン』がクリスマス特集を掲載したときからだった。以後「恋人」や「デート」といったキーワードを軸にクリスマス、ディズニーランド、スキー、ラブホテル、サブカルチャー、ラブストーリーが次々と若者の消費対象へと転じていく。恋愛至上主義にからめとられた若者が、なすすべもなく搾取されていった日本の平成期を、堀井は「若者殺しの時代」と呼び、それを本の表題にしたのだった。
そんな平成期も過ぎ去り、超高齢化社会を迎えた日本において、「若者」は、おそらくさらに困難な立場に立たされている。
消費の対象が、例えば子どものランドセルであれば、ことはそこまでややこしくはない。小学生が入学時に買うランドセルは、昨今では祖父母が買うものとほぼ決まっている。そこで狙われているのはあくまでも祖父母の財布だが、祖父母は孫の言うことには逆らわないので、小学生は欲しいランドセルを手にすることができ、祖父母は孫の喜ぶ顔を見て満足を得るという、Win-Winの関係を築くことができる。高齢者が貯め込んだお金を社会に還流させるという意味では、大義名分も立つ。
あるいはエレキギターが欲しいと子どもにねだられたとき、いまどきの親は、それを「不良がやるものだから」という理由でむげに却下したりはしないだろう。ゲーム機器であれ、DJ機器であれ、子どものクリエイティビティに資するものだと思えれば、親は子どもへの出費を容易に正当化できるはずだ。
ただし、この考え方には、大きな落とし穴もある。
「子どもの将来のため」という自己正当化は、場合によっては「投資」という観点を親子間にさし挟むことともなる。それは、子どもや若者を、早々に「財」に変えてしまうことを意味する。若者は、再び何の合意もないまま、知らぬ間に今度は「金融商品」へと変えられてしまう。
「あなたは消費者ではない、商品だ」。アメリカのメディア批評家ダグラス・ラシュコフは、かつてソーシャルメディアについてそう語ったが、それはもはやソーシャルメディア内に限ったことではないのかもしれない。海外ではまだ、Z世代による「抵抗」や「反逆」が旨みのあるビジネスになるのかもしれないが、少子化時代の日本の「若者」は消費者としての旨みはとうに失って、投資対象として金融化でもしない限り、社会のなかに置いておく意味がないということになっていはしまいか。
遠い昔の「若者」が興じた「万引き」という行為をめぐる投稿に多くの人が逆撫でされたのは、そう考えると、ロックに投影された「反逆の神話」が、いまとなってはあまりにナイーブで呑気なものに感じられた、といった理由もあったのかもしれない。「消費者でいられるうちはまだよかった」というのが、現代の若者の嘘偽りない感想であるなら、マーク・フィッシャーの見立て通り、資本主義の外は、本当に存在しないのかもしれない。
*『WORKSIGHT[ワークサイト]27号 消費者とは Are We Consumers?』(2025年5月14日発行)より転載
【WORKSIGHT SURVEY #44】
Q:音楽は「若者のためのもの」になりすぎている?
レコードは、ある時点から明確に若者をターゲットにした商品となり、市場もまたそれを前提に拡大していきました。あなたは、現代の音楽や音楽産業においても、若者が主要な消費者として想定され続けていると感じますか? それとも、状況は変わりつつあると感じますか? ぜひご意見をお聞かせください。
【WORKSIGHT SURVEY #41】アンケート結果
フィールドレコーディングと録音のコロニアリズム:先駆者デイヴィッド・トゥープが語る(2月5日配信)
Q:身近な音を録音したことはある?
【ある】タイに旅行した時、虫やカエルの音、サウンドセットの爆音演歌、ヒンズー寺院謎のチャント、市場で流れる読経?など、日本にないサウンドスケープが面白すぎたから。
【ある】30年くらい前、サウンドインスタレーションというものを知って自分もやってみたいと思った記憶がある。その素材がフィールドレコーディングだった気がする。当時はカセットテープで録っていた。好きな音楽とフィールドレコーディングを繋いだオリジナルテープをつくっていました。
【ある】音楽の素材として録音しました。身近な距離にある空間を録音することで、ただの「空間」から録音を行った「場所」に変わる感覚があります。それは写真を撮るのと同じように思います。
『WORKSIGHT[ワークサイト]27号 消費者とは Are We Consumers?』
photograph by Hironori Kim
消費者という存在は、歴史のなかでいかに形づくられ、現代においてどのような意味合いを帯びているのか。今号では、マーケティングリサーチ分野においてアジア全域で確固たる実績をもつ老舗企業・インテージを共同編集として迎え、消費の現在地を見つめ直す。
◉巻頭座談会 消費者がわからない
対談:野田淳(インテージ)× 山下正太郎(本誌編集長)
◉消費者とは誰か
満薗勇とたどる「消費者・生活者・お客様」の変遷
◉調査という罠
ラザースフェルドが社会調査に残した問い
◉あなたは消費者?
インテージ × WORKSIGHTによる大規模アンケート調査
アンケート調査を終えて「自己像、その理想と現実」
◉消費者がクリエイターになる
クリエイターエコノミー/ファンダム、参加する消費者の時代
◉レコードを万引きする
若者はいつから「消費者」なのか
◉パルコと山口はるみの時代
消費文化の到来を告げたHarumi Gals
Harumi Galsというオキシモロン
◉まちの診断術
北沢恒彦と住民が「テクった」京都の商店街
◉コンシューマーズ・ブックガイド
消費する我々の痕跡をたどる
◉世代、あるいは生産と消費が分離した世界のゆくえ
ティム・インゴルドは語る
書名:『WORKSIGHT[ワークサイト]27号 消費者とは Are We Consumers?』
編集:WORKSIGHT編集部(ヨコク研究所+黒鳥社)
ISBN:978-4-7615-0934-7
アートディレクション:藤田裕美(FUJITA LLC)
発行日:2025年5月14日(水)
発行:コクヨ株式会社
発売:株式会社学芸出版社
判型:A5変型/128頁
定価:1800円+税






