先祖に向かって進め:人類学者ティム・インゴルドが語る「世代」と「未来」
『ラインズ』『メイキング』等の著書で知られる人類学の泰斗が、「世代」というスコープを通して語る、ジェンダー、アイデンティティ、科学技術、そして「未来」との新しい向き合い方。
image by Siaga Tegar/Getty Images
「我思うゆえに我あり」から始まる近代的主体は、個人主義と自由主義の後押しを受けながら、わたしたちを自律したスタンドアローンの存在として生きるようかたどってきた。それは現在、一方で社会的に構築された「わたし」の解体を目論見ながら、反動的にそれをより強化してしまうアイデンティティ・ポリティクスへと行きつき、その一方で「わたし」を外側から規定する性別や人種といった制約を、自己申告によって乗り越えようとするトランスヒューマニズムなどへとたどり着く。
多様なコンテクストが入り乱れ、「わたし」をめぐる困難、生きづらさはいや増すばかりだが、そんななか、英国の人類学者ティム・インゴルドは、「わたし」の現在地を思考する上で、「世代」という論点が決定的に語られぬまま問題の根底に眠っていると、最新刊『世代とは何か』で指摘する。
わたしたちは「世代」というものを、完結したものと考え、パッケージ化された資産が世代間で継承=相続されていくようなものとしてイメージするが、そのときわたしたちは、過去(先祖)とも未来(子どもや孫たち)とも断絶した孤立したものとして「世代」を考えている、とインゴルドは語る。そこでは、世代間のつながりは失われ、先行世代はただ後続世代に取って代わられるだけのものとしてイメージされる。
わたしたちは、このイメージを捨て去る必要がある。インゴルドは代わりに、いくつのもの世代が織り合わさりながらひとつの時間を捻りあげていく、縄のイメージを提出する。「わたし」の生を、より大きな生命の連続性のなかに位置づけ直すこと。それを思い描けたとき、わたしたちは、未来において先祖と、過去において子どもたちと出会うようなことが可能になる──「世代」という論点をめぐって展開されたユニークにして難解な思考実験の真意を、インゴルド自身に訊ねてみた。
interview by Ryota Akiyama and Kei Wakabayashi
text by Kei Wakabayashi
ティム・インゴルド|Tim Ingold 1948年英国バークシャー州レディング生まれの人類学者。1976年にケンブリッジ大学で社会人類学博士号を取得。1973年からヘルシンキ大学、マンチェスター大学を経て、1999年からアバディーン大学で教えている。著書に 『ラインズ:線の文化史』(2014年、左右社)、『メイキング:人類学・考古学・芸術・建築』(2017年、左右社)、『ライフ・オブ・ラインズ:線の生態人類学』(2018年、フィルムアート社)、『人類学とは何か』(2020年、亜紀書房)、『生きていること:動く、知る、記述する』(2021年、左右社)、『応答、しつづけよ。』(2023年、亜紀書房)などがある。
『世代とは何か』の読まれ方
──2024年10月に、ここ日本でも刊行されたインゴルドさんの最新刊『世代とは何か』は、「世代」というものをめぐる一般的な通念が、いまの社会に大きな歪みや捩れをもたらしているということを、一種の思考実験として描き出し、その一方で「世代」を完結しつつ断絶したものではなく一本一本の草や藁がつながって一本の縄をなすようなものとして描いた、非常に面白い本ですが、原書を刊行された際の、主に欧米の読者の反応とはどういったものだったかを、まずはお伺いできたらと思います。
わたしの暮らす英国では、他の国々とは対照的に、ほとんど反応がありませんでした。本書は例えばイタリア語に翻訳され、そこではたくさんのディスカッションを巻き起こしました。フランス語版は2025年4月に出版される予定で、すでに大きな関心を呼んでいると聞いています。イギリスの人びとは人類学の本を読まないし、いまのところ、一般の人びとの反応は皆無と言っていいほどです。残念ながら、現在のイギリスにおける公共的な知的議論の貧弱さを物語っていると言えそうです。
──例えば、イタリアでは、主にどういったリアクションがあったのでしょう。
非常にポジティブな反応を得ています。人びとは、この本に書かれているアイデアに興味をもっています。なぜなら、イタリアでは少なからぬ人びとが社会学的な事柄に関心をもっているからです。イタリアの政策決定者や公共プランナーといった人びとは、高齢者と若者を結びつける方法に関心をもっていて、この本には、それを実現するアイデアが書かれていると見てくれているようです。
わたしが本書で表明したかったのは、ここイギリスでは相変わらずそれが盛んですが、世代間の差異をラベルで表現することが依然として行われていることに対する疑義です。Z世代、ミレニアム世代、その前の世代、さらにその前の世代といった具合で、いまなお「世代」は語られています。わたしの著書は、世代をそのように語るやり方を覆すことを目論んだものです。
イタリアでは、家族の伝統が長いので、彼らはそのことを理解してくれたのではないかと思います。おそらく英国には、もはやあまり、その伝統は残っていないということなのかもしれません。
ティム・インゴルド『世代とは何か』奥野克巳、鹿野マティアス・訳、亜紀書房、2024年
文化の継承はいかに可能か?
──そもそも、この本自体を書こうと思われたきっかけは何だったのでしょうか。とりわけ「世代=ジェネレーション」という問題に正面から向き合おうと思われた具体的な理由があったら教えてください。
わたしは長い間、世代から世代へとつながっていく、より長いタイムスパンから、個々人の人生を切り離してしまう理論について問題意識をもってきました。これは多くの人がこれまで馴染んできた考えで、人類学における多くの理論的思考にも組み込まれています。
こうした問題意識をめぐる考察の一部を初めて公に発表したのは、ノルウェー北部の地域に暮らす先住民族「サーミ人」と仕事をしていたときの、とあるグループ会議においてでした。わたしはその会議で、サーミ人の教育、つまり先住民族の教育の問題を取り上げたのです。サーミの伝統を教育するとはどういうことなのか? わたしがこの本で述べた多くの考えは、先住民族の文化を若い世代に教育していくことの難しさを理解しようとしていた際に生まれたものです。
──サーミの人びとは、どういう問題に直面していたのでしょう。
問題は、サーミ人ではない他所の人びとは、サーミ文化や伝統について語る際、それらを世代から世代へと受け継がれる知識体系として考えがちだということにあります。一方、サーミの人びとにとって、自分たちの文化は、日常生活で呼吸する空気のようなものです。それは箱に詰めたり本に書いたり完結ものとして次世代に渡すことができるようなものではないのです。
それはむしろ常に生きているものであり、人びとが生活を営むなかで、絶えず成長し、揺れ動いているものです。そこから、先住民の文化を客体化してしまわないような教育カリキュラムや教育方法をどう設計するかが、具体的な問題としてもち上がってきます。なぜそれが問題かというと、そうした文化の客体化は、実際には、彼らをむしろその文化から遠ざけ、彼らからそれを奪い取ってしまうことになるからです。
──似たようなことは、おそらく日本でもあるのだと思います。元々ローカルな文化があったところに西洋のモダニティが入ってきたことで、そのローカルな文化が変容させられていくわけですが、それを残したり、取り戻したりすることがいかに可能なのかということは、日本が近代化してからずっと乗り越えることができずにいる難問です。かつてあった生活と一体になったような文化を、対象化=オブジェクティファイすることなく継承することは、実際のところ可能なのでしょうか。
わたしに特効薬の答えがあればいいのですが、残念ながらそのようなものはなさそうです。とはいえ、この問題を考える上で重要なキーとなるのが、「世代」というものをめぐる考え方を変えることなのではないか、というのがわたしの提案です。
近代化された都市部でも、例えば世代間の交流を深めることができるような生活様式を見つけ出していくことは、その意味でとても重要なのではないかと思います。祖父母、両親、子どもたちが、特別な機会にたまに会うようなかたちではなく、ましてやそれぞれの世代が、都市の別々の場所で別々の施設のなかに押し込められるようなかたちではなく、日常生活のなかで常に交流できるような都市環境を設計することが大事なのではないかと思います。それが問題の解決に着手する現実的な方法だと思います。大切なのは、伝統的な日本文化を定義しパッケージにして、それを伝達することではありません。文化が日常生活を通じて育まれるような生き方を可能にすることが必要です。
──高齢者から子どもまでが共存するといったとき、それは家族である必要があるのでしょうか。それとも別に、血はつながっていなくとも多様な世代が入り混じっていればよいのでしょうか。
必ずしも血縁の家族である必要はありませんが、おそらくほとんどの場合、そこには家族というものが関連してくることにはなるかと思います。けれども、ここで家族や親族について語る際に重要なのは、そこにある遺伝的な関係性ではなく、むしろケアや養育をめぐる関係性です。誰が誰を世話しているのかが重要な問いなのです。ケアは相互的なものです。もし仮に若者が老人をケアしているなら、その老人もまた若者をケアしていることになります。 そして、そうしたケアは継続的に続きます。わたしたちはそうしたケアの関係を親族関係と呼ぶこともできますし、家族と呼ぶこともできます。人びとが技術的に血縁関係にあるかどうかは問題ではありません。
ジェンダーとジェネレーション
──本のなかでとりわけ面白いなと思ったのは、ジェンダーというものと世代との関わりについて「世代の関係が根本的にジェンダー化されている」のではなく、「むしろ正反対に、ジェンダーに関する私たちの理解が、世代について考える私たちのやり方によって深くひん曲げられている」と書かれていた部分です。これは、ある意味、ケアということにも関わりそうですので、そこについて詳しくご説明いただけますか。
わたしが、ジェンダーのことに触れたのは、この本の序文でだけです。というのも、この本ではジェンダーについてほとんど語ってはおらず、なぜ語っていないのかを説明する必要があったからです。とはいえ、ジェンダーの不平等については昨今盛んに語られるようになりましたが、一方でジェネレーション間の公正や正義についてはそれほど公の議論がなされていないとわたしは考えています。そして、このジェネレーション間の正義の問題が取り上げられない限り、ジェンダーの不平等も解消されることはない、というのがわたしの考えです。
「ジェンダー」と「ジェネレーション」は、いずれも英語では同じラテン語の語源から派生していることばです。日本語でどうなのかは存じませんが、英語ではこのふたつの単語は非常に密接な関係にあります。わたしたちはジェンダーについてばかり語って、ジェネレーションは括弧に入れてしまっています。しかし、ジェネレーションを括弧に入れるのではなく、ジェネレーション間の継続性という問題に真正面から取り組むべきだと思います。世代がどのようにして次世代へと引き継がれていくのか。ある世代が次の世代を生み出すことはどうやってなされているのか。こうした問いに答えることによってのみ、ジェンダーの問題の根本に迫ることができるのです。本のなかでは、この問題については取り上げていませんが、ジェンダー問題に対する新しい考え方を得るためには世代について改めて考える必要があるということは提案したつもりです。
──ジェンダーとジェネレーションというのはどのように関わり合っているのか、もう少し教えていただけますか。つまり、ジェネレーションとジェンダーの関係は、いま、どういう関係性になっていて、そこでどういう問題が生じていて、逆にそれを一緒に考えることで、どういった見通しを得ることが可能になるのか。
例えば、男女平等を推進するために多くの施策が存在しますね。より多くの女性を働けるようにし、男性と同じ賃金を得られるようにし、職場においても男性と同じ機会をすべて享受できるようにしたりする施策です。 こうした政策により、女性が家庭をもち、子どもを産むことがますます困難になるということはよくあります。そして、このことが日本社会に非常に大きな影響を与えていることは、ここイギリスでもよく知られています。職場での機会均等など、男女平等を推進すればするほど、女性が家庭をもつことが難しくなります。子どもを保育園に預けなければなりませんが、保育は市場化され、場合によってはとても高額で、結果、多くの場合、仕事か出産かのどちらか一方を選ばざるを得ない状況に追い込まれてしまったりします。ここに問題の核心があります。
この問題を克服するためには、わたしが「生命の連続性」(the continuity of life)と呼ぶものを全体として優先する新しい考え方が必要なのではないかとわたしは考えます。それは、女性が家庭に戻って子育てをする、昔のやり方に戻るべきだという意味ではありません。つまり、わたしが言いたいのは、仕事と家庭を同じ人生の流れのなかで捉えるべきだということです。こう捉えることで、仕事か家庭かといった二者択一を解消することができるはずです。またそれは、仕事と報酬の文化を根底から変えることを意味します。これは、現在の資本主義の論理とはまったく異なるものです。イメージとしては、みながともに働き、同じ屋根の下で土地を耕すような、伝統的な農耕社会に近いかもしれません。
──世代の話は、そこにどのように関連してくるのでしょうか。
わたしの著書の最も基本的な論点は、先祖に対する敬意という、日本にはいまでも根強く残っていると思われる感覚についてです。先祖、両親、そして祖父母は、自分より先にいた人びとで、自分はその人たちの足跡をたどっている。そして、彼らが歩んできた人生を継続し、今度はあなたの子どもたちが、あなたの後に続くのです。ですから、子どもたちのことを考える上で、わたしたちにとって最も重要な問いは、わたしたちが子どもたちの良き手本となり得るかということです。
子どもたちが、わたしたちの歩んできた道を見つめ、わたしたちの歩んできた道を歩みたいと思うためにまず最初にすべきことは、年長者について異なる考え方をもつことだと思います。年長者を、もう過ぎ去った存在、死ぬまで棚上げしておくべき存在としてではなく、むしろ、わたしたちが後に続くべき道筋を敷いてくれた人たちとして考えるのです。西洋の近代化の悲劇は、わたしたちが自分たちの先人に対して背を向け、逆の方向を向いてしまったことだと思います。これは社会に大きな災厄をもたらしました。ですから、まったく新しい方法で考えるという解決策は、実際には、先祖については昔ながらの方法で考えるということになります。
未来は「解決すべき問題」なのか?
──いまのお話は、「進歩」というものをめぐる考え方とも関わっているように思いますが、西洋は、なぜそのような方向に進んだのでしょう。自分たちに先行する世代に背を向けるというあり方は、何によってもたらされたのか。一番の要因は何だったと言えるのでしょうか。
それは非常に大きな問いで、その答えは「わからない」としか言いようがありません。ただ、その答えの一部は、明らかに「資本主義経済の台頭」で、それがもたらした生産と消費の分離だったとは言えそうです。かつての家庭は、何世代にもわたって同じ屋根の下で、ともに生産し、ともに消費する場所でした。その家庭が分裂し、家庭は単なる消費の単位となり、生産は別の場所で行われるようになっていきました。消費と生産の分断は、根源的な問題のひとつなのです。
さらにもうひとつ挙げるなら、教育に対する責任が家庭から国家へと移行したことも重要な問題です。それによって、ある時点から、教育の責任を負うものとして、国家の統治下にある教育機関、学校や大学が大きな役割を担うこととなります。その結果、家族、つまり、子ども、親、祖父母といった世代が混在する場は、もはや教育の現場ではなくなったのです。
──日本ではいま子どもが減っているということがすごく問題視されていますが、そこでは、子どもを将来の生産労働力として見るという、いわば経済的な視点が中心にあるように感じられます。一方で、いまおっしゃった、生産と消費が一体となった、いわば小商い的な「家」のあり方があったとして、そのなかで子どもという存在は、どのように位置づけることができるのでしょうか。
子どもたちは、わたしたちの子孫である。それは明らかです。ここで哲学者ハンナ・アーレントの考えをお伝えすると、大人として、子どもたちに対してわたしたちがもつ最も重要な責任は、子どもたちという新しい人びとを、わたしたちが知り愛する世界に紹介することなのだと彼女は語っています。そうやって子どもたちに世界への愛を育むことができれば、その子どもたちもまた、次世代のために世界を刷新する機会と可能性を与えることができるでしょう。
わたしたちがいま犯している最大の過ちは、子どもたちに「古い世界はくだらない、よくないものだ」と教えてしまっていることです。その旧弊な世界を乗り越えた先に、テクノロジーが発達した、明るく輝く新しい世界が待っている。そして「現役世代」であるわたしたちが、あなたたちをその世界に導いていく。わたしたちは、過去と未来についてそのように教わります。アーレントは、それは教育ではなく「洗脳」(indoctrination)だと言っています。
つまり、子どもたちは先行するわたしたちに取って代わる存在ではなく、あくまでもわたしたちに続く存在なのです。北極に住むイヌイット族の文化では、赤ちゃんが生まれたとき、その赤ちゃんは、誰かのおじいちゃんやおばあちゃんの生まれ変わりだと考えます。ですから、赤ちゃんを賢人として扱い、その意見に耳を傾け、学ぶべきだと考えるのです。新しい命を、それまでの生から完全に切り離された、新たな代替物として考えるのではなく、新しい命はすべて、連続性、つまり命の循環の一部として考えるのです。そうすることで、イヌイットの人びとは、社会を継続的に刷新し命の連続性を達成することができるのです。
──実際にイヌイットの人たちは、例えば赤ん坊に「これ、どうしたらいいですか?」って聞いたりするんですか。
しますします。実際訊ねるんです。そして、赤ちゃんが何を言っているのかを聞く。ことばでは言わないかもしれないが、何らかの方法で伝えるのを聞き取るわけです。
──面白いです。
後ろ向きに未来に進む
──いまのアーレントのお話は、よくわかる気がします。わたしたちが「洗脳」されてしまっている「未来」という概念はものすごく20世紀的なもので、しかもとりわけアメリカ的なものだと感じます。
まったく同感です。少なくとも、アメリカやイギリス、ヨーロッパでのほとんどの議論で理解されている「未来」は、非常に現代的なものです。そこでの「未来」は「解決すべき問題」であり、テクノロジーによって解決されるものだと考えられています。それは非常に現代的な考え方であり、かつ誤った考え方だと思います。わたしたちは、「未来」という概念は維持しつつも、それをまったく異なる方法で理解することに取り組まなくてはなりません。「未来」とは、これから訪れる時代であり、これからやって来る人びとのことを表します。わたしたちに続く人びと、そう理解すべきなのです。そうすることで、未来を「解決すべき問題」としてではなく、親族関係や子孫、世代の移り変わりといった観点から眺めることができるようになります。
ここで本当に重要なのは、未来と過去との関係性です。現代のアメリカ的な考え方では、現在という場所があり、過去は一方に、未来はもう一方にあります。つまり、現在を挟んで、両者は完全に反対側に位置しています。
けれども、人生においてわたしたちは先祖を追っていると仮定し、先祖の過去がわたしたちの未来であるとすれば、わたしたちはそこに向かっていることになります。つまり、過去と未来の間に対立はないのです。ある意味では、過去と未来は同じものであり、現在というものは存在せず、ただ時間があるだけなのです。
──こんな話を聞いたことがあります。ある川が流れていて、流れている川のほとりに立っているとします。例えば、左手の上流から右手の下流に向かって川が流れているとき、どっちが未来でどっちが過去か、と問うと、多くの人が上流が過去で、川が流れていく下流が未来だと答えるそうです。けれども、水の流れを見ると、左手の上流から流れてくる水は新しいものなので未来、下流は過ぎ去ったものなので過去、と見ることもできます。インゴルドさんのお話とはちょっと違うかもしれませんが、いま思い出しました。
そのアナロジーは、わたしが考えていることと似ているようにも思います。つまり、物事には両方の見方があるということです。未来に向かうことは、上流に向かうことだと言うこともできますし、その一方で、水は先祖から流れてくるので、先祖に向かって上流に向かうこともできます。逆に子どもたちは下流に向かって流れていくこともできますので、「未来の先祖」や「過去の子どもたち」といったものが存在し得ます。あるいは、子どもたちを通り過ぎる水は、すでに先祖が通った水だと言うことも可能です。つまりどちらの考え方も成り立つのです。そして、非常に混乱します。わたし自身、こうしたことを考えようとして、非常に混乱しました(笑)。
いずれにせよ重要なのは、過去と未来の関係よりも、老いと子孫の関係です。老いは、わたしが年を重ねる過程です。年を重ねることで、わたしは先祖に近づいていきます。人生には、前進していくという動きがあります。それが老化です。しかし、同時に、後に続く人びとを見守るという働きもあります。つまり、全体が前進しているわけですが、自分の後ろには列ができているわけです。川の流れに例えると、水がすべて一方向に流れているようなものです。
──「前進」と言ったとき、わたしたちは前を向いて、前に未来があると感じますが、昔の日本人は「未来に向かっていく」と言ったとき、「後ろ向きに」未来に向かっていくイメージをもっていたと聞いたことがあります。だから、後ろを向いた状態で、ムーンウォークするように未来に向かっていたのではないかと。
ある意味そうなのかもしれません。少なくとも伝統的には、日本人の同僚に話す際のわたしの理解では、日本の方は、先祖の方向を向いているので、後から続く世界に対して背を向けることになります。一方、西洋では常に未来のほうを向き、祖先には背を向けます。これが根本的な対照です。それがどれほど真実なのかはわかりませんが、伝統的にはそうでしたし、中国も日本と同様だと思います。中国でも家系は非常に重視されています。
いずれにせよ、わたしが言いたいのは、先祖のほうを向くのは良い考えだということです。といって「未来」をないがしろにするのではなく、未来を見守り、振り返りながら、後に続く人びとを気遣うということです。
アイデンティティ・ポリティクスを越えて
──現在、医療技術の進化は目覚ましく、老化を遅延させたり、体のパーツを入れ替えたりといったことが可能になってきていますが、こうしたものの影響はどのようにお考えでしょうか。
わたしは、こうした技術の使い方は間違ったもので、まったく役に立っていないと考えます。こうした技術は、寿命をできるだけ延ばしたいという願望を亢進し、死さえもいずれ解決できる問題として扱うことで、人を、新しい世代を誕生させる苦労から解放しようとしています。これは、またもや代替の論理、つまり、すべての世代は、前任者に取って替わる層であり、そこでは、各世代は次の世代によって取って替わられるだけに存在するものであると考えられているがために、自分たちの寿命をできるだけ長くすることで、取って替わられることを延ばしたいという考えに基づいています。
──話が冒頭に戻ってしまいますが、冒頭インゴルドさんは、英国では世代ごとのラベリングばかりをしているとおっしゃっていましたが、日本も同様です。加えて日本では「バブル世代」「就職氷河期世代」といったように、いわゆる景気、経済動向に基づいて世代のラベルを区分けすることが多くあります。こうしたことを、インゴルドさんはどのように感じられますか。
残念ながら、日本社会はアメリカやイギリス、ヨーロッパから輸出された流行を鵜呑みにしているように思えます。団塊の世代、Z世代、ミレニアル世代といった、次々と現れるジェネレーションにラベルをつけるという考えは、それ自体が非常に不適切なものです。そもそも、人は「世代グループ」に属するものではありません。人は、人生において親しく知っている人びとに属するものであり、そのなかには両親や祖父母、友人、同級生などが含まれます。
わたしは、ラベルを貼って人びとを不自然に分類するよりも、そうした人間関係を基盤に社会は築かれていくべきだと感じています。おそらく、それを阻んでいる問題の一因は、少なくとも西洋世界では、いま顕著になっているアイデンティティ・ポリティクスにあります。そこでは、誰もが特定のアイデンティティ、「ジェンダー・アイデンティティ」や「レイシャル・アイデンティティ」「ナショナル・アイデンティティ」「ジェネレーション・アイデンティティ」をもたなければならず、そうしたアイデンティティが、人との関係性よりも、自分自身を定義するものだと考えられています。
──「ベビーブーマー」といった世代で社会の層を区切るような考え方というのは、そもそもはマーケティングとして始まったものなのでしょうか。
完全にそうとは言えないかもしれませんが、わたしはそうだろうと考えています。
──先ほどのジェンダーの話もそうですが、「アイデンティティ・ポリティクス」をどう乗り越えていくかという点において、世代の話は極めて重要だということに本を読んで改めて気づかされたのですが、とはいえ読まれ方を間違えると、伝統回帰を謳ったものすごくコンサバティブな本だと誤解されかねないとも感じたのですが、これまでそのような反応はありましたか。
わたしの同僚や大学の友人のなかには、わたしが保守的な価値観を訴えていると受け取った人もいるかとは思います。ときにノスタルジーだと取られることもあります。すべてが調和し、平和と調和のなかで生活が営まれていた黄金時代の理想を復活させようとしている、というのです。もちろん、そんなつもりはまったくありませんが、そういう誤解もあります。ノスタルジーは、未来と過去が明確に分離しており、決して到達できない過去を夢見るような場合にのみ存在するものです。ノスタルジーという概念そのものが、わたしが本書で問題にした、現代の「世代」の概念と深く関わっているのです。
本書は決してノスタルジーに根ざしたものではありませんが、多少保守的だとは言えるかもしれません。保守的というのは、英国の政党が言うところの「保守」ではなく、伝統に興味があるという意味での保守です。わたしの主張はあくまでも、「伝統は過去のものではなく未来への約束を秘めたものである」と明かすことにありますが、いかに、単に昔を懐かしんでいるように見えないようこうした考えを説明するかは、実際のところ難しい問題です。
次週4月1日は、あまりに身近であるがゆえに、医学的な知見を除いてあまり議論されることがなかった「かゆみ」という感覚にフォーカス。2025年2月にオンライン上で開催され、大盛況のうちに終了した「第1回かゆみの哲学研究集会」、その中心メンバーのひとりである加戸友佳子氏に、かゆみに向き合うための新たなアプローチを伺います。お楽しみに。
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