ことばとともに、成熟する社会へ:韓国現代詩の第一人者、チン・ウニョンが語る「詩の力」
セウォル号沈没事件という悲劇の“後”を生き、「文学カウンセリング」という実践も重ねる韓国詩壇の第一人者が、初めて日本のオーディエンスに思いを語る、貴重なイベントが開催された。そこで紡がれたことばの一つひとつは、海も空も飛び越えて、わたしたちの心をあまりに深く打つ。普段、詩を読み、書くわけではないとしても、詩のことばについて考えるということはこんなにも豊かで、社会的な営みなのだ。
韓国からリモート出演してくれたチン・ウニョンさんの画面の背景は、詩を書くバス運転手をアダム・ドライバーが演じたジム・ジャームッシュ監督作『パターソン』(2016年)のもの、とのこと。
『WORKSIGHT[ワークサイト]21号 詩のことば Words of Poetry』に掲載した、チン・ウニョンさんへのインタビュー(ウェブ転載はこちら)は、詩的言語の目覚めから、セウォル号沈没事件という韓国社会を揺るがせた出来事の衝撃、その後の犠牲者の高校生の“声”を代弁し詩を書くという試み、そして大学で教えている「文学カウンセリング」という興味深い実践と、多様な論点を含んでいた。
そうしたチンさんの胸のうちをさらに詳しく知りたいと、2024年1月18日、東京・神保町の韓国書籍専門ブックカフェであるCHEKCCORI(チェッコリ)主催で、トークイベントを開催した。翻訳家で前掲のインタビューも手がけた吉川凪さんと、WORKSIGHT編集部・宮田文久が聞き手として、そして同じく翻訳家として活躍するすんみさんが通訳として登壇。奇しくも、セウォル号が海に沈んでから、間もなく丸10年を迎えるというタイミングでの開催となった。
interview & text by Fumihisa Miyata
interview & translation of poetry by Nagi Yoshikawa
interpretation by Seungmi
in cooperation with CHEKCCORI
チン・ウニョン(陳恩英)|Jin Eun-Young 1970年、韓国・大田市に生まれる。梨花女子大学で西洋哲学を専攻し博士号を取得した。韓国相談大学院大学教授。2000年に季刊誌『文学と社会』に作品を発表して詩人としての活動を始め、これまでに大山文学賞、現代文学賞など多数の文学賞を受賞している。詩集として『七つの単語でできた辞書』『私たちは毎日毎日』『盗んでいく歌』『僕は古い街のように君を愛し』があり、海外ではフランス語に翻訳された詩選集『Des flocons de neige rouge(赤い雪片)』が2016年にフランスで、『We, Day by Day(私たちは毎日毎日)』が英語に翻訳されて2018年にアメリカで出版されている。
2014年と2024年のあいだで
吉川 今回のイベントにあたって、大きく3つのテーマを設けてあります。まずは、詩人としてのチン・ウニョンさんの歩みや姿勢についてうかがいたい、ということです。ふたつめは、セウォル号沈没事件の遺族の心のケアをするというプロジェクトにチンさんが参加されており、そのことについてもうかがいたく思っています。そして、同じくチンさんが取り組んでおられる「文学カウンセリング」についてもお尋ねできればと考えておりまして、そうしたテーマを語っていただくあいだに、自作の詩の朗読もしていただく予定です。どうぞよろしくお願いいたします。
宮田 それではまずチンさんから、日本でご覧いただいているみなさんに、ご挨拶いただけますか。
チン こんにちは、詩を書いているチン・ウニョンと申します。韓国相談大学院大学というところで「文学カウンセリング」について教えています。みなさん、よろしくお願いします。
宮田 以前にチンさんのことを取り上げている新聞記事を見たことがきっかけとなって、昨年『WORKSIGHT』での取材をお願いしました。ご快諾いただき、吉川さんを通じてのメールインタビューとなりましたが、今日は改めてこのイベントで、チンさんが考えていらっしゃることをうかがえればと思っています。
チン インタビューのきっかけについてですが、おそらく「朝日新聞」に掲載されたコラムを読まれてご連絡いただいたのかと思います。わたしはそのコラムを読めていないのですが、おそらく2014年4月16日のセウォル号沈没事件について触れた、2022年に出したわたしの4冊目の詩集『僕は古い街のように君を愛し(나는 오래된 거리처럼 너를 사랑하고)』を紹介してくださったのでしょう。セウォル号という船が沈没したこの事件は、国家の安全システムがまともに作動しないなか、修学旅行中だった高校生たちをはじめ、死者・行方不明者となった乗員・乗客が304人を数える衝撃的な出来事でした。今回のイベントにあたって送っていただいた提案書にも「2014年」の文字がありましたが、つまり今年はセウォル号沈没事件から10年、ということになります。提案書を見たわたしは、2014年に連れ戻されたような気持ちを抱きました。
当時この事件について、日本の知識人や市民の方々が関心をもってくださったのが、とても嬉しかったことを覚えています。国境を越えて優しい気持ちがお互いにつながったような感慨を抱きましたし、文学を通して民族や国家を超えた友情を分かち合える、そんな証拠として考えることができました。そうした優しい友情を、韓国は一方的に受け止める立場でいられたらよかったのですが……先日、日本で大きな地震が発生し、悲しくも多くの方々が命を落とされたということを耳にしました。ご冥福をお祈りいたします。
個人的な生と政治的な生は、不可分
宮田 まさにその10年という時間を超えて、通じ合うことができるお話が、今日このイベントのなかでも生まれていくのではないかと存じます。最初に、チンさんの詩人としての歩みや姿勢、あるいはその変化について、改めてうかがえますか。
チン わたしはデビューして、23年が経ちました。2003年に初の詩集『七つの単語でできた辞書(일곱 개의 단어로 된 사전)』が出てからは、20年が経ちました。書くたびに姿勢というものは変わってくるんですけれども、初めて書いた詩集は、心の傷について書いたものが多かったです。登壇(編注:新聞・雑誌の文学新人賞受賞、既成の作家・詩人による推薦などによって文壇デビューすること)したときに注目された作品は「家族(가족)」という短い詩で、道端で見た、キラキラした光るものが登場します。
吉川 その詩「家族」は、こちらで読みますね。『WORKSIGHT』21号に掲載されたインタビューのなかでも引用されています。
外では
あれほど輝いて美しかったのに
家に持ち込むと
花が
植木鉢の植物が
すべて枯れた
(「家族」全文)
このような、とても短い詩ですね。
チン はい、とても短い作品で、韓国社会の家族問題を描いた詩でした。初めての詩集は家族や自分の心の傷について書きましたが、2冊目の詩集『私たちは毎日毎日(우리는 매일매일)』(2008年)のときは、デビューもして、最初の本も出ているのだし、ということでもうすこし自信がついていました。世界をつくり上げる神のような気持ちといっていいのでしょうか、自分が見ているものに何か命名をしたい、という気持ちで作品を書いていました。3冊目の詩集『盗んでいく歌(훔쳐가는 노래)』(2012年)と4冊目の『僕は古い街のように君を愛し』(2022年)を出す頃には、もっとたくさんの人の話や声というものに興味をもつようになりまして、自分と違う人たちの声を聞き取ることがとても大事なのだ、という気持ちで作品を書きました。
Photographs by Shunta Ishigami
吉川 では、ここで初期の詩「教室にて(교실에서)」を朗読していただこうと思います。よろしくお願いいたします。
チン はい、読みますね。
私たちは本を置いて窓から外を眺める
白昼は
神様の決めたことだけが起こるから
司祭に追い出された人々が
道を埋め尽くし
救急車と消防車で街はにぎやか
電車は数百人を乗せたまま
危うく川に飛び込みかけた
魚たちが
黄色いサイレンを鳴らし
驚いて振り返れば
夕暮れはもう教室の中
黒板にチョークで何か書いてあって
闇の中で文字たちは
遠すぎて名前もわからない星みたいに
微かな光を放つ
一日中黙っていた口のため
私たちは互いに
鋼鉄でできたドロップスを入れてやる
(詩集『七つの単語でできた辞書』より)
吉川 これは高校生のときの情景でしょうか。
チン 大学時代の風景を書いたものではありますが、いま改めて考えてみると、高校時代の風景を書いたものかもしれないとも思いました。というのは、わたしは漢陽(ハニャン)大学の付属高校に通っていたんですけれども、教室のなかから窓の外を見ると、漢陽大学の大学生たちがデモをやっている姿が見えていたんですね(編注:後段でも言及されるように、韓国では1980年の光州事件以降に学生運動が急進化・先鋭化し、90年代初頭にかけてその流れは続いた)。そのときの風景が、自分の心のなかにあったのではないかと思います。
吉川 わたしは、もしかしたら高校の「夜間自律学習」の風景かなとも思ったんですけれど……(笑)。
チン たしかに、その要素もあるのかもしれませんね(笑)。夜間自律学習をすごく強いられる学校に通っていたので、夜9時まで教室にいましたから。
吉川 夜間自律学習というのは、韓国の高校で、この時間までは帰ってはいけないといわれて教室で自習させられるというものです。自律学習といいつつ、強制なんですけれども……(笑)。そうした苦労が出ている詩なのかな、とわたしは受け止めました。特に最後、「一日中黙っていた口のため/私たちは互いに/鋼鉄でできたドロップスを入れてやる」というような表現もありますし、黙って生きていなければならないような、強く抑圧された学生の姿なのかな、と。
チン 高校時代、その夜間自律学習の時間に、わたしは本当はしなければいけない勉強をしないで、『デミアン』(編注:20世紀の文学者ヘルマン・ヘッセの青春小説)といった古典的な小説を読んでいたんです。それが見つかると先生から体罰を受けることもあって、そうした雰囲気は大学でも続いていた記憶があります。もちろん体罰などとはまた違うのですけれども、例えば大学で政治的な本を読んでいると、取り締まりを受けるというような経験をしました。
宮田 いまのお話はとても印象的です。若い頃は内面的な、心の問題が詩のテーマだったとおっしゃっていましたが、その頃から窓の外のデモの風景や周囲の環境といった、ある種の社会性とも常に隣り合っていらしたのですね。
チン 個人的な生と政治的な生は、不可分の領域だと思います。大学生時代、わたしはあまり政治的なものには興味がなく、ただ詩人になりたかったひとりの学生ではありました。ですが、そんなわたしもこんな経験をしました。1989年、大学1年生の春にジャック・プレヴェールの訳詩集をもって、わたしが通っていた大学の隣にあった延世(ヨンセ)大学前を通りかかったときのことです。その当時、延世大学ではよく学生集会があったので、警察が学生たちに頻繁に職務質問を行っていました。わたしの手にあった詩集のタイトルは『赤い馬(붉은 말)』なのですが、韓国語の「馬」と「言葉」はどちらも「マル(말)」で、ハングルのタイトルだけ見ると『赤い馬』なのか『赤い言葉』なのかわかりません。それで、赤い言葉、すなわち共産主義の言葉として誤解されて職務質問を受けたのです。当時わたしは学生運動を始める前だったので、身分証を見せると叱られただけで済みました。学生運動をやっていると判断されれば学校前に停まっている機動隊のバスで警察署へ移送されます。本当に怖かったです。
宮田 そんなことがあったのですね……。
チン 大学3年生のときには警察に連行されました。コミュニティバスのなかで学生自治会から配布された資料を読んでいたとき、わたしのカバンにはマルクーゼの『理性と革命』という本が入っていました。それはヘーゲル哲学を論じた非常に有名な本で、哲学科の授業のテキストでしたが、『革命』という言葉のせいで数時間拘束され、身元確認が取れるまで解放されませんでした。1980年代の韓国では学生運動が非常に激しく、その雰囲気は91年まで続いていました。
すべて昔の話です……と言おうとしましたが、いや、決してそうではないと、いま思い返しました。2014年当時、韓国の大統領は独裁の象徴である朴正熙大統領の娘、朴槿恵でした。社会的発言をした作家たちはブラックリストに載り、さまざまな不利益を受けました。セウォル号の悲劇だけでなく、すべての社会的発言にはある程度のリスクが伴うため、犠牲者と連帯したり、彼らを代弁したりすることは、知識人や作家にとって個人的なリスクと不利益を伴う勇敢な行為と見なされました。わたしもブラックリストに載りました。やはり、わたしの詩には個人的な部分と社会的な抑圧というものが、隣り合わせになっているのではないかと思います。
2023年のソウル、大学修学能力試験に臨む受験生たち。 Photo by Chung Sung-Jun/Getty Images
亡き高校生の“声”を詩にすること
吉川 ふたつめのテーマである、セウォル号沈没事件と詩、というお話に移りたいと思います。まずはチンさんに、「あの日以後(그날 이후)」の朗読をしていただきます。
チン では……。
お父さん ごめん
2キロちょっとで小さく生まれて
二十歳にもなれず ほんのちょっとしか側にいてあげられなくてごめんなさい
お母さん ごめん
夜 塾に行く時 携帯の充電が切れて心配させて
今度 船から帰る時も一週間連絡できなくてごめんなさい
おばあちゃん 今まで流した涙よりもっとたくさんの涙を流させてごめん
一緒にチヂミを焼きながら
私の人生がこんがり温かく出来上がるのを見せてあげられなくてごめんなさい
お父さんお母さん ごめんね
お父さんの疲れた頭の上に涙のような雨を降らせてしまって
お父さん 風の悲しいささやきを聞かせてしまって
お母さん 秋の色が何でも似合うお母さんに黒いシャツばかり着せて
お母さん ここにもお父さんの広い背中みたいに私をおぶってくれる雲があるよ
ここでも友達がつけてくれたリボンみたいな暖かい日差しが雲の間でひらひらして
ここでも同じオレンジ色の日が暮れて
お母さんとお父さんが記憶の柱の間にかけたハンモックがあって
そのハンモックでひと寝入りすれば
私は今でもほっぺのふっくらした 素直な耳の後ろに長い髪をかきあげる子
悲しみの大家族の間でも奮闘する勇敢なお母さんとお父さんの子
お父さん ここには友達もいる
こう言ってくれる国語の先生もいる
「穏やかに丸く見開く一重まぶたの目がかわいいわね」
「あなたはとっても声がきれい。
真っすぐな髪が水に映った星みたいに輝いて」
お母さん! お父さん! 桜散るベンチで私が友達と一緒に歌った歌を覚えてる?
私はギターを弾く少年と 歌う少女たちと
音楽みたいに柔らかい毛の猫たちと
私の好きなお母さんの夜のお迎えと ピンクの手鏡と一緒にいる
鏡の中の十七歳 澄んだ私の顔と一緒に仲良くここにいる
お父さん 私が友達と遊ぶのに忙しくて夢にあまり行けなくても悲しまないで
お父さん 午前3時に起きて私の写真を眺めたりしないで
お父さん 私が友達といるほうが楽しくなってもすねないで
お母さん お父さんがすねてたら私の代わりにぎゅっとしてあげて
ハウンお姉ちゃん お母さんが悲しんでたら私の代わりにぎゅっとしてあげて
ソンウン お姉ちゃんが悲しんでたらあんたの好きなレモネードを作ってあげて
チウン ソンウンが悲しんでたら私の代わりに歌ってあげて
お父さん チウンが悲しんでたら私の代わりにふんわりおぶってあげて
叔母さん お母さんお父さんの疲れた肩を抱いてあげて
友達みんな 私の家族の涙を拭いてあげてね
私と双子のハウンお姉ちゃん ありがとう
私と手をつないで世の中に来てくれて本当にありがとう
私はここで お姉ちゃんはそこで お母さんとお父さんと妹たちを守ろう
私はお姉ちゃんが幸福な時間と同じだけ幸福で
私はお姉ちゃんが愛される時間と同じだけ愛される
だからお姉ちゃん わかったね?
お父さん お父さん
私は悲しみの大洪水の後に浮かぶ虹みたいな子
空でいちばん素敵な名前を持った子にしてくれてありがとう
お母さん お母さん
私が歌いたい歌のうち一番澄んだ歌
真実を明らかにする歌を一緒に歌ってくれてありがとう
お母さん お父さん あの日以後もいっそうたくさん愛してくれてありがとう
お母さん お父さん つらい思いで愛してくれてありがとう
お母さん お父さん 私のために歩き 断食し 叫び 闘ってくれた
私はこの世でいちばん誠実で正直な親として生きようとする二人の娘イェウンです
私はあの日以後も永遠に愛される子 私たちみんなのイェウン
今日は私の誕生日。
(詩集『僕は古い街のように君を愛し』より)
LTI Korea(韓国文学翻訳院)のYouTubeチャンネルが2019年に配信した、チン・ウニョンさんによる「あの日以後」の朗読動画。
吉川 ありがとうございました。これは、セウォル号沈没事件で亡くなったユ・イェウンさんという女子高校生の方の気持ちになって、遺族の方々を慰めるために書いた詩ということです。どうしてこの詩を書くことになったのかという経緯を、改めてご説明いただけますか。
チン 先ほど申し上げた通り、2014年はセウォル号沈没事件が起きた年であり、304人という方々が死者・行方不明者となりました。最も悲劇的だったのは、その事件の犠牲者の多くが高校生だった、ということです。檀園(タンウォン)高校2年生の生徒たちが、修学旅行に向かう途中の出来事でした。犠牲者のうち高校生が250人いたという、わたしも含めた大人たちが自らを強く恥じ入るような事件だったのです。高校が位置する安山(アンサン)という地域全体が、ある意味で喪家になりました。そうしたなか、この社会的惨事によるトラウマを治癒すべく精神科医チョン・ヘシンさんが、その地に「隣人(이웃)」という癒やしの空間をつくったのです。わたしは、そして犠牲になった生徒たちの遺族に話を聞き、『天使たちは隣の家に住んでいる:社会的トラウマの治癒のために(천사들은 우리 옆집에 산다 - 사회적 트라우마의 치유를 위하여)』(2015年)というインタビュー集を、チョンさんとの共著として出しました。苦しんでいる人たちを助けられるのは、その隣にいる市民たちであることを忘れないようにしよう、という意味をタイトルに込めています。
宮田 そうしたいきさつが、詩作につながったのでしょうか。
チン 家族を失った人たちの苦しみというものはとても大きく、なかでも子どもを失った人たちの苦しみというものは、本当に大きなものです。特に辛いのは、亡くなった人の誕生日です。チョンさんは癒やしの空間である「隣人」に、犠牲者の親や兄弟、友人を招待して、亡くなった人たちについて語り合う誕生日パーティを開きました。その集まりに際して、詩人たちが子どもたちの声となって遺族や友人たちに挨拶する、そうした「誕生日詩」を書くというプロジェクトが生まれました。30人以上の詩人たちが依頼を受けて書いた詩は、エッセイなどとともに後に『お母さん、私だよ(엄마. 나야.)』という書籍になっています。わたしはチョンさんからイェウンさんの声で詩をつくるようお声がけいただいて、「あの日以後」という作品を書きました。
宮田 オンラインの参加者の方から、「第三者が当事者の声を代弁する際に、気をつけたことはありますか」とご質問がきています。
チン 実は一度、この仕事をお断りしました。わたし自身は子どもがおらず、仮にいたとしても、17歳で修学旅行に行く途中で水のなかに沈められて命を落とす、そんな犠牲者の方の気持ちを自分が詩で表現することは、なかなかできないのではないかと感じたのです。わたしは現代哲学を学んできたこともあり、誰かの声を代弁するというのは非倫理的なことだとも考えていました。
しかし、この瞬間、こうした場に、たしかにわたしは“呼ばれた”のです。いま申し上げたような美学的なルールや倫理というものだけが大切なことではない、と感じさせてくれる状況がそこにあり、結果として書くことに決めたのです。会の準備は非常に短い時間のなかで進められていたので、わたしが事前にイェウンさんの遺族に直接会うことはできませんでしたが、チョンさんが遺族一人ひとりに会ってインタビューした内容をまとめたものを、詩人たちに送ってくださいました。その上でわたしは、イェウンさんのお父さんがFacebookに書かれた話を読んだり、あとは当時のセウォル号の映像を見たりしながら、詩を書きました。きっかけは本当に偶然でしたけれども、結果として「誕生日詩」に参加したことは、わたしにとって大切な、忘れられない経験になりました。ちなみに『お母さん、私だよ』の原稿料を詩人たちは受け取らず、利益はすべて遺族たちのために使われました。
2016年4月16日、セウォル号沈没事件から2年が経った日。檀園高校の教室の外で、犠牲者へ向けた手紙を書く生徒。 Photo by Chung Sung-Jun/Getty Images
自分のスタイルを離れる
チン 詩人は沈黙のなかで他者の声に耳を傾ける人間だと思っていますが、詩を書くときに、自分がもつ欲求を表現したいという気持ちを排除すること、つまり「わたしはこういうスタイルの詩を書きたい」、「こういう芸術家でありたい」という欲求を諦めるのは、とても難しいことです。しかし、「あの日以後」を書くとき、わたしはそうしたスタイルをめぐる欲求を諦めなければいけない、という経験をしました。
プリーモ・レーヴィという作家のエッセイ集の韓国語版『苦痛に反対しながら:他者に向けた視線(고통에 반대하며: 타자를 향한 시선)』(編注:原題はL'altrui mestiere、日本語では未訳)に書かれていたことが、非常に印象に残っています。「世界の悲惨のなかで苦しんでいる人たちの声というものは、不明瞭で曖昧で、まるで動物の鳴き声のようだ。だが、その声の隣で苦痛を伝えようとする人の声は明瞭でなければならない」といったような内容です。わたしが「あの日以後」を書くときは、犠牲になった子どもの声を明瞭に、遺族たちや友人たちに伝えなければなりませんでした。それがわたしの文学、従来のスタイルへのこだわりを、諦めさせてくれたのです。
吉川 韓国の詩壇では2000年頃に若い詩人たちを「未来派」と名づけ、チンさんもデビュー当時はアバンギャルドな詩人たちのひとりとしてとらえられることが多かったですよね。たしかにその頃の詩に比べると、「あの日以後」は誰が読んでもわかる詩になっています。
チン 使う単語がかなり変わりました。そもそもわたしは、取材をしてものを書くようなタイプではなかったんです。本を読んで得たイメージや、そこで目にした単語などに寄せて詩を書いているようなタイプでした。しかし「あの日以後」では、イェウンさんがどんな子なのか……例えばチヂミが好きだとか、ハンモックによく横になっていたというようなことを調べているうちに、自分の詩のなかにそういった単語が流れこんできたのでした。それはまた、今回の詩に使われたような単語を普段使っている人に、自分が思いを馳せるような経験でもありました。自分と他者の生がつながっていることを、強く認識する経験だったのです。
宮田 そうして書かれた「あの日以後」が広く世に受け入れられていったというのは、どのような経験だったのでしょうか。
チン わたし自身が、すごく慰められたような感じがします。人とあまり接していないと、ある悲劇が起きたときに、自分だけが悲しんでいるような気持ちになってしまうことがあります。でも、読者がこの詩を読んでくれて一緒に悲しんでいる、共通の悲しみをもっているんだと感じられた経験が、この世の中がまだ変わっていくという希望がある、とわたしに考えさせてくれました。もともとわたしは世の中にちょっと幻滅しているところがあるのですけれども、すこしばかりの希望というものを抱くようになりました。
宮田 韓国の外でもこの詩に共感してくれる人と出会ったようですが、それは「あの日以後」に、世界に広く伝わる何かがあったからなのでしょうか。
チン 社会的な惨事、例えば銃の乱射であったりテロであったりといった事件は、この世界のいろんなところで起きています。わたしは以前、スウェーデンに行った際にセウォル号沈没事件の話をしたのですが、そのときに現地でもそういった社会問題になった沈没事件があり、たくさんの方が犠牲になったということを知りました(編注:1994年に発生し、852人が死亡したエストニア号沈没事件のこと)。
世界中でこうした沈没事件は頻繁に起きていて、たくさんの犠牲者を出しています。そういったものは、資本の論理によって起きている事件であって、なかなかすぐにわたしたち自身が防ぐようなことはできないことなのかもしれません。しかし、世界中でたくさんの方々が悲しみを抱いているのではないかと思います。
2022年10月29日に発生したソウル梨泰院雑踏事故、その翌日の現地の風景。 Photo by Chung Sung-Jun/Getty Images
「文学カウンセリング」の先にあるもの
吉川 では、最後のテーマである「文学カウンセリング」に移りたいと思います。その前に、チンさんに「求婚(청혼)」という詩を朗読していただきましょうか。
チン わかりました。
僕は古い街のように君を愛し
星たちは蜂の群れのごとく唸り
夏には小さな銀のドラムを叩くみたいに
君のてのひらを打つ雨をあげる
過去に対しては媚びなかったし未来にも媚びることはない
無垢なシャボンの泡の中 幼い僕たちが誓った言葉を見つけて
君の腕に写してあげる
僕が僕を探したかくれんぼの時間をすっかり取り戻してあげる
僕は古い街のように君を愛し
蜂は耳の中の星たちのように唸り
僕は人類ではなくただ一人の女のために
苦杯を飲みほすだろう
悲しみは僕のコップの中にある 透明なガラスのかけらのように
(詩集『僕は古い街のように君を愛し』より)
吉川 2022年に出たチンさんの最新詩集のタイトルにも、フレーズが使われている詩ですね。この一人称は「私」でも「僕」でも、どちらで訳してもいいと思います。この詩集は刊行後すぐにベストセラーになり、わずか3週間で1万部が売れたそうです。そこで先ほどの「あの日以後」とともに話題を呼んだのが、この「求婚」という詩で、特に若い女性を中心にインターネット空間で非常に好かれているようですね。
チン サイン会のときに、「この詩のお陰で恋人になりました」と伝えてくれる方々がいました(笑)。
宮田 いいお話ですね(笑)。
吉川 表面上は、男性が幼馴染の女性にプロポーズする内容で、一方で詩ではあるので、さまざまに象徴的な比喩を織り込んだ表現としても読めます。
チン 「こういうふうに詩を読んでください」と読者に要求することはしません。恋に落ちた相手を何としても守るという誓いとして読むこともできるでしょう。あるいは、抽象的な「人類」を救おうとしているのではなく、苦しんでいる隣人に思いを寄せて愛そうとしている、そんな具体的な手触りを感じさせるようなものでもあるかとは思います。
Photographs by Shunta Ishigami
宮田 こうした広く受け入れられる詩を書くチンさんが、大学で普段詩を書かない人を対象に「文学カウンセリング」をしているというのが興味深いです。
チン いまわたしの背景にあるのは映画『パターソン』の画像です。アダム・ドライバーさんという俳優が演じる、詩を書きながらバスを運転している主人公の後ろ姿ですが、わたしは日常を文学的に表現するということをとても美しい行為だと感じていまして、文学相談の授業をする際、よく背景でこの画像を使っています。
吉川 チンさんが籍を置く大学名に入っている「相談」は「カウンセリング」のことで、カウンセラーになりたい人たちに向けて大学院で講義をされているわけですね。そのなかのひとつとして、学生さんに詩を書かせてカウンセリングに使っていらっしゃるということなのですが、もうすこし詳しくうかがえますか。
チン 「文学カウンセリング」は、文学を読み、書き、話し、聞くことを通して、自分と他者の関係を考える学問です。現在「文学カウンセリング」という授業が行われている学校は、わたしのいまの所属先だけだとは思うのですが、似たような実践は昔からあります。読書を通して精神的な疾患を治療する「読書療法」というものは、アメリカで19世紀から続いています。
他方で、1960年代には、ジャック・リーディ(Jack J. Leedy)という精神科医が詩のセラピーを始めました。読書療法は、本を読んで自分の心を癒やすことが中心であり、詩のセラピーは詩を書くことで心を癒やしていく治療法です。文学カウンセリングは、この双方をあわせたような作業をおこなっています。
吉川 チンさんは、2019年にキム・ギョンヒさんとの共著で『文学、自分の心の模様を読む:文学カウンセリングの理論と実際(문학, 내 마음의 무늬 읽기:문학상담의 이론과 실제)』という本を出されていますね。前半が理論、後半は詩を使ったカウンセリング授業の実際的な方法について説明されています。カウンセリングを勉強したいと思って大学に入った人は詩を書きたくてくるわけではないので、そうした人たちと一緒に、ことばを使ったゲームのようなことから始め、いろんな詩をバラバラに切ってつなげてみるというようなプロセスを経つつ、だんだん自分の心を表現できるようにする方法が書かれています。大学院のみが設置されているということで、年配の方も多く通っていらっしゃるようですね。今日のイベントに際してチンさんから、文学カウンセリングの授業に出席していらしたという60代の大学院生、キム・ギジュンさんの詩「最初の授業(첫 수업)」をお送りいただいたので、日本語訳したものをご紹介したいと思います。
軍隊の便所にしゃがみこんでいた私の帽子を誰かがいきなり奪っていった時
私も同じように誰かの訓練帽をどきどきしながらひったくった時
(中略)
お父さん、ここに座ってください
まだ顔を見たことのない私の娘が あるいは息子の嫁が私を
優しく隅の席に案内してくれる時
僕が誰だかわかるかと聞くと少しためらってギジュンに決まってるでしょと
笑っていた母がいつからか どちら様でしょうと問い返し始めた時
田舎の四つ辻の真ん中に自転車が投げ出され
傍らで老人が微動だにせず伏せていた時
その老人をはねた車が姿を消していた時
知らないうちに
私の授業が始まっていたということ
そのすべての時間が
私の最初の授業だったということ
チン 超高齢化社会に突入するなか、第二の人生を歩みたいという方々が、学生としてたくさんいらしています。この詩は、各自の人生を振り返りながら、「学び」というテーマでみなさんに詩を書いてもらったときのものでして、キムさんが30分間で書いたものです。最初の10分はわたしがサンプルの詩をみなさんに見せて、残りの20分で詩を書いてもらいました。キムさんは大学で教授をされていた方で、引退後の新しい人生で詩を書いてみたいと思って大学院に通い始めたという経緯をもつ方ではあるのですが。
とはいえ、授業の最初は詩を書くことに抵抗が強い方であっても、やがて書くことの喜びを覚えて、宿題を出してもないのに自ら書いてくる方もいますし(笑)、自分は詩を書く素質があるみたいだ、将来詩人になろうか、と言い出す方もたくさんいます。詩の魅力というものは、みなさんに広く伝わるものなんだなと実感しますね。いずれにしても、自分という人間はそれまでに見て学んだものの総体として形成されるのだなと思います。この詩もまた、自分が大事にしているもの、慌てたり恐れたりした経験を並べて書いたものです。
宮田 なるほど。最後に、韓国社会のなかで「文学カウンセリング」を実践することの意義についてうかがえますか。
チン 市場経済のなかで人びとは、生産し、消費するという二分法のなかで生活することを強いられます。文化や文学は、そういった二分法を揺らがせてくれるものだと、わたしは考えているんです。わたしたちは主に、消費する主体として生活していて、それは実は、文化全般においても同じことが言えます。みんなただ消費をしている、そうした消費者側の存在になっている。詩においても、詩は専門的なものであって、詩人が書いたものを読者がただ消費するというふうに考えられがちですが、詩は消費するだけではなくて書くことができる、自分も生産できるという経験を得られるのが「文学カウンセリング」だと思っているんです。一人ひとりが創造的な、そして生産的な立場になって、自分の人生を振り返り、詩作を試みる。そういう経験を積み重ねることが、ひいては韓国を、もっと成熟した社会にしてくれるのではないかとわたしは考えています。
先ほどの話にもつなげて、最後にお伝えしたいと思います。「誕生日詩」を書いたとき、誰か大切な人に出会うためには、自分が大事にしていたもの、ルールや原則を捨てなければいけない瞬間があるのだと、わたしは考えていました。自分ではない誰か他者の声に耳を傾けるというのはとても大変な作業だと思うのですが、オンラインでイベントに参加してくださったみなさんは、心優しくわたしの話に耳を傾けてくださいました。わたしもこれからもっと、誰かの声に耳を傾けていきたいと思います。本当にありがとうございました。
夕暮れに染まるソウルの一角。 Photo by: Universal History Archive/Universal Images Group via Getty Images
次週4月9日のニュースレターは、世界的な注目を集めるアルトゥーロ・エスコバルの著書『Designs for the Pluriverse』の日本語翻訳版『多元世界に向けたデザイン:ラディカルな相互依存性、自治と自律、そして複数の世界をつくること』(ビー・エヌ・エヌ)の監修・森田敦郎さんと翻訳・奥田宥聡さんのインタビューをお届けします。お楽しみに。
【書籍紹介】
Photo by Hironori Kim
書籍『WORKSIGHT[ワークサイト]22号 ゲームは世界 A–Z World is a Game』
「21世紀はゲームの時代だ」──。世界に名だたるアートキュレーター、ハンス・ウルリッヒ・オブリストが語ったことばはいま、現実のものとなりつつある。ゲームは、かつての小説や映画がそうであったように、社会を規定する経済的、政治的、心理的、そして技術的なシステムが象徴的に統合されたシステムとなりつつあるのだ。それはつまり「ゲームを通して見れば、世界がわかる」ということでもある。その仮説をもとにWORKSIGHTは今回、ゲームに関連するキーワードをAからZに当てはめ、計26本の企画を展開。ビジネスから文化、国際政治にいたるまで、あらゆる領域にリーチするゲームのいまに迫り、同時に、現代におけるゲームを多面的に浮かび上がらせている。ゲームというフレームから現代社会を見つめる最新号。
書名:『WORKSIGHT[ワークサイト]22号 ゲームは世界 A–Z World is a Game』
編集:WORKSIGHT編集部(ヨコク研究所+黒鳥社)
ISBN:978-4-7615-0929-3
アートディレクション:藤田裕美
発行日:2024年1月31日(水)
発行:コクヨ
発売:学芸出版社
判型:A5変型/128頁
定価:1800円+税