「揉めるのが大好きで、ずっとそうしてきた」:“聞き書き”レシピで繋ぐ、津軽の伝承料理
青森県弘前市が舞台の映画『バカ塗りの娘』で郷土料理の監修を務めるなど、近年脚光を浴びる「津軽あかつきの会」。30〜80代の地元女性が集い、伝承料理のレシピを書き留め、料理を提供している。津軽が故郷のWORKSIGHT編集者が現地に赴いたルポルタージュを、プリント版『WORKSIGHT[ワークサイト]19号 フィールドノート 声をきく・書きとめる Field Note』より転載してお届けする。
会の発起人・工藤良子さんが、当時出入りしていた公民館に来る人たちをはじめとして、聞き取り調査を行っていた頃のメモ。走り書きで記録し、後から書き直したものもある。レシピだけではなく、語り手から教わったなぞなぞや遊び、はやしことばなどの習俗も含めてメモに残している
日本有数の豪雪地帯がゆえに塩蔵・乾燥・発酵などの保存技術が発展し、独自の食文化を築いてきた津軽地方。その郷土料理のレシピを継承しようと活動しているのが、青森県弘前市の農家の女性グループ「津軽あかつきの会」だ。
近年では、昭和時代の花見行事を再現した弘前市・石川町会「観桜会」や、青森県が提供する体験型観光プログラムにも協力。また、現在公開中の映画『バカ塗りの娘』では作中の食卓を彩る郷土料理の監修を務めるなど、活動の幅を広げている。
『WORKSIGHT[ワークサイト]19号 フィールドノート 声をきく・書きとめる Field Note』では、郷土料理のレシピを聞き書きして伝える「津軽あかつきの会」の活動を取材。地域の“おべ様”とよばれる物知りの高齢者に教えてもらったレシピの数々、実際の調理風景や15品にもなる色鮮やかな料理、そして中心人物である工藤さんの思いに、津軽出身のWORKSIGHT編集部員が迫った。
photographs by Saki Yagi
interview & text by Saki Kudo
生かされたレシピ:「津軽あかつきの会」の営み
冬を越すために生きる
津軽の3月上旬といえば、車の排気ガスの黒いパウダーがかかった雪の塊が徐々に小さくなり、その隙間から、ひび割れたアスファルトや地面に張り付いた枯れ草が覗く季節だ。わたし自身が、その光景を見て育った。近代化された地方都市の多くがそうであるように、中から見る景色は、外から期待される原風景的で清らかな美しさとは少々ズレがある。それでも春の予感は嬉しいもので、地元の人は「雪解げれば今度ゴミだの出できて汚ねっきゃ」などと言うものの、その表情を見れば大抵口角が上がっている。この場所に暮らす人間にとって、長い冬をいかに乗り越えるかという問題は、2023年のいまになっても常に生活につきまとう大きな関心事だ。
冬越しへの意識は、この地域で食べられてきたものにもよく表れている。三五八(さごはち)と呼ばれる塩と米麹と米を3:5:8で和えた漬け床に、春に日本海で獲れたニシンの干物(身欠きニシンと呼ぶ)や山菜などを漬け込んだ「飯寿司(いずし)」もそうだ。冬以外なら米も野菜もよく育つ津軽平野では、とにかく雪が降る前に、このような長期保存できる食料を備えることになる。実家の冷蔵庫には大抵、この白い米粒をしっとりまとった飯寿司が入っていて(地元のイオンやカブセンターなどのスーパーにも飯寿司は売っている)、食卓の賑やかしに出されていたけれど、子どもの舌にはピンとこなくてあまり手を付けなかった記憶がある。他にも高菜や、さもだし(ナラタケ)の塩漬け、あるいはそれらを使った汁物なんかも思い出される。
「何」が津軽地方の食文化の特徴なのかといえば、米、豆、野菜、山菜、きのこ類といった食材を中心に、ニシンやホッケ、棒鱈、サメなどの海産物も取り入れた、長期保存のための発酵・塩蔵といった技術である。では、この食文化はいったい「誰」が担ってきたのだろうか? それは、台所に立って食事を賄ってきた、農家の女性たちに他ならない。
「津軽あかつきの会」は、青森県弘前市の石川地区で、数名の女性によって2001年に結成された。地域の料理を伝承し、途絶えかけていた津軽内陸部の加工や調理の手法をレシピ化し、自ら実践する集まりである。2023年1月時点で33名、弘前市内外の女性たちが会員として参加している。会の名は、昼夜仕事の多い農家の女性たちが寄り合える時間が早朝(=あかつき)だったことから付けられたが、いまは参加者の生活に合わせ、朝の家事仕事を終えたあとに集まっている。
この活動は、地域の高齢女性たちへの聞き取り調査から始まったのだという。そんな彼女たちの営みについて知りたいと思い、弘前中心部の城下町から在来線で30分ほど郊外に向かったところにある、石川地区の拠点を訪れた。期待とともに、伝承にまつわる話を聞くこと、さらにそれについて書くという行為が、自分に務まるだろうかという不安を抱えながら。
今日誰が来るのかは、わからない
外壁塗装が剥げた奥羽本線・石川駅の無人駅舎を出ると、雪下ろしのために勾配がついた赤茶や青のトタン屋根の住宅が並ぶ。その他に目につく建物といえば、高齢者向けの福祉施設か、巨大なりんご倉庫のどちらかだ。左手に土が覗き始めた田んぼ、右手には枝を剥き出しにしたりんごの木が並ぶ畑。それらを望む道で息を吐く。広大な平野に緞帳のように覆いかぶさってくるほの明るい空の大きさには、どこか寄る辺なさを感じる。
歩いていくと、線路の脇の角地に、長い生け垣からひときわ大きな民家の屋根が顔を出した。敷地にはこの家のものではなさそうな車が何台も停められており、奥にはビニールハウスと畑が見える。こことわかるような看板などは出していないが、この場所が津軽あかつきの会の拠点だ。また、発起人の工藤良子さんの自宅でもある。
朝9時前。すでに5名の女性が、広い土間の調理場に揃っていて、和気あいあいと雑談を交えながら支度を始めていた。味噌の撹拌機や業務用冷蔵庫のステンレスが朝の光を青く反射する調理場では、30代から80代までさまざまな年齢のメンバーが、忙しなく行き交っている。中心の作業台には、でんぶ(醤油の炒り煮)や子和え(たらこ和え)に使う根菜、大鰐温泉のそばもやし、ばっけ(フキノトウ)などが並べられ、手際よく下処理をされていく。その様子を邪魔にならないように脇から見ていると、なんだか自分が、親戚の女たちが集まる台所にうまく入っていけない、かつての男衆になったようでもある。
(左)調理場ではすでに調理が始まっていた。(右上)左から中田久子さん、中田桂子さん、地域おこし協力隊をきっかけに関東から津軽に移住した吉田涼香さん。同じ「中田」姓のふたりは親戚関係というわけではない。桂子さんは「まったく縁もゆかりもございません」と笑う。(右下)いたるところで主要なレシピの分量がメモされた手書きの貼り紙が目に入る。時期や調理の担当者によって味付けや調理方法は少しずつ変化しているようだった
津軽あかつきの会の活動形態にはひとつ、ちょっと驚かされることがある。木曜から日曜まで「予約した訪問者に昼の膳を準備して出す」というのが普段の主な活動なのだが、なんと、その日にメンバーのうち誰が準備しに来るのかは当日になってみないとわからないのだという。シフト表のようなものはない。数名のコアメンバーのような方々はいるが、少なくとも4名いれば、少人数での予約なら何とかなるのだそうだ。とはいえ12~15皿もあるお膳を準備するのは決して楽ではないはずなのだが、この体制になっていることには、それなりの理由がある。
彼女たちは、家事や介護、育児など各々の家の仕事も担いながら会に加わっている。夫の介護でしばらく来ていないメンバーもいるし、例えば若手の会員である吉田涼香さんは自身の仕事に専念するために、ここ最近は活動から離れていて、わたしたちの取材日は数カ月ぶりの参加だった。津軽あかつきの会が生まれる以前、かつて良子さんは心身の調子を崩して、保育士の仕事を辞したこともある。いずれにせよこの会では、そうした個々の事情を咎められることはない。わたしたちはしばしば、人的リソースをどうやって確保するかということから物事を考えてしまいがちだが、津軽あかつきの会という集団はリソースから想定しない柔軟な組織なのかもしれない。
家の外の、たくさんの母娘
会の立ち上げ以前から良子さんの活動に関わっている中田桂子さんは、それまで家のことにかかりきりの専業主婦だったという。
「わ(わたし)だって、嫁さ来てからだもの、つけもの漬け始めたの。そういうの自分の手でつくったことないしさ。小姑さ教えられて覚えだはんで。部会(1995年に開館した道の駅ひろさき「サンフェスタいしかわ」で販売される加工食品をつくるグループのこと)に入った頃は姑も子どもももう家にいないから。旦那とふたりで。それまでは一切家から出ない世間知らずの専業主婦であったどごで。それでサンフェスタに入って、仲間づくりができた感じ。ボランティアに近いぐらいのかたちでやってだのさ。うん、つけもの部会なんて夜、ご飯食べで19時ぐらいから農協のつけもの小屋に集まって、冬越の野菜とかたくあんとか、かぶとか漬けで。10人はいたんでねがな、その頃は。ほとんど無休だったんでないかな。結構燃えてたのかもね(笑)。うちの旦那には言われたよ。夜につけものば漬けに出だりして、ただでお金も貰えねえものさって。……はいっと、食べでみへ。干し柿。桜っこ載へで」
干し柿を赤紫蘇の葉でくるみ、春を先取りするように山桜の塩漬けを乗せる。津軽では梅やあんず、柿、りんごなどの果物にしそを巻いて漬けたものを梅干しのような位置付けの加工食品として食べることが多い。このため、青森県域で栽培される赤紫蘇は、具が包みやすいよう手のひらが隠れるほど大きな葉の品種が一般的
そもそも津軽あかつきの会は、立ち上げ当初から報酬を前提としていないボランタリーな集まりだ。それでも集まってくる会員の動機には、地域の料理を自分の手でつくれるようになりたい、会への訪問客に振る舞って感想を聞きたいなど、さまざまなものがある。しかし実は最も本質的なものではないかと感じられるのが、桂子さんの語りにもあるように、同じ地域に暮らす女性たちがともに過ごす、寄り合いとしての役割だ。
かつては家庭のなかで、姑や小姑に嫁が調理方法を仕込まれていた。その料理は、行事の折に振る舞われながら、農家の食文化をつくり上げていただろう。取材中、中田久子さんが調理の手を休めないまま、年長者である桂子さんのことばを継いだ。
「ほら、姑様ってそんだじゃん。他の家の嫁さは優しいけど、自分の家の嫁にはね。どこでもそうだと思うよ。『おめえ、これも知らねえで嫁こさ来たんだが!』って言われた世代かなあ、桂子さんは」
しかし、いまやそうした行事も日常生活からは縁遠いものとなり、つけものを漬ける小屋や土間のある家もなければ、核家族化により良きにつけ悪しきにつけ、姑から直接教わるような機会も減ってしまった。「でも」と久子さんは語る。
「(桂子さんは)いまやもう先生だはんで。(分量を)測らなくても(感覚で)『足りねえな』とか言って(笑)」
津軽あかつきの会は、家の内側での嫁と姑の関係ではなく、まるで家の外側にたくさんの母や娘をもつような、緩やかな親密さをもった教え合いの関係という場になっているようだった。桂子さん同様古株の森山千恵子さんが、「家にいれば聞きたくても聞けないことってある。他人だから聞ける。一般的に、人からはただお料理つくって出してる会って思われてるけど、そうじゃないんです、ここのつながりと場所が大事」と語ったことばに、まさにそのことが表れている。
では地域の男性たちからは、津軽あかつきの会の活動はどう見えていたのだろうか。代表の良子さんに聞くと、これまでは取り立てて関心をもたれるようなことはなかったそうだ。
「わたしたちもまあ、最初は仲良しのお友だち会みたいな、任意の団体だから。どことも接触しないで、むしろ、県とか市のほうで援助してくれてやってきてたんです。お弁当とかで使ってもらったりして。地域の男の人たちは……どうかな、この頃やっと、こういう昔の料理っていうものに関心もってきたかな、という感じ。いままでいろんな組織経験してきてるけれど……男の人入れば、男の人たちの意見聞かねばだめだし。自分たちが良くてやっていければ、やっぱり一番良いと思ってきたんだけど。でも、去年の冬に初めて、(男性が主体となる)町会の方にもご挨拶して。それで、今年の春に、大仏公園の観桜会を町会と一緒にやることになったんですよ」
会話のなかにうつろう伝承
昼食の支度が整って、調理場の横の部屋にテーブルを3つほど並べた卓につく。お膳といっても、大きな膳からさらにはみ出した品が脇に、何皿も添えられている。ごままんま(胡麻ご飯)とけの汁(粥の汁)を入れると、計15品ほどもある。顔がほころんでしまうくらいの賑々しさだ。
こうした最大限のもてなしは、太宰治の紀行文的な小説『津軽』(1944年)で、旧知の蟹田のSさんという人の家に太宰が招かれた場面の一節を思い出す。
「おい、東京のお客さんを連れて来たぞ。とうとう連れて来たぞ。これが、そのれいの太宰って人なんだ。挨拶をせんかい。早く出て来て拝んだらよかろう。ついでに、酒だ。いや、酒はもう飲んじゃったんだ。リンゴ酒を持って来い。なんだ、一升しか無いのか。少い! もう二升買って来い。(中略) 待て、アンコーのフライとそれから、卵味噌のカヤキを差し上げろ。これは津軽で無ければ食えないものだ。そうだ。卵味噌だ。卵味噌に限る。卵味噌だ。卵味噌だ」
私は決して誇張法を用いて描写しているのではない。この疾風怒濤の如き接待は、津軽人の愛情の表現なのである。(中略) 実は、これは病人の食べるものなのである。病気になって食がすすまなくなった時、このカヤキの卵味噌をお粥に載せて食べるのである。けれども、これもまた津軽特有の料理の一つにはちがいなかった。Sさんは、それを思いつき、私に食べさせようとして連呼しているのだ。私は奥さんに、もうたくさんですから、と拝むように頼んでSさんの家を辞去した。
(『津軽』、新潮文庫、pp.69-72、1951年〔2004年改版〕)
お膳用の品を大皿で並べた会員の昼食。より家庭の食卓らしさが増す。テーブル奥から手前にかけて、けの汁/りんごのきんとん/煮豆/イカメンチ・ばっけの天ぷら/鮫なます/つけもの/棒鱈の煮物などが並ぶ
わたしは素晴らしく手の込んだ饗応にわくわくしながら内心、食べきることができなかったらどうしようか……などと心配もしていた。が、それは杞憂に終わった。不思議なもので、実際に食べ進めると、普段ならもう限界というところまで箸を進めても苦しくならない。菜食中心の津軽の献立が、ここまで身体への負担が少ないものであったかと驚くばかりだ。
同じ食卓につき、つくり手と今日の献立について話すなかで、「さもだしのナンバ(南蛮)漬け」に使う「さもだし」の由来の話題が出る。全国的にはナラタケとして知られるキノコだ。「なんでさもだしって言うんだっけ。沢に出るはんで(出るから)さもだし?」ということばに、良子さんが返す。「『三文だし』ってすの(というの)。なんぼでも取れるはんで、安いからって。そういう説もある。言い伝えだどごで(であるもので)、本当のあれはわからないけどね」
こうした知識の応酬は、台所でもよく聞こえてきていた。イカメンチに元々キャベツが入っていたとかいないとか、つけものの塩分が何%ならうまくいくのかとか……。何でもそういった具合に、都度知っている人同士が教え合っているのだった。それらの会話の内容は、必ずしも体系化された科学的なものではないけれど、あかつきの会員のあいだで知識のやり取りがされているという現在の状況自体が、レシピとして書き残す活動とはまた別の、生きた伝承の在り方なのだろうと思われる。民話や民謡にも似ているところだ。
これは、現在最年少のメンバーでありながら会員たちから信頼を寄せられる涼香さんが、後日メールで送ってくれたことばだ。
「わたしが活動によく参加していたときとつくり方が少しずつ変わっていたり、通年でお客様を迎えているからこそ、盛り付け方や見せ方も良くも悪くも変わっていたりするので、伝承とはいったいなんなのだろうか?と、毎回感じています。個人的には、料理を覚え、味を覚え、あとは個人の裁量次第でいいもので、その料理を作ったときの思い出や記憶が残っていくことがいいのかな、と思っています。
昔、冠婚葬祭などのときに料理のつくり方を教えてもらったようには、いま親戚・近所の人が家に集まる機会はないですが、あかつきの会の活動や食事がそのかわりになっていると思うと、あかつきのような場は〈伝承〉をするには必要なのかな、とも考えています」
1食20人分のレシピ本
津軽あかつきの会とその伝承料理が世に広まる契機となった『津軽伝承料理』(2021、柴田書店)よりも以前に、実は津軽あかつきの会では、小さなレシピ本が500部ほどつくられていた。これがとんでもなく迫力がある。
青森県庁中南地域県民局の協力でつくったこの冊子は、A5版で白黒刷りの簡素な作り。しかしページをめくると、そこに書かれているレシピは文字通り“ケタが違う”。何しろ、「ほっけの寿し」の分量は20人分(!)、用意する材料に至っては「ほっけ……1箱」から始まる。箱というのは、もちろん魚屋の店先に並ぶあの発泡スチロールの1箱である。切り身何パック、どころか何尾という単位ですらない。今回のご膳に出された「きのこのなんばん漬(さもだしのナンバ漬け)」のレシピを見ると、20人分で「きのこ(さもだし)……1kg」と記されている。一事が万事、この調子だ。ちょっと信じられないスケールなのだが、少し考えを巡らせてみれば、現在の家庭料理の本が4人分や2人分を基準にするようになったのは、そもそも核家族化が進んでからの話だったのではないか、という推測に行き着く。
レシピは生活様式を表す。当時の農家の女性たちは、冠婚葬祭や田植えの折に寄り合う人びとに提供する食事や、冬越しのための保存食を、まとまった量でこしらえていたのだ。家族形態や慣習までもが、そのまま分量というかたちになって残されている。こうした背景も含めて、良子さん自身も、実はこの本が一番好きだという。かつて自ら聞き書きをした地域の高齢者たちの生活の名残が表れているのが、この最初の、同人誌のようなレシピ本だったのだ。
(左)ストーブの前で乾燥させているのは「けの汁」を作るときに使用したすり鉢。(右上)2006年につくられたレシピ本より、「きのこのなんばん漬」のページ。20人分という単位はこの本ではごく一般的なスケールだ。(右下)お膳はあくまで客人用の設えであり、津軽あかつきの会のメンバーは大皿から各々好きな量を取って自由に食べる。食事が終わったあとも、お茶を飲みつつ満足いくまで世間話をしてから帰ることが多いそうだ
「砂糖戦争」も、また楽し
伝承の原点となった良子さんの聞き取り調査とは、いったいどのようなものだったのだろうか。
食後に良子さんが、これまで聞き書きの際にとったノートや写真を引っ張り出してきてくださった。ノート……というよりも、裏紙に走り書きをしたようなメモ書きの集積といった見た目で、紙の種類もサイズもばらばらだ。調味料やだし汁が飛んだのだろうか、ところどころ茶色く染みになっている。これらは、家財と一緒に処分されかけていたのを千恵子さんが見つけ、良子さんに内緒で一部抜き取って保管していたものなのだという。
良子さんは一枚ずつメモを手にとって眺め、記憶を手繰り寄せるようにとつとつと話してくれた。
──最初は、どんなふうにしてレシピを集め始めたんですか。
聞き取りから始まったんだけど。地域の……どこの村でもこう、おべ様(物知り)のばさまっているもんで。冠婚葬祭あればそういう人が来て、みんなを指図して、やるんだよね。いまはもう必要なくなってしまったけど、昔はね。そういう人を重点的に聞いたんです。ノートとペンをもってさあ喋ってくださいってすれば、田舎の人はね、緊張して何も言わなくなるから。その辺にあるチラシの裏でも何でも使って。最初は聞き逃したこととかもあって、後で聞き直したりして。聞くために喋ってるんでないから、だんだん要領良くなって、メモだけササッとやって後から付け加えたりして。本当に、みんなよく教えてくれたよね……。疲れれば迷惑だと思って、30分とか1時間で考えていくんだけど、たいてい聞きに行けば喜んでくれて、2時間3時間話したりして。歓迎してもらいました。やっぱり、嫁も孫もそういう料理もうつくらないし、教えてもなんも聞かないって、寂しいのがあったんだろうね、その頃の、年寄りのひとたち。わたしも年寄りだけども。
体裁もばらばらに、その場にあった紙に書き付けられたレシピ。一枚一枚どの人に何を聞いたか、良子さんはいまでもよく思い出せるという。聞いたレシピで実際につくってみてから書き加えられた反省点のメモもあり、いまの環境にどうにかこれらの料理を適応させようとする工夫が垣間見える
──ご自身のお母さんや姑さんに聞いたりもされたんですか。
わたしの母は、ほとんど料理しなくて、外に出るのが好きな人だったから。わたしも勤めてるあいだはもう……忙しくて。どんでも簡単にお腹いっぱいになればいい、と思って食べさせてきたし、自分でもそういうふうにして。ちょっとこういう生活、違うんでないかなって。体調崩して、初めて気づくんだよね。
──同じレシピでも家によって違うことってありますよね。そういうとき、どうされてましたか。
特につけものは多いんだけど、その人のやり方のなかで自分が納得するところを書き出して、取り上げて。
──そこは、良子さんの編集が入っていた?
ふふ、入ってます。分量とか。やっぱり昔は、塩分強いんだよね。つけものは特に。自分でつくってみて、なるほどこれはちょっと濃すぎるな、と思えば減らしたり。そういう編集をしてます。
──教えてくれた人にも食べてもらったり、レシピを見せたりすると思うんですけど、感想ってどうでしたか?
すぐ、『こんでない! 違う!』って。でも、水なんかもいまと違うでしょ。誰も当時は水道使わずに湧き水でやってるし。素材も、きゅうりやらトマトでも、もっと野菜くさい感じであったのが、いまみんな嫌味がなくて甘くなってるでしょ。だから、できるものが違うのも当たり前だと思うんだよな。そこはやっぱり、昔のまんまのものはできない。『こんでない』て言われても、それは仕方ない、と思って。
──他に良子さんが編集を入れたところってあるんですか。
かぶとかも、すごい甘いんだよな。1kgのかぶに1kg砂糖入れたりして。年いった人は、こんでねば美味しくないって言うんだけど。これだばお客さんに出されね、て言って。砂糖戦争でした。昔は人集まるってなれば、甘く、しょっぱく、味濃くしてたから。農業やるのが汗いっぱいかくし、重労働だから、っていうのもあっただろうけど。
──そのほうが豊か、という価値観もあったのでしょうね。
うん。この味って決まるまで、自由に言い争いして、怒鳴り合って。この味はこれって決まれば、みんな逆らえないから。そのときはわたしも、強かったんだろうね。ふふ……。一生懸命揉めるのも面白くて。揉めるのが大好きで。ずっとそうしてきました。
──最後は、語り手の方も納得してくれたんですか。
一応、しぶしぶね(笑)。でも、ベテランがこうしてやればって言って、若い人が意見を言わないっていうのは、面白くないなと思ってる。自分のできることは、もうほとんど無いから、黙ってるけれど……。女ばかり、10人とか15人とかいれば、すんごく面白い。それぞれ、言い分があって。後に(禍根が)残らなければ、結構面白いものだし。やりあうことによって、深くつながって、仲良くなるところもあるし。ここ(津軽あかつきの会)も、普段から賑やかで仲良くやってるんだけども……揉めるとこまでは、いかないね。
くにさんとの写真を懐かしく眺める良子さん。当時の語り手は80代で、いまはもうほとんどの方が亡くなっている
穏やかに、そして慎重に語る良子さんの口から「怒鳴り合い」ということばが出たとき、昼下がりの居間の柔らかい空気に一瞬だけ火花が散ったようだった。語り手と喧嘩しながら我を通して編集を加える行為は、果たして傲慢なことだろうか。
取材の帰り道、遠く背中に、弘南鉄道の踏切音を聞きながら歩く。冬の分厚い雲を割って、薄い日差しが、柔らかく照らしていた。解けゆく雪の隙間から覗く、あの剥き出しの荒れた地面を。去年とはすこし違う春が、またこの地に訪れようとしていた。
※本稿は『WORKSIGHT[ワークサイト]19号 フィールドノート 声をきく・書きとめる Field Note』の転載記事です。記事の内容は発行日である2023年4月27日時点のものです。
『WORKSIGHT[ワークサイト]19号 フィールドノート 声をきく・書きとめる Field Note』は、全国書店および各ECサイトで販売中です。書籍の詳細はこちらをご覧ください。
【目次】
◉巻頭言・ノートという呪術
文=山下正太郎(WORKSIGHT編集長)
◉スケーターたちのフィールドノート
プロジェクト「川」の試み
◉スケートボードの「声」をめぐる小史
文化史家イアン・ボーデンのまなざし
◉ノートなんて書けない
「聴く・記録する・伝える」を人類学者と考えた
松村圭一郎・足羽與志子・安渓遊地・大橋香奈
◉人の話を「きく」ためのプレイブック
哲学者・永井玲衣とともに
◉生かされたレシピ
「津軽あかつきの会」の営み
◉野外録音と狐の精霊
デイヴィッド・トゥープが語るフィールドレコーディング
◉それぞれのフィールドノート
未知なる声を聴く傑作ブックリスト60
◉ChatGPTという見知らぬ他者と出会うことをめぐる混乱についての覚書
文=山下正太郎
【書籍詳細】
書名:『WORKSIGHT[ワークサイト]19号 フィールドノート 声をきく・書きとめる Field Note』
編集:WORKSIGHT編集部
ISBN:978-4-7615-0925-5
アートディレクション:藤田裕美
発行日:2023年4月27日(木)
発行:コクヨ
発売:学芸出版社
判型:A5変型/128頁
定価:1800円+税