今改めて問う「ゲームとは何か」:"社会性のあるゲーム"のムーブメントが示すもの
勝敗を争う遊戯として古来より親しまれてきたゲームは、いつから物語性や文脈を伝えられるメディアとなり、プレイヤーに新たな視点や擬似体験をもたらす強力なツールとなったのか。『スペースインベーダー』『スーパーマリオブラザーズ』『ファイナルファンタジー』『DEATH STRANDING』などの名作、そして教育現場などで活用されているゲームの変遷を辿りながら、いまなお大きな可能性を秘めているゲームに迫る。
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国内のある大学院の授業では、プレゼンテーションを行う際にゲームを活用することがある。例えば、地方創生プロジェクトについて説明する際、成功事例の流れをRPGゲームに仕立て、プロジェクトの発足やステークホルダーとのやりとりなどを追体験してもらうのだ。
ゲーム自体はとてもシンプルなつくりだし、マルチエンディングがあるわけでもない。だが、予備知識なしでもイメージしやすく、インタラクティブ性によってプレイヤーを惹きつけることができるゲームは、プレゼンでは強力なツールとなっている。
ゲームはもはや、エンターテインメントの枠には収まらない何かへと変容しているのかもしれない。ある事象・体験の概要だけでなく、その物語性や文脈を伝え、プレイヤーが擬似的に体感できるゲームは、虚構世界上の楽しみだけではなく、現実世界での学びを得られる実用性の高いツールとなっているのではないだろうか。
本稿では、コンピューターゲームやビデオゲームなどの「デジタルゲーム」にスポットを当て、その変遷をさらいながら、今日のゲームの特徴や可能性までを辿っていきたい。
text by Aya Kudo/Sayu Hayashida
格差、分断…… ゲームが描く社会課題
近年、社会的なテーマに取り組むゲームが増えている。小説や映画などのメディアの上をいくインタラクティブ性、そしてゲームによってはリアルタイム性なども実現し、ゲームならではの手法や表現方法で、社会の格差や分断、ジェンダー問題などの複雑な文脈を伝えている。
例えば、全世界のゲームメディアが選ぶゲームアワード「The Game Awards」の大賞受賞作としては『The Last of Us Part II』(2020)や『ウィッチャー3 ワイルドハント』(2015)、日本ゲーム大賞2020の大賞受賞作としては『DEATH STRANDING』(2019)などだ。日本映画大学准教授の藤田直哉氏は、近著『ゲームが教える世界の論点』(集英社新書)のなかで、『The Last of Us Part II』は他者を"怪物化"することで罪悪感をキャンセルする風潮への抵抗を、『ウィッチャー3 ワイルドハント』は貧困や格差、差別の問題を、『DEATH STRANDING』は分断が進む社会でつながりを取り戻す重要性を説き、ゲームが現実の社会を強く反映していると述べている。
アクションアドベンチャーゲーム『The Last of Us Part II』。謎のパンデミックによりゾンビ化した感染者だらけになったアメリカを舞台に、主人公ジョエルと10代の少女エリーのサバイバル劇を描いた作品の続編。プレイヤーは、今作の主人公エリーだけでなく、ジョエルに父親を殺された娘アビーも操作しなければならない。憎むべき敵にもまた、愛する家族や幸せな生活があったことをプレイを通じて体感することで、プレイヤーは大きな葛藤を覚えることになる
オープンワールドのアクションロールプレイングゲーム『ウィッチャー3 ワイルドハント』。エルフやドワーフなどの架空種族と人間が一緒に暮らす世界を舞台に、魔法を操る剣士ゲラルトが、行方不明になった養女のシリを捜す物語。プレイヤーはゲラルトを操作しながら、過酷な貧困や格差、政治的謀略などを体験する
『DEATH STRANDING』。文明が荒廃し、人びとが孤立し、引きこもって暮らす近未来。主人公のサムはある配達組織の一員となり、世界を"つなぐ"旅に出る。小島秀夫監督は「ファミ通.com」のインタビューで、「親と子、生と死、都市と都市、ネット上の誰かと自分」などをさまざまなものを"つなぐ"ゲームであると述べ、同時に「つなぐとは責任を取ること」とも話している
そのようなゲームの可能性について、ゲーム業界以外も注目している。例えばユネスコは2016年の調査報告書「Empathy, perspective and complicity: how digital games can support peace education and conflict resolution」にて、2000年代に注目を集めたシリアスゲーム、2010年代より話題となったゲーミフィケーションの系譜上にあるものとして、ゲームが社会課題解決の一助となる可能性に言及し、その教育的価値を認めている。
この報告書では、紛争解決や平和教育に寄与するゲームを紹介。20世紀最大の悲劇のひとつといわれる「ルワンダ大虐殺」での母子を描いた『Hush』(2008)、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争での包囲戦「サラエボ包囲」での一般市民を描いた『This War of Mine』(2014)、イラン革命の渦中で壮絶な選択の数々を迫られる青年を描いた『1979 Revolution: Black Friday』(2016)といったタイトルだ。これらは実際の紛争・戦争などをモチーフに、当事者の状況や感情を追体験できるつくりとなっており、教科書では学べない戦争・紛争のリアルが垣間見えるゲームとなっている。
『1979 Revolution: Black Friday』はアメリカ、オーストラリア、カナダ、ノルウェーの学校教育でも採用された。ゲームディレクターを務めたナビッド・コンサリ氏は少年時代、イラン革命を経験している人物でもある
"インベーダーの侵略"から始まる物語
ゲームがこのような社会性や、社会問題を伝えるための強いメッセージ性を搭載できるようになるまで、どのような変遷を辿ってきたのだろうか。かつては勝敗を競うシンプルな遊戯だったものから、物語性をもち、文脈を伝えられるものになるまでを、総計600点以上のゲーム機・ソフトから人類のゲーム史に迫る中川大地氏の著書『現代ゲーム全史:文明の遊戯史観から』(早川書房)を参考に整理していきたい。
コンピューターゲームは計算機技術の黎明期、その性能の試験台として開発された。史上初のコンピューターゲームとされるチェス機械「エル・アヘドレシスタ」(1912)、中国発祥の石取りゲームのニム(山崩し)をプレイできる『Nimotron』(1939)など、この頃はターン制ゲームが研究されていた。
宇宙開発競争が激化した1960年代に入ると、世界初のシューティングゲーム『Spacewar!』(1962)が生まれる。開発者はスティーブ・ラッセルをはじめとするMITの学生だ。宇宙戦争をモチーフとしたこの対戦ゲームでは重力や慣性力なども計算されていたといい、宇宙開発への夢とテクノロジーへの期待が、カウンターカルチャーとしてのゲームに結実した時期だったといえる。
その後、同じSFシューティングゲームながら、物理法則を重視した『Spacewar!』とは異なり、プレイヤーに物語性やキャラクター性を強く感じさせるゲームが登場する。世界的にブームを巻き起こしたアーケードゲーム『スペースインベーダー』(1978)だ。
画面上方から現れるインベーダー(宇宙人)からの攻撃をかわし、同時に撃ち落とすこのゲームでは、インベーダーが人間とは異なる"生命体"としての強いキャラクター性を発揮した。また、インベーダーを撃ち落として侵略を防ぐという物語性を直感させるものでもあった。中川氏は同ゲームの登場を、「推論的な知性の持ち主同士が対称的な制約条件に基づいて勝敗を競うという伝統的な(ゲーム理論的な)意味での『ゲーム』から、さらなる逸脱発展を遂げていく」契機として挙げている。
『スペースインベーダー』。2023年7月には、世界中のプレイヤーと協力して倒すARゲーム『スペースインベーダー ワールドディフェンス』も配信された
このような物語性は、元祖縦スクロールシューティングゲーム『ゼビウス』(1982)で深化を見せる。ゼビウスは、自機を操作して敵を撃ち落としていくというシンプルなつくりだが、緻密なバックストーリーによってゲーム体験に神話的な深遠さを与えることに成功。また、ゲーム中に仕掛けられた謎(一部は開発者の意図せぬバグだった)のため、ゲームセンターで常連プレイヤーらのコミュニティが形成され、現在のSNSやネット掲示板のような盛り上がりを見せた。
物語性、そして謎解きなどの仕掛けによりインタラクティブ性のあるゲームが登場すると、プレイヤーのニーズは好きなだけ攻略に打ち込める家庭用ゲーム機へと移り、「ファミリーコンピュータ」(1983)の台頭へと繋がっていく。
一方、1980年代前半よりパソコン所有者が増え始めたことで、コンピューターゲームも普及。コンピューターゲームでは、アーケードゲームや家庭用ゲームのような高度なプレイが難しい分、プレイ状態を記録メディアにセーブしながら長期にわたってやりこんでいくスタイルが定着。アドベンチャーゲーム、ロールプレイングゲーム、シミュレーションゲームの3ジャンルの普及に貢献した。
ドラクエにFF 物語表現のメディアへ
初期はアーケードゲームもしくはコンピューターゲームのタイトルを移入していたファミコンだったが、任天堂が満を持してオリジナルゲームを開発する。アクションゲームの金字塔『スーパーマリオブラザーズ』(1985)だ。
大魔王クッパにさらわれたピーチ姫を救い出すという物語自体は、ドンキーコングにさらわれた恋人のレディを救い出す『ドンキーコング』(1981)と大差はないものの、敵キャラクターの詳細設定などの奥行きのある世界観は、プレイヤーにこれまでにない広大な冒険の物語を体感させるものだった。また、ジャンプアクションの幅の広がりなどが「進むべき道筋をある程度は自分自身で切り拓いていける自由度」、そして「体験の個人化」をもたらしながらプレイヤーを虜にしていった。
『スーパーマリオブラザーズ』。マリオシリーズは2022年時点で累計7.6億本と世界で最も売れたゲームシリーズとなっている
『スーパーマリオブラザーズ』以降は、『ゼルダの伝説』(1986)など物語性のある世界に没入しながら長時間かけてクリアを目指す、コンピューターゲーム的なタイトルが目立つようになる。その流れのなかで、いまなお世界中で愛され続けているロールプレイングゲーム『ドラゴンクエスト』(1986)、『ファイナルファンタジー』(1987)が登場する。
ジャンプ黄金期の少年漫画風の世界観で、一人称的・ト書き的な描写を貫き、プレイヤーに"自分の物語"であることを錯覚させるようなつくりの『ドラゴンクエスト』に対し、初期ジブリのようなアニメ映画風の世界観を築き、三人称的・映像的な描写によって"他者の物語"に寄り添わせる『ファイナルファンタジー』。2作は対照的な作風ながらも、和製ジュブナイルファンタジーの傑作と評価された。同時に、ゲームは文学や映画のような物語表現のメディアとして受け入れられていく。
1990年代に入り、ハードの表現力やデータ容量が増えると、かつての粗いドット絵や単純な電子音ではなく、美しいビジュアルやBGMといった開発者のイメージを再現できる度合いが向上した。3D化のインパクトを押し出した「PlayStation」(1994)がその流れを加速させ、ゲームはテクノロジカルでクリエイティブなジャンルとして、新しいユーザー層やイメージを獲得していった。
ドラゴンクエストシリーズ。社会現象を巻き起こした『ドラゴンクエストIII そして伝説へ…』(1988)の後は、小説、漫画、ゲームブック、ドラマCDなどが販売され、メディアミックス的な展開となった
ファイナルファンタジーシリーズ。全世界で累計1億8500万本以上の出荷・ダウンロード販売を達成しており、2017年には「最もタイトル数の多いロールプレイングゲームシリーズ」(外伝などをあわせると87作)としてギネス世界記録にも認定された
「ゲームはゲームとして研究せよ」
視覚表現の向上に伴い、映画鑑賞的な側面をもつようになったゲーム。大作映画のようなアドベンチャーゲームが次々とリリースされるなか、ゲームの内容は徐々に"映像鑑賞"と"レベル上げ作業"に分かれ、不満をもつプレイヤーが現れ始めた。ゲームを遊びたい人びとにとっては、節目節目に挿入されるイベントムービーなどは"余計な芝居"になり、逆に物語を楽しみたい人びとにとっては、レベル上げは"煩雑な作業"になっていたからだ。
ゲームとはいったい何なのか。2000年代に差し掛かるこのタイミングは、映画研究や文学理論などの分野から論じられてきたゲームが、大きな転換点を迎えた時期だった。
2003年にデジタルゲーム学会が設立されたことで本格化した「ゲーム学」は、まさにその象徴といえるだろう。ゲーム学は、民俗学、社会学、心理学などを活用しながら、ゲームそのもの、ゲームをプレイするという行為、ゲームを取り巻く文化などを研究する学問である。その起こりについて、ゲーム研究者の松永伸司氏は以下のように述べている。
(2000年前後の)ニューメディア論者は、物語の媒体という観点からビデオゲームを研究してきた。しかし、それは「理論の帝国主義」「植民地化」であり、不当な越境である。むしろ、ビデオゲームはゲームの媒体である。ビデオゲームはゲームとして研究されなければならない。(中略)それゆえ、彼らにとっては、ビデオゲームを正当な仕方で研究するための新しい分野、つまりゲーム一般を対象とする分野が必要だった
同時期、まさに「ゲームにしかできないもの」を目指して、ゲーム業界のなかからも革新的な動きが生まれている。"言葉のないゲーム"の作り手として国内外に熱烈なファンをもつゲームデザイナー、上田文人氏によるアクションアドベンチャーの名作『ICO』(2001)のリリースだ。
『ICO』は、角の生えた少年イコと、霧の城のなかの鳥籠に閉じ込められていた少女ヨルダの物語だ。プレイヤーはイコを操作し、言葉の通じないヨルダの手を引いて霧の城からの脱出を目指す。アクションアドベンチャーながらゲーム的なパラメータやHPゲージは存在せず、ストーリーが言葉で規定されることもほとんどない。ヨルダはおろか、イコすらも何者かわからない状態からスタートし、プレイヤーは「武器になりそうな棒」「のぼれそうな鎖」などの制約的なヒントがある環境のなか、まるで謎解きをするかのように物語を進めていく。
そのインタラクティブ性のなかで、プレイヤーはゲームを進めるためのスキルを自律的に学習すると同時に、イコとしての体験を個人化していく。このゲームではR1ボタンを押し"手をつなぐ"動作が肝となるのだが、「週刊ファミ通」2021年12月16日号では、プレイ経験のある読者らが「コントローラーという無機質な物から温かさを感じた」「この人(ヨルダ)を守らなければとがむしゃらな気持ちになりました」「ダッシュしてみたら、ヨルダの腕がなんか痛そうに見えたので、そこからなるべく歩くようにした」と、他者とつながることへの安心、緊張、不安などを赤裸々にコメントしている。
『ICO』のプロモーションビデオ。イコ(左)とヨルダ(右)。上田氏はIGN Japanのインタビューで「これまでゲームをやらなかった人にこそ触って欲しい、遊んでほしいという希望があったので、ゲーム独自のセオリーのようなものはできるだけ除外した」と語っている
視覚表現にもとづくという意味では映画などの映像メディアを継承しつつ、ゲームならではの表現を追及した同作では、そのゲームシステムの革新性が高く評価された。ゲーム界のアカデミー賞といわれる「Game Developers Choice Awards」(以下「GDCA」)では、革新的な作品に贈られる「Game Innovation Spotlights」を含む3タイトルを獲得。また、2012年のGDCAで大賞である「Game of the Year」を獲得し、『ICO』同様"言葉のないゲーム"として多くのファンを獲得した『Journey』(2012)の開発者ジェノバ・チェン氏は、上田氏のことを「僕のヒーロー」と語るなど、のちのゲーム界にまで多大なる影響を与えたことがわかる。
日本経済新聞は2012年4月、『ICO』『Journey』などのゲームを引き合いに「ゲームは『メディア』、価値創造にむけた新世代の挑戦」という記事を公開。ゲームはもはや映画や文学といった他のメディアに付随するものではなく、それ単体がひとつの重要なジャンルとして、社会に広く認識されるに至ったのである。
ゲームによる「知覚↔︎行為」のサイクル
1980年代以降、物語表現ができる新しいメディアとして広まり、2000年代前後からはひとつのメディアジャンルを築いてきたゲーム。そして冒頭で紹介したように、現実世界を投影したメッセージ性の強いゲームが広まるいま、改めて「ゲームとはいったい何なのか」という大きな問いが浮上しているように思う。その問いとは、果たしてゲームはメディアの枠におさまるものなのだろうか、という問いだ。
10月3日配信のWORKSIGHTニュースレター「"正しさの追求"の外へ:制約がプレーヤーの学習と自己組織化を促す『エコロジカル・アプローチ』の提案」では、生態学(エコロジー)の観点から、人↔︎環境の相互作用のなかで運動学習を推進する理論や取り組みを取り上げた。ゲーム体験もまた、このようなエコロジカルなサイクルをもち、革新的な飛躍を遂げる可能性を秘めていると考えられる。
わたしたちが社会問題などの複雑な文脈を理解しようとするとき、かつては本や新聞を読んだり、ドキュメンタリー映像を観たりして知識を取り入れてきた。このように言葉や絵などのコード化された知識は、生態心理学では「象徴的認知」(symbolic cognition/knowledge about the environment)と呼ばれ、本質的には言葉で規定されている知識を指す。メディアでいえば小説や演劇、あるいは映画やテレビドラマなどで得るような情報がこれにあたるだろう。
それに対して必ずしもコード化、つまり言語化できるものではなく、むしろそうすることで不正確になりうる知覚が存在する。これを生態心理学では「知覚的認知」(perceptual cognition/knowledge of the environment)といい、端的にいえば当事者でなければわからないような知識を指す。実際の環境に身を置くと同時に、自分の行為を通じて環境に働きかけるという相互作用のなかでしか得られないもののことだ。この相互作用は「知覚↔︎行為のカップリング」(perception-action coupling)と呼ばれ、知覚によって行為が誘導されることと、行為によって知覚の機会を増やすことが同時に起こる状態を指す。前述のニュースレターで取り上げた「エコロジカル・アプローチ」に則ると、そのような知覚の習得は、個人の脳内で完結しているものではなく、人と環境のサイクルのなかに存在するという。
これを、人=ゲームのプレイヤー、環境=ゲーム内に構築された世界に置き換えると、ゲームはプレイヤーにとって知覚的認知を与えるシステムを搭載していると考えることはできないだろうか。
例えば、ユネスコの報告書で紹介された『1979 Revolution: Black Friday』は、イラン革命を実際に経験したゲームディレクター、ナビッド・コンサリ氏が指揮をとり、当時の音声や写真を取り寄せながら革命の混乱を再現したゲームだ。プレイヤーは、当時の過酷な環境に疑似的に身を置きながら、意図せず革命に巻き込まれていく少年として行動していく。このような環境(ゲームの世界)↔︎人(プレイヤー)の相互作用のなかで、結局のところ何が最善なのかもわからないまま、プレイヤーは物語を進めていかなければならない。コンサリ氏が「(このゲームを通じて)世界は白か黒かではなく、グレーなものだとわかってもらえるだろう」と語った通り、当事者にしかわからないような"グレー"という規定できない感覚をこのゲームは与えてくれる。それは、教科書やニュースを通じて「理解した」と思っていたことについて新たな認識や経験、つまり知覚的認知を与える術となっているのではないだろうか。
また、近年のインディーゲーム開発者の増加も、ゲームが知覚的認知を与えるという側面から説明できるかもしれない。もちろん、「Unreal Engine」「Unity」などのゲーム開発エンジンのコモディティ化、「Steam」などのプラットフォームの普及なども重要なファクターといえるだろう。しかしそれと同時に、グレーなものをグレーなままで届ける、つまり「知覚的認知」を与えることができるゲームの表現媒体としてのポテンシャルが、多くの表現者を虜にしているとも考えられるのではないだろうか。
実際に、10年ぶりのゲーム特集となった「WIRED」VOL.46では、それぞれ異なるジェンダーやセクシュアリティをもつ主人公たちの日常を描いたビジュアルノベル『A YEAR OF SPRINGS』の開発者のnpckcが、ゲームをつくる理由について以下のように述べている。
ゲームでしか伝えられないことがあると思うので、ゲームをつくっています。いままで遊んできたさまざまなゲームが自分の人生を変えたように、ほかの人の心に響くゲームがつくりたいです。楽しいこともつまらないこともうれしいことも悲しいことも……とにかくゲームという媒体で自分が伝えたいすべてのことを世界に届けたいです。
ゲームはメディアという枠を超え、人びとが未知の事象や経験を学習するための強力なツール、あるいはインフラ的なものへと変容していくのかもしれない。そんな予感を携えながら、この記事を書いているいまはまだ、「ゲームとはいったい何なのか」という問いへの答えを出せずにいる。
次週11月14日は「世代の多様性」についての記事をお届けします。性別や人種、性的マイノリティなどに比べ、置き去りにされがちな世代の多様性。定年後の再雇用率なども上がるいま、超高齢社会のワークプレイスをどのように考えるべきか。ケンブリッジ大学 ジャッジ・ビジネス・スクールの学長であり、世界市場動向の専門家のマウロ・ギレン氏に尋ねます。お楽しみに。
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【書籍詳細】
書名:『WORKSIGHT[ワークサイト]21号 詩のことば Words of Poetry』
編集:WORKSIGHT編集部
ISBN:978-4-7615-0928-6
アートディレクション:藤田裕美
発行日:2023年10月20日(金)
発行:コクヨ
発売:学芸出版社
判型:A5変型/128頁
定価:1800円+税