賭博と戦争:遠い戦火・遠のく記憶と関わる術
「予測市場」という新たなデジタル・プラットフォームの興隆のなか、戦争の行く末が賭けの対象となることが、多くの議論を呼んでいる。政治学の世界でさまざまなかたちで論じられてきた、現代人と戦争の“遠さ”ゆえの現象でもあるだろう。他方で、賭けを介するからこそ、遠い戦争と関係することができるという逆説もまた存在しうる。まったくもって一筋縄ではいかない、現代人の宿痾を再考する。
photograph by mrs/Getty Images
text by Fumihisa Miyata
あらゆるものを金融化する
近年急速に伸長し、注目を集めると同時に問題視されているのが、「ポリマーケット」(Polymarket)や「カルシ」(Kalshi)といった予測市場プラットフォームである。ポリマーケットは2020年にローンチし、それに先立つ2018年にカルシは登場した。
例えばスポーツの試合結果や選手の移籍先、世界各地の選挙や国際情勢など、あらゆることが賭けの対象となる。現実でこれから起こりうる出来事ならば、本当にさまざまなトピックが取り上げられるのだ。要するに、賭けられれば、そしてその賭けが盛り上がれば、対象は何でもいい(本稿筆者が2026年7月下旬に各ウェブサイトにアクセスした際のホットトピックは、2026年のバロンドール受賞者は誰か、レブロン・ジェイムズが次に移籍するチームは、といったサッカーやバスケットボールにまつわる質問だった)。
2025年11月までの2年足らずのあいだに、予測市場における月間想定取引高は130倍に急増し、1億ドル未満から130億ドル以上に達したとするデータもある。2025年秋に開かれたカンファレンスの壇上で、カルシの共同設立者であるタレク・マンスールは「長期的なビジョンは、あらゆるものを金融化し、意見の相違を取引可能な資産に変えることだ」と述べた。アラビア語で「すべて」を意味するカルシは、しかし厳密にはギャンブルではないとメディアによるインタビューでマンスールは語っている。
2026年に入って以降、予測市場のなかでも特に議論を呼んでいるのが、戦況をめぐる賭けの動向だ。多種多様な賭けのトピックのなかでも、耳目を引くのが戦争の行く末であり、ポリマーケットやカルシといった予測市場は、その意味で政治の舞台にもなっているのだ。
2026年3月にはイスラエル紙の特派員が、イランのミサイル攻撃にまつわる自筆の報道記事について内容を変更せよとポリマーケット利用者から脅迫・嫌がらせを受け、警察に被害届を出したと報道された。同年4月にはアメリカ司法省がひとりの米兵を、機密情報の不正利用などの罪で起訴した。トランプ政権がベネズエラのマドゥロ大統領を拘束した軍事作戦が1月に展開されたが、これに携わった兵士が知りえた機密情報をもとにポリマーケット上で多くの利益を得たという。現在のアメリカとイスラエルにおけるこうした出来事の事実性をどう判断するのかという問題は存在するが、いずれにしても予測市場が戦争と政治をめぐって大きな騒ぎを巻き起こしていることは間違いない。
もともと米商品先物取引委員会(CFTC)の管轄下にはあったものの(先ほどのマンスールによる“ギャンブルにあたらず”という発言の背景である)、2026年6月にCFTCは予測市場を監督する初の規則案を発表。暗殺・戦争・テロなどに関連した取引の禁止へと動き出し、その後も議論が進んでいる。そんな矢先、7月半ばには、トランプ大統領が演説を行う際のテレプロンプター担当者が、知りえた演説内容をめぐってカルシで賭博を繰り返していたとして停職となっている。
上に記したような出来事は主にインサイダー取引をめぐるものではあるが、いずれにしてもこうした賭けが盛り上がる背景としては当然ながら、予測市場をめぐる一般的な盛り上がり、その裾野の広がりが存在する。NPR(アメリカ公共ラジオ放送)における論説でスコット・サイモンは、エチオピアやコソボ、イラクの難民キャンプ、あるいはサラエヴォといった地で、命の危機に自らを晒しながら移動し続けざるを得ない人びとを目撃したと語った上で、次のように手厳しく批判した。
わたしたちは、多くの勇敢な人びとが安全な場所にたどり着くのを目撃したが、同じく多くの勇敢な人びとが、その試みのなかで命を落としたのも見た。
彼らは、愛する人びとのために自分の命を賭けた。一方、予測市場の利用者は、快適で安全な場所から戦時下のような賭けに出て、他人の不幸に乗じて大儲けしようと目論む。
TBS CROSS DIG with Bloombergによる、予測市場の解説動画。CNNやCNBC、グーグル、MLBなど既存のプレイヤーが予測市場と手を組みつつあることが語られる
戦火から遠く離れて
では、人々が戦争を賭けの対象にするようになったのは、最近のことなのか? 否、以前からわたしたちは、戦火を賭博に結びつけてきた。
インターネット・アーカイブ上で読むことができる、『The History of White’s』という1892年に刊行された書籍がある。繙くと、興味深い事実に行き当たる。17世紀から18世紀にかけてイギリスで流行したコーヒーハウスのなかでも、ロンドンのセントジェームズに存在し上流階級の男性たちのたまり場だったというこの店・ホワイツで、1743年から1878年のあいだに客たちが楽しんだ賭博の台帳が存在し、ナポレオンがロシア遠征から生きて戻ってくるのかどうかといったトピックが、客たちによる賭けの対象になっていたというのだ。
首相や軍人、政治家たちも集っていたにもかかわらず、職務上、場合によっては関係しそうな戦争に対して賭けが行われていたのは意外にも思える。しかしホワイツは何よりも、政治的なゴシップやプライベートなスキャンダルを共有する娯楽・社交の場であった。そのなかで、人生のあらゆる出来事を賭けの対象として愉しむ空気が醸成され、戦争もまた賭博の対象となっていたのだ。どうやらこれはホワイツに限らず、当時のコーヒーハウス文化では一般的なことだったらしい。
この時代から、近代的な戦争における総力戦の時代を経て、現在のように一般大衆が戦争を賭博の対象とする時代に至るまでのあいだに、いったい何があったのだろうか。賭けに直接言及しているわけではないが、いくつかの政治学的な議論が、状況を俯瞰するための手がかりを与えてくれそうだ。
重要なのは、自分が巻き込まれるかもしれない戦争は賭けとして愉しむことが難しい、ということだ。戦火は自分から遠いからこそ、賭けの対象となる。特に西欧社会に生きる人びとにおける、戦争との距離感。その遠さ。
1995年、戦略家として知られるエドワード・ルトワックが、「Toward Post-Heroic Warfare」という論文を発表した。英雄が生まれる、すなわち戦死傷者という犠牲者が生じる戦争から、英雄=犠牲者なき戦争の時代へ──。そうした議論の流れは、さらに後年、ベトナム戦争からイラク戦争までのあいだに西欧社会の戦争の手口がどのように変わってきたのかを吟味した国際政治学者、マーティン・ショーの『The New Western Way of War』(2005年)へと連なる。ここでは「リスク転嫁の戦争」(risk-transfer war)という興味深い概念が論じられている。自国の兵士たちから、敵側の民間人へと、戦争におけるリスクが転じられているというのだ。
西側諸国は自軍の戦闘員の危険を最小限に抑えるため、自軍の人員が負うべきリスクを民間人へと事実上転嫁するような戦争の手法を一貫して採用している。その結果、西側諸国の軍人よりも多くの民間人が死傷したり、被害を受けたりしているのだ。優先順位が問われるいかなる状況においても、西側諸国は民間人の命よりも自国の兵士の命を優先する傾向にある。
兵士から戦争が遠くなるのであれば、西欧社会に住む民衆から見た戦争がより遠くなるのもまた道理である。政治思想史を専門とする政治学者、シェルドン・ウォリンは、『Democracy Incorporated: Managed Democracy and the Specter of Inverted Totalitarianism』(民主主義株式会社:管理された民主主義と、逆しまの全体主義の脅威)と題された2008年の著書で、かつての全体主義とは異なる全体主義が、アメリカに象徴される民主主義社会の只中で進行していると論じている。もちろん、下記に記すようなメディア・コントロールに関する論調はやや懐かしさをも感じさせる。しかし民間企業によるデジタル・プラットフォームが政治を大きく動かすようになり、暗黒啓蒙の急先鋒カーティス・ヤーヴィンが、企業のCEOを範とする専制君主制へ民主主義社会は移行せよと主張する現在において読めば、その予言的な「民主主義株式会社」のビジョンはなかなかに興味深い。そしてこうした状況分析のなかで、戦争とわたしたちの距離をもたらすものが描き出されているのだ。
あらゆるものを支配しようと固執する「コントロール・フリーク(統制狂)」と評するのが的確なナチスとは異なり、アメリカの支配層は、あたかも企業のCEOがマスメディアという強力なリソースや広告・世論形成業界の手法を駆使し、懐柔と切り捨てを使い分けながら巧みに人びとを操るように、国民を管理することを好む。その過程で、「強制」の術も洗練されていく。物理的な脅威は依然として存在するものの、支配の主たる手法は、集団的な依存心を助長することにある。市民は事態から距離をとらされ、引き離された傍観者であり、目にするのは、戦争を「仮想化」し無害化しつつ、それでいて魅力的なものとして提示する役割を担い、権力と「一体化」した(embedded=埋め込まれた)メディアによって定められたフォーマットで届けられる出来事なのである。
2026年2月28日、アメリカ・ニューヨーク市の路上にて。アメリカとイスラエルがイランへ攻撃をしたとトランプ米大統領が発表、というニュースを背景に歩く男性 photograph by Ryan Murphy/Getty Images
「私はどうしてここにいてあそこにいないのか」
では、戦争にまつわる賭博は、真っ向から否定されておしまいなのだろうか。唾棄すべき、人の心を失ったかのような営み。たしかに、そうだ。ただ、そのようにして捨て置いてしまう前に、すこしだけ踏みとどまりたい。ここには何か、まだうまく言語化されていない可能性があるのではないだろうか。人びとが自分から切り離された戦争に対して、何か新たな関係性を紡ごうとするとき、賭けという営みは、象徴的な意味も含めてヒントを与えてくれるように思われるのである。
もちろんここからの議論は戦争をめぐる賭けを肯定するものではなく、また近年アディクションなどの喫緊の問題が取りざたされる賭博を闇雲に、あるいは積極的に評価するというものでもない。ただ、遠い戦火へのアプローチとして、表面的に評価するだけではないポテンシャルもまた賭博には眠っているのではないか──そのことを考えてみたいのだ。
文芸評論家の山城むつみは、時評集である『連続する問題』(幻戯書房、2013年)の冒頭に「宝くじ的あまりに宝くじ的な」と題した文章を置いている。このテクストが当初雑誌に発表されたのは、2002年1月にブッシュ米大統領が北朝鮮・イラン・イラクを「悪の枢軸」と称して非難した直後のこと。翌2003年3月に開始される、イラクへの攻撃へのカウントダウンが始まった時期であった。
ドストエフスキーが耽溺した「ルーレットが生まれたのは十七世紀、そして、パスカルやフェルマーが確率論を創始したのが十七世紀。(中略)考えてみれば、十七世紀になるまで確率論が発明されなかったということは不思議なことだ」と論は進む。「サイコロを振って出る目の蓋然性が等しく六分の一だとは自明すぎる理屈だが、なぜこんな自明の理が十七世紀になるまで公理となりえなかったのか。賭けや偶然性が古代や中世になかったわけがない。(中略)古代や中世の人々は賭けや偶然性について僕らと全く別様の考えを持っていたにちがいない」
そこで注目されるのが、『パンセ』における哲学者パスカルの問い──「宇宙空間を前に畏怖しつつ『私はどうしてここにいてあそこにいないのか』と自問した」ことであり、サイコロを振ってそれぞれの目が出る確率が「等しく六分の一」になる前提としての、「蓋然性の空間」は「均質」であるとする考えである。自分のいるところも、誰かのいるところも、均質的な蓋然性の空間として把握される──そのビジョンは、「戦争という社会的空間においても『私はどうしてここにいてあそこにいないのか』」という問いのかたちとなって浮上する。わたしたちの議論に引きつければ、遠くの戦火と、それをバーチャルに眺める人間とのあいだを架橋してしまうのが賭博の力ということになる。
そもそも賭博は、無関係であるはずのものと自分が結びつく、謎めいた回路を構築するものだ。文化人類学者・師田史子による『日々賭けをする人々:フィリピン闘鶏と数字くじの意味世界』(慶應義塾大学出版会、2025年)では、フィリピンの「ラストトゥー」という数字くじをめぐって、人びとが本来自分とは無関係な数字と日常世界を紐づけ、意味づける営みが描写される。「ラッキーナンバーを持つ、死者の残した数字の痕跡を辿る、出目の規則性を分析し次の当せん数字を予想する、数字の夢を見る、日常の中で数字と出会う。数字探索方法の例を挙げればきりがない。(中略)これらはすべて、当せん数字との因果関係がまったくない、意味のない行為である」が、その「邂逅」こそが重要だ。数字くじは「無根拠性」にもとづいているがゆえに、「恣意的な根拠づけによって賭けの経験が受容される場合において、ラストトゥーへの賭けは自己と外部世界とのつながりの現在的諸相を想像する契機となる」というのである。
このように賭けを契機として、「私はどうしてここにいてあそこにはいないのか」という、それまでは無関係だった外部世界との精神的なルートが開通する。ポリマーケットやカルシで繰り返されているような戦争をめぐる賭けがどこまでも非倫理的なものに見えたとしても、そこには安楽椅子に身を預けながら戦況をめぐって賭博に興じた人間たちを裏切るような実存的な関係性が、常に忍び込む余地がある(もちろんそれが、予測市場での戦争をめぐる賭博を肯定することと直結するわけではないのだが)。
フランス現代思想などを専門とする檜垣立哉は『賭博/偶然の哲学』(河出書房新社、2008年)において、「偶然性に賭けるものである」賭博は「必然的に自分の意志のコントロールを外れ、意志のコントロールでは統御できない状態に身を置くこと」であると論じながら、そこには「無責任であることの意志」が存在するという。
当てようとせずに当てること、あるいは当たってみせること、計算しえないことにおいて身を投げだすこと。ようするに、ある種の社会をがんじがらめに縛り付けるセキュリティーの狡猾な計算の裏をかいてみせること。(中略)
怠惰で無責任なものと描かれがちな賭博がもつ、全く逆の倫理性、あるいは賭博の形式的な美学的性格とでもいうものがここで浮かび上がってくる。
無責任な主体ならではの倫理性? ここで思い出されるのは、文芸評論家・加藤典洋が『戦後を戦後以後、考える:ノン・モラルからの出発とは何か』(岩波ブックレット、1998年)で語っていたことだ。戦争責任に対して「オレは関係ない」と距離をとる若者たちの「ノン・モラル」の言明の底にこそ、社会へのコミットメント、世界の引き受けが始動する契機があると、加藤はいう。その議論の詳細をここで紹介することはできないが、無責任であるはずの主体が「全く逆の倫理性」にたどり着く回路が、仄かに見えてこないだろうか。
あるいは、WORKSIGHTで以前に取り上げた、自らをホロコースト・サバイバーだという虚偽の記憶を語って社会問題を引き起こしたビンヤミン・ヴィルコミルスキーのことを、想起してみてもいいだろう。自らならざるものに接続してしまうことの根本的な危うさと、しかし現在、どこまでも遠くなる同時代的な戦火、あるいは戦争の記憶をめぐっては、わたしたち一人ひとりがヴィルコミルスキー的な存在でありうるということは、真摯に考えられていい問題だと思われる。
あまりに思弁的かもしれず、またいずれにしても、戦争をめぐる賭博の「ノン・モラル」なありようは免罪されないだろう。しかしそれでも、無視できぬ問いがここにはあるはずだ。戦争と賭博は、わたしたちの社会の核心をくろぐろと照らす、暗い照明であるかもしれないのだから。
1941年8月、ドイツ占領下のパリで開かれた、フランス国営宝くじの抽選会 photograph by Art Media/Print Collector/Getty Images
【WORKSIGHT SURVEY #78】
Q. 戦争の記憶は、遠いものだと感じますか?
記事のなかでは、歴史的に「戦火は自分から遠いからこそ、賭けの対象となってきた」ことが語られます。第二次世界大戦の集結から81年を経て、或いは現在進行形のイランなどの戦火を見て、わたしたちの戦争の記憶は、遠いものだと感じますか。なぜそう感じますか。ぜひ皆さんのご意見をお聞かせください。
【WORKSIGHT SURVEY #77】アンケート結果
ラストワンマイルは自分たちで:島のコンビニ「ノコマート」と生活インフラの未来(7月28日配信)
Q. 少子高齢化や過疎化が進んでも、生活インフラは行政が整備すべき?
【はい】基幹インフラは行政が整備するべきと思うが、そのグリッドは小さくしてったほうがいいと思う。どう閉まっていくかはすごく難しい問題だと思う。
【はい】「はい」か「いいえ」の二者択一ではないと考える。ただし、そのハイブリッドを作案し、全国展開できる「設計ー実装ー運営」モデルは国が構築し、各行政に提供するべきと考える。その過程で、国ー自治体ー関連企業ー住民までも含めた「運営組織」が柔軟に協議し、その地域独自のカスタマイズを施し、生活インフラを支えていくべきだろう。
【いいえ】村じまいしていくしかなく、経済成長期に広がり、スプロール化したものを人口減少期にシュリンクしていくことは不可避。実際に国交省の国土のグランドデザイン2050でも、インフラ維持はできないとされている。空き家が増え、ゴーストタウン化していくのはどの国でも歴史的にも明らかだと思う。ただ、選挙の票格差や村社会の日本でどこまで中央権力がイニシアチブを握れるか、多分無理だろうから、日本は非常に厳しい局面にあると思う。重税により一揆が起こっていくのでは。
次週8月11日は、都市空間の新たなあり方を模索する、WORKSIGHT編集長・山下正太郎による連載シリーズ「『場』の編集術」第7弾を配信。「遊び」を通じて全国へ広がり続ける多世代交流の場「東京おもちゃ美術館」。運営するのは平均年齢62歳、全国で2500人が登録する「おもちゃ学芸員」だという。理事長・多田千尋さんに話を伺います。お楽しみに。
【新刊案内】
『WORKSIGHT[ワークサイト]30号 新しい中世 The New Middle Ages』
photographs by Hironori Kim
cover Illustration by Natsujikei Miyazaki
帝国、教会、荘園、騎士団、ギルド、修道院……。中世とは、複雑怪奇な権威のネットワークが幾重にも絡み合った時代だった。アルゴリズムに導かれ、プラットフォームの中で群れ、炎上によって見知らぬ誰かを裁くいま、わたしたちはすでに「新しい中世」を生きているのかもしれない。かつて中世の再来を予言したウンベルト・エーコ、 心理占星術研究家・鏡リュウジや現代魔女・円香、中世ゲーム研究、政治学者が読み解く「中世という過渡期」を経た、現在の地政学「それ以降の世界」まで。中世のレンズを通して現代を再解釈する。
【目次】
◉ギャラリー
現代は中世である
◉巻頭言
世界はふたたび中世になる
文=山下正太郎(本誌編集長)
◉ウンベルト・エーコと新しい中世
文=武邑光裕
◉対談
鏡リュウジ(心理占星術研究家)+畑中章宏(民俗学者)
スターゲイザーたちの「合理的」な世界
◉わたしは魔女である
円香が語る「現代魔女」という行き方
◉中世の騎士、東京に集う
ドキュメント「戦え、騎士のように」/証言「騎士たちの理由」/インタビュー「中世剣術のリアリティを、現代で共有したい」
◉ゲームはなぜ中世を必要とするのか
中世ゲーム研究の第一人者、かく語りき
◉コンテンツガイド
中世の回廊
◉「新しい中世」以降の世界
政治学者・田中明彦の予言から読む現代の地政学
【書籍情報】
書名:『WORKSIGHT[ワークサイト]30号 新しい中世 The New Middle Ages』
編集:WORKSIGHT編集部(コクヨ ヨコク研究所+黒鳥社)
ISBN:978-4-7615-0938-5
アートディレクション:藤田裕美(FUJITA LLC)
発行日:2026年7月2日(木)
発行:コクヨ株式会社
発売:株式会社学芸出版社
判型:A5変型/128頁定価:1800円+税






