ジビエの「外」を見渡す:人類学者に尋ねた狩猟と獣肉の現在
近年、日本でもジビエが流行し、狩猟も耳目を集めるようになっている。山間部における獣害問題の深刻化への対応といった側面も大いに影響しながら、各地で試行錯誤が繰り広げられている状況だ。しかし一方で、そうした動きがわたしたちの社会の深部、人びとの価値観を根底から揺り動かすようなところまでは、なかなか届いていないようにも見える。ブームの最中に垣間見える可能性と課題を、人類学者に尋ねた。
今回インタビューした大石高典・東京外国語大学大学院総合国際学研究院准教授が、フィールドワーク先のカメルーンで食した、イノシシと思しき脂の乗った肉料理の写真
近年、日本の都市部でジビエ(狩猟で獲れた野生鳥獣の肉)を提供する飲食店に出会うことは、珍しいことではなくなった。地方でも地産地消を目指し、あちこちで店舗が構えられている。これらの店で提供されるのは主にシカやイノシシの肉であり、第三者である狩猟者が狩った野生鳥獣肉を入手して用いる店もあれば、店舗関係者自ら狩猟に赴く店もある。四半世紀にわたって徐々に拡大してきたと思しき日本における「ジビエ」流行の動きは、農作物や林業への獣害対策がセットになっており、農林水産省もジビエ利用を積極的にアピールしている。並行して狩猟をめぐるコンテンツも注目を浴び、山小屋で狩猟生活を送る俳優のYouTubeチャンネルは登録者数70万人を超え、いくつもの狩猟マンガがヒットを飛ばした。そうしたブームの最中で、新たに狩猟の世界へと足を踏み入れる「狩りガール」の存在もメディアを賑わせてきた。
一方で、狩猟や獣肉をめぐる動きが、本当に現代日本で圧倒的な存在感を示しえているのかといわれれば、なかなか難しいところもあるだろう。環境省がまとめる「鳥獣統計情報」など近年の狩猟免状交付状況を見ると、約21万件前後で推移しており、その鳥獣統計情報をもとに作成された農林水産省の資料や大日本猟友会のウェブサイトなどを踏まえると、昭和54(1979)年度から比較して「半減」以上に数を減らしていることがわかる。さまざまな試みが進む最中とはいえ、ブームと実相の乖離は気になる。
すこし、目線を変えて考えてみる必要があるのではないか。そう考えた編集部は、日本でのジビエや獣肉について研究の一環としてリサーチしている、大石高典さん(東京外国語大学大学院総合国際学研究院准教授)のもとを訪れた。もっとも、大石さんのメインの研究は、アフリカをフィールドとした生態人類学や文化人類学、地域研究だ。だからこそ、わたしたちが普段見聞きしているジビエや狩猟をめぐるものとは違うことばが聞けるのではないか……そうした期待を遙かに上回るような豊かなビジョンが、大石さんの話からは見えてきた。
photographs by Kaori Nishida
interview by Keigo Kuramochi and Fumihisa Miyata
text by Fumihisa Miyata
生活系の一部として
──大石さんは主にアフリカ、特にカメルーンをフィールドとしながら、生態人類学・文化人類学・地域研究と、分野を横断して活動しておられますね。日本の狩猟や獣肉もご関心の内にあるのは、どのような経緯によるものなのでしょうか。
いろいろとあるきっかけのひとつとして、京都大学農学部の学部生として、土の養分などを調査する研究室にいた頃にさかのぼることができます。白山麓と呼ばれる地域では焼畑が盛んで、土地の多くがダムの底に沈んでしまってなお、飛び飛びに残った山林で行われていまして、わたしは現地に通って土を調べていました。そこでの住み込み調査にわたしを受け入れてくださったご夫婦がいました。男性はすでに退職されていましたが老いてなお筋骨隆々、生気あふれる人物だったのですが、その方が夜に酒を飲みながら語るなかで最も盛り上がるのが、熊狩りの話だったんですね。
──意気揚々と話されるわけですね。
ただ、決して熊狩りが、生活の中心というわけではないんです。家では焼畑でつくった大根が干してあったり、薬の材料として売れる樹木の皮が乾燥させてあったり……ほかにもキノコ類やワサビの栽培、山菜採り、魚釣りと、生活を営んでいく上での要素がたくさんあるなかで、その方の“欲望”が真っ直ぐに噴き出すように語られていたのが熊狩りの話でした。男性は、熊との駆け引きがどんなに面白いのか熱を込めて話していたんです。語り手があまりに夢中になって話すので、釣られて聞いている側も引き込まれて、ぞくぞくするような興奮を覚えました。熊に足を掴まれたというような、ヤバい話も混じっていたんですが(笑)。
大石高典|Takanori Oishi 1978年、静岡県生まれ。東京外国語大学大学院総合国際学研究院准教授。専門は人類学、アフリカ地域研究。単著に『民族境界の歴史生態学:カメルーンに生きる農耕民と狩猟採集民』、共編著に『焼畑が地域を豊かにする:火入れからはじめる地域づくり』、『アフリカで学ぶ文化人類学:民族誌がひらく世界』、『犬からみた人類史』などがある。『農業と経済』2018年6月号では第2特集「ジビエ利用の可能性:共生と資源管理」の編集・企画を担い、論考「野生鳥獣肉の持続的な消費:日本の課題をグローバルにとらえ返す」を執筆
──そうしたなかで、狩猟や獣肉といったものが大石さんの視界に入ってきた、と。
繰り返すように、それはあくまで、ヤマ(森林)の生活の一部なんです。わたしは焼畑をすることで土の養分がどう変わるかなどを調べていたわけですが、その男性に「平地の農業と同じように見るな」というようなことを言われて、こっぴどく怒られたこともあったんですよ。わたしが試みていたように、土の養分を調査して追うことができるような還元主義的なロジックでは、自分は焼畑をやっていないのだ、と。
──痛烈な一言ですね。
その頃から徐々に、自分の意識に変化が起こったんですよね。ヤマの生活のなかで、焼畑だけを取り出して見て、その生産性をどう向上させるかと勝手に考えても、当人たちには必ずしも喜ばれない。もっと生活全体、人間の生活系というものをちゃんと理解したい、と考えるようになっていきました。後にアフリカを主なフィールドとするようになっても、似たような状況が見えてくるんです。例えばアフリカには植民地時代にさまざまな換金作物が導入されました。現在、わたしの調査地域であるカメルーン東南部で地域住民の最大の現金収入源になっているのはチョコレートの原料であるカカオの栽培で、ほとんどの人がそれに取り組んでいます。しかし、地域住民が本当にやりたいと思っているのは狩猟であったり魚獲りであったり、あるいは薬草の採取だ、ということは往々にしてある。そういう大きな経済と複合的な生業のあり方の共通性に、だんだんと気がついていきました。アフリカと日本の地域を同時に視野に入れた研究をしたいと、常々考えています。
──そうした視座からは、狩猟や食肉について、どんなことが見えてくるのでしょう。共同研究として、「現代日本における獣肉食文化の文化人類学的研究」を進めていらっしゃいますね。
まず現代における野生動物狩猟の基本的な構図として、グローバル・ノースでは過少採捕、グローバル・サウスでは過剰採捕が問題になっています。前者に関して日本を例にいえば、獣害問題の深刻化が取りざたされていますよね。これは中山間地における、人間が関わることによって維持されてきた生態系=人為生態系のバランスが、生活者そして狩猟者の減少などによって崩れてしまった結果であり、そこでは過少採捕、あまりに野生動物が獲られなさすぎるという問題がある。
逆に、アフリカを含めたグローバル・サウスでは、野生動物を獲りすぎる傾向がある。例えば熱帯林の伐採事業が行われている開発フロンティアでは、遠くから出稼ぎでやってくる労働者が集う盛り場のようなものが形成されて、そこで消費される動物性たんぱく質が必要となる。また、開発に伴ってそれまで車が入ってこられなかった地域に道が延びていくわけですから、獣肉を地域外に流通させるということも可能になる。そうやって狩猟、とりわけ獣肉の流通・販売が実入りのいいビジネスになっていくので、過剰採捕が起こってしまう。野生動物の肉は現地の人びとにとって貴重な動物性たんぱく源であることもまたたしかなのですが、とはいえ開発の進展にともなう需要の急増によって、いわゆる「ブッシュミート」(森の肉)問題は顕在化しており、自然保護と地元狩猟者の軋轢を超えた持続的な野生動物管理が求められています。
獣肉との距離感、狩猟者/狩猟観の多様さ
──日本に関しては、近藤祉秋さんらによる共同論文「『ジビエ』化する獣肉:九州山地A村B地区における野生獣肉販売事業の事例から」なども合わせて読むと、2007年に「鳥獣による農林水産業等に係る被害の防止のための特別措置に関する法律」が成立、2016年に同特措法が一部改正、そして2017年に農林水産省がジビエ振興策を打ち出すという流れが見えてきますが、それ以前からの歴史の概略をうかがえますか。
ここから先は、わたしがいろいろな文献を読んだり、共同研究のなかで学んだりしてきたことを踏まえてお話しするということをご承知おきください。日本列島における野生鳥獣の食用利用は縄文時代からあり、江戸時代まではシカやイノシシ以外にもアナグマやウサギなどさまざまな種類の野生鳥獣が肉として食用にされていました。日本近世では大型家畜、とりわけウシやウマの肉は食用にされておらず、明治維新後になって家畜肉の利用が急に進んだということは、文明開化の象徴としての「すき焼き」の例なども含めて、ご存じの方も多いことと思います。
すると逆に、野生鳥獣の肉は一般家庭で食されなくなっていきました。そんななか、同じく明治時代に、欧米から鉄砲と猟犬を用いた狩猟文化が流入し日本に定着します。宮沢賢治の童話『注文の多い料理店』が、「二人の若い紳士が、すっかりイギリスの兵隊のかたちをして、ぴかぴかする鉄砲をかついで、白熊のような犬を二疋つれて」山奥へ猟にやってくるところから始まるように、銃を用いた狩猟は当初、貴族などリッチな層の趣味としての側面も強かったものの、やがて大衆化していきました。しかし、昭和期途中からは狩猟人口の大幅な減少と、平成時代以降の獣害問題の深刻化が起こります。
──例えば老マタギが主人公の名作映画『マタギ』(1982年)が制作されたのは、そうした狩猟者減少の最中のことだったのですね。獣害対策としての流れも、歴史を踏まえるとよく見えてきます。
その後、今回の取材にもつながるような、「ジビエ」ブームが起こるわけですね。食用としての野生鳥獣は、欧米経由での「ジビエ」概念の輸入によって、再び一般に食されるようになってきてはいます。
近年の狩猟の流れとして、ここまでは獣害対策に重きを置いてお話ししてきましたが、一口に狩猟と言っても実際にはさまざまなものがあります。田村典江さんという研究者に紹介していただいた例ですが、北海道では殺さずに捕獲したエゾシカを牧場の環境で肥育してから屠畜するという生け捕り飼養のような形態があるそうです。「養鹿」とも言われるらしいですが、畜産の盛んな北海道ならではのユニークな事例だと思います。実際、エゾジカの肉というのは、時期や個体によっては初めての人だったら牛肉と区別がつかないほどに脂が乗っていて美味いんですよ。
──そうなんですね。それにしても、やはりいま、日本で狩猟や狩猟者といっても一言では括れなさそうです。
産業狩猟としては、委託されて地域の獣害対策や環境保全を行うビジネスがあるし、罠猟に関して獲物がかかったことをデータで知らせるICTのサービスを提供するというビジネスの試みも存在します。そしてもちろん、以前からの趣味の狩猟もあります。わたしが参与観察した京都の猟友会の方々は、自分たちの活動にとても誇りをもっていて、自立的に理想の狩猟というものを追求している。そうした立場からすれば、社会から狩猟活動に対して環境保全や獣害対策の役割があるというような機能主義的な見方だけが強調されることに対して違和感があるのも理解できます。
──先ほどアフリカの話はありましたが、他の地域ではどうなのでしょうか。例えばジビエの本場・フランスでは、19世紀頃から一般的に普及していったという話があるようですが。
欧州には、中世からの狩猟文化と制度が根づいており、その上でジビエの本場として現在も存在しているという背景があります。とはいえ、最近の獣害問題の顕在化は、日本とよく似ているという側面もありますね。
アジアでは、野生動物を利用するという場合に、食用とともに、あるいは動物の種類によってはそれ以上に薬用としての肉以外の部位の需要が大きくあります。例えば中国では、センザンコウという動物の鱗が重宝されますね。平たくいえば、漢方として用いるということです。ただ、コロナ禍を経て、人獣共通感染症のリスクから狩猟および獣肉消費への規制が強化される傾向があり、これまでと同じように今後も利用できるかどうかはわかりません。いずれにせよ、欧州の獣肉食文化であるジビエのほかにも、世界各地域に多様な獣肉食文化が存在します。
上:大石さんがかつてカメルーンで食べた、水中ヘビの蒸し焼きの写真 下:有鱗目に属するpangolins(センザンコウ)にかんする書籍。実際にセンザンコウの鱗を食したことのある大石さん曰く、「鱗の裏のゼラチン質の部分がプリプリで美味しい」とのこと
「害獣対策×ジビエ」という罠?
──だいぶ日本での狩猟や獣肉食・ジビエを相対化して見ることができるような気もしてきましたが、大石さんの目からは、その可能性や課題をどうご覧になっていますか。
ほうぼうで論じられているように、地産地消としての可能性は大いにあると思いますし、家畜の大量消費に対するオルタナティブとしての視点をもたらしてくれるものとしての期待もあります。他方で、やはりいろいろと課題が山積しているとも感じられます。狩猟ブームはあるが狩猟の担い手は必ずしも増えていないという現実ですとか、獣肉の資源化についての狩猟者の意見がさまざまであるとか、なかなか一筋縄ではいかない。
そして一般にあまり顧みられないこととしては、獣害対策で捕獲される野生動物の大量廃棄があります。獣害対策の文脈では獣害を減らすことがそもそもの目的なので、多くの捕獲個体が捨てられることになります。良い時期に良い条件で捕れたごく一部の肉が主に流通して人間の口に入っているのが現実ですが、すこしでも廃棄量を減らす取り組みとして、人間が食べられなくても、一部をペットフードにするということも行われるようになってきています。また、現在ジビエとして流通するほとんどがシカとイノシシですが、先ほども触れたように、元来獣肉というのは、もっと多くの種が食されてきたはずです。ウサギ、アナグマ、タヌキ、キツネ、ヘビ、あるいは北のほうであれば海獣類……それらをいまも食すかどうかは、種によっては保護の観点もありますから難しいところではありますが、現在ジビエとして食されているものの範囲が、人類や日本の歴史における獣肉食のレパートリー全体から見ればごく狭いということは指摘できるだろうと思います。
──なるほど。害獣対策としての狩猟、そこからのジビエとしての活用というロジックは、実はそう簡単に成り立たない側面もありそうですね。
高級食材としてジビエが提供され、消費されるにあたっては、狩猟の段階から加工に至るまで、さまざまに厳しい条件が付されます。例えば、林道から離れた場所で撃ったものは嫌われるということがある。山からおろすまでに斜面をズルズル引っ張ってくると、そのあいだに打ち身をして身に傷がついてしまうというようなことがあるからですね。
市場に流通させるには、何より、食品の衛生管理基準の問題があります。既存の家畜肉を前提とした精肉の衛生基準が、獣肉に適用されることの是非が問われるわけです。
──たしかに……。ジビエが提供される店でも、出した料理をすぐ食べてくれといわれたことがあります。普段から食している肉と同じようには、なかなか扱えないですね。
逆にいえば、それこそ獣肉が獣肉たるゆえんでもある。わたしの教えている大学では、全国から学生が来ます。以前にある学生の話を聞いたところでは、宮崎に住んでいた彼女の祖父が、わざとイノシシの肉に毛をちょっと残して、その喉ごしを楽しむという食べ方をしていたそうです(笑)。これは、いまでいうジビエの範疇にはないものですよね。もちろんすこし極端な例ではあるのですが、ジビエ的な洗練ですとか、あるいは家畜肉を標準とした法の基準からは外れてしまうものが、獣肉食には含まれてくるということは事実です。単純に家畜肉を野生鳥獣の肉で代替する、ということはなかなか難しく、根本的な課題や問題があるんですね。
大石さんのフィールドワーク先のカメルーンにて、狩猟に使われる槍先
標準化されざる獣肉
──お話をうかがっていると、やはり狩猟や獣肉を一義的に見てしまいがちな自分たちの眼差しに気づきます。焼畑を含めたさまざまな生活系の一部として狩猟も存在するし、獣肉、そしてそれを食べるという行為もまた、捉えきれないほどの多様さを含みもっているのですね。
ジビエという文化のなかで、フォーマルな市場経済のシステムへの接合と包摂が求められたとしても、野生の鳥獣は個体ごとに大きく状態が異なるわけですし、その肉の規格化は非常に難しい。そう考えれば、例えば有機農産物において、大きく曲がってしまったキュウリを自分たちは受け入れているかどうかという話ともつながってきますよね。リンゴであっても、同じ規格のものがズラッと店頭に並んでいうことに、わたしたちは慣れきってしまっている。
Standardization、すなわち標準化とともに流通というものは回っている。そのなかで例えば隣り合って売られている鹿肉があり、片方は柔らかく、片方は硬いとして、それもご愛敬という状況を、標準化された家畜肉に慣れている日本の消費者側が受け入れられるのか。そうしたリテラシーをもつことができるのか。あるいは、むしろ個体ごとの味覚の差を楽しむことにこそ経済的な価値をつけるような取り組みができるのか。そうしたことが問われるのだと思います。
──ジビエを食することから、何を始められるのか、ということですね。
生産の現場を自分の目や手で確かめるということからは、消費者は遠く離れていますから、ジビエが普及しても、消費者と中山間地域の間の認識的距離が必ずしも縮まっているわけではない。厳しいことをいえば、現在のジビエ文化は、ジビエとして称される美味しいところだけを拾おうとしている。そこの意識を変えることができれば、ジビエを食すということは、個体差や地域差というその本質に近づく行為になりえます。例えば日本のヤマの状況を感じ、想像し、考えることにつながる、いいきっかけになりうるはずなんです。都心部でジビエを食して、地方の鹿が食べている植生の状態を想像することができるかどうか、というようなことですね。そうした楽しみ方ができるなら、ジビエの面白さや可能性というものが、もっと見えてくるのではないかと思います。
【WORKSIGHT SURVEY #4】
Q:味や硬さにばらつきのあるジビエを、“違い”として楽しむことができると思いますか?
野生動物の肉は、見た目や味を均一にすることができず、個体ごとに硬さや風味が大きく異なります。一方で、近年は食品の標準化が進み、わたしたちはこうした“ばらつき”への感覚を失いつつあると大石高典さんは指摘します。あなたは、このような見た目や味の不均一性を楽しみながら、ジビエを味わうことができますか? 意見や感想を、リンク先のGoogleフォームにぜひご記入ください。
次週6月3日は、アジアのクリエイティブ・ドキュメンタリーのコレクティブ「山形ドキュメンタリー道場」および、この度はじめて開催される「山形ドキュメンタリー道場in東京」を取り上げます。加速するアジア社会から距離をとり、国内外からドキュメンタリストたちが集う温泉郷。プログラムを通じて性急に成果を求められることもなく、ひたすら制作のプロセス自体を見つめ直していく、他とはひと味違うアーティスト・イン・レジデンス。そしてその活動内容を東京でお披露目する意義とは? 主催者へのインタビューを通じて、現在のアジアにおける創造の一端を考えます。お楽しみに。
【新刊案内】
photograph by Hironori Kim
書籍『WORKSIGHT[ワークサイト]27号 消費者とは Are We Consumers?』
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満薗勇とたどる「消費者・生活者・お客様」の変遷
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ラザースフェルドが社会調査に残した問い
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インテージ × WORKSIGHTによる大規模アンケート調査
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クリエイターエコノミー/ファンダム、参加する消費者の時代
◉レコードを万引きする
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◉パルコと山口はるみの時代
消費文化の到来を告げたHarumi Gals
Harumi Galsというオキシモロン
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北沢恒彦と住民が「テクった」京都の商店街
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消費する我々の痕跡をたどる
◉世代、あるいは生産と消費が分離した世界のゆくえ
ティム・インゴルドは語る
書名:『WORKSIGHT[ワークサイト]27号 消費者とは Are We Consumers?』
編集:WORKSIGHT編集部(ヨコク研究所+黒鳥社)
ISBN:978-4-7615-0934-7
アートディレクション:藤田裕美(FUJITA LLC)
発行日:2025年5月14日(水)
発行:コクヨ株式会社
発売:株式会社学芸出版社
判型:A5変型/128頁
定価:1800円+税
なんか文章が変なところがあって気になりますが、何かあったのでしょうか