プリント版17号『植物倫理 Plants/Ethics』明日発売!編集長による巻頭言「あらたな隣人」をお届けします【特別ニュースレター】
植物という不完全性、植物によって動かされてきた歴史、ケアと植物、知性と超越性をもつ存在としての植物──山下編集長が17号のテーマ「植物倫理」で考えたこと
いよいよ明日10月14日に、『WORKSIGHT 17号 植物倫理 Plants/Ethics』が全国書店で発売となります。本日の特別ニュースレターでは、本誌よりWORKSIGHT編集長・山下正太郎による巻頭言「あらたな隣人」を特別転載。私たちはいかに植物によって動かされてきたのか。知性と超越性をもつ「隣人」としての植物といかに向き合うか。書籍をお手に取る前に、ぜひご一読ください。
巻頭言・植物倫理
あらたな隣人
text by Shotaro Yamashita
バワの理想郷
植物のもつ力に強く感化されたのは、建築家ジェフリー・バワが生涯をかけて築いた理想郷ルヌガンガで数日を過ごしたときだ。エリート一家に生まれイギリス留学後に弁護士という職を捨ててまで彼がやりたかったのは、故郷スリランカに自身の楽園をつくることだった。鬱蒼と生い茂る湖畔のゴム農園林を切り拓き、木々の間を縫うように実に50年以上もの時間をかけて建屋や外構が増築されていった。静謐で整った建築はそのファサードが植物の成長によって覆い隠され、人間の営為は無効化し、すべてが等価なものへと還元されていた。
作家主義的な建築という慣れ親しんだ概念でこれを処理することはできなかった。どこまでが意図されたもので、どこでつくり終えられたのかがまったくわからない。バワが亡くなって20年ほど経ついまでも、この理想郷はスリランカ南部の熱帯気候に抱かれ変化を続けている。これは、管理可能な計画や生産という近代的な概念に対して、植物という不完全性を組み込んだ彼なりのアンチテーゼを提示するものだった。いま思えば、それは本誌(P.113)に掲載したダン・ヒルとブライアン・イーノが言う「始まりのデザイン」であり、フランスの園芸家で作家のジル・クレマンが提唱する「動いている庭」とも通底する。
近代を抜け出すための植物
バワ自身は西洋的な教育を受けたが、多様で非西洋的な文化背景をもつスリランカで異なる道を探ろうとした。西洋的な人間中心の世界観のなかでは、植物や自然というものの存在をうまく扱えなかったからだ。人間の知性を基準に序列がつくられた世界観にあって、植物は意思をもたず人間よりもずっと下等なものとして捉えられてきた。
一方で、植物は人間が地球でいまの地位を得るよりはるか昔からいる超越的な存在であり、人間はそのことをずっと感じてもいた。植物は、疫病や呪いといった見えない恐怖に対する魔除け、シャーマンによる先祖や神とのコミュニケーションにおいて利用され、近年でもインスピレーションを得るためにミュージシャンなどにも精神世界にアクセスするために活用された。サイケデリックブームを含め、西欧的な合理主義と対置されるかたちで、その存在はしばしばクローズアップされてきた。
植物自体とのコミュニケーションも盛んに行われてきた。植物自体は動かず、話さず、ただそこにいることで人間を癒やす。レベッカ・ソルニットが語ったジョージ・オーウェルの薔薇のように、戦争などの精神的ショックによって傷ついた人びとの心を植物はケアしてきた。植物は何も語らず、そこに人間を癒やそうという意思があるかどうかもわからない。ただそこに佇み、こちらが与えた行為に応えて育ってくれるだけであり、見返りを求めない贈与的関係は、近代化以前の交換体系をいまに残し続ける。
憐れみと欲望と民主主義
わたしたちは植物を目の前にするといてもたってもいられなくなる。ルソーは『人間不平等起源論』のなかで、思考実験として社会化される前の人間に備わっている性質として、他者の苦しみに対して思わず手を差し伸べたくなるような「憐れみの感情=ピティエ」があると指摘した。社会的な孤立や分断が進む現代において、植物のポテンシャルがもつ射程は単に個人のケアだけに限られたものではないはずだ。
しかし、憐れみを集めるからといって植物はか弱い存在ではない。自然は安定的なふるまいはせず常に環境変化に巧みにアダプトする。コンクリートジャングルのなかで、なるべく現在咲いている場所から離散しないよう重たい綿毛の割合を増やすフタマタタンポポのように、植物は、自然と対照的な存在である都市のなかでも生態学的ニッチを見つけ、人間と手を取り合って共進化する。
歴史に飲み込まれ、歴史を動かすこともままある。人類史上初めての投機バブルの対象がチューリップの球根であったことはよく知られている。コーヒーや香辛料といった嗜好品も世界を大きく変えた。現在でも、ワークフロムホーム(WFH)の寂しさを紛らす相手として、肉を代替し食料危機を救うものとして、温室効果ガスを吸収するものとしてなど、意思がないように見える植物は、人間の欲望を如実に反映し、世界を動かす。そして、そうした飽くなき人間の欲望の裏側に、人間として守らねばならない倫理の世界が立ち現れる。
昨今の倫理的ヴィーガニズムの代表的な主張に従えば、畜産動物の飼育や殺傷の苦痛を減らす観点から植物性の代替食を取ろうということになるが、植物には外から受けた傷の状況を内部で共有する仕組みがあるとも言われている。ステファノ・マンクーゾらによる共著書『植物は〈知性〉をもっている』では、知性とも呼ぶべき感覚を有しており、人間の五感どころか二十感にも上ることを指摘している。植物と動物を単純に痛みという感覚で比較しえるものではないにせよ、植物の快/不快や生死を考えるあらたな倫理的な枠組みが提起されても何らおかしくはない。
突如わたしたちの視野のなかに再び現れてきた高度な知性をもつ「あらたな隣人」をどう扱うかは、人新世時代のポスト人間中心主義に基づいたこれからの社会を考える上で、わたしたちが直面している大きな課題だ。実際、地球上のあらゆる生物における最大のマジョリティは植物である。民主主義が少数者による支配をいかに防ぐかをめぐる仕組みであるならば、植物に投票権を与えてしかるべきだという議論があってもいいだろう(ちなみに2000年以降の一連の中東・東欧における民主化運動は「花の革命」と称されるが、革命はすでにベジタルなものとなっているのかもしれない)。
植物への新しいまなざし
ガイア仮説を唱えたジェームズ・ラヴロックは『ノヴァセン: 〈超知能〉が地球を更新する』のなかで、人間の知能をはるかに凌駕するAI=超知能が出現することによって、地球における支配構造が大きく変化すると予測している。そして、新しい時代〈ノヴァセン〉において、超知能から見た人間は、ちょうど人間が植物を眺めるのと同じように思考も行動も極端に遅い愚鈍なものと感じるだろうと語る。
いま日々の営みのなかで、あらたな隣人として植物を迎えようとしているわたしたちの植物へのまなざしは、明日の自分たちに向けられたものでもあるのだ。
山下正太郎|Shotaro Yamashita 本誌編集長/コクヨ ヨコク研究所・ワークスタイル研究所 所長。2011 年『WORKSIGHT』創刊。同年、未来の働き方を考える研究機関「WORKSIGHT LAB.」(現ワークスタイル研究所)を立ち上げる。2019年より、京都工芸繊維大学 特任准教授を兼任。2022年、未来社会のオルタナティブを研究/実践するリサーチ&デザインラボ「ヨコク研究所」を設立。
『WORKSIGHT[ワークサイト]17号 植物倫理 Plants/Ethics』は、明日10月14日(金)に全国書店で発売となります。目次・内容紹介など、書籍の詳細は10月7日配信の特別ニュースレターをご覧ください。(各種ECサイトでも予約受付中です)