植物専門店「REN」代表の川原伸晃さんと、植物とケアについてお話しする本企画。前編では、コロナ禍を境に急速に進んだ植物の家族化や、植物をケアすることで生まれる関係性について考えた。後編では、植物愛護の是非や、植物の寿命などから、私たちの想像を遥かに超える植物の超越性に迫る。もう植物を「育てる」という表現は使えなくなるかもしれない──。
photographs by Yuri Manabe
interviewed by Jin Furuya / Kaho Torishima|WORKSIGHT Editorial Department
text by Jin Furuya / Kaho Torishima|WORKSIGHT Editorial Department
一神教と多神教における植物観
──プランツケアという考え方は、海外にもあるのでしょうか。
このような考え方は、おそらく東洋的なもののなかにしかなかったと思います。一神教のヨーロッパ世界において植物は「石と何の違いがあるの?」と考えられていました。石のことは誰もケアしませんよね。植物も、人間がコントロールする対象であって、主体的な存在としてはほとんど扱われてこなかったわけですよね。一方で多神教の東洋では、プランツケアの起源でもある盆栽が中国でおよそ2000年以上前に発祥し、その後、日本で先鋭化してきました。今では盆栽は日本において代表的な文化のひとつになっています。近年ではヨーロッパでも東洋的な考え方が受け入れられていますが、もともとは宗教観などの違いから、植物の見方も異なっていたのだと思います。
──2008年にスイスで「植物における生命の尊厳」と題された報告書が提出されました。一定の尊厳を植物に与えることについて、どのようにお考えですか?
私は、動物愛護については同意します。ペットビジネスではショーケースに動物を並べて売るために大変ひどいことが行われていますが、フランスでは2024年からペットショップなど店舗での動物販売が禁止になります。動物は人間が庇護すべき存在なので、愛護するほうがいいと思うのです。一方で植物は、人間より圧倒的に生命力が強いので、愛護するという発想には違和感があります。植物は人間を凌駕している部分がたくさんあり、管理できるものではありません。ですから、法や道徳で縛るものではないのではないかと思います。もちろん意味もなく植物を焼き払うとか、工場を建てるために木を全部切り倒すといったことは倫理的によくないと思います。けれども、枝を折ることそのものを非道徳的行為とするような発想は行き過ぎていますし、キリスト教やユダヤ教の「人間は地球の管理者である」という人間中心主義の表れのように感じます。
自然と「触診」をしていると言う川原さん。「何となく気になったらサッと触りますね。森のなかをかき分けていくみたいな感じです」。
家にいる「超越」
──植物は人間が管理できるものではないとすると、園芸は「育てる」というよりも、「育てさせてもらっている」のかもしれませんね。
そうですね。盆栽だと100年間ほど生きることが普通で、人間でいえば3世代にわたるほどの時間を生きます。そうすると、誰が育てているんだっけ、どっちが主体なんだっけ、となりますよね。私たちは自分が生きている間だけ楽しませてもらっているに過ぎません。でも、それが本来の自然と人間の距離感なのだと思います。たまたま土から拾い上げて鉢に植えることによって、植物を育てる機会を分け与えてもらっているだけなんですよね。観葉植物というのは、ほぼ不老不死です。やるべきことをきちんとやれば、盆栽が100年生きるようにガジュマルも100年生きますし、1,000年ほど生きてもおかしくありません。そう考えると、「世話をする」とか「育てる」という概念そのものが揺らいできますし、消費物としての園芸とは全然違うものが見えてくるのではないかと思っています。
──1,000年ですか!
諸説ありますが、アメリカのユタ州にあるポプラの群生の林は 8万年前から生きている、最古の植物といわれています。日本の縄文杉も7,000歳以上とする説もあり、キリスト教よりも長く存在する、ともいえます。これらは「植物というより、地球の一部でしょ」という反論はありますが、鉢の上に上がっていたら、地球の一部とはいえないですよね。それでいえば盆栽は最古のもので1,000歳です。さらに生物学的には、植物はクローンで無限に増えていく可能性があるともいいます。つまり、やるべきことをやれば、枝を全部切り落としても、その全部の枝が1,000年生きる可能性をもっているわけです。そうなってくると、いよいよ植物は「超越」以外の何者でもないという気持ちにもなってきますよね。
──私たちの身近に、「超越」がいるということですね。
「超越」的な存在がいることで人間は初めて主体になることができるといいます。たとえば、宗教や国、物語のようなものもそうです。つまり、人間はどこかで超越的なものを欲しているはずです。植物は飼いならせる唯一の「超越」だといえます。家にいる、すぐに会える「超越」なんです。神棚がなくても、そこにすでに拝むべき対象を誰もがもてるわけですね。お布施として水をあげている、みたいな(笑)。本来は、人間が主体性を確立するためにそばに「超越」としての植物を置いていて、そのお返しとしてケアさせていただいている、というようなかたちなんです。
生命力みなぎるドラセナ・コンパクタ。
植物は20の感覚をもつ?
──日々のメンテナンスは具体的に何をされていますか?
まず、よく見ることです。不思議なのですが、虫は人間の視界から逃れるように絶妙な位置についているので、葉を裏返したりしないと見つけられないことが多いんです。また、触診も大事です。葉の張りを確認して、戻してくる力があれば元気だとわかります。角度的に曲がっているという状態が、ただ太陽の方を向いて固まっただけで元気なのか、水気がなくて萎れているのかというのも、触らないとわかりません。ただし、慣れてくると、全てではないですが、そばを歩くだけで植物の異変がわかるようになります。庭師の方でもそういう人は多いと思いますが、植物から話しかけられているような、視覚情報ではない何かでメッセージを出されている感じがあるのです。
──ビビッとくるんですね。
『植物は<知性>をもっている』という本のなかでは、植物は人間でいう五感に相当するものだけでなく、全部で20の感覚をもっているといわれています。そして、重力や磁力を利用しているとか、空気中や地中の化学物質を測定しているなど、人間にはわからないかたちで何かの情報を交換していることが科学的に検証されています。ただ、「知性」という言い方で植物を擬人化して考えるということそのものが間違っているという言説もあります。五感というのは人間の知覚を前提にした見方であって、たとえば植物にとっての「視覚」というものの意味は人間の「視覚」とは全く違う可能性があります。そうすると言語化しようがないのですが、でも、私たちの感覚では知覚できないけれど、植物が何かを発信しているということは確実にあるのだと思います。
ケアしケアされる関係
──私たちが植物を「ケアする」というのとは逆に、植物に「ケアされている」と思われるときはありますか。
「癒やされる」とはあまり言いたくないのですが、ケアしているという時点でケアされている、中動態的なものだと思います。植物から何かサインを出されている感じがして、見ると虫がついているから取り除かざるを得ない、というように、放っておけずにケアしてしまうわけですが、それによって充足感を得ていることも確かです。私たちの仕事は、朝から晩までメンテナンスすることですが、それでも疲れないですし、ストレスも感じませんし、むしろ元気になったなと感じるくらいです。だからやはり、まんまとケアさせられていて、それによってまんまとケアされてしまっているのだと思います。ジョアン・C・トロントさんは『ケアするのは誰か?』を、まさに「ケアすることでケアされる」というテーマで書かれています。そのなかでは、ケアとはそもそも相互の依存関係というのが重要で、それによって成立しているところが大きいのだといわれています。人間の介護もそうですが、誰かをケアすることによって自分が充足感を得るということは、間違いなくあるのではないでしょうか。
──プランツケアを通じて、サービス利用者が「ケアされる」こともありますか?
植物の下取りサービスには「海外に転勤します」とか、「もう自分では育てる自信がないから他の方にお願いしたい」など、さまざまな事情を抱えた方がいらっしゃいます。最近あった事例ですと、「元恋人にプレゼントされたものだから」という方がいました。客観的に見ると「そんな理由で植物を手放すの?」と思う人もいるかもしれません。でも恋人と別れたら、その人と情を共有したものは一切手放したいという感覚もわかりますよね。こういうことを肯定することこそが、本当のケアだと思うのです。園芸文化とは、人間が植物のために頑張るものではなく、人間にとって植物を都合のいいように扱うものなので、元恋人からもらった植物を手放すということも、ひとつの園芸文化の姿なのだと思います。
店舗の外スペースで風にそよぐオリーブの木々は、会話をしているようにも見える。
──人間関係にまつわる思いが、植物にも結びついているのですね。
たとえば、園芸が好きなご両親が他界されたあと、引き継いで育てることができないから下取りしてほしいという人も結構います。誰かから植物を引き継いで育てていても、そこまで好きではなかったり、苦痛だったり、でも自分が死なせるわけにはいかないからと手放せずに苦しんでいる人もいるはずです。それは、植物をケアして、自分はケアされない状態なので、いったい誰のための園芸なのかと思ってしまうわけです。だから、負担に感じている人の気持ちを肯定して手離れをよくしてあげることも、広い意味ではケアだと考えているのです。
──廃棄するという選択肢もあるなかで、他の人が育ててくれるというのは、手放す人の気持ちも全然違ってきますよね。
そうですね。その人にとってネガティブな意味をもってしまった植物も、一度その文脈から切り離し、新たな文脈として再生してあげることができます。新しいものを買うよりも、誰かが育てたものを「受け継ぐ」ことに使命感をもって育てたいという人もいるのです。「リボーンプランツ」という植物の二次流通サービスでは、保護犬や保護猫が耳を怪我してしまっていることや、中古の家具に傷があることをも愛おしく思うように、誰かが育ててきた植物特有の味わいや表情に愛着をもってもらえています。
植物に〈死〉を与える
──プランツケアには今後どのような視点が必要だと思われますか。
最近は、植物の死とどう向き合うか、どう受け入れるか、というところに問題意識があります。植物がだめになってしまうことはもちろんあるし、今までプランツケアをしていても「やっぱり枯れてしまいました」という人は、たくさんいらっしゃいます。それは当然のことなのですが、家族である以上「クローンなので気にしないでいいですよ」と言うわけにもいきません。
──枯らしてしまうと落ち込みますよね。私が悪かったのだ、と。
哲学的には、「そんなことで悩んでも意味はありません」といえるのですが、やっぱりそうではない受け皿が必要ですよね。植物に括弧つきでも死を与えるということは、たとえカタチだけであっても、演技であっても、本質的に意味はなくても、人間の心をケアするために大事だと思うのです。園芸は人間の文化のためのものだから、そこを支えていくためにも、今後は植物の埋葬や供養のようなサービスを展開していこうと考えています。具体的には、枯れてしまった植物を引き取って粉砕し、それを腐葉土に混ぜて用土にして、私たちの店で、次の植物を育てるときに使っていくという内容です。土に還すことで次の命につなげていきたいと考えています。
──これまで植物の〈死〉というのは扱われてこなかったのでしょうか。
昔は、いけばなそのもの、花を立てるという行為そのものが供養的な意味をもっていました。でも花卉・園芸産業が大きくなっていくなかで、大正時代には「花供養」というものが行われ始めました。業界の人間が商業活動のなかで使う花に手を合わせて、罪滅ぼしではないですが、そこで一回気持ちに区切りをつけるためです。それこそ括弧つきの死を与えているわけですよね。面白いのは、花を供養しながら、花供養塔にも献花するんですよ。花祭壇もつくっていて、さらに参列者に花を配るんです。「矛盾しているのでは? その花の供養は誰がするのか?」と思うのですが(笑)、でも「花供養」は、花の供養をしているのではなく、自分たちのケアをしているわけです。ですからその矛盾については誰も考えません。そう考えると、人間のお葬式も、死者の弔いと言っても結果的に自分の気持ちを整理するためにやっているだけなのかもしれませんよね。
「REN」の明るい店内には300点以上の観葉植物が並んでいる。
植物専門店「REN」
https://www.ren1919-shop.com
東京都港区三田2-17-32|03-3456-0871 |営業時間11:00-19:00| 不定休
川原伸晃 |Nobuaki Kawahara 1981年生まれ。園芸家、華道家、ボタニカルディレクター 、「REN」代表 、東京生花株式会社代表取締役社長。国際認定フローリスト資格となるWellantcollege European Floristry課程修了。2018年業界初となる植物ケアサービス「プランツケア」開始。
植物とケアについて考えるBook List
今回の企画「ケアしケアされる植物と私たち」で登場した書籍をご紹介します。
(左手前から時計回り)
【前編|ケアが植物に意味をあたえる】
『ケア学:越境するケアへ』
広井良典 |医学書院
人間は「ケアする動物」である──現代におけるケアは、家族や共同体で行われていたものが外部化し、職業として成立している。個人が単位となった社会で、バラバラな個人を再び結びつけ支える営みとしての「ケア」を、医学から哲学まで、領域を越境し豊かに論じる。
『「聴く」ことの力:臨床哲学試論』
鷲田清一 |筑摩書房
阪神・淡路大震災を機に著者が向き合うことになった、<聴く>という、他者のことばを受けとめる行為の哲学的可能性を模索する。ケアの現場や苦しみの現場で思考を重ね、「臨床哲学」という新しい地平を生み出した名著。
【後編|私たちの身近に「超越」がいる】
『植物は<知性>をもっている:20の感覚で思考する生命システム』
ステファノ・マンクーゾ、アレッサンドラ・ヴィオラ|久保耕司・訳 |NHK出版
植物は動けないからこそ、ここまで地球上に繁栄してきた。分割や交換可能な構造をもち、化学物質を放出して昆虫を操る──知略に富んだ生き方を、植物学の第一人者が科学的に分析。これまで植物を過小評価してきた人間のまなざしを痛烈に批判し、鮮やかに覆す一冊。
『ケアするのは誰か? :新しい民主主義のかたちへ』
ジョアン・C・トロント、岡野八代・訳 |白澤社
〈ケアに満ちた民主主義〉を訴える米国のフェミニスト政治学者が「ブラウン民主主義賞」を受賞した際の講演録を訳出。さらに日本のフェミニスト政治学者である訳者が、危機に瀕した日本の政治状況を分析し、著者の提言が社会を良くするための鍵であることを説く。
次週7月26日は、対話で争いごとを解決するアフリカの知恵に迫る「『パラヴァー』対話による解決法」(仮)をお届けします!