走ったら、何が変わるの?:市民ランナーをめぐる言説小史
プロフェッショナルではない市民ランナーをめぐる議論、あるいは市民ランナーに影響を及ぼす言説は、走らない人にとってもきっと面白い。自然への回帰を謳い一世を風靡した『BORN TO RUN』とその視座への批判、テクノロジーの進化をめぐる態度、市民ランナーの勃興期である1970年代の語り。市民ランナーの精神と身体、そしてランナーたちを含めた現代社会の揺動を、走りながら考えてみる。
東京マラソン2019のスタート地点の光景。 Photo by YOSHIKAZU TSUNO/Gamma-Rapho via Getty Images
text by Fumihisa Miyata
(先週のニュースレターでの次回予告より、内容を変更してお届けしております。ご了承ください。)
市民ランナーという不思議な存在
それにこの長距離ランニングの楽しみは最高だ。走ってるあいだはとてもよく考えごとができて、夜ベッドに横になってからよりずっといろいろ学べるからだ。
──アラン・シリトー「長距離走者の孤独」河野一郎訳(丸谷才一との共訳による同名の短編集〔新潮文庫〕より)
ところがそこできみらはまちがってるし、おれもまちがってるし、だれもみなまちがってるというわけだ、どれほどたっぷり想像力があったにせよ。(同上)
2024年3月3日、東京マラソン2024が開催予定だ。5時間を切れるかどうかという、平々凡々たるタイムを目指す本稿筆者も参加ランナーのひとりなのだが、しかしよく考えてみれば、今回ともに走るランナーたちも、普段の練習ですれ違う人びとも、わたしたちはみな不思議な存在なのかもしれない。いまや市民ランナーという存在はまったく珍しくなくなっているけれども、世に本格的に定着するようになってからは、まだほんの半世紀ほどしか経過していないのだ。
走ることの効用/高揚をめぐる語りは、すでにたくさんなされてきている。本稿で試みてみたいのは、しがない市民ランナーである筆者が日々ほそぼそと走りながら読んでいった、そうした語りの断片の数々を再構成してみることだ。
ときに歴史をさかのぼり、書籍をひもといて参照した“市民ランナーの心身論・社会論”は、自身も走るという人はもちろん、ランニングの習慣をもたない、あるいは運動嫌いという人にとってさえもおそらく興味深いものなのではないか、と思われる。
走れば何かが明確に見えてくる、というようなランニング界において主流をなすナラティブからは、本稿はすこし距離を置く(小説家アラン・シリトーが、その代表作の主人公をしてアイロニカルに語らしめたように)。なぜなら、特にプロフェッショナルではない人間が走ることをめぐる、試行錯誤やさまざまな議論のやりとりこそが、現代社会に生きる人間にとって何かしらの問いをもたらしうるかもしれない……と、筆者は走りながら感じているからだ。
東京マラソン2021の様子。コロナ禍によって延期され、2022年3月6日に開催された。 Photo by David Mareuil/Anadolu Agency via Getty Images
走るために生まれた……のか?
21世紀に入ってから、市民ランナーたちに最も影響を与えた書物はおそらく、クリストファー・マクドゥーガル『BORN TO RUN 走るために生まれた:ウルトラランナーvs人類最強の“走る民族”』(近藤隆文訳、NHK出版、2010年)だろう。自身もウルトラマラソン・ランナーである筆者が足を痛めたことをきっかけに、メキシコの秘境に住む“走る民族”タラウマラ族と交流を深め、走ることのより本来的・根源的な意義を再発見していく書だ。人間は走るために生まれ、進化してきた──その確信は、ランニング上級者に限らずさまざまな読者たちの背中を押してきたし、文明化されすぎたランニングの世界をより自然な方向へデトックスしていくような筆致も人びとを魅了してきた。
(上)クリストファー・マクドゥーガルによる、TEDxPennQuarterでの講演映像。(下)タラウマラ族がウルトラマラソンを走っている映像。彼らは自身を「ララムリ(足で走る人)」と呼ぶ。
トップアスリートのみならず、市民ランナーの一人ひとりが、走るという行為にコミットすることで文明の足枷をふりほどき、走ることをめぐる人類の進化の歴史に接続されていく。そこにはたしかに、胸躍らせるものがあったことだろう。どんなにつらくても、わたしたちは走るために生まれてきたのだから、走り続けることができるはず。そのようにエンパワメントしてきた書であることには敬意を表しつつ、『BORN TO RUN』にはさまざまな危うさも潜んでいるように思える。アメリカの白人ジャーナリストがメキシコ北西部の先住民族の姿に魅了され、走ることの根源性をロマンティックに見いだしていくという構図自体、思慮深い人類学者であれば待ったをかけるかもしれないほどのものだからだ。
『BORN TO RUN』にマクドゥーガルの論を補強する人物として登場する、ハーバード大学で人体の進化を研究する古人類学者がいる。ベストセラー『人体600万年史』で知られるその人、ダニエル・E・リーバーマンは、実は後に自身の著書『運動の神話』上・下(中里京子訳、早川書房、2022年)において、『BORN TO RUN』的な世界観から微妙に距離をとるどころか、かなり批判的な書きぶりを見せている。おそらくはそのブームの功罪を、身をもって感じ取ってきたのだろう。
リーバーマンは、ジャン・ジャック・ルソーが文明の汚れなき本来的な人間像を語った「自然人理論」について、「文明社会の社会的・道徳的悪に汚されていない非欧米人は、生まれつき善良で品行正しいという『高貴な野蛮人』の神話をはじめ、様々な形に歪められてきた」として、以下のように続ける。
信憑性こそ大方失ったものの、この神話は生き残り、運動に当てはめられて新たな命を得ている。私はこれを「アスレチックな野蛮人」神話と呼んでいる。この神話の大前提は、現代の退廃的なライフスタイルに汚染されていないタラウマラ族のような人々は天性のスーパーアスリートで、驚くべき身体能力を持つだけでなく、怠惰とは無縁であるというものだ。(中略)この神話は、(中略)あなたや私のような人間は、進化の観点から見て異常なのだと示唆する。文明によってもやしのような意気地なしに変えられてしまったのだと。
こうした「ステレオタイプ化」に異議を唱えるリーバーマンは、走ることをめぐる人類の進化自体は認めている。「たとえ走るのが嫌いだとしても、あなたの体には、頭のてっぺんから足のつま先まで、長距離を効率的かつ効果的に走るための機能が備わっているのだ。これらの機能の多くは、歩くことにも、他のことにも役に立たないため、走るための適応として進化してきたものと思われる」というその筆致は、とても淡々としている。それはポジティブなドライさともいえるかもしれない。リーバーマンもタラウマラ族を調査した人間であり、古人類学者らしく時の流れはさかのぼってはいるのだが、根源的な精神性にすぐに飛びつこうとしない注意深さを備えているように思われる。
テクノロジーの問いは、足元に潜む
先端的なテクノロジーとの距離感もまた『BORN TO RUN』の大きな特徴だが、こうして見てくればマクドゥーガルの主張はとてもシンプルに理解できるだろう。ハイテクなランニングシューズを、いや文明を脱ぎ捨てようとするその語り。後述する“裸足ラン”の伝道者となっていったベアフット・テッドというランナーが、かつて腰を痛め、より高機能なシューズを追い求めていくも一向に状況は改善されず、300ドルのシューズを履きながら通りで自暴自棄になった瞬間の“発見”が、『BORN TO RUN』では描かれる。「テッドは裸足で歩きはじめた。怒りと失望のあまり、自分の身に起きていることに気づかないまま家の手前まで来たときだった。腰が痛くない。ちっとも痛くない」
こうしたマクドゥーガルの紹介が、裸足のような感覚で走ることができるベアフット・シューズを広めていく。ソールが薄かったり五本指になっていたりといったベアフット・シューズは、2010年代のランニングシーンを賑わせた。ただ当時から賛否両論は存在したし、現在も愛好家は散見されるものの、基本的には一時的なブームに終わっている。
ベアフット・シューズを使用し続けた結果、足によい変化が起きたと愛好家が語る2022年の映像。
その後のランニングシューズのテクノロジーは、2017年以降、カーボンプレート搭載の厚底シューズへと向かっていった。大きなきっかけとなったのは、ナイキが立ち上げた一大プロジェクト「Breaking2」だった。42.195kmを2時間以内で完走するという“不可能”に、厚底ランニングシューズやイタリアのF1レースのサーキットなど整えられた好条件のもと、3人のランナーが挑んだ。非公式記録であり、かつ2時間を切ることはできなかったが、ケニア出身のエリウド・キプチョゲがマークした2時間0分25秒の記録とともに、厚底ランニングシューズは一気に注目を集めた。
高い反発力を中心にした機能性によって、ランナーを前へ前へと進めていくその技術は、トップレベルのマラソンランナーたちのタイムを軒並み押し上げていく要因となったことで一大ブームとなり、市民ランナーの間でも使用が目立つようになっている。
一方で、厚底ランニングシューズの弊害もまた指摘されつつある。元箱根駅伝ランナーでスポーツライターの酒井政人は『箱根駅伝は誰のものか:「国民的行事」の現在地』(平凡社新書、2023年)で、「もともとは着地時のダメージから脚を守り、終盤にペースを落とさないために開発されたモデルだったが、大腿骨や仙骨の疲労骨折など股関節周りのケガが続出。これは薄底シューズ時代(膝から下の故障が中心だった)にはほとんどなかったものだ」とし、2021年秋の時点でのある大学の監督の嘆きを、こう紹介している。「あの靴に頼り切ってしまっているところがあるので、多くの選手がポイント練習で厚底カーボンシューズを使いたがるんですよ。練習の質を上げているので、あのシューズでないとついていけないという状況にもなっています。それが故障者続出の理由じゃないでしょうか」
反発というメリットが、その蓄積によってデメリットへも変わりうる。それがランニングシューズの最先端の風景であり、現在はアスリートを中心に、レース時と練習時のシューズの履き分けが常識化しつつある。
箱根駅伝の翌日、刺激を受けたランナーたちが数多く路上で見かけられるというのは、市民ランナー界の風物詩だ。だからこそ、他人事ではない。テクノロジーとどう付き合うかという問題は、間欠泉のように、度々ランナーたちの足元から噴き上がる。
常に変化を、とバイブルは語る
冒頭で、市民ランナーが世に定着してから半世紀ほど経ったと述べたが、その画期とされるのは1970年に初めて開催されたニューヨークシティマラソンである。日本においてはそのすこし前、1967年に初開催となった青梅マラソンが原点とされるが、いずれにしても1970年代が市民ランナーという存在が一気に増加した時期であることは間違いなさそうだ。
バイブルとされるようなランニング指南書のいくつかも、この時期に刊行された。ジェイムズ・F・フィックス『奇蹟のランニング:その効用と方法の完全報告』(片岡義男・茂木正子訳、宇佐美彰朗・石河利寛監修、クイック フォックス社、1978年)の原著The Complete Book of Runningが刊行されたのは1977年のこと(本稿がアラン・シリトーをエピグラフとしているのは、この本の流儀にならった)。「ライフ」誌の元エディターによる著書の邦訳に、人気小説家・エッセイストにして翻訳も手がけていた片岡義男が参加していること、「ランニングの効用に魅せられた信奉者」としてアメリカのベストセラー小説『キャッチ=22』のジョセフ(ジョーゼフ)・ヘラーの名前が見えることなどは、文化史としても興味深い。
邦訳の監修を務めた運動生理学者・石河利寛が、『奇蹟のランニング』に先だって1974年に刊行したのは『走る本:足は生と精をつよくする』(徳間書店)。両書ともに、タイトルも内容も、ランニング興隆に伴う牧歌的な空気感を伝えるものだ。
こうした流れに対して、マインドフルネスの見地から別のアプローチを試みたのが、ベストセラーBeyond Jogging: the innerspaces of runningを1976年に著したマイク・スピーノだ。同書は2021年、『ほんとうのランニング』(近藤隆文訳、木星社)として邦訳が刊行された。著者は、当時のブームに沸く市民ランナーの世界を、このように眺めている。
ここ10年で数多くのアメリカ人がジョギングをするようになった。ほとんどの日の午後遅く、サンフランシスコのゴールデンゲート・ブリッジにほど近いマリーナ地区の緑地帯では、ランナーたちが潮のように流れていく。私はたびたび足を止めて彼らを眺めた。驚くのは何カ月もつづけて同じ距離を同じペースで走る人の多さだ。懸命に走っていようが、ゆっくり歩いていようが、ほとんどの人はどうやら、自分がやっていることにあらゆるものを超越した魅力があるとは考えていない。これでは喜びというより義務のようだ。こうしたランナーの少なくとも3分の1は、足運び(ゲイト)やテンポをいろいろと知っていたら、上達が早まり、走ることをもっと楽しめるだろう。視覚化や瞑想によって、自分のやっていることへの新たな洞察が得られるはずだ。ランニングとは身体を鍛える手段であると同時にひとつの芸術形式(アートフォーム)だと私は考えている。
1973年、ニューヨークのアイゼンハワー・パークを周回するアースデイ・マラソンのランナーたち。 Photo by Jim Peppler/Newsday RM via Getty Images
いわんとしていることは、ランナーとしては体感的によくわかる。ぐるぐると回転し続ける毎日、そのルーティーンから抜け出そうとするかのようにランニングしているにもかかわらず、一定のピッチを刻んでいる自分は、いったい何をしているのだろう……。そんな思いが頭をもたげることは、しばしばあるのだ。
『ほんとうのランニング』で説かれる、ヨガの見地も取り入れた精神世界にノレるかどうかは、人によるだろう。そもそも、そうした「ほんとうの」根源性へのアプローチ自体がときにもちうる危うさについても、先ほど見たとおりだ。ただ、ランニングという行為に、常に持続するゆるやかな変化をもたらそうとする語りは、やはり今日においても傾聴に値するように感じられる。
「ゲイトやスピードを変えたり、テンポに緩急をつけたりして、代謝を変化させて気分を転換する。ランニングが進むにつれ、私は無言になり、勢いにまかせてスピードを変えていく。初秋の夕暮れどきに走ると、涙が目に浮かぶことも少なくない」と語る著者は、その境地を「瞑想(メディテーション)」に結びつけていく。
目に涙を浮かべるようなピュアネスをめぐる是非も問えるだろうし、ゆっくりと長い距離を走るLSD(ロング・スロー・ディスタンス)への反駁であるこの文章への、その後のランニング技術の発展を含めての検証も可能だろう。ただひとまずここでは、著者のいう「足運び(ゲイト)」をはじめとした「走り方のユニークさと創造性」を、常に手放さないようにするということに着目しておこう。忙しい日常のなかで走る市民ランナーにとって、忘れがちな観点であることは間違いないのだ。
安心して走れない女性たち
ここまでの議論は、ランニングをすることができる、という環境が当然のものとして存在していることが前提となっていた。でも、考えてみてほしい。男性ランナーである筆者はできるだけ日中に走るようにしているが、それでも日暮れ時に女性歩行者の横を後ろから通り過ぎるとき、激しい呼吸音や近づく足音といった、自分が与えかねない恐怖や威圧に躊躇することがある。夜道であればどうだろう。自身が他人に与える影響はもちろん、暗がりのなかを走ることの恐怖もまた、ある。女性であればなおさらだろう。近年、女性が安心してランニングをすることができないという問題にきちんと向き合おうとする動きがある。
その象徴的なビジュアルが、アディダスが2023年3月に発表した、『The Ridiculous Run』というフィルムだ。夜道を駆けだした女性ランナー。そのまわりに、徐々に過剰なまでの護衛がついていく……という映像なのだが、その光景がridiculous(ばかげている)のではなく、むしろそこまでの護衛が必要だと女性ランナーたちに思わせるわたしたちの社会こそがridiculousなのだという痛烈なメッセージが、ここには込められている。同社の調査によれば、回答した女性ランナーの 92% が、ランニング中の自身の安全について懸念を感じているという数字が出たという。
市民ランナーたちが性別を問わず向き合うべき課題であるとともに、市民ランナーたちのみが取り組んで解決できる問題でもない。不特定多数の人間と路上ですれ違いながら、社会そのものの一部として、ランナーたちは走っている。その心身は、わたしたちが生きる社会のありようとも、たしかに連動しているのだ。
『The Ridiculous Run』発表時のプレスリリースには、以下のように説明されている。「イヤフォンの片耳着用から、ゆったりしたウェア選び、全力で守ってくれるチームのランナーやバイカー、車のエスコートに至るまで、ここまでしなければ女性が安心してランニングできる環境が作れないという『おかしな(Ridiculous)』現実を描き出すことで、この環境を変えてゆくためのサポートを呼びかけます」
こうした暗闇に光をもたらし、わたしたちの心をすこし暖めてくれるのは、先人たちの存在であり、彼らが刻んできた歴史だ。先述したダニエル・E・リーバーマンは『運動の神話』のなかで、走ることを通じて社会と闘った、ひとりの市民ランナーとしての母の姿を描いている。
私の母は、一九六九年、私が五歳のときにランニングを始めた。当時母は三十代で、体力もなく、新たに教え始めたコネチカット大学で「女性が終身在職権を得るには、男性の二倍優秀でなければならない」と言われ、ストレスに晒されながら奮闘していた。だがその年、大学における女性差別と不平等の撤廃を目指す小さな女性グループに参加したことで、母の人生は一変することになる。グループの目標の一つは、大学に新設された室内競技場を女性に解放することだった。女性がその施設を利用できるのは、試合の観客としてのみだったからだ。そのため母は何かスポーツを始めることが必要になり、友人の勧めで走ることにしたのである。
とはいえ、一九六九年と言えば、ジョギングブームが始まる前のことで、(中略)母のようなアマチュアジョガーは基本的に自分の力に頼るしかなかった。(中略)それでも彼女たちは走り続け、女性用ロッカールームの開設を要求した。ところが、大学側の回答は、それは不可能であるどころか、仮にスペースが確保できたとしても、女性たちは使わないだろうから無駄になるだけだというものだった。女性たちはヘアードライヤーを要求するようになるだろうとまで言われた。
一九七〇年にコネチカット大学の室内競技場が女性に解放されたのは、母や仲間のランナーたちの努力の賜物だったと私は誇りに思っている。
市民ランナーという存在が、社会に息づき、まさに走りはじめた1970年に、すでに時代を切り拓いて一歩また一歩と足を進めていた女性がいた、ということだ。このように先人たちが築き、変化させてきた社会の先端で、わたしたちもまた生き、走っている。仮にヘアードライヤーを要求したからといって、何が悪いのだろうか。そこで巻き起こる新たな“風”が、市民ランナーたち、そして社会の光景を、また徐々に変化させていくはずなのだ。
次週3月5日は、「世界で最も無名な競技のひとつだが、最も進歩的な競技のひとつ」とThe New York Timesで紹介され、いま世界に広がりつつあるスポーツ「コーフボール」をフィーチャー。発祥は100年以上前でありながら、当初から”男女混合”などの革新的なルールを備えていたコーフボールは、現代のプレーヤーに何をもたらすのか。WORKSIGHT編集員による体験レポートとともにお届けします。お楽しみに。
【新刊案内】
Photo by Hironori Kim
書籍『WORKSIGHT[ワークサイト]22号 ゲームは世界 A–Z World is a Game』
「21世紀はゲームの時代だ」──。世界に名だたるアートキュレーター、ハンス・ウルリッヒ・オブリストが語ったことばはいま、現実のものとなりつつある。ゲームは、かつての小説や映画がそうであったように、社会を規定する経済的、政治的、心理的、そして技術的なシステムが象徴的に統合されたシステムとなりつつあるのだ。それはつまり「ゲームを通して見れば、世界がわかる」ということでもある。その仮説をもとにWORKSIGHTは今回、ゲームに関連するキーワードをAからZに当てはめ、計26本の企画を展開。ビジネスから文化、国際政治にいたるまで、あらゆる領域にリーチするゲームのいまに迫り、同時に、現代におけるゲームを多面的に浮かび上がらせている。ゲームというフレームから現代社会を見つめる最新号。
書名:『WORKSIGHT[ワークサイト]22号 ゲームは世界 A–Z World is a Game』
編集:WORKSIGHT編集部(ヨコク研究所+黒鳥社)
ISBN:978-4-7615-0929-3
アートディレクション:藤田裕美
発行日:2024年1月31日(水)
発行:コクヨ
発売:学芸出版社
判型:A5変型/128頁
定価:1800円+税
【イベント案内 ①】
Photo by Kaori Nishida
トークセッション「講談社と集英社が描く、インディゲームの未来」
現在発売中の『WORKSIGHT[ワークサイト]22号 ゲームは世界 A-Z World is a Game』の関連イベント第1弾として、講談社ゲームクリエイターズラボでチーフを務める片山裕貴さん、集英社ゲームズで執行役員/経営管理・マーケティング統括を務める森通治さんをゲストに迎え、3月2日(土)にトークセッションを開催します。
日本を代表する出版社は、なぜゲームの世界に参入したのか。本誌掲載のインタビュー記事「Japanese Indie:講談社と集英社とインディゲームの明るい未来」を紐解きながら、漫画とゲームにおける編集の違い、IP戦略への視点など、出版社ならではのゲームトークを繰り広げます。ぜひ奮ってご参加ください。
■日時
2024年3月2日(土)18:00〜19:30
■会場
コクヨ・サテライト型多目的スペース「n.5(エヌテンゴ)」
東京都世田谷区北沢2-23-10 ウエストフロント1階
※オンライン配信あり
■出演
片山裕貴(講談社ゲームクリエイターズラボチーフ)
森通治(集英社ゲームズ 執行役員/経営管理・マーケティング統括)
山下正太郎(WORKSIGHT編集長/コクヨ ヨコク研究所・ワークスタイル研究所 所長)
若林恵(WORKSIGHTコンテンツ・ディレクター/黒鳥社 コンテンツ・ディレクター)
■チケット
無料
【イベント案内 ②】
トークセッション「ゲームづくりの民主化と、新たな自己表現としてのインディゲーム」
WORKSIGHT最新号の刊行記念イベント、第2弾が決定! 2023年11月21日配信のニュースレター「1カ月でゲーム開発者になれる時代?:『新たな自己表現』としてのインディーゲームの潮流を追う」に登場した、株式会社ヘッドハイの一條貴彰さんをゲストにトークセッションを開催します。
「Unity」「Unreal Engine」などのゲームエンジンの価格破壊と台頭、技術的なハードルの低下などによって、多くの人びとが新たな自己表現としてゲーム開発に取り組む現代。空前の盛り上がりを見せるインディゲームの現状やその背景にあるものを、自身もインディーゲーム開発者であり、国内のインディーゲーム開発者支援事業も精力的に行う一條さんに尋ねます。お楽しみに!
■日時
2024年3月15日(金)19:00〜20:30
■会場
SPBS本店
東京都渋谷区神山町17-3 テラス神山1F
※オンライン配信あり
■出演
一條貴彰(株式会社ヘッドハイ代表取締役)
山下正太郎(WORKSIGHT編集長/コクヨ ヨコク研究所・ワークスタイル研究所 所長)
若林恵(WORKSIGHTコンテンツ・ディレクター/黒鳥社コンテンツ・ディレクター)
■チケット
会場参加チケット:2,200円(税込)
オンライン参加チケット:1,650円(税込)
書籍付きオンライン参加チケット:3,630円(税込)