本日ここに、新生「WORKSIGHT」が始動する。パンデミックによる激動の数年間を経て、まだ見ぬ新しいメディアを目指す。これは編集部にとって、未来を手探りで掴もうとする大きな挑戦である。この挑戦の舵をとる編集長の山下正太郎からみなさまへ、リブートに込めた思いを記す──。
text by Shotaro Yamashita
photographs by Yuri Manabe
2011年に創刊した「WORKSIGHT」は、本日をもって新たなメディアへと生まれ変わるべく歩みを進める。この場を借りて、リブートの経緯と意図について少しばかりの説明をしておきたい。
ワークスタイル/ワークプレイスをめぐる状況
「WORKSIGHT」は、働くしくみと空間をつくるマガジンと銘打って、世界中のさまざまな職場環境の最前線、有識者によるオピニオンを捉えるメディアとして活動を展開してきた。そしてその10年間の成果は、『WORKSIGHT 2011-2021: Way of Work, Spaces for Work』という形でまとめられている。鈍器と言ってもいいほど分厚いこの書籍に掲載された、華やかなビジュアルで展開されるワークプレイスが、多くの読者にとっての興味の中心であり、海の向こうの新しい潮流を国内やアジア圏に伝えるものとして、媒体はその存在意義を見いだしていたように思う。
【写真上】2011年から2021年までのWORKSIGHTから33事例を厳選してまとめた、創刊10周年記念号『WORKSIGHT 2011-2021: Way of Work, Spaces for Work』。
【写真下】「WORKSIGHT はワークプレイスを紹介するメディアだと思われていますが、つくり手としては経営課題や社会問題のありようをオフィスという表現形式を通じて見てきたという意識が強いです。その意味では、今回のリニューアルは転向でも断絶でもなく地続きなんです。ここに挙げた6冊は、個人的に取材時のインパクトが特に強かったものです」(山下正太郎)。手前から04号、11号、 15号、Studio O+A号、08号、07号。
歴史を少し振り返ろう。ワークプレイス分野の世界的権威である英ロイヤル・カレッジ・オブ・アートのジェレミー・マイヤーソン教授の分類によれば、今日私たちがイメージする「働く環境」は、産業革命以後に基本形がつくられ、時代の要請に応じてその姿を変え、第4世代まで多様化の一途をたどった。「WORKSIGHT」はその動きをトレースするように事象を正しく捉えることを旨としてきた。
しかし時代にリニアに発展してきたワークプレイスの変化に大きな断絶をもたらしたのは、言うまでもなく、2020年の世界的なパンデミックだ。近年のワークプレイスの潮流を生み出してきたビッグテックでは、半強制的な慣習として続けられてきた「オフィス出勤」という概念に異議を唱えるワーカーが現れ、彼らとの論争が始まっている。
オフィスから離れ、自分自身の時間や生活を取り戻したワーカーたちの世界的規模でのリフレクションは、「Great Resignation 」(大退職時代)ともいわれる大きなムーブメントを形成している。ハーバード大学の政治学者エリカ・チェノウェスの提唱する、3.5%の人びとが非暴力的な方法で社会変化を訴えると不可逆の変化となる「3.5%の法則」に照らすならば、全世界のオフィスワーカーがこれからも無自覚にオフィスという場所に自分の時間を搾取されつづけることはない。
前提条件が大きく変わったこの時代に、これまでと同じようにワークスタイル/ワークプレイスだけを取り上げる意味はおそらくほとんど残っていない。あったとしても企業の労働者に対する体のいい搾取としての場づくり論に過ぎないのではないか。そして、たとえ何か新しい形態が存在するとしても、それはこれまでのワークスタイル/ワークプレイスのフレームで捉えられるものではないだろう。
「働く」に変わる概念を求めて
いま私たちに必要なことは「そもそも」から始まる根本を疑うアティテュードだ。なぜ私たちは集まって働いているのだろう?何が企業を企業たらしめていたのか?新しい時代における「働く」の周辺にある概念を丁寧にときほぐし「働く」とは異なる何か別の概念を生み出さなければ、根本的に新しい制度も空間もデザインできないのではないか。
この2年ほど取り組んでいるコクヨ野外学習センターでは、こうした問題意識をもちながら、新生「WORKSIGHT」の習作的な意味合いももつ活動をしてきた。たとえば、松村圭一郎さんをはじめとするアフリカやアジアをフィールドにしている文化人類学者たちの視点から私たちの働き方を相対化した『働くことの人類学』を読んでいただければ、いかに自分たちが働くという行為を無自覚に受容してきたのかが理解できるだろう。ブッシュマンは平日は賃金労働をして、休日にはキリンを狩りに平原に出る。ひとつの仕事に専念することを美徳とし、また賃金労働こそが価値あるものだとする思考は、近代がもたらした一種のバイアスでしかないのだ。
これまでであれば、次の社会像を示す新しい概念は、進歩史観がもたらす「未来」によって担保されてきた。未来を見るというのは、現在の生き方を同定する行為であり、人間にとって根源的な活動である。しかし政治学者スーザン・バック-モースは、2000年に原著が出版された『夢の世界とカタストロフィ』のなかで、すでにこう述べている。
産業的近代化がもたらす大衆民主主義(マス・デモクラシー)の神話──産業を通しての世界の再編成は、大衆に物質的幸福を提供することによってより良い社会をもたらすことができるという信念──は、ヨーロッパ社会主義の解体、資本主義再構築の要求、そしてもっとも根本的なエコロジーの制約によって重大な挑戦をうけてきた。(中略)より大きな社会的プロジェクトの放棄は、個人のユートピア主義を政治的シニシズムに結びつけている。というのも、個人で追求しているものを集団に保証することは、もはや不必要と思われるからである。個人のユートピアと必然的な関係にあるとかつて見なされた大衆ユートピアは、今日色あせた観念になっている。ユートピアを産み出すように設計されていた初期の工場とともに、それは産業社会によって捨てられつつある。
物質的には満たされた私たちにとって、次に進むべき社会共通の未来というものがゆらいでいる。いまできることは、足元から見直し、実践としてのオルタナティブを見いだすことなのではないか。新しい「WORKSIGHT」は、その意味で、あるべき未来を指し示すような解答を読者に授けるものではない。むしろ目指すのは、満たされない何かを埋めるための、思考を喚起する触媒としての在り方だ。当然そこにはきれいなオフィスの写真は存在しない。そして、これまでのような、海外から新しい動きを教条的に取り入れるといった知識輸入モデルでもない。
『働くことの人類学【活字版】: 仕事と自由をめぐる8つの対話』松村圭一郎+コクヨ野外学習センター 編、2021年。noteで一部有料公開中。
編集を解体する
思考を喚起する触媒としてのメディアとは、どのようにつくり得るものなのか。10年に及ぶ企業取材のなかで得られた確信のひとつに「アウトプットのユニークネスはインプットによって担保される」というものがある。私が目にしてきたのは、社会にオルタナティブを提示する企業は、軒並みその働き方や空間の捉え方がユニークであったということだ。これをメディアづくりに照らし合わせるならば、編集プロセスのあり方がメディアの面白さを規定するということである。
これまでの「WORKSIGHT」は、私ひとりの価値観をベースとし、企画から編集までを私が専制的に行ってきた。ピュアに編集方針が反映されたともいえるが、自分の能力の限界がすなわち媒体の輪郭であり、当然広がりを欠いたものであったことは否めない。
そこで今回の大きな変更点となるのが「外部編集員」の存在だ。編集を生業にしていない方々を編集員として迎え、彼らの内から湧き出る新鮮な視点と絶えざるディスカッションを元に媒体をつくることを考えている。なぜか。そもそも編集という行為の面白さは一種の「アマチュアリズム」にあるからだ。
改めて考えてみると、毎号脈絡なく特集が組まれ、そのテーマに対して編集員がゼロから学び、集めてきた情報がひとつのパッケージとして提出されたものがすなわち、私たちが日々目にしているメディアというものなのだ。当然、編集作業は一直線には進んでいかない。しかも手グセのないアマチュア編集者であるなら尚更だ。今回は、蛇行しながら進む過程で得られた断片を週次のニュースレターという形で、さらにそこからまとまった知見を四半期毎の冊子としてリリースすることを考えている。
編集とはまた、皆が言葉にできずとも何となく感じていること、見逃していることを、そっとすくい上げ現前せしめる行為でもある。そしてそのすくい上げる感覚は、社会的に要請されるものではなく編集者の内側から立ち上がってきた個人的な価値観にもとづいているということが、新しい概念をつくっていく上では重要だ。それはあらかじめ意味を与えられていないプラグマティックな行為と言ってもいいだろう。
日本におけるこうした編集活動の源流のひとつに、戦後のサークル活動が挙げられる。生活綴方運動などに代表されるサークル活動は、戦後の急速なアメリカ化に対して、市民が自らの生活を取り戻そうという運動に端を発する。アメリカでプラグマティズムの薫陶を受け、サークル活動を研究しつづけた哲学者 鶴見俊輔は『戦後日本の思想』のなかで、それらの特徴のひとつとして「実感主義」を挙げている。日々の生活から湧き上がってくる関心自体をネタにしてしまおうという、自らが置かれた状況を活かすスタンスである。
また、思想家イヴァン・イリイチは『脱学校の社会』のなかで、ギリシャ神話のプロメテウスとエピメテウスの兄弟の物語を例に取り、新しい学習像に関する論を展開している。ここでは「先見」を意味するプロメテウスを、制度に依存し期待にもとづいてすべてを計画的にコントロールする現代人の象徴として捉えている。対して「後で考える」を意味し、それまで愚鈍なものとして描かれてきたエピメテウスを、希望にもとづいてあらゆる可能性を探求する学習者像として描いている。
これが現在の硬直化する「編集部」に対する、私たちなりの参照点である。鶴見にせよ、イリイチにせよ、参加者自身の自律的な探求こそが価値を紡ぎ出す源泉という点で一致しており、「WORKSIGHT」編集部はこうした学びで駆動する場となることを目指している。一方で、こうした草の根の活動がもつDYOR(Do Your Own Research:自分で調べろ)の精神は、先日リリースした『ファンダムエコノミー入門』でも指摘したとおり、昨今問題視されている陰謀論と表裏一体の関係であり、私たちもまたその闇に飲み込まれないように細心の注意をもって活動していかねばならない。
『ファンダムエコノミー入門 :BTSから、クリエイターエコノミー、メタバースまで』コクヨ野外学習センター 編、2022年。山下正太郎と共編者・若林恵がファンダムのDYORについて語る対談はnoteにて公開中。photograph by Hironori Kim
オウンドメディアとしての射程
この10年でメディアを取り巻く状況は大きく変化した。2008年にWIRED初代編集者ケヴィン・ケリーが書いた、少数のファンさえいれば生計が成り立つ時代を示した “1,000 True Fans” というエッセイは、時代を経て Web3 ムーブメントを推進するベンチャーキャピタリストであるリ・ジンによって“100 True Fans” にアップデートされている。
パッション・エコノミーが発展するにつれ、より多くの人びとが自分の好きなことをマネタイズするようになっている。FacebookやYouTubeなどのソーシャルプラットフォームが世界的に普及し、インフルエンサーモデルが主流となり、新しいクリエイターツールが台頭してきたことで、成功へのハードルが高くなったのだ。私は、クリエイターに必要なのは、1000人ではなく100人の「真のファン」を集め、100ドルではなく1000ドルの年俸を支払われることだと考えている。
人びとのもつアテンションの総量が同じであるならば、こうした発信手段が民主化された時代においてPVを奪い合うことの無意味さはもはや自明だろう。求められることは、小さなコミュニティにより深い関係をつくることであり、そこから新しいムーブメントの萌芽を見いだすことが何より重要だと考えている。
「WORKSIGHT」がコクヨという一企業のオウンドメディアである以上、事業活動とのリンクを考えないわけにはいかない。今年で創業118年目を迎えるコクヨは、和式帳簿の表紙の製造から始まり、これまで文具、家具、通販などを通じて社会に貢献してきた。しかしながら、先述したようにこうした大量消費の価値観に裏付けられたモノづくりは意味を失いかけており、近年は次の一手を出しかねていた。
社会における自社の役割を明確にするため、2021年に企業理念を 「be Unique.」 と改め、人びとの創造性に寄り添うことを中核に据えた。また、目指すべき社会像を「自律協働社会」と名づけ、事業活動の進むべき方向性を定めている。しかし、この社会像の解像度については、まだまだ高いと言い切れるには至らない。そこで、共感していただける社内外のステークホルダーとともにその実現に向けたムーブメントを起こしたいと考えている。
哲学者ジル・ドゥルーズは『ドゥルーズ・コレクション2 権力/芸術』に収められた「創造行為とは何か」という講演のなかで、あらゆる創造行為を「抵抗行為」であると定義づけ、さらに講演録『ジル・ドゥルーズの「アベセデール」』では、抵抗することについて、拘束あるいは抑圧されていた生の力能(潜勢力)を解放することだと述べている。
つまりコクヨが標榜する「自律協働社会」を実現することとは、人々の創造=抵抗に寄り添うことと同義なのである。サークル活動、アーツアンドクラフト、古くは宗教改革に至るまで、時代の流れに抗い新しい生き方を模索しようとする人びとの傍らには常にメディアがあった。一企業のオウンドメディアが大それたことを言うようではあるが、読者の内面に訴えかけ、具体的な行動にまでつなげられるような存在となること目指していきたい。
こうしたグラスルーツムーブメントの一端を大企業が担うことに疑問をもつ人も少なくないだろう。社会の隅々にまでサービスを提供している大企業は先述したようにその存在意義が問われており、かと言ってすぐに無くしたり変化させたりすることができないのも事実である。急がなければならないのは、もう一度、社会のなかでの自分たちの役割を再定義し新しい関係を紡ぎ直すことであり、そのためには社内外の絶えざる対話というものが欠かせない。オウンドメディアとはそのための装置なのだ。
「WORKSIGHT」の発行母体であるワークスタイル研究所を含むヨコク研究所は、この動きを支える部門として2022年1月に発足した。コクヨのなかでも、どの事業体からも影響を受けないコーポレート部門に配置され、既存の企業活動とは独立した形でニュートラルな探究活動ができる。いわば「WORKSIGHT」とは、自社に対する「抵抗」でもあるのだ。
アマチュアリズムあふれる編集者を束ね、ある種のムーブメントまで起こそうとする、このような無謀な取り組みに伴走してくれるのは、コクヨ野外学習センターでも協働しているコンテンツディレクター若林恵さんが率いる黒鳥社だ。これほど心強いことはない。
大風呂敷を広げていったい、この先どうなるか、1年後のことすら私にもわからない。どうか読者も、その混沌にどっぷりと浸り自分なりの抵抗の末に新たなオルタナティブを獲得していただけることを願うばかりだ。それこそが「WORKSIGHT」が目指すメディア像だと思っている。
山下正太郎|Shotaro Yamashita コクヨ野外学習センター センター長/コクヨ ワークスタイル研究所所長。2011 年『WORKSIGHT』創刊。同年、未来の働き方を考える研究機関「WORKSIGHT LAB.」(現ワークスタイル研究所)を立ち上げる。2019年より、京都工芸繊維大学特任准教授を兼任。
次週7月12日は、植物とケアの関係性に迫る「ケアしケアされる私たち:前編」をお届けします。