日本の「勤勉」と資本主義の「倫理」:民俗学者と考える「会社」の謎【会社の社会史#2】
渋沢栄一、マックス・ウェーバー、福沢諭吉。バラバラに思える三者の思想から、現代社会の「勤労」観の源流を探り出そうとする、アクロバティックな試みが行われた。民俗学者・畑中章宏、WORKSIGHT編集部・山下正太郎(コクヨ ヨコク研究所所長)と若林恵(黒鳥社・編集者)による全7回のトークシリーズ「会社の社会史」、その第2回。議論はやがて、イーロン・マスクまでも射程に収めることに。
明治時代、秋に米の収穫をする女性たち Photo by Culture Club/Getty Images
「WORKSIGHT[ワークサイト]」と誠品生活日本橋のコラボレーションによるイベントシリーズ「会社の社会史 -どこから来て、どこへ行くのか-」の第2回が、2022年12月13日に開催された。「会社」が「社会」の真ん中でふんぞり返っているのはなぜなのか、手探りで議論を始めた第1回を経て、第2回は「勤労」観の形成プロセスにフォーカス。
課題本3冊と格闘する、畑中・山下・若林のパネラー3名。少しずつ見えてきたのは、昨日も今日も明日も、働き、働き、働き続ける、私たちの「精神」の淵源だ。
text by Fumihisa Miyata / Kei Wakabayashi
渋沢栄一は実学っぽくない
畑中 今回のトークは予告で、渋沢栄一の『論語と算盤』、そしてマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を扱うとお伝えしていました。改めて見ると、かなり変な並びです。『論語と算盤』は近年、起業家や経営者といった人たちがこれを読んで勉強会をしている、という流れがあります。NHKの大河ドラマ『青天を衝け』(2021年)もありましたし。いま私たちが書店で手に取ることができる『論語と算盤』は、いくつかの版元から出ているんですが、例えば『現代語訳 論語と算盤』(守屋淳訳、ちくま新書、2010年)は、すでに60万部を突破していると帯で謳われています。
若林 すごい数字ですね。たしかに『論語と算盤』をテーマにした読書会や勉強会があるということはちらほら耳にするのですが、皆さんいったい何を学んでいるんでしょうか。
畑中 例えば、企業のトップにいる人間として働き手の人たちとどういう関係を結んだらいいのか、というようなことを考えてみるみたいですね。一方の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』はまったく異なる趣向の本ですが、会社・企業や資本主義とは何なのかを考えるという場合、必ずといっていいほど名前の挙がる1冊。この古典的な名著と、ここ数年の間に日本の「会社」の現場の人たちが注目している本を読み比べてみよう、と思っておりました。
山下 「会社の社会史」イベント初回が終わった後、若林さんからもう1冊、福沢諭吉の『学問のすゝめ』を追加してはどうかと提案がありました。
畑中 これも現在では複数の版元から出ているわけですが、『現代語訳 学問のすすめ』(齋藤孝訳、ちくま新書、2009年)の帯には、「350万のリーダーたちに読み継がれてきた『人生』の教科書」と書いてあります。
畑中章宏|Akihiro Hatanaka(中央) 作家、民俗学者、編集者。近刊『五輪と万博:開発の夢、翻弄の歴史』『廃仏毀釈:寺院・仏像破壊の真実』『医療民俗学序説:日本人は厄災とどう向き合ってきたか』『忘れられた日本憲法:私擬憲法から見る幕末明治』など。
山下正太郎|Shotaro Yamashita(右) 本誌編集長/コクヨ ヨコク研究所・ワークスタイル研究所 所長。京都工芸繊維大学 特任准教授。2022年、未来社会のオルタナティブを研究/実践するリサーチ&デザインラボ「ヨコク研究所」を設立した。
若林恵|Kei Wakabayashi(左) 編集者。黒鳥社コンテンツ・ディレクター。元『WIRED』日本版編集長。2022年7月リニューアルした「WORKSIGHT」のディレクションを務める。著書に『さよなら未来』『週刊だえん問答』シリーズなど。
若林 今回は主に、『論語と算盤』は角川ソフィア文庫版を、『学問のすゝめ』は岩波文庫版を参照しています。早速ですが、(客席に向かって)『論語と算盤』、読んだことがある人いますか? あ、いらっしゃいますね。どうでしたか?
参加者 あまり実学っぽくとらえないほうがいい本だ、と思いました。
畑中 たしかに。いま実学として『論語と算盤』を読むと、何の役に立つのかよくわからなかった……というのは私も正直なところです。
山下 率直に言えば、巷に溢れている自己啓発本のように、ご都合主義的にいろんなものをつぎはぎしつつ、卑近な例も用いながら無理やり説明しているな、という感触がありました。当時の、会社や株式市場という新しい概念をほとんど知らない市民に向けた語り口としては、これでよかったのかもしれませんが。
畑中 まず確認しておきたいのは『論語と算盤』が刊行されているのが1916(大正5)年で、『学問のすゝめ』からだいぶ時代が進んだ段階で出ている点です。分冊で出ていた『学問のすゝめ』の合本が出たのが1880(明治13)年ですから、『論語と算盤』までには40年近い時間が流れています。『学問のすゝめ』には、近世社会の儒教的な上下の人間関係、武士道や仁義のもとでは新時代はだめなんだ、そんなことでは世界に乗り遅れるということが書かれている。しかしそれから40年近く経った『論語と算盤』では、儒教の忠信孝悌は大事ですよ、というようなことを言っている。福沢が必死になって書いたことを、まったく反故にしているんですよ(笑)。今回、私は『論語と算盤』の後に『学問のすゝめ』を読んだのですが、『論語と算盤』に対する批判のように読めるのが面白かったです。渋沢と福沢はある程度親しい間柄ではあったらしいんですけれども。
山下 福沢諭吉は父親も儒教学者ですし、自分も儒教には慣れ親しんできたから一定の理解はあるはずなんですけれども、西洋思想を踏まえた言論人となってからは、儒教には非常に手厳しいですね。
若林 私の雑な感想は、それぞれのスタンスに関わることなのですが、まず渋沢先生のポジションは、商売人というよりは官僚に近い感じがしました。『論語と算盤』の基調は「富は積み重なっても、哀しいかな武士道徳とか、あるいは仁義道徳というものが、地を払っておる」ことに対する怒りで、そこから「国家の人格」が退行していることを嘆き、ビジネスにおける倫理や教育の重要性を説くのですが、そのポジショニングが基本「上から」という感じがとてもしました。つまり国の行方を「設計」する人の立場です。
畑中 実業の心得というよりは、なんだか「政策談義」ぽいと。明治の経済政策を一手に担い、獅子奮迅の活躍をし、それが一定の成果に達したら、今度はそこに何の精神性もないのが気にいらない。実際、渋沢は最初に勤めたのが大蔵省でしたし、天下国家をつくる立場にいたわけですから、やはり、そのスタンスは色濃く出ているかもしれません。
若林 もちろん、一国をスクラッチから立ち上げるわけですから、企業や経営者が利益にばかり走るのははしたない、もっと公共的な観点から経済を考えてもらわにゃ困るというのは、その通りだと思いますし、いまでも通用する話ではあるのですが、その視点が「民間」の人の視点ではない気がしたということです。
山下 渋沢は「士魂商才」ということばを『論語と算盤』のなかで語り、武士の倫理観と商人の才覚のベストミックスを謳うのですが、ここでいう武士が江戸時代の武士であるなら、要は官僚組織のことですから、言い換えるなら、公務員の公共心と商人の抜け目なさをもて、というメッセージになってしまいます。悪いメッセージではないのかもしれませんが、何のことを言っているのか、よくわからなくなってしまいます。当時は公に貢献すること=官僚になるというイメージが強かったですし、実際に渋沢は武家出身の優秀な人材を民間に引き込むことに腐心していたようです。
若林 一方の福沢先生は、逆に、どの立場で『学問のすゝめ』を書いたのかがよくわからない、というのが率直な印象です。在野の誰か、という立場なのはわかるのですが、ずっと読みながら「で、お前、何者やねん」と思ってしまいました(笑)。
畑中 学問もジャーナリズムも黎明期だった頃においては、福沢のような知識人の評論家的なポジションを定位することばもおそらくなかったでしょうから、同時代の知識人が、例えば吉田松陰のように私塾の先生として尊敬されていたのと、同じ立ち位置ですよね。
山下 アカデミアの研究者というポジションとも違う、ふんわりとした知識人。いまでいう「有識者」なのかもしれませんが、それって何なんでしょうね。
資本主義という「精神」の台頭
畑中 前回、「社会一般」というものが、どのようにして形づくられたかをざっと見ましたが、そこでは社会というものが、複数ある「世間」とは違った「ひとつ」のものとしてイメージされることが、日本人にとっては大きな転換だったというお話をしました。渋沢の語る「国家の人格」なんていうことばは、まさに「社会一般」を論じるもので、その「社会一般」を貫く精神性のありかを問うているわけですね。一方の福沢は、若林さんの見立てでいけば、「社会一般」が編成されていくなかで、そのなかを生きる新たな主体である「市民」の視点から国家や「社会一般」を語るという立ち位置になっている、ということなのかもしれません。
山下 「社会一般の精神」というキーワードが出たところで、今回のお題となったマックス・ウェーバーの話にいくと面白いと思います。マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、資本主義の精神を明らかにしたありがたい本だということになっていますが、実際はとてもひねくれた辛辣な本で、資本主義というものはプロテスタントのある特殊なセクトから生まれた、かなりいびつなものであることを明かすのが大枠の主旨です。そして、ウェーバーは、資本主義というのは、経済のシステムではなく、新たな「精神」の形態だと言い切っているのが、改めてすごいんですね。
若林 『プロ倫』の面白さは、まさにそこだと思うんです。ウェーバーは「資本主義」という新しい「精神」を体現したのは、こういう人たちだったと書いています(以下、中山元訳、日経BPクラシックスより引用)。
こうした転換を生み出したのは、経済史のどの時期にも姿をみせる無鉄砲で厚顔無恥な投機師や、経済の分野での〈冒険者たち〉ではなかったし、たんなる「大金持ち」でもなかった。むしろ厳格な生活の規律のもとで育ち、冒険すると同時に熟慮する人々、とくに市民的なものの見方と原則を身につけて、醒めたまなざしで弛みなく、綿密かつ徹底的に仕事に従事する人々こそが、こうした転換を遂行したのである。(中略)
しかしこのことこそが、前資本主義的な人々にとっては理解しがたい謎めいた事実であって、資本主義的な実業家を汚らわしく、軽蔑すべき人間にみせたものなのである。前資本主義的な人々にとっては、金と財貨という物質的な富の重荷だけを背負って墓に下ることを自分の一生の仕事の目的として考える人がいるとすれば、それは呪われた金銭欲(アウリ・サクラ・ファメス)という倒錯した欲動の産物としてしか、説明できないと思われたのである。
山下 重要なのは、資本主義的な実業家というものが、それ以前の商人や富豪とは完全に一線を画す存在で、しかも、それが非常に汚らわしい存在に見えたという点です。山師的な商人や投機家、冒険者はそれまでのいつの時代にもいたわけですが、新しく出てきた資本家は、精神においてそれとはまったく異なり、そうであるがゆえに、とてつもなく不気味に見えたと。
若林 その感じって、例えばスティーブ・ジョブズとビル・ゲイツの違いとしてイメージできるような気もします。ジョブズは、それこそ初期の頃に海賊旗を掲げていたことに象徴されるように、自分たちを新しいデジタル時代の「冒険者」だとイメージしていたんだと思うんです。であればこそ、社会からはみ出す破天荒さやクリエイティビティ、つまり「Think Different」がメッセージとして意味をもつし、お客さんも熱狂しやすい。一方のゲイツは、まさに「厳格な生活の規律のもとで育ち、市民的なものの見方と原則を身につけて、醒めたまなざしで弛みなく、綿密かつ徹底的に仕事に従事する」という起業家のイメージですし、マイクロソフトのサービスは、まさに、こうした人たちの仕事をサポートするものだったわけですよね。
畑中 いまのお話から渋沢栄一を読み直してみると、「士魂商才」「三方よし」といった考え方からわかる通り、士農工商の階級制度から解放された「市民」が行う民間ビジネスを、渋沢は、古典的な商人、よくてウェーバーが語った「前資本主義的」な企業家や経営者のものとしてイメージしていたということですね。ただ、そうした商人の抜け目なさや狡猾さに任せておくと「国家の人格」がどんどん劣化していく。そこを「論語」で支えようというのが、『論語と算盤』の主旨だったと。とするなら、そこにはウェーバーが指摘した「資本主義的な実業家」というものが存在していないことになりますね。
若林 そこは案外重要な気がするんです。渋沢先生は「国家の人格」を卑しめている民間セクターの問題は、商人的な放埒や利己主義だと見ているわけですが、「国家の人格」を貶めているものの根源に「資本主義という精神」というものがあるのだとすると、彼らは、そもそもが「醒めたまなざしで弛みなく、綿密かつ徹底的に仕事に従事する」新人類で、かつ、ウェーバーが指摘した通り、彼らがそういう仕事の仕方を「倫理」にまで高めたのであれば、そこにあるのは倫理的な堕落ではなく、まったく異なる倫理の勃興ですから、儒教をもってそれを矯正するという見立ては意味を失ってしまうことにもなりそうです。
山下 資本主義原理主義者の議論には、ウェーバーが指摘したように、合理性や効率性を一種の倫理と見なす感覚はありますよね。それに向かって「道徳心がない」と言ったところで意味がなく、いまでもその手の応酬は、基本ずっと平行線をたどっている感じがします。「三方よし」といくら言っても、資本主義の批判になっていないというか。
上:1900年頃の家内制手工業。Photo by Gamma-Keystone via Getty Images/下:明治期のケーブル工場。Photo by Bettmann via Getty Images
貯める「勤勉」、働く「勤勉」
畑中 「資本主義」の企業家と、それ以前の商人の違いって何なんですかね。
山下 教科書的な説明ですと、資本主義を規定する最大の要件は「個人による資本の私有」ということだと思います。ここでいう資本とは、生産のための土地、資金、施設・設備などのことで、これを個人が私有してしまうことの新奇さは、日本のそれまでの商家では資本と呼べるものは「家」が保有するものだったことを考えると際立つのではないかと思います。これまで「家」が保有していたはずの財を、突然「全部おれのものだから」と言い出すヤツがいたら、それはたしかに「呪われた金銭欲」の持ち主にしか見えませんよね。
若林 そういう意味で、資本主義のエトスは、実は「金儲け」ではなく、むしろ「蓄財」にあったとも言えそうですが、ちなみに、ウェーバーは、蓄財を善とする観念は宗教から生まれると分析しています。これは、ウェーバーが引用したジョン・ウェスレーという宗教家のことばですが、宗教が推奨する勤勉・倹約がどこに帰結するかを端的に明かしています。
わたしたちは、すべてのキリスト者にたいして、できるかぎり多くの利益を獲得するとともに、できるかぎり節約するよう戒めねばならない。しかしその結果はどうなるかというと、富が蓄積されるということなのだ。
山下 勤勉に働けば、富は蓄積されていく。
若林 そうなんです。引用箇所は前後しますが、こんな文章もあります。
宗教は必ずや勤労(インダストリー)と節約(フリュガルティ)をもたらすのであり、この二つは必ずや富をもたらさずにいない。しかし富が増大すると誇りも高くなり、あらゆる形で情熱と現世への愛も強くなる。(中略)こうして宗教の形だけは残っても、精神は次第に消滅してゆくのである。
神の恩寵が後退して、勤労というものだけが残っていく。
畑中 面白いですね。宗教が勤勉・勤労を促し、その結果富が増すと現世への執着が強まる。すると宗教の部分はどんどん薄まり、「勤勉・勤労」の部分だけが残り、それが宗教そのもののような道徳性や倫理性を帯びていく。私は、勤勉と日本社会ということを考えると、歴史学者の安丸良夫さんの『日本の近代化と民衆思想』(平凡社ライブラリー、1999年)に触れたくなります。安丸さんの「通俗道徳」論では、新しく西洋から入ってきた市場や経済をめぐる、これまでとはまったく異なるシステムが入ってきた衝撃を受け止めるためのクッションとして、「通俗道徳」というものが必要とされ、それが日本社会のあり方を規定したとしていますが、資本主義の成立の経緯もわからず突然そのなかに放り込まれた日本人としては、目に見える価値軸としての「勤労」という観念を手がかりにするしかなかったということなのかもしれません。
山下 日本の「勤労」をめぐる文脈としては、速水融先生が『近世日本の経済社会』(麗澤大学出版会、2003年)で提唱された「勤勉革命(industrious revolution)」という話も重要かもしれません。「勤勉革命」は、イギリスで起きた「産業革命(industrial revolution)」に対置される概念ですが、産業革命が機械などの資本の使用を通じて生産性を向上させる資本集約型・労働節約型の生産革命だったのに対し、江戸時代の日本で起きた「勤勉革命」は、家畜などの資本力をむしろ人力の労働力に置き換えることで実現した、資本節約型・労働集約型の生産革命だとされています。つまり、通常の資本主義の観念からすれば、生産性が上がって富が蓄積されていくと、それを資本として新たな生産手段に投資し生産性を上げていくことになるはずが、日本の勤勉革命では、お金は貯まっていったとしても資本投下は行われず、生産性が上がれば上がるほど、むしろ自分たちが忙しくなるという、西洋のそれとは反転した格好になっている点です。
若林 めちゃ面白いです。日本の会社ってまさに資本節約型・労働集約型で、儲かれば儲かるほど自分たちが忙しくなる、極めてマゾヒスティックな「勤労」になるのも頷けるのですが、畑中さんのお話と無理やり結びつけるなら、ウェーバーが描いた「醒めたまなざしで弛みなく、綿密かつ徹底的に仕事に従事する」ことで私財を貯め込み、それを再投資することで資本をどんどん大きくしていく資本主義的な「勤勉」を、日本人は、資本を節約する代わりに自分たちが手を動かしながら創意工夫を重ねていく「勤勉」であると理解し、しかも、それを道徳観念として、いわば倫理化したということにもなりそうです。
1929年、アメリカのタバコ会社〈John Players & Sons〉が世界のさまざまな国の特産品をテーマにした特別パッケージを販売。日本は絹糸の生産国として紹介された。Photo by Nextrecord Archives/Getty Images
私財は「へそくり」
山下 そこにさらに「私有」という概念の馴染まなさが、特に「会社」というものをめぐってはまとわりつくことにもなります。これは端的に「社員」という概念に現れてくることなのですが、岩井克人さんの『会社はこれからどうなるのか』(平凡社ライブラリー、2009年)を読むと、以下のように書かれています。
会社法の上では、従業員とは会社の「外部」の人間です。かれらは、法人としての会社と雇用契約という契約を結んでいる存在にすぎません。その意味では、原材料の供給者や製品の需要者や金融機関と変わるところはありません。
だが、ここにパラドックスがあります。日本では、通常、会社の従業員のことを「社員」とよんでいます。ところが、この「社員」という言葉は、会社法を読むと、ほんとうは会社の所有者である株主のことを指す言葉なのです。
前提として、会社というものは二重構造になっていまして、「第一に、『会社資産』の所有者は、法人としての『会社』です。そして第二に、『株主』とは、この『会社』の所有者でしかありません」というのが岩井さんが説明する、会社というものの基本です。ですから、「社員」ということばは、本当は「株主」のことを指していて、私たちが普段「社員」と考えている立場は、会社の「外部」なんだというんですね。岩井さんの見方に基づけば、「社員」ということば自体が、すごく変なものに感じられてきます。
畑中 「社員」というのは、基本的にはただ単に契約でつながっている「外部」であると。
山下 そうですね。ですから、「雇用者」という言い方が本来的には正しいのではないでしょうか。
若林 そうだとすると、私たちが「社員」だと考えている私たちは、自分自身を資本とする零細資本家である「私」が、言ってみれば会社と法人同士として契約しているということになるんですかね。それとも「工場」や「生産機械」と変わらない「私有化された生産手段」なのか、どっちなんでしょうね。
山下 そこをどう考えるのか、さまざまな異論がありそうですが、先の二重構造から見るとどちらでもあり得てしまうのかもしれません。いずれにせよ、逆に、例えば日本的な経営の代名詞として使われてきた「家族的経営」という言い方がいったい何を含意しているのかを考えてみると、少なくとも私たちが「社員」というものをどうイメージしているかは見えてきます。「家族的経営」は、簡単に言えば、親と子の関係性をもって経営者と雇用者の関係を説明しようとするものですが、ここにあるのは、言うなれば前資本主義的な温情主義(パターナリズム)です。日本人はまず確実に、岩井先生が説明したかたちでは「会社」や「社員」を理解はしてはおらず、むしろほとんどは、この「家・親・子」のアナロジーで認識しているように感じます。
若林 ほんとですね。渋沢先生は、富める者が救貧活動を行うことの重要性を『論語と算盤』のなかで語っていて、社会で財をなす人は「自己を愛する観念が強いだけに、社会をもまた同一の度合いをもって愛しなければならぬ」と語り、これを経営者の「当然の義務」だとしていますが、説明するロジックとして、以下のようなことを語っています。
如何に自ら苦心して築いた富にした所で、富はすなわち、自己一人の専有だと思うのは大いなる見当違いである。要するに、人はただ一人のみにては何事もなし得るものでない。国家社会の助けによって自らも利し、安全に生存するもできるので、もし国家社会がなかったならば、何人たりとも満足にこの世に立つことは不可能であろう。これを思えば、富の度を増せば増すほど、社会の助力を受けている訳だから、この恩恵に酬ゆるに、救済事業をもってするがごときは、むしろ当然の義務で、できる限り社会のために助力しなければならぬ筈と思う。
これは「社員」と呼ばれる人たちに向けた話ではないのですが、この義務をちゃんと果たさないと富豪と社会民人との衝突が起こり、「社会主義となり『ストライキ』となり、結局大不利益を招くようにならぬとも限らぬ」と語っています。反発を招くと自分が結局損をするので、「社会民人」の面倒をちゃんと見ないとダメだよ、という説明の仕方になるのですが、訓話としてはいい話であったとしても、ここには、かなり強く温情主義的な傾向が出ている気がします。このあたりの話は、会社と家父長制という問題を扱う予定になっている次回のトークでも話題になるかもしれません。また、これは余談ですが、産業革命以降のイギリスにおける「工場」と「工員」の誕生と過酷かつ劣悪な労働環境の登場には、本来は福祉目的であったはずの「救貧法」や「救貧院」といったものが深く関わっているともいわれ、日本にもその影響があったということを何かの本で読みました。工場労働者の登場と「福祉・救貧」といった概念の結びつきが、歴史的に深く絡まりあっているものなのであれば、渋沢さんの「救済」の観念も、単なる経営道徳とばかりは言えないのかもしれません。
畑中 会社が「家族」であればこそ、終身雇用という観念も、しぶとく残り続けるのだと思いますが、私は、この家族的経営や、それとセットで語られる終身雇用という概念は、日本の伝統に根ざしたものというよりは、ここまでのお話のように、資本主義という不気味なものを制御するために編み出された苦肉の策のようなものではないかと感じます。
若林 日本社会が近代化して労働市場が流動化し、職工が次々と職場を変えていくような状況だったのが、日中戦争を境に一気に変わったという話は聞いたことがあります。1938(昭和13)年に「国家総動員法」、翌年に「従業者雇入制限令」が定められ、次の年には「従業者移動防止令」が制定され、国の許可なしに転職ができなくなっています。それと並行して国が企業の賃金を決めるようになっていったとか。
畑中 民俗学者の視点から見ますと、近代以前の「働く人」たちのありようは、家族的経営において観念化された後ほど、固定化されたものではありませんでした。例えば丁稚奉公って、ずっと1箇所で働いていたようなイメージがありますが、実は丁稚は、よく職場が変わるんです。優秀な丁稚は、ヘッドハンティングのようなかたちで別の職場から声がかかって、引っ張られていくことがままあったというんですね。前回に、宮本常一の『忘れられた日本人』の「女の世間」について語った「複数の世間」という話とここは重なるところでして、いろんな世間を見て、いろんな会社の仕事を経験した人間ほど優秀、という見方がありました。これは終身雇用の真逆なんです。
若林 日本の伝統だと考えられがちな「家族経営」的な温情主義は、近代がもたらした動揺に対する反動とも見ることができそうです。また、いまのお話について別の見方をすると、現代の「会社に縛られ決められた給料のなかで身動きできない私」は、商人や職人ではなく、むしろ武士=公務員の経済生活とシンクロしそうで、サラリーマンが「宮仕え」という言い方で自虐化するのは、的を射ているとも言えますね。
山下 会社員は「武士=公務員」のアナロジーで自分を規定している、と。とすれば、給与は仕事に対する報酬ではなく、あくまで家に対して払われる「俸禄」になりますが、そう言われると、たしかにしっくりくるところがありますね。
畑中 「私財」というものについてさらに補足的なことを言いますと、かつての日本では財産が個人ではなく「家」に帰属していたというのはまさにそうでして、実際、日本の「家」において当主は自分の財産をもっていないんですね。農村の場合ですと、前回でも少しお話しした通り、育てた蚕を売りに行くなどして市場経済に近いところにいたのはむしろ女性でしたから、日本の民俗社会における私有財産の発祥は、女性の「へそくり」だったといわれています。それどころか「ワタクシ」の語源は「ヘソクリ」だったんですね。民俗用語辞書(『綜合日本民俗語彙』1955-56)によると、「ワタクシ」は女性に許された最小限度の財産を指すとされています。例えば沖縄では「ワタクサー」、沖永良部島では「ワタグシ」と発音したそうで、女性が所有する金銭、不動産、牛、羊なんかがそこには含まれる。それはどこかに隠しておくもので、親や夫には内緒にされています。
若林 面白いです。これは次回に女性の働き方について語る際にも話題になるかもしれませんが、私有財産という観点から見ると、日本における資本主義は、あるいは女性中心のものとして起こることがあり得たかもしれないと考えるのは、ちょっと痛快な感じもします。デヴィッド・グレーバーの『民主主義の非西洋起源について:「あいだ」の空間の民主主義』(片岡大右訳、以文社、2020年)に倣って、「資本主義の非西洋的起源」のようなことを考えることができるのかもしれません。
山下 ウェーバーは、儒教や道教、ヒンドゥー教、仏教などを広範に調査し、それぞれの宗教文化における経済観念を調べていたといいますから、ウェーバー自身が、20世紀初頭において、すでにユニバーサルな世界倫理となっていた「資本主義の精神」を相対化したかったのだと考えるべきなのだと感じました。実際ウェーバーは、この資本主義の精神が行き着く先に待っているのは「鋼鉄の〈檻〉」で、その鉄の檻に人は囚われ続けることになると書いています。そうした段階に至った人間を、彼はニーチェのことばを引いて「末人」と呼んでいます。それはこんな姿をしています。
精神のない専門家、魂のない享楽的な人間。この無にひとしい人は、自分が人間性のかつてない最高の段階に到達したのだと、自惚れるだろう。
若林 手厳しい。これを読んで私は、イーロン・マスクや、破綻した仮想通貨取引所FTXの元CEOで、バハマまで逃げて捕まったサム・バンクマン=フリードを思い出してしまいました(笑)。
1873年、東京築地につくられた製糸工場。Photo by: Sepia Times/Universal Images Group via Getty Images
1月17日に行った「会社の社会史 第3回:女性が勤めること ー女性の会社的地位ー」のレポート記事は、4月18日のニュースレターでお届けする予定です。与謝野晶子、平塚らいてうなど戦前の女性思想家・作家のことばをヒントに、「会社」「社会」「家」における日本人女性の労働や役割がどのように形作られてきたのか考えます。お楽しみに!
【「会社の社会史」第2シーズン、4月よりスタート!】
WORKSIGHTが誠品生活日本橋とのコラボレーションでお届けする全7回のイベントシリーズ「会社の社会史」。【第1シーズン】は2022年12月から2023年1月にかけて、3回のトークショーを開催しました。登壇者3名が挙げる参考文献を読みながら「日本人にとって『会社』とは何なのか」を探る本シリーズ、待望の【第2シーズン】は4月よりスタートする予定です。詳細は今後のニュースレターやSNSでお知らせいたしますので、お見逃しなく!
「会社の社会史 -どこから来て、どこへ行くのか-」
【第2シーズン】開催日程・各回テーマ
第4回|4月18日(火)
「奉公・出世・起業-ビジネスで『身を立てる』ということ-」第5回|5月16日(火)
「会社と宗教 カリスマ経営者とその霊性」第6回|6月20日(火)
「オフィスとサラリーマン 『サラリーマン』とは何ものなのか?」
次週4月4日は「Karate CombatはWEB3スポーツの未来?トークン・DAO・賭博がひらく可能性と懸念」をお届けします。WEB3を導入し、ファンやアスリートに新たな参画の仕方を開こうとしているスポーツ界。中でもまったく新しいリーグのあり方を模索している〈Karate combat〉にフォーカスしながら、これからのスポーツについて考えます。