「会社=社会」という謎:民俗学者とともに考える「日本の会社」のわからなさ【会社の社会史#1】
働くことの意義がこれだけ見つめ直されるようになってもなお、「会社」という存在は、日本社会の中心に位置している。まるで、「会社」こそが「社会」だとでもいうように。そんな「会社」の謎に迫ろうとする全7回のトークシリーズが開催されている。民俗学者・畑中章宏、WORKSIGHT編集部・山下正太郎(コクヨ ヨコク研究所所長)と若林恵(黒鳥社・編集者)による、まさに手探りである初回の様子をお届けする。
日本のビジネスマン。1952年(Photo by Smith Collection/Gado/Getty Images)
リモート勤務の増加によってオフィスから足が遠のく人が増えたいまでも、「会社」は、私たちの社会のなかで異様な存在感を放っている。そんな会社の語られざる正体を探るべくスタートしたのが、「WORKSIGHT[ワークサイト]」と誠品生活日本橋のコラボレーションによるイベントシリーズ「会社の社会史 -どこから来て、どこへ行くのか-」である。
その第1回が開催された、2022年11月15日。ひもといた書籍を山と積み、学べば学ぶほど見通しが悪くなる視野のなか、畑中・山下・若林のパネラー3名は、恐る恐る語り出した。はたして、会社とは何なのだろう?
text by Fumihisa Miyata / Kei Wakabayashi
会社の「社」は神社の「社」?
若林 そもそも、なんで「会社の社会史」に取り組むことになったんでしたっけ?
畑中 会社というテーマをそれとなく若林さんから提案されたときに、「そういえば会社って、神社とすごく似てますよね」と返したのが大きかった気がしますね。
山下 それは「会社」と「神社」に、「社」という字が共通しているということですよね?
畑中 そうそう。会社と神社の関係というのは、民俗学のなかでも議論や研究は見当たらないんだけど、しかし「社」という字が一緒なのであれば、絶対に何かあるはずだと思ったんです。会社を興したり、そこに勤めたり、という人間の営みがあるときに、それはもしかしたら「会社」という名称に強く縛られているものがあるんじゃないか、という民俗学者的直観が働いたわけです。
若林 会社という存在が気になった理由は、一応ありまして。先だって『B Corpハンドブック よいビジネスの計測・実践・改善』という書籍を編集したとき、「ビジネスで社会をよくしようと思ったら経営者になるしかないのか?」という疑問に突き当たったんですよ。もちろん、労働者の側にも組合運動とかいろんな話はあるんだけど、「会社」が語られるときは大抵、経営者側目線じゃないですか。「そもそも私たちにとって、広い意味で『会社』って何なんだっけ」ということを、畑中さんのお力を借りつつ考えてみたくなったわけです。
畑中 民俗学者としては、そこで働いている人たちが会社をどう感じているのか、というのが気になります。いま、社会学の分野で生活史が大きな注目を浴びていますが、あれは本当は、民俗学がちゃんと頑張らなきゃいけない領分だと思っています。例えば宮本常一『忘れられた日本人』(1960年)という有名な本がありますが、これは名前も残っていないような、普通の人びとの歴史の聞き書きをやっているんですね。仮に、高度経済成長期以降のサラリーマン──毎日通勤して、サラメシを食って、上司から怒られ、退勤するという、会社でほとんどの時間を過ごした約40年間の経験を聞き書きしたら、その話自体はありふれているかもしれない。でもその日常こそ、民俗学が見つめなきゃいけないものなんですよ。歴史学の分野でもかつての網野善彦やフランスのフェルナン・ブローデル、あるいは存命の人でいえばアラン・コルバンといった歴史家による、ある事物や現象や事態に関わった人間が、それに対してどのような思いを抱いたのかを記述していくようなスタイルがある。組織論や制度論ではなく、感情史を考えたい。会社の「社会史」とした理由は、ここにあります。
若林 ……ということだそうなんですが、山下さん、いまの趣旨で問題ないですか?
山下 大丈夫です、まったく異論はございません(笑)。
畑中章宏|Akihiro Hatanaka(中央) 作家、民俗学者、編集者。近刊『五輪と万博:開発の夢、翻弄の歴史』『廃仏毀釈:寺院・仏像破壊の真実』『医療民俗学序説:日本人は厄災とどう向き合ってきたか』『忘れられた日本憲法:私擬憲法から見る幕末明治』など。
山下正太郎|Shotaro Yamashita(右) 本誌編集長/コクヨ ヨコク研究所・ワークスタイル研究所 所長。京都工芸繊維大学 特任准教授。2022年、未来社会のオルタナティブを研究/実践するリサーチ&デザインラボ「ヨコク研究所」を設立した。
若林恵|Kei Wakabayashi(左) 編集者。黒鳥社コンテンツ・ディレクター。元『WIRED』日本版編集長。2022年7月リニューアルした「WORKSIGHT」のディレクションを務める。著書に『さよなら未来』『週刊だえん問答』シリーズなど。
「会社」=「社会」だと思っていた
畑中 それぞれの会社経験ってどうなんですか? 若林さんは大学を出たときに入社試験受けたんですか?
若林 何をいまさら。畑中さんが先輩として在籍していた出版社(平凡社)に入ったんですよ!(笑)
畑中 もちろん忘れたわけではないんだけど。そもそも大学を出たら会社勤めをするって決めてました?
若林 まあ、そうですね。何社か受けて、ダメだったら別のことを考えようと思っていましたね。
畑中 それでも、大学を出たら会社勤めするのが前提だったと。山下さんも?
山下 はい。普通にコクヨを受けて、入社しました。「社会に出る=まず会社に勤める」ということしか、頭のなかにルートがなかった気がします。
若林 世間一般で「社会人」といわれるときも、それってほぼ、会社に勤めている人しか指していない感じがします。
山下 「社会人」は要は「会社人」なんですよね。私は大学にも研究者として籍があるのですが、大学の先生がよく受ける非難は「社会のことをわかっていない」ということなんですよね。
若林 大学の先生は社会人ではない、と。
畑中 私は大学4年生のときにいろんな会社を受けるも全部落ちて、それでも会社勤めしなきゃいけないからと、1年間、日本エディタースクールという編集の専門学校に行ったんです。自分には出版社ぐらいしか勤めができないという感覚があったからなのですが、それにしてもやっぱり、会社勤めが大前提ではありましたね。
若林 そうやって「会社」と「社会」ということばの関係を漠然と考えてみただけでも、畑中さんの勘通りはあたっていそうで、やり「社」という字がキーワードになりそうです。
畑中 齋藤毅『明治のことば:東から西への架け橋』(講談社、1977年/『明治のことば:文明開化と日本語』講談社学術文庫、2005年)というとてもよい本が、ここでは大変参考になります。
若林 私も関係しそうなところに目を通してきましたが、「ソサエチー」(society)という語を翻訳するにあたって、当時の人びとがいかに苦労したかが詳細に書かれていて面白いですね。
畑中 彼らは、そもそも自分たちが「ソサエチー」と一致する抽象的な概念をもっていないことに、まず気づくんですね。それでどうしたかというと、いくつかの段階に分けてこれを理解しようとしたと、著者の齋藤さんは分析しています。
「明治のひとたちの、この概念へのアプローチは、まず、人為的・目的的な人間集団への着目にはじまり、ついで自然発生的な部分社会を意識し、最後に抽象的な人間のつながり一般を理解するに至ったようである」
山下 いきなり抽象的な関係性を理解しようとする前に、まず具体的なところから考えていったわけですね。
「横浜亜三番商館繁栄之図」(三代目歌川広重、1871年) Photo by Heritage Art/Heritage Images via Getty Images
若林 この本によれば、「ソサエチー」は何よりも「ヨコのつながり」に基づくものと考えられたそうです。そこでまずやったのは、日本社会に以前からあった「ヨコの関係」を探すことだったとあります。従来の日本社会ではタテの関係が主ではあったわけですけれど、例えば私と山下さんが同列で出会えるような「ヨコ」の場所もあるにはあって、それが「信仰や趣味・娯楽・運動または商売などの共通の目的で同志相寄って組織する団体」だったそうです。こうした従来ある組織や団体を指すものとして、「社」ということばがあった、と本には書かれています。
畑中 日本における「社」という語の使い方は、中国の宗教的・地縁的共同体を「社」と呼ぶのに近い用法だった、と書かれていますが、齋藤さんは「今日の『法人』をさして『社会』とか『会社』とか『公会』といったのも、そういう現象のあらわれであった」と説明しています。
若林 まずは従来の社会のなかから「ヨコのつながり」を表す事例を探したのが第一段階だとしますと、そこから次の第二段階に進んで、今度は「社会」という語の前に別のことばをつけることが始まり、例えば「上等社会」「下等社会」「学術社会」というようなことばが発生してきたと。これが何を示すかと言いますと、齋藤さんの説明によれば、「このような限定詞を付した用法が生まれたということは、限定されない社会──つまり社会一般──の存在を暗示することとなる」ということで、齋藤さんは、これをもってして「『社会』の語と観念が成立したといってもよいことになる」と結論しています。
山下 そこで抽象的な意味での「社会」が訳語として定着していった、ということですね。
若林 明治期において、「ソサエチー」の訳語が定着する前には、本当にたくさんのことばがあったみたいですね。ざっと並べてみましょうか。
会/公会/会社/仲間会社/衆民会合、社/結社/社友/社交/社人/社中、交社/交際/世交、人間/人間道徳/人間仲間/人間世俗/人倫交際、懇、仲間/組/連衆/合同/一致/仲間会所/仲間連中、為群/成群相養/相生養(之道)/相済養、世俗/俗化/俗間/世間/世道/世態、民/人民/国民/邦国/政府
山下 ……もう何がなにやらですね(笑)。とはいえ、「社会」ということばに含まれる意味内容の豊富さが、これを見るだけで知ることができますね。「社会」ということばの用法がひとまず社会のなかに定着したとはいえ、仲間といった意味から、ガバメントといった意味まで、いまなおゴチャゴチャに含んでいるということなのかも知れませんね。「社会」と言ったときの定義しづらさといいますか、取り止めのなさは、明治に訳語をあてたときから変わっていない感じすらしてきます。
ひとつではない、たくさんの「世間」
畑中 ここで面白いのは、「社会」ということばを通じて「社会一般」という概念がつくられたというところですよね。これはいまなお私たちの通念でもあるかと思うのですが、私たちが最も広い意味で「社会」という語を使うとき、そこでは「社会一般」というものが茫洋としたものではあるにせよ、ひとつだけ存在していると考えるわけですね。
山下 単数形としての「社会」ですね。
畑中 例えば私たちが「社会に出る」というとき、「社会」をひとつの「社会一般」という感覚で捉えているように思うんです。社会が複数あるという感覚で、「社会に出る」とは言っていないはずです。
若林 たしかに。
畑中 しかも、ひとつの会社に勤めることが、ひとつの大きな社会に出ていくこととイコールになっているのが私たちの感覚ですよね。これが、私にはちょっとよくわからないところではありつつ、面白いですね。というのも、先ほど「ソサエチー」の訳語のひとつに「世間」という語がありましたが、ここで思い浮かべるのは、宮本常一の『忘れられた日本人』に収められた「女の世間」という文章です。
若林 どういった内容でしょう。
畑中 かつての日本社会には「女性は世間を知らない」という考え方が前提としてあり、若い女性はある年齢になると、それこそ「世間を知る」ために、いきなり村を出奔して旅に出るといったことがあったと宮本は書いています。あるいは自分の意思で奉公に出ていくこともあったと指摘しています。ここで重要なのは、「世間」というものがひとつではなく、複数あると考えられていることです。そのいくつもの「世間」を見て歩かなければ、しきたりにとらわれてしまって、共同体も発展していかないという考えが、かつての日本にはあったというわけです。つまり民俗社会においては、複数の「世間」を見るべきだという考え方があったのではないかと考えられるわけですが、宮本は、そうやって複数の世間を渡り歩いて、それぞれの世間を見聞して廻る「世間師」という存在についても書いています。ちなみに、フランスの社会学者であるピエール・ブルデューは「界」という概念を用いていますが、これも単数ではなかったと理解しています。
山下 そうした「世間」観は、やはり意外性がありますよね。日本社会の社会観というときに「世間」のイメージはもち出されやすいし、実際に多くの人が論じているとは思うのですが、あまり複数の「世間」という感じではない気がします。かつてあった「世間」の概念が「社会」という概念によって上書きされてしまった感じですね。
畑中 「世間」に関する本で最も代表的なのは、阿部謹也さんの『「世間」とは何か』(講談社現代新書、1995年)ではないかと思います。ここでは、どちらかというと「世間」は批判的に論じられていますね。
山下 メンバーの顔が見える関係性のもとに、文化が永続的に保たれているものとしての「世間」と、メンバーは常に更新され、共同体自体もメンバーが変えていくのが西洋的な「社会」という姿が、徐々に見えてきますよね。確かに阿部先生は「世間」を論じていますが、いまの畑中さんのお話を聞くと、批判されている「世間」は、必ずしも複数の「世間」ではない感じはします。改めて思うのは、日本人が「社会」というとき、それを「世間」ということばとの類比で捉えてしまいがちですが、そもそも「社会」と「世間」とでは、示すものが違っていたということですよね。それが一種のボタンの掛け違いとなって、長いこと、私たちが自分たちが生きている空間──それを「社会」と呼ぶのか、「世間」と呼んだらいいのかよくわかりませんが──をうまく捉えることができていない原因になっているのかも知れませんね。
1950年頃の日本の農村の風景 Photo by Orlando /Three Lions/Getty Images
メンバーシップの”横”と”縦”
畑中 ここで改めて「社」ということばが何を表しているのかに戻るのですが、気になっているのは「社稷(しゃしょく)」ということばです。エドゥアール・シャヴァンヌという20世紀フランスの人類学者が書いた『古代中国の社:土地神信仰成立史』(菊地章太訳、東洋文庫、2018年)という本がありまして、古代中国において、「社」の語が何を意味していたかが解説されているのですが、基本的に「社」とは、土地神を祀る祭壇のことであり、さらには氏族や血縁ではない、土地を中心として結びついている人びとのことを表していたそうなんです。
山下 土地を媒介とした横のつながりということですね。
畑中 はい。さらに、もう一方の「稷」は、穀物の神様を祀る祭壇のことで、たいていは「社稷」とセットにして、氏族・血縁ではなく横に結びつく共同体のことを指していったそうです。これは、「ソサエチー」の訳語としての「社会」、ひいては私たちがここで考えてみようとしている「会社」という概念にも、大きな影響を及ぼしているのではないかというのが私の見立てです。
山下 血縁ではなく土地を媒介した横のつながりを基盤に、複数性をもった民俗学的な可能性としての「社」と、近代化のなかで形づくられてきた「社」のあいだに、どこか断層があるのかもしれませんね。というのも、現在の「社」の語には、ゆるぎない「ひとつの共同体」というイメージがすごく強くあると感じるからです。小熊英二さんの『日本社会のしくみ:雇用・教育・福祉の歴史社会学』(講談社現代新書、2019年)を読んでいると、明治から現代に至るまでの日本の社会システムが、基本的には大企業のありようをなぞるようなかたちで構築されてきた、という論調が見えるのですが、そのなかで、日本の会社組織の特徴と欧米型の会社組織の特徴の最大の違いというのは、メンバーシップのありようなんだと書かれています。欧米の企業のメンバーシップの考え方というのは、まさに横のメンバーシップ=職種が基本になっています。例えば鉄を曲げる技術をもっている工員の横のつながり、あるいは会計をできるような技術をもった人たちのつながりといったように、組合も業種別・職種別に構成されていくのが基本的な考え方。けれども、日本というのは基本的に縦のメンバーシップしかない。横のつながりが弱いというところが、日本の会社の特徴であると考えるわけですね。
若林 日本の労働組合は、基本が企業別組合ですしね。
畑中 それで言うと、日本は近世までのほうが、横のつながりがあったんです。例えば、年齢階梯制というものがありました。若衆・中老・年寄という三区分が最も有名ですけれど、年齢層による横のつながりがあったんです。若い男性たちであれば、結婚するまでに女性とうまくやっていくにはどうすればいいかとか、共同体の外へ出稼ぎにいくときにはこういうことをわきまえていなきゃいけないといった学びが、横のつながりのなかであったわけです。他にも、子どもは子どもだけで祭りのある部分を担うとか、女性は女性だけで講をつくって、姑のいびりから逃れるにはどうすればいいか、蚕をうまく飼うにはどうすべきか、というような情報共有をしていた。もちろん家父長制が中心にあったし、年長者が年下の年齢に教え諭すような部分も他方ではありましたが、それでも年齢ごとに横のつながりというものが、日本の民俗のなかでは、かなり細分化されていたわけです。また先ほどの「社稷」という概念を見ても、「横」は「横」のつながりなんですよね。
山下 近代化される前の横のつながり、ということですね。
畑中 他にも、ある職種だったり、ある技能をもっていたりする人たち、または地域の人びとが集まった、そんな講や講社がかなりありました。首都圏で言うと、いまはトレッキングなどが盛んな相模大山は、かつては信仰の対象であって、そこに参詣するために何人かで講をつくって登山をするようなことが行われていましたし、青梅の御岳山にも、同じような講が組織されていました。会社がなかったからこそかもしれませんが、横のつながりがあって、そこで情報の交換や共有がされていたわけです。
葛飾北斎「冨嶽三十六景 諸人登山」(1830~32年頃)。富士を信仰する人びとの講社は「富士講」といわれた Photo by Heritage Art/Heritage Images via Getty Images
商人の世界から(実は)遠く離れて
若林 ここまで話してきて、私が気になっていたことを考えるための手がかりが、すこし掴めたような気がします。例えば佐々木銀弥『日本商人の源流:中世の商人たち』(ちくま学芸文庫、2022年)という本がありまして、ちょっと例として言及させてもらうと、裏表紙にある内容説明には、こんなことが書かれています。「いわば現代経済社会の基礎は中世の商業社会にあるといえよう」。言い換えれば、私たちが生きている現在の「会社というものがドライブしている経済」というのは、商人世界を源流としているということになるわけですが、この言い方というかナラティブは、わりと人口に膾炙しているように思えるわけですね。
山下 近江商人の「三方よし」(買い手よし、売り手よし、世間よし)の理念などは、ビジネスの界隈では、いまなおしょっちゅう言及されます。
若林 自分がよくわからないのは、経済というものが、ある意味「商人」の延長として語られることが一般的にありながら、会社という概念を見てみると、そこに商人的なコンテクストはなくて、先の「社会」の訳語で見たように、どちらかという商業世界とは切り離された共同体/コミュニティをめぐるコンテキストに終始してしまうところなんです。
山下 たしかに。
若林 山下さんと文化人類学者の松村圭一郎さんとご一緒して制作した『働くことの人類学【活字版】:仕事と自由をめぐる8つの対話』(黒鳥社、2021年)のなかで、個人的にとても印象に残っているのは、中川理さんが南フランスの零細ズッキーニ農家について話されていたくだりでして、そこでは、市場(いちば)というものが本来は小規模商人や零細農民の味方であって、それこそ定価もないままに値切ったり値切られたりするなかで成立する世界だったのが、資本主義の発展に伴ってそれが失われていることが語られています。要は、市場(いちば)と資本主義は明確に対立するものとして零細農家には認識されているということなんです。
畑中 もやは商人世界は、「まけてんか」と値切る大阪のおばちゃんに、わずか残るのみ(笑)。
若林 はい(笑)。自分はそれを、商業世界、もしくは商人世界が失われていっていることとして理解したのですが、それを踏まえて、改めて会社って何なのかを考えると、よくわからなくなってくるんですね。ビジネスの源流としての「商人」が語られる一方で、市場を舞台とした商人世界は資本主義と対立するものとしてある。と、すると会社はいったいどちらに与するものなのか。
畑中 商人世界のダイナミズムを日本の歴史のなかにどう位置づけ、どう価値づけるかは、まさに歴史学者の網野善彦さんが問題にしたところでもありますね。
若林 そう思いまして、今回、網野先生の『日本の歴史をよみなおす(全)』(ちくま学芸文庫、2005年)に目を通してきたのですが、ここでも商業という視点から、スタティックで固定化されたメンバーシップによる日本の社会像を覆されています。例えば、こんなことが書かれています。
「これまで歴史家は、中世社会を、もっぱら農業を基礎にした封建社会と考えてきましたが、この社会はそれだけでの定義ではとうていとらえきれないものがあります。(中略)まだ神仏と結びついているとはいえ、商業資本、金融資本が動いており、米、絹、布などは、交換手段、支払手段、価値尺度の役割をはたす貨幣として機能し、本格的に流通しているわけで、十二世紀にはこうした経済のあり方が軌道にのっているのです」
畑中 網野さんのテーゼとしては、農民は百姓ではない、というものがありますね。米中心の年貢制度が確立されてから日本の農村、ひいては日本社会自体のイメージも固定化されてしまいましたが、網野さんの見方からすれば、百姓はお米だけをつくっている人たちではないんですね。例えば近世より前の税を見ると、米以外のもの──塩、栗、柿、生糸といったようもの──が納められていたとわかるわけです。
山下 あるいは『日本経営史[新版]:江戸時代から21世紀へ』(宮本又郎他、有斐閣、2007年)には、江戸時代に初めて国内の通貨が統一され、交通・運輸手段も整備され、開墾も進んで農業生産が安定することによって、農業と商業にそれぞれ分業化していったとありますね。モダンの世界に至る初期プロセスとしての江戸時代というものが、日本経営史上の位置づけとしてはあるようです。
若林 そこなんですよね。かつては商業も農業も渾然一体となっていたのが分化していくなかで、わたしたちが漠然と「経済」と呼んでいるものが、どうやって農業や商業といったものを位置づけながら集約していったのかというところが、私がよくわかっていないところでして、これはおそらく資本主義の歴史に関わるところだとは思いつつも、会社と商業がどういう位相にあるのかは、知りたいところなんです。そこで、A・D・チャンドラーという人が書いた、『大企業の誕生:アメリカ経営史』(丸山惠也訳、ちくま学芸文庫、2021年)を読んでみたところ、アメリカで商人というものが「経済」なるものから駆逐されていくプロセスが書かれていて面白かったんです。こんな経緯が書かれています。
「これら運輸業、また後には工業の企業を管理するためには新しい経済人種──プロの専門の俸給経営者──が必要だった。それには商人や職人だった人はまれであった。彼らは新しい血統のビジネスマンであり、土木技師あるいは機械技術者として訓練を受けた。(中略)実に、この国最初の技術学校は、専門の技術者に対する新しい企業のニーズにこたえてつくられたものであった。(中略)新しい事業の技術が古い商業の世界のものとは異なっているのと同様、彼らの受けた訓練、経験、そして生き方全体は、前近代的産業経済を営んでいた商人のものとは根本的にちがっていたのである」
つまり世界が産業経済化していく過程のなかで、「古い商業の世界」は、ある意味切り捨てられ、商人に取って代わる新しいプレイヤーが中心となっていくんですね。
19世紀に撮られた、アメリカ最古の鉄道のひとつである「ボルチモア&オハイオ鉄道」の様子 Photo by Universal History Archive/Universal Images Group via Getty Images
山下 日本の近代化の過程でいえば、明治の財閥のマネジメント層というのは当初、丁稚や手代から上がってきた人が中心だったわけです。つまり、商人層が経営していた。そこに人材として新たに送り込まれてきたのが、現在の慶應義塾大学や一橋大学といった学校の出身者たち。対して、非財閥系はビジネススクール出身ではなく、アメリカと同じく鉄道のマネジメントをやっていた、むしろエンジニア畑のような人たちが経営に入っていった。日本の企業の経営と、商人の世界が、単純な関係で結びつかなかったというのも、こうした背景があるのかもしれませんね。
若林 会社を考えるにあたっては、商人からエンジニアへの転換という断層も考慮すべきなのかなとも思いつつ、改めて明治期の人を襲った転換の大きさにビビるわけですが、それまであった日本のあり方から脱し西洋のあり方に適応しつつ、同時に、その西洋で起きていた、例えば商人世界からの脱却といった転換にも適応しなくてはならなかったのだとすると、その困難が二重どころか、三重、四重にも複雑なものだったことがわかりますね。しかも山下さんがおっしゃった通り、色んな認識のズレが、それこそボタンの掛け違いのようにして、時代を経るなかでどんどん広がってもいそうです。
山下 そうですね。「世間」や「社会」という語や、「横の社会」をめぐる文脈を見ただけでも、その混乱ぶりはわかりました。しかもその混乱がダイレクトに私たちの現在の「会社観」にもつながっているのだとすると、率直に言って、これは私たちなぞには到底手に負える話題ではないです(笑)。
若林 いやほんとにそうですね。今回も、ほとんど試験前の学生みたいな感じのにわか勉強で臨んだわけですが、にわか勉強なりに、個人的には気づきも多かった気もしますので、あまり気張らずに夏休みの自由研究のような感じで進めていけたらと思うのですが、次回は、渋沢栄一『論語と算盤』、福沢諭吉『学問のすゝめ』、そしてマックス・ヴェーバーの『プロテンスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を題材にしながら、「勤労をつくる」というお題で考えてみたいと思います。
畑中 勤めるにあたって、お金をもらう以外に、どんなモチベーションがあるのか。経営者の側は、社員にどんな動機をもたせるのか。働くほうにとっては、なぜ働くのか。そんなあたりを考えていけたらと思っています。
12月13日に行った「会社の社会史 第2回:『勤労』をつくる:『働くこと』をめぐる新たな道徳」のレポート記事は、3月28日のニュースレターでお届けする予定です。渋沢栄一、福沢諭吉、マックス・ウェーバーなどの古典的名著をヒントに、日本人の「勤労意識」の源泉に迫る必読の内容です。お楽しみに!
【「会社の社会史」第2シーズン、4月よりスタート!】
WORKSIGHTが誠品生活日本橋とのコラボレーションでお届けする全7回のイベントシリーズ「会社の社会史」。【第1シーズン】は2022年12月から2023年1月にかけて、3回のトークショーを開催しました。登壇者3名が挙げる参考文献を読みながら「日本人にとって『会社』とは何なのか」を探る本シリーズ、待望の【第2シーズン】は4月よりスタートする予定です。詳細は今後のニュースレターやSNSでお知らせいたしますので、お見逃しなく!
「会社の社会史 -どこから来て、どこへ行くのか-」
【第2シーズン】開催日程・各回テーマ
第4回|4月18日(火)
「奉公・出世・起業 ビジネスで『身を立てる』ということ」第5回|5月16日(火)
「会社と宗教 カリスマ経営者とその霊性」第6回|6月20日(火)
「オフィスとサラリーマン 『サラリーマン』とは何ものなのか?」
次週2月28日は、メディアは本当に「当事者の声」を聞けるのかどうか、障害学の第一人者である星加良司・東京大学バリアフリー教育開発研究センター教授にお話をうかがいます。すこしずつ変わりゆく社会のなかで、マイノリティとマジョリティの関係は、どのようにありうるのか考えます。お楽しみに。