“津々浦々”に至る産業史:コインランドリーは公共の夢を見る【後編】
ふと気づけば、日常の風景のそこかしこにある。それが、コインランドリーのあり方だ。前編では、フランチャイズ経営者たちへの取材をもとに、私的な営みがコミュニティ化していく可能性と、残された課題を探っていった。話はむしろ、ここから始まる。コインランドリーが現在まで、どんな歴史を歩んできたのか。その軌跡を追いつつ、“自生的なネットワーク”という普遍的なテーマを考えたい。
コインランドリーのことを包括的に知りたいと思っても、手がかりとなる資料があまりに少なかった。そして、その包括性のなさ、目立たないながらも繁茂するように広がるあり方こそが、コインランドリーの面白さなのではないかと感じた──。このように、前編で述べた。
ランドリーのなかで、人びとが(人知れず)交流する。ランドリーのオーナー同士で自然発生的なネットワークを形成する。「洗濯」という日常的な営みを中心に置きながら、その周囲には、ゆるゆるとした人の動きが見て取れる。ただ、いくら自生的とはいえ、ランドリーが地面から勝手に生えてきたわけではない。人工的に構築され各地に広がってきた、歴史的な経緯というものは、たしかにある。
前編で触れた『コインランドリーの歴史 1991年版』(全国コインランドリー連合会 編)が、この後編のひとつの足場になる。また引き続き、コインランドリーのチェーン〈mammaciao(マンマチャオ)〉を手がける業界のベテラン、株式会社エムアイエス代表取締役・三原淳氏と、ニューフェイスとして〈Baluko Laundry Place〉を展開する株式会社OKULABの元代表取締役Co-Founder、永松修平氏にもご登場いただく。現場の声も聞きながら、ランドリーが歩んできた道のりを振り返ってみたい。昼間に太陽光が差し込むランドリーと、夜も更けた頃に室内灯が照らすランドリーの印象が違うように、歴史という光で照らせば、コインランドリーがその内に秘める“公共の夢”もまた、異なる見え方をすることだろう。
photographs by Kaori Nishida
interviewed by Shota Furuya / Kaho Torishima
text by Fumihisa Miyata
常に“脇役”だったコインランドリー
諸説あるようだが、コインランドリーのはじまりの地とされるうちのひとつは、霧の都だった。『コインランドリーの歴史』によれば、1930年頃、英国ロンドン市内のアパート地下に居住者用の洗濯設備を置いたのが、コインランドリー誕生の瞬間だったという。市民のあいだで人気を博して次第に普及、「その後アメリカにわたり、本格的なコインランドリービジネスとして発展」していった。
1949年ニューヨークのランドリー、洗いあがりを待つ父子(Photo by Rae Russel/Getty Images)
日本での展開は1950年以降、小規模・短期の試みはポツポツとあった模様だが、「営業用としての本格的なコインランドリーの誕生は1963年、東京・北区の赤羽団地にオープンしたのが第一号」といわれているようだ。
この店をはじめ、当時急激に増えていった店舗に置かれていたのは、外国製の洗濯機。1950年代後半、日本社会で「三種の神器」とされたもののひとつが洗濯機だが、これは家庭用だった。1965年、三洋電機が業務用洗濯機の開発に乗り出し、並行してガス乾燥機も手がけるように。「このとき発売したガス乾燥機やドラム式洗濯機が、後のコインランドリー機器を開発する礎」となったと、『コインランドリーの歴史』は語る。
1960年代後半には、公衆浴場に併設されたコインランドリーの記事が新聞に掲載されている。1970年代にかけて大きく広がって、1976年には全国の公衆浴場の約3割に設置される状況になっていたという。
メーカーも含めたさまざまな担い手によるフランチャイズ経営も、この時期に徐々に広まったようだ。1982年には厚生省が「コインオペレーションクリーニング施設実態調査」の結果を発表。その時点での店舗数は全国で8,412カ所であり、前編に掲載した最新の数字16,693と比べれば、当時から現在まで2倍以上も増えていることになる。同じく前編で触れたように、建築家・宮脇檀が「コミュニティ・ランドリー」の理想を語ったのが、1981年。紆余曲折はあれど、私たちが普段目にしているコインランドリーの風景の原型は、おおよそこの時期に固まったのだと見ることができるだろう。
先ほど公衆浴場にもコインランドリーが設置されるようになったと述べたが、日本における現状を踏まえると、より注目すべきは、業務用の大型クリーニング機器を手がける国内メーカー群だろう。いまも多くのコインランドリーは、メーカーとフランチャイズの連携によって成り立っている。
副業的にコインランドリー経営を検討する個人オーナーなどにフランチャイズがノウハウを提供し、そこにメーカーが業務用機器を納入していく。先述した公衆浴場の横に位置する風景などと合わせて、コインランドリーは、ビジネスや産業の“脇”で発展してきた、といえかもしれない。また、業界団体が集合、離散、再集合を重ねてきたという経緯もある。「正面から語られないコインランドリー」という像の所以は、このあたりにもありそうだが、逆にいえばそこにこそ、自生するネットワークの根のありかが見え隠れする。
文化は広がり、地域に根付く
ここからは、経営者たちの実体験をもとに考えていこう。2000年、業務用洗濯機輸入商社を退社していた三原氏は、アメリカの大手洗濯機メーカー・デクスター社と日本での独占販売契約を結び、株式会社エムアイエスを設立。〈マンマチャオ〉のフランチャイズ展開を始めた。メーカー主体ではないシステムで、コインランドリーが広がっていく。その起点のひとつに、三原氏はなった。
「〈マンマチャオ〉は、日本の働くお母さんを元気にしたい、というコンセプトのもとに始めました。それこそ妻も私も、子どもをおぶったまま電話をとったり、空いているデスクに寝かせたりしながら働いていましたから。家事のなかで特に面倒な洗濯を、コインランドリーで大量に、いっぺんにできたらいい。そんな思いで、世に広めていこうと考えてたんです」
マンマチャオ仙台富沢店の様子(写真提供:エムアイエス)
もちろん洗濯を含めた家事は、男女ともに担うべきものであるのは前提の上での話だ。働く女性が普通になった社会で、洗濯をシャドウ・ワーク化させないためにも、コインランドリーが果たしうる役割は大きいはずだ。洗濯という営みを、コインランドリーほど可視化させてくれる空間もないだろう。
さらに時代はくだり、2016年には、永松氏らがOKULABを創業、〈Baluko Laundry Place〉のフランチャイズ経営に乗り出す。その他にも前編で触れたように、社団福祉法人が運営する施設や地方自治体の庁舎のなかで、ランドリーをコミュニティのハブのひとつとして機能させるべく、さまざまな試みを展開している。
ハードだけでなく、ソフトの面でも、OKULABは多様な取り組みを進めている。ランドリーの可能性を語る〈Baluko Radio〉なるポッドキャストも配信、最新回はフランチャイズの店内で聴くことができる。ワークショップや、〈センタクカイギ〉なるイベントを開催するなど、模索は続いている。
もちろん、コインランドリーの世界で行われている試行錯誤は、ドメスティックな視点に縛られたもののみではない。そもそも日本社会におけるコインランドリー文化が輸入文化として始まったことは先に述べた通りだが、いまもなおその一端は、世界的な潮流と紐づいているのだ。
たとえば近年業界に衝撃を与え、永松氏をして「業界の流れを変えた」と言わしめるのは、ベルリン北部の町モアビット発のブランド〈FREDDY LECK(フレディ レック)〉の日本上陸だった。2017年、東京・目黒通り沿いにOKULABがプロデュースしオープンした〈フレディ レック・ウォッシュ サロン トーキョー〉をはじめ、コインランドリーとカフェが一体となったウォッシュサロンとして、注目を浴びている。
ローカルに、グローバルに。コインランドリーをめぐる矢印は、決して固定されることがないのだ。常に錯綜するものとして、それはある。
〈フレディ レック〉の日本版Webサイトより。「オーナーのフレディ レックは、演劇を若い頃に勉強し、自分を何かで表現したいということと、洗濯というキレイにする行為なのにコインランドリー自体がキレイでないという矛盾を解決したいとして、コインランドリーとカフェがひとつになったウォッシュサロンを立ち上げました」とある。
興味深いのは、こうした半世紀以上にわたるコインランドリー文化の広がりのなかで、地域ごとの特色も生まれてきているということだ。たとえば、九州地方にはコインランドリー文化が強く根付いている印象を受けるそうだ。永松氏は語る。
「九州ではもともと、黄砂が多かったり、桜島や阿蘇山の火山灰があったりと、地域によっては洗濯物を干しづらいという特徴があります。そうした環境を背景にして、文化として根付いていったのではないでしょうか」
こうした観点は、前編で触れた防災とコインランドリーというトピックにも接続しうるだろう。日常生活の時点で、環境への対応というレベルでランドリーが使用されているということでもある。
ランドリーは、医療の拠点にもなる
防災以外にも意外な観点としては、医療とコインランドリーというものがある。たとえばアメリカのスタートアップ〈Fabric Health〉は、もとから地域の人が集まる場所であるコインランドリーを活用し、そこで健康診断などを行っていこうという取り組みで注目を浴びている。
〈Fabric Health〉Webサイトのトップより。自分たちのアプローチは「忙しい家族を、すでにいる場所=ランドリーにおいて援助する」ことだと述べている。医療へのアクセシビリティが問われるアメリカの地で、タッチポイントとしてコインランドリーを機能させようとしている。
1981年時点で建築家・宮脇檀が、発展しつつある日本のコインランドリー界に「アメリカ並みの情報交換やコミュニケーションの場」としての「コミュニティ・ランドリー」を仮託していたことが思い出される。広々とした空間に、地域の人びとが寄り集まり、コミュニケーションが発生する──アメリカではもともと、そうした光景が日常のものだからこそ、医療のハブとしての機能も期待されるわけだ(そこには、アメリカにおける貧富の格差とランドリーの位置づけという、また別の問題が横たわっていることも事実だが)。
日本でも、医療の現場としてコインランドリーが機能する可能性は、もちろんある。そうした取り組みは、アメリカに比べてどうしても敷地面積が狭くなりがちな日本の土地事情との、葛藤のなかで発展していくのだろう。
コインランドリーの”自主管理”?
コインランドリーに並ぶ洗濯機が、それぞれに大きな口を開けているように、コインランドリーの可能性もまた、さまざまに異なる道へと通じている。地域に根付き、暮らしに寄り添い、思わぬ役割も獲得しうる。ほうぼうに伸びゆく道筋は決して、一方向に収斂することはできないに違いない。
コロナ禍のなかで、風景はまたすこし変わっていっているのかもしれない。三原氏は、「在宅ワークの人が多くなったので、洗濯物を溜めてランドリーで一気に洗うのではなく、家でこまめに洗濯できるようになった方が増えたというのは、正直逆風ではあります」と前置きしつつ、「でも、コインランドリーの注目度は、高まっている感覚があるんですよ」と語る。
「『あ、布団洗えるんだ』『羽毛布団も洗えるんだ』と新たに気づいてくださる方が現れている、という実感があります。『コインランドリーって使ったことがないけれど、一度行ってみようか』という方も含めて、“体験”としてコインランドリーに足を運んでくださる方が増えているのかな、と思いますね」
職場から自宅へ、人びとの重心が変わったとき、生活圏のなかで埋もれていたコインランドリーが、ふっと意識のなかに姿を現す。そうして訪れるランドリーでは、もしかしたらコロナ禍前の日々とは異なったコミュニケーションが発生するかもしれない。居合わせた人と会話を交わさずとも、見知らぬ隣人と改めてすれ違うだけでも、それはひとつのコミュニケーションの場である。
永松氏は、「“自分たちのランドリー”として自主管理していくような流れにできたらいいな、と思っています」と話した。
「私たちの店舗はスタッフが清掃をしていますが、24時間常駐しているわけではないですし、他のランドリーを見渡せば無人のところも多い。そこで、やっぱりみんなでキレイに使いたい、と意識してもらえるような仕組みをつくっていければなと考えているところです。自分で使ってみたいと思ってもらうためには、その場への“信頼”も重要だと思うんです。“信頼”を得られるようなランドリーが基本としてあって、それをベースにコミュニティが発生していくのかな、と。そういう存在に、コインランドリーがなれるかどうかですね」
やがてそこには、未知の音楽が流れる
思い出されるのは、映画『ベイビー・ドライバー』(エドガー・ライト監督、2017年)に出てくる、コインランドリーのシーンである。天才ドライバーである主人公は、幼い頃の事故の結果、頭のなかに流れ続ける雑音を消すべく、四六時中イヤフォンをつけ、音楽を聴いている。
そんな主人公がデートに誘った相手の女性と訪れるのが、コインランドリーだ。ランドリーのなかで隣り合って座ったふたりは、イヤフォンを片方ずつ分け合う。ひとりの頭のなかにだけ届いていた音楽が、もうひとりにシェアされる。そこで聴かれる楽曲は、女性の名前と同じタイトルである、T. Rexの〈Debora〉である。
映画『ベイビー・ドライバー』の予告編。1分23秒付近に、コインランドリーのシーンが2カット使用されている。
そのイヤフォンのコードは、見知った相手にだけ伸びていくものだろうか。いや、たぶんそうではない。コインランドリーが街の隅々まで根を広げていったように、ランドリーに集い、通過する人びとのあいだに、コードは伸び、広がっていくことだろう。そこでは、どんな音が鳴り響くのだろうか。おそらくは、誰も聴いたことがない音楽に違いない。
次週12月6日は、なぜオリンピックは絶えずコスト超過を引き起こしてしまうのか?メガプロジェクトにおけるリスク研究の大家ベント・フリービア教授がその理由を解き明かします。お楽しみに。