素直になれば見えてくる:「早来学園」とチームラボの学校づくり【「場」の編集術 #06】
チームラボが空間づくりに携わった北海道安平町(あびらちょう)の早来(はやきた)学園は、次世代の学び場として注目を集めている。そこで重視されたのは、管理を支えるデジタルの仕組みを、あえて見えないインフラとして空間に溶け込ませることだった。子どもと地域住民の自律性を支え、自然な交流を生み出す。その設計思想の中心人物に話を聞いた。
校舎の玄関を入ってすぐの場所にある、地域開放型の図書室。学校の授業時間中でも地域住民が利用できる。ソファやキッチンも備えられ、コーヒー片手にくつろげる空間も
公共施設の複合化が進む地方都市において、学校はどのように地域の人びとの居場所になりうるのか。2018年、北海道安平町が学校づくりのパートナーとして声をかけたのはチームラボだった。WORKSIGHT編集長・山下正太郎による連載「『場』の編集術」第6弾では、早来学園の空間設計を手がけたチームラボより堺大輔氏を迎え、場づくりにおける「素直になること」を考える。
interview by Shotaro Yamashita, Hidehiko Ebi
text by Shotaro Yamashita
photographs by Kaori Nishida
人が留まる条件
2023年に開校した早来学園は、いま教育関係者や自治体関係者の視察が絶えない先進事例として知られている。このプロジェクトでICT(情報通信技術)領域の体験設計を担ったのがチームラボだ。
チームラボといえば、没入型のアート空間をはじめとする最先端のテクノロジーを思い浮かべる人が多いだろう。しかし、堺大輔氏が率いるソリューション領域の出発点には、テクノロジー導入の前に、どんな体験があるべきかという問いが必ず存在している。アプリであれ、建築であれ、音であれ、サイネージであれ、それらはすべて、人がどこで、何を見て、何に気づき、どう動くのかという体験の一部にすぎない。
近年、オフィスに限らず学校や公共施設にも、空間設計に特定の記号があふれている。大きな階段、抜けのあるアトリウム、ガラス張りの会議室、自由に使えるラウンジ……どれも一見すると、開放性や偶発性を象徴する装置に見える。しかし堺氏は、そのような「形から入る」設計に対して、明確な違和感を示す。
堺大輔|Daisuke Sakai チームラボ株式会社取締役。1978年、札幌市出身。東京大学工学部機械情報工学科、東京大学大学院学際情報学府修了。2001年、チームラボ創業時から主にソリューション事業を担当。2002年、取締役に就任。700名規模のソリューションチームを束ね、ジャンルを超えてデジタルツールを活用したクライアントの課題解決を行っている
「最近みんな、大きな階段をつくりたがりますよね。でも、実際はガラガラなところばかり」
大階段そのものが悪いわけではない。氏が以前に視察したイケア・ジャパン本社では、大階段に人が自然と集まっていた。ただし、それは階段そのものの力ではない。人が滞在し、話しかけ合う理由があり、部署配置や動線もそれを支えていたからだ。
逆のパターンも教えてくれた。ある大手メーカーの本社では、クリエイティブな部署間交流を生むために大きな吹き抜けを設けたという。ところが、そこには人は集まらない。実際に人集りができていたのは、無料のコーヒーが配られる給湯コーナーの前だった。
人は、象徴的な建築装置ではなく、そこに身を置く必然に引き寄せられる。かつての喫煙所のような、用事があり、滞在する理由があり、立ち話をしても不自然ではない場所へ。
早来学園の設計においても、象徴的な装置の構想を後回しにし、既存の学校建築がもつ配置や境界を、体験の側から問い直すことから始めた。学校には、児童・生徒のための場所、地域住民が使う場所、両者が共有する場所がある。通常であれば、それらは安全管理や運用のしやすさを理由にきれいに分けられていく。子どもの領域と大人の領域は、壁や鍵によって切り離される。そのほうが管理や説明もしやすい。
安平町が掲げた早来学園のコンセプトは「自分が“世界”と出会う場所」だった。だとすれば、学校の内側に子どもだけを閉じ込め、地域を外部として扱うことは、そもそもの目的と矛盾する。堺氏はこのコンセプトを、抽象的なスローガンとしてではなく、平面計画や動線計画の判断基準として読み替えた。
「世界と出会う場所なら、みんながぎゅっと混ざり合っている場所であるべきだと思ったんです」
ここでいう「混ざり合う」とは、無秩序に開放することではない。子どもと地域住民、互いの活動が見える近さと、必要なセキュリティラインをどう両立させるか。開放(パブリック)・共用(シェア)・専用(スクール)という三層の重ね方が、設計の核心になった。
体験の優先順位から平面を組むチームラボの発想は、空間に象徴を求める建築側の発想としばしば衝突したという。中心に光が差し込む吹き抜けと大階段を据えるのか、それとも人と人の活動が見える近さを優先するのか。そこで問われていたのは図面の調整ではなく、空間を何のためにつくるのかという優先順位そのものだった。
校内にはガラス窓が多く、隣り合う部屋の活動がガラス越しに見える。児童・生徒と地域住民が、お互いの存在を日常的に感じられる距離感にある
素直になるという解き方
体験を設計するとき、堺氏は「カスタマージャーニー」や「ペルソナ」といったことばから距離を置く。メソッドとしては有効でも、それが形式化すると、かえって目の前の体験から離れてしまうからだ。重要なのは、ユーザーになりきり、素直に考えることだという。
「例えば牛丼店なら、入店してすぐに座れ、清潔で、注文したものが早く出てくるお店は、いいお店ですよね。反対に、汚く、遅く、出てきたものが雑なら嫌だと感じる。体験の良し悪しって、ユーザーになりきれば誰しも絶対にわかるんです」
つくり手側の都合や流行語、導入すべき技術ありきの発想が入り込むことで、ユーザーとしての判断は複雑になってしまう。堺氏はそれを「邪心」と呼ぶ。
「共創」や「ウェルビーイング」といったキーワードだけが目的化してしまう打ち合わせも少なくない。ことばだけでロジックを組むのではなく、自身の体験を起点に判断していく。それが氏が説く「素直になる」という方法だ。
従来の「教える/教わる」場所ではなく、「自分自身で学ぶ意味を考える」場所であってほしいという思いから、早来学園では「教室」という名称を使っていない。各ホーム(部屋)のサインには、竣工時に地域の子ども園の園児が書いた名称とサブテーマが記されている
「素直になる」という姿勢は、早来学園の細部に貫かれている。なかでも象徴的なのが、地域住民が使うシェアスペース「まなびお」の入口だ。学校に入るとき、下駄箱を越えて奥に入ることに大人は心理的な抵抗を感じる、と堺氏は言う。自分の子どもの学校に行くときの「自分のものじゃない場所に行く感」を、自身の経験として強く意識していた。扉を開けると、そこは図書室(通称「まなびお図書室」)で、靴を脱がなくていい。
図書室に関して、堺氏が井内聖教育長と共に押し通したこだわりのひとつには、「コーヒー」がある。
「学校のなかにコーヒーを置くのって、本当に大変だったんです。誰が管理するの、管轄は教育委員会なの、と。でも体験に素直になったら、おばあちゃんたちがいて、ソファがあって、暖炉があって、それがみんなが集まりやすい場所じゃないかって」
実際、開校後の図書室では、「赤ちゃん教室」をやっていた若いお母さんたちと、たまたま居合わせたおばあちゃんたちが井戸端会議を始める、といった光景が起きている。「コーヒーを置きましょう」と主張したのは、そうした偶発的な接触を支えるための装置を、運用ルールの壁を超えてでも実装したかったからだ。
「コンセプトレベルだけで語るのって、絶対良くないんです。上のコンセプトレベルでのちょっとしたズレが、実装レベルに落ちるとめちゃくちゃズレるんですよ」
図書室の本棚はあえて曲線を多用し、回遊性を高めることで知へのアクセスを刺激する。「ストーブや暖炉など、暖かいもののまわりに人は集まる」という北海道出身の堺氏ならではの発想のもと、部屋のなかに暖炉も置かれている
テクノロジーは背面に
体験から逆算するという思考法は、ICTの導入にそのまま引き継がれている。早来学園の予約システム、電子ロック、顔認証、サイネージは、技術ありきで導入されたわけではない。すべて「人が集まるため」の手段として、必然的にそこにあるべきものとして配置されている。
地域の人が共有教室を使いたいと思っても、いつ空いているかわからなければ足は遠のく。一般的な公共施設の予約システムについて、堺氏は使いづらさを率直に指摘する。窓口に行き、電話をかけ、専用のカードを発行してもらう。これらはすべて人を遠ざける心理的ハードルでしかない。だからこそ早来学園では、空き状況をオンラインで確認し、ツークリックで予約できるシンプルなシステムを導入した。教務側の負担も無視できない。手作業で空き情報を入力していては続かないため、教務システムから自動で空き情報を取得する仕組みにしている。
子どもにカードをもたせるわけにもいかない。そのため、扉の両側に顔認証を設置し、登録された子どもは自由に行き来できる一方、地域の大人は予約した範囲までしか入れないようにした。鍵の受け渡しを誰かが担当するようでは、地域開放はいずれ続かなくなる。だからこそ、電子ロックによって自動化している。
「全部、人が集まるためにやっていることなんです。みんなを集めたい、近くにいたほうがいい、そのための空間。じゃあ、空いているか空いていないかがわからないと人は来ない。だったらオンラインで見えるようにする。オンラインにしたときにストレスなく使いやすくないと誰も使わない」
利用者から見れば、テクノロジーはほとんど意識されない。料理教室の予約時間になれば扉が開き、なかに入って料理を始める。ただそれだけだ。専用のアプリも、ICカードも、暗証番号も介在しない。ICTは、使う側の前に立ちはだかる壁ではなく、ふるまいの背後に沈んだ見えないインフラとして機能している。
地域住民がWeb予約し、学校時間割と連動して利用可否が切り替わる「ABIRA SHARE」。予約連動スマートロック、教室脇タブレット、校内・役場等のサイネージ、地域と学校の入口分離、顔認証アクセスが採用されている
早来学園がユニークなのは、先進的なICTを備えたことではなく、むしろICTが前面に出てこない点にある。ここで起きているのは、単なるDXや省人化ではない。管理を否定したのでもない。むしろ管理は、より精密に設計されている。電子ロックの権限管理、予約システムとの連動、顔認証の登録、サイネージへの情報配信。これらはすべて、安全と運用効率を保証するための装置である。ただし、それらが利用者の前にハードルとして現れないように、徹底して背景に押し込まれているのだ。
早来学園の開放・共用・専用という三層構造は、空間の話であると同時に、権限と情報のレイヤーの話でもある。誰がどこに入れるのか、誰がどの時間にその部屋を使うのか、誰がその活動を見られるのか。それらが空間とデジタルの両側から整理されているからこそ、強制された交流ではなく、誰かの活動が自然に視界に入る「近さ」が成立する。
この「管理を見えなくする」という発想は、チームラボがソリューション領域で長年積み重ねてきた仕事の延長線上にある。堺氏のチームは、三井不動産が運営するららぽーとのアプリも手がけている。利用者が新しい店にもう一歩踏み込めたら、本人も商業施設も嬉しい。そう考えると、解決手段はPOPやチラシ、店員の呼び込みからアプリのプッシュ通知まで多様に存在する。アプリは結果としての手段にすぎず、出発点はあくまで「どんな体験にしたいか」だ。同じ思考法が、学校という公共空間にもち込まれている。
上:8~9年生(中学2~3年に該当)のホーム。7年生以降は自分自身の席は無く、ホームで身支度を整えて、授業のある部屋へ自分で向かう。子どもたちは学校生活を通じて自律的な行動を学んでいく 下:チームラボの東京オフィスは、デスクや椅子の距離が近く、自然に会話や共創が生まれる設えになっている。早来学園のプロジェクトメンバーにも、この距離感を体感してもらうために視察に来てもらったという
箱でもシステムでもなく
早来学園は、よくできた建物とシステムである。しかし、それだけでは場は動かないと言う。
「箱をつくっただけでは人は動かないし、システムをつくっただけでも人は動かない。そこに人がいるからこそ動くんだと、改めて痛感しました」
開校後、堺氏が印象に残っている存在として挙げるのが、「まなびお」にいる地域おこし協力隊やコンシェルジュのような人たちだ。20代の若いスタッフが、子どもたちをファシリテートし、地域の人を迎え、誰かと誰かを紹介し、活動のきっかけをつくっている。予約システムは部屋を使いやすくする。電子ロックは鍵管理の負担を減らす。サイネージは情報を可視化する。しかし、誰かの関心を拾い、別の誰かにつなぎ、少し背中を押し、その場に居てもよい空気をつくることは、人にしかできない。
設計の理念と現場のあいだには、つねにズレも生まれる。教室は当初、一方向に座るのではなく、向きを変えたり集まったりできる多方向的な使い方を想定していた。しかし、実際には先生の授業スタイルによって従来型の使われ方に戻ることもある。吹き抜けの踊り場に集まるためにクッションを置いたら、しばらくして撤去されてしまった、という話も笑いながら明かす(編注:その後、校長先生の判断によりクッションは再び置かれることに)。
これを設計の失敗と見るのか、場が生きている証拠と見るのか。堺氏の立場は後者である。だからこそ、開校後にコンセプトと運用をつなぎ続ける人の存在が決定的に重要になる。井内教育長のように、現場の摩擦を受け止め、関係者をつなぎ、ソフト面のアップデートを続ける人。コンシェルジュのように、人の動きを見て、活動の芽を拾い、子どもと地域のあいだに橋をかける人。彼らもまた場の編集者である。
上:音楽室は体育館の奥にあり、ステージ機能も兼ねている。中学校の部活動は、教員の働き方改革や少子化による部員減少を背景に、学校単位から地域クラブへの移行が進められており、早来学園の児童・生徒もこの場所で活動する地域の吹奏楽団に参加している 下:サイロを模した技術室もスマートロックで管理されており、地域住民が日常的な工作の場として活用している
偶然を設計する
堺氏は、建築や公共空間を、ウェブサービスやアプリケーションに近いものとして捉えている。
「ウェブサービスのいいところは、ローンチした後、リリースした後もずっと改善できることなんです。それが一番の救いというか、ずっと変え続けられる。これが案外、建築施設の世界では意識されていない」
建築は通常、設計・施工され、竣工し、引き渡される。改修やメンテナンスはあるが、基本的には完成したものを使い続けるという想定が強い。しかし、人の活動を受け止める場である以上、変わり続ける余地がなければ、いずれ硬直する。学校の教育方針、地域の人口構成や、子どもの数、働き方も変わっていく。にもかかわらず、建物だけが完成時の想定に固定されてしまえば、現実とのズレが大きくなるばかりだ。
堺氏の感覚は、早来学園以外の公共施設プロジェクトにも共通する。例えば提案を取りまとめた鎌倉市役所の本庁舎建て替え案件では、「窓口を減らす」というテーマが先行しがちな状況に対して、堺氏は強い違和感をもっている。
「みんな、窓口を減らすことが目的になっている。減らすこと自体はいますぐできるが、まずはメンタリティを変えないと」
上:ホーム(教室)はすべて異なるサイズで設計され、360°どの方向に向けても授業ができる。他方、公立学校では教員の異動が定期的にあるため、使い方に慣れた頃には担当者が変わってしまうことが悩みだという 下:校舎内には、児童・生徒が自由に使用できる場所が各所に設置されている。写真は階段下の籠もりスペースの入り口。学校のなかにある秘密基地のような場所だ
物理的に窓口を減らすだけでは、市民の体験も、職員の働き方も変わらない。むしろ、居場所を失った職員と、相談先がわからなくなった市民が慌てるだけだ。だから鎌倉市役所のプロジェクトで堺氏が提案したのは、建物のリリース後も建築側のチームと自治体、市民が集まるコンソーシアムをつくり、使い方の変化を見守り、運用とルールを更新していく仕組みだった。場は、リリース後に育てる必要がある。
この「リリース後に育てる」という発想は、これまでの公共建築の責任範囲を組み替える。設計者の仕事は竣工で終わらず、ICTの開発者の仕事も納品で終わらない。建築家、デザイナー、エンジニア、行政職員、地域コーディネーター、コンシェルジュ。従来は別々の役割として扱われてきた人たちが、場の運用と更新をめぐって継続的に関わる必要がある。公共空間の価値は、設計図ではなく、リリース後の編集体制によって決まる。
「綺麗でかっこいいプレゼンをつくろうが、実際に形にすると、想定していた体験とは変わってしまう。だから、僕らは絶対に実装までやる。そこまでやりきらないと意味がない」
校舎の周辺には、農地や酪農地のほか、日本有数の競走馬の産地であるノーザンファームなど、国内トップクラスの生産・育成牧場が広がる。近年、安平町は独自の教育や子育て支援に力を入れており、転入者が転出者を上回る社会増にもつながっている
早来学園は、いま多くの人に参照される場所になっている。しかし堺氏自身は、誰でもそのまま真似ればよいとは考えてはいない。「『早来学園と同じものを』というご相談をたくさんいただくんですが、そんなに簡単な話ではなくて」
安平町には、早来学園を成立させるための条件がいくつも積み重なっていた。震災からの再建という背景、「自分が“世界”と出会う場所」という明確なコンセプト、人口約7000人の町ならではの、顔の見える関係性。隣接する子ども園と学校がすでに混ざり合っていたという下地があり、さらに井内教育長のように構想を前へ進める人、コンシェルジュのように日々の場を動かす人がいた。性善説で運営するという「決め」さえも、町の規模と関係の濃さに支えられていたと言えるだろう。
公共空間は、管理によって生きるのではない。かといって、管理をなくせば生きるわけでもない。必要なのは、管理を人の行動を止める壁ではなく、自律を支えるインフラへと変えることだ。そして、自律は放任ではない。見ているだけでもいい。少し立ち止まるだけでもいい。自分自身の興味・関心に偶然気づくだけでもいい。そうした弱い関わりを受け止める余白があって初めて、場は日常のなかで育っていく。堺氏が「自分の好奇心にたまたま気づく」ことの重要性を説くとき、その「たまたま」は、ただの偶然ではない。徹底して設計された偶然である。
管理を見えなくして、人びとの自律を支える。そうすることで、人は初めて自分の意思で場に関わり始める。早来学園の価値は、そこにある。
【WORKSIGHT SURVEY #66】
Q. 安全が確保されていれば、学校は地域住民に開かれているほうがよい?
早来学園では、地域住民が利用できる図書室や特別室を校内に設け、地域の人びととゆるやかに混ざり合う公共空間として学校を活用しています。あなたは、十分なセキュリティがあれば、学校は地域住民に開かれているほうが望ましいと思いますか? 皆さんのご意見をお聞かせください。
【WORKSIGHT SURVEY #65】アンケート結果
モノを囲んで、見つめる技術:下北沢国際人形劇祭、思わぬ盛況の背景(6月2日配信)
Q. 「人形が演じる劇」と「人が演じる劇」を比べたとき、「人が演じる劇」のほうに違和感をもつことがある?
【はい】文楽と歌舞伎で同じ演目の場合、人が演じると生々しくなりすぎる。モノガタリを楽しむには、断然、文楽が面白いと思う。
【はい】「人が演じる劇」は、観客の視点が人間とその人間関係に固定されてしまう側面があり、観る側のイマジネーションを奪う危うさがある。その最たる例が、SNSのショートドラマのように、ひたすら人間の欲望を刺激する劇である。オブジェクトシアターは、観る側にその解釈の一部を委ねる点で民主的な演劇手法だと感じた。
【いいえ】人が演じる劇は、観客である自分もそれがそのような空間(演劇空間)に「つき合っている」という感覚があるため、これまで違和感をもったことはなかった(かつての新劇的表現を見せられた場合は別として)。演劇空間は非日常空間であり、そこに日常的な感覚(価値基準)を差し挟むことはなかったからだ。今回の記事を読んで、そう感じることあるのだと気づかされたのは貴重な学びだったが、しかしそれは日常感覚の延長で観ることからくる違和感なのではないかとも思う。
【いいえ】むしろ人形劇の方が違和感を感じる。
次週6月16日は、自然界の報道写真家・宮崎学氏へのインタビューを配信。近年、全国各地でクマの目撃情報と人身被害が激増するなか、この異変を何年も前から予見し、警告し続けてきた氏に、現在のクマ問題の本質や、自然との向き合い方についてじっくりとお話を伺いました。お楽しみに。
【新刊案内】
cover illustration by Natsujikei Miyazaki
書籍『WORKSIGHT[ワークサイト]30号 新しい中世 The New Middle Ages』
ルールが壊れ情報が氾濫する2020年代は、まるでかつての中世のようだ。そこで「現代は中世である」という仮説のもと時代の再解釈を試みる。中世の再来を予言したウンベルト・エーコ、心理占星術研究家・鏡リュウジ氏や現代魔女・円香氏、中世ゲーム研究、政治学者が読み解く「中世という過渡期」を経た、現在の地政学「それ以降の世界」。
【目次】
◉キーワード 現代は中世である
◉巻頭言 世界はふたたび中世になる
文=山下正太郎(本誌編集長)
◉ウンベルト・エーコと新しい中世
文=武邑光裕
◉コンテンツガイド 中世の回廊 第1層
◉対談:鏡リュウジ(心理占星術研究家)+畑中章宏(民俗学者)
スターゲイザーたちの「合理的」な世界
◉わたしは魔女である
円香が語る「現代魔女」という行き方
◉コンテンツガイド 中世の回廊 第2層
◉中世の騎士、東京に集う
ドキュメント「戦え、騎士のように」/証言「騎士たちの理由」/インタビュー「中世剣術のリアリティを、現代で共有したい」
◉ゲームはなぜ中世を必要とするのか
中世ゲーム研究の第一人者、かく語りき
◉コンテンツガイド 中世の回廊 第3層
◉「新しい中世」以降の世界
政治学者・田中明彦の予言から読む現代の地政学
【書籍情報】
書名:『WORKSIGHT[ワークサイト]30号 新しい中世 The New Middle Ages』
編集:WORKSIGHT編集部(コクヨ ヨコク研究所+黒鳥社)
ISBN:978-4-7615-0938-5
アートディレクション:藤田裕美
発行日:2026年7月2日
発行:コクヨ
発売:学芸出版社
判型:A5変型/128頁
定価:1800円+税





















