モノを囲んで、見つめる技術:下北沢国際人形劇祭、思わぬ盛況の背景
2026年2月に開催され、チケット完売、連日超満員となった第2回下北沢国際人形劇祭。広く知られているわけではない現代人形劇/オブジェクトシアターというジャンルの催しに、なぜ人が集まったのか。理由をたどると、モノを中心に置き、人と人のあいだに別の関係を生み出す人形劇本来の技術が見えてくる。企画統括の人形劇研究者と空間デザイナーに、観客として参加した気鋭のクリエイターが話を聞いた。
下北沢国際人形劇祭でカンパニー・サンジュ・ディーゼルにより上演された『KAZU』、その劇中で使用された人形たち
2026年2月、東京・下北沢で現代人形劇/オブジェクトシアターという、決して広くは知られていないジャンルの国際フェスティバルが2回目の幕を開けた。チケットは開幕前に完売、メイン会場のザ・スズナリは超満員。しかも盛り上がっていたのは長年の人形劇ファンのみならず、多くはこれまで人形劇とほとんど縁のなかった人たちだった。観客は朝ご飯を食べながらアーティストのトークを聞き、会場と会場のあいだを移動し、毎日発行されるジャーナルを読み、バーで作品について話し、街を回遊する。なぜ、人形劇という日本では小さなジャンルのフェスに、これほど人が集まったのか。その理由をたどると、人形劇が本来もっている“モノを見つめる”ことをめぐる技術に行き着く。
人形劇を知らない人向けにわかりやすく翻訳するのではなく、その核心を大切にするからこそ、ジャンルの枠を超えて人びとが集った現場では、いったい何が起こっていたのだろうか。下北沢国際人形劇祭(Shimokitazawa International Puppet Festival、以下SIPF)企画統括の山口遥子さん(人形劇研究者)と安藤僚子さん(空間デザイナー)に話を聞くにあたり、聞き手を務めてもらったのは山本浩貴さん。批評・小説・デザイン・演出を横断し、出版も通じて個人作家の創作を支えるコレクティブ「いぬのせなか座」を主宰する人物だ。幅広くクリエイティブを見つめるインタビュアーの問いに、山口さんと安藤さんは、快活な声で答えてくれた。
interview by Hiroki Yamamoto
photographs by Yuri Manabe
text by Miki Watanuki
山口遥子|Yoko Yamaguchi 現代人形劇論および日欧比較人形劇史を研究。博士(美術)。東京藝術大学大学院博士課程修了後、ヴァイマール古典財団およびミュンヘン中央美術史研究所リサーチフェロー、早稲田大学・成城大学講師として研究・教育に従事。現在、日本学術振興会海外特別研究員としてドレスデン国立美術館に所属し、ドイツにおけるオブジェクトシアター成立史の調査を進めている。併せて、日本現代人形劇史の再構築、人形劇におけるポストヒューマニズム、海外人形劇における「ブンラク(Bunraku)」概念の変容などを主題として研究を行う。2024年に下北沢国際人形劇祭を創設、第3回を2028年2月29日〜3月6日に開催予定。
安藤僚子|Ryoko Ando 空間デザイナー。インテリアデザイン事務所・合同会社デザインムジカ代表。店舗設計や会場構成など幅広い空間のデザインに携わりながら、2018年よりリソグラフ&OPEN D.I.Y.スタジオHand Saw Pressを共同運営。ポスターやZINEの制作、アートブックの出版、アートブックフェアやフェスティバルへの参加、イベントやワークショップの企画など、多くの人と共創する活動を続けている。多摩美術大学と桑沢デザイン研究所にて非常勤講師。2021年より特定非営利活動法人DEKU ART FORUMの副理事に就任。舞台芸術の発展を目指し、2024年に下北沢国際人形劇祭を立ち上げた。
山本浩貴|Hiroki Yamamoto 制作集団・出版版元・デザイン事務所「いぬのせなか座」主宰。小説や詩歌の執筆、芸術全般の批評、書籍や印刷物のデザイン・編集・出版、上演作品の制作などを通じて、現代における表現と生のあいだの関係可能性を検討・提示している。著書に『新たな距離:言語表現を酷使する(ための)レイアウト』がある。
見たことのない客層
——わたしがこの2月にSIPFを幾度か訪れて、まず驚いたのは客席の様子でした。ザ・スズナリは連日びっしり満席で、国籍・年齢問わずさまざまな人たちがみんなワイワイと楽しそうにしている。ザ・スズナリといえば40年以上下北沢の小劇場文化を支えてきた有名な劇場ですが、そこで俳優による演劇ではなく人形劇祭が行われるというとき、予想だにせぬ盛り上がりだったな、と。
山口 客層については、わたしたちも少し意外でした。SIPFの第1回は2024年2月に同じく下北沢で開催、今回はその2年後の開催になります。細かく分析しているわけではないのですが、わたしの目から見る限り、第1回の客層は長く人形劇を追いかけてきた方が中心で、第2回ではその方たちが相対的に少なくなって、むしろ人形劇ファン以外の多くの方々が熱狂的に観てくれていたように思います。
——わたしが見聞きする限りでも、遠方から、この1週間の人形劇祭のためだけに来ていた方も複数いたようです。目当ての公演だけ観て帰るのではなく、メイン会場以外にも街中に展開されていた複数の会場を巡って、何日にもわたって楽しんでいる人が多いと感じました。
安藤 そこは運営側として意識している部分でもあります。前提をお話ししますと、山口さんは人形劇を研究していますが、山口さんに誘われて運営に携わっているわたしは人形劇も演劇も専門外。一方で、専門としている空間デザインの仕事をやっていてずっと思っているのは、かっこいい空間をつくること自体にはあまり興味がない、ということなんです。そこに来た人と、そこにあるモノとのあいだに、どう関係が生まれるか。「箱」をつくるのではなくて、人とモノと場の関係をデザインする、という感覚に近いんです。
わたしは建築を勉強した後、インテリアの領域で会場や店舗の設計をしてきました。8年ほど前から、Hand Saw Pressというリソグラフのスタジオ運営を始めて、ZINEやアートブックをつくる人たちと関わっています。Hand Saw PressでもアートブックフェアやZINEフェスティバルのようなお祭りづくりに携わってきましたし、空間デザインが専門なので、会場づくりや場づくり自体は得意な領域でもあります。SIPFの運営にも、こうした感覚を反映させています。
——単独のイベントではなく、街全体の流れのなかに身を置いている感覚もありました。
安藤 それは、下北沢という街の構造とも関係していると思います。下北沢には独特のストリート感があって、歩いて回れる範囲に小さい拠点がポツポツとある。その「小ささの集合」みたいな街の構造が、人形劇祭には合うんじゃないかとは思っていました。ひとつの会場に集約しないことで、観た後も街のなかで作品の余韻が続いて、別の場所で休憩したり、アーティストと話したりして、また次の作品を観にいく。開催場所が下北沢になった理由はいろいろとあって、最初からそれを意図したというより、結果的にそうなった部分も大きいんですけれど。
アルファ劇場による『ドン・ファン』の一場面
このカメラは犬である
——少し内容にも立ち入っていきたいのですが、今回のSIPFでは、観ていて「あ、これも人形劇なんだ」と良い意味で予想を裏切られるような公演も多くあったかと思います。例えばチェコのドラク劇場の作品『白い牙』では、いわゆる「人形」がほとんど出てこない。舞台上では、人形遣いがカメラを犬のように扱い、そのカメラが捉えた映像がスクリーンに映る。観客は、人形遣いの身体と、犬としてのカメラ、そして犬が見ている風景としての映像を、同時に見ることになります。
山口 そうですね。あの作品は、単なるリアルタイムの映像中継とは全然違います。カメラをモノとしてどう扱うか、観客の視線をどこに集めるか、その身体の使い方が、人形遣いならではのものなんですね。観客は映像だけを見るのではなく、そこで動いている人形遣いの身体や、カメラというモノの動きも含めてどう見つめるかによって、いろんな楽しみ方ができる。人形劇研究の世界でも、人形劇を「観客のまなざしのあり方によって定義される」と考えるような議論があります。
人形やモノがそこにあるから人形劇、というわけではない。操る人の身体、モノの動きと観客の想像力がどう結びつくのか。そうした結びつきのひとつとして、観客が「これは犬だ」と引き受けることで“生命らしさ”が立ち上がり、初めてモノは犬になるわけなんです。観客の視点は、モノ・人間・犬・犬目線の映像のあいだで、次々に移動していくんです。
安藤 それを子どもでも、あるいはことばが通じなくても、誰でも理解できるというのが面白いですよね。そのわかりやすさの上に、ものすごく豊かな表現がある。これって、なかなか珍しいバランスだと思います。
——現代人形劇は、いまや狭義の人形だけを扱うジャンルではないようですね。
山口 はい。20世紀の半ばから、日用品や身のまわりにあるモノを舞台に乗せ、観客が見つめる「オブジェクトシアター」と呼ばれる領域が、ヨーロッパを中心に大きく拡張しています。1950年代頃に芽が出て、1980年代に名づけられ、そこから一気に発展しました。ヨーロッパでは大規模なフェスティバルが各地で根づいています。実際にわたしがヨーロッパで見てきた人形劇は、身のまわりにあるものを使って面白い動きを探すことで、元手は安くひとりで今日からでも始められる、実験性も兼ね備えた芸術形態として認知されています。
ただ日本では、現代人形劇が研究や批評の対象にならなかった時期が長く、共通の語彙がほとんど整っていません。だから、まずは多くの人に観てもらう機会をつくる必要がある。それが、わたしがフェスティバルを構想する出発点でした。
——なるほど。そこにさらに安藤さんの視点が加わっていったわけでしょうか。
山口 そうですね。人形劇の話と並行して、わたしにとっては、東京・渋谷にかつて存在した「こどもの城」(国立総合児童センター)が2015年に惜しくも閉館となってしまったことが、とても大きな意味をもっていました。こどもの城の、自由な気風のなかで培われていた文化プログラムが突然立ち消えてしまったことは本当に衝撃で、その精神をなんとか引き継げないかと自主的なイベントを立ち上げていたんですが、その運営を通じてつながっていった人たちのなかに、安藤さんがいたんです。
安藤 そのイベントは、子どもだけでなく大人も心掴まれる瞬間が多く、すごく手応えがありました。子どもたちは反応がとても正直なので、面白くないものには、まったく反応しない。かっこつけていても通用しないんですよね。
山口 こどもの城にいた人たちは、いわゆる芸術界の中心で評価される存在ではないかもしれません。だけど実際に人の⼼を動かしているのは、こうした文脈で必ずしも表彰されない⼈たちだったりするんです。
わたしはもともと美学を研究していたので、例えばヴァルター・ベンヤミンが人形劇への愛着を語っていた(「ベルリンの人形劇」〔『ベンヤミン 子どものための文化史』小寺昭次郎・野村修訳、平凡社ライブラリー〕)ことや、ゲーテが人形劇の上演をきっかけに『ファウスト』を書いたことなど、人形劇が文化史の端々に現れることがずっと気になっていました。それらが、こどもの城で見た光景とつながっていくなかで、文化の基礎には、地層に根を張るキノコのように、見えないけれど決定的に大事なものがあるのではないかと思うようになったんです。
——こどもの城で感じた、文化を下から支えるものへの直感が、人形劇祭を立ち上げることにもつながっていった、と。
山口 加えて、わたしにとって、安藤さんが取り組んでいるアートブックフェアやZINEの活動もまた、本当に大きな意味をもっているように感じられました。若い人がひとりで好きに本をつくって、発表して、みんなが関わっている。その自発性を見て、日本の人形劇にもこのスピリットが必要だと思い、仲間に誘ったんです。もうひとり、チェコ・プルゼニ州立アルファ劇場代表のヤクブ・ホラさんという方と3人で、SIPFの企画統括を務めています。
ドラク劇場の『白い牙』より。舞台上に人間の身体はあるが、ビデオカメラの映像がリアルタイムでスクリーンに投影されることによって、観客の視点がシンクロしていくのはカメラを通じたモノの次元だ
人間の身体を見るしんどさ
——先ほど現代人形劇に関して日本ではまだ共通言語が整っていないというお話がありましたが、今回の盛況を見る限り、観客にとっては必ずしも難しい体験ではないのかもしれませんね。小さなモノが何かに見えてくる瞬間は、むしろとても直感的です。
安藤 いまの時代に楽しむコンテンツとしてはYouTubeもNetflixもゲームもあるわけですから、現場へ足を運ばせるということは、それに見合うだけの何かを返せるのかが問われる。わたしもSIPFに携わるようになって初めてわかったのですが、そんなハードルを、モノと向き合う人形劇は軽やかに越えていく。「めっちゃ面白いから1回観てよ」と言える何かがあると感じます。
そしてSIPFはプログラムを組むにあたって何のしがらみもないですし、招聘する海外アーティストとは、相互にリスペクトをもちつつフラットな関係性を築いています。そうしたことも、モノをめぐる場の空気感につながっているかもしれません。
——モノに視線や意思のようなものを感じる経験は、いまのわたしたちにとっても、以前より身近になっている気がします。スマートスピーカーやAI、ロボット掃除機に名前をつけるような感覚もありますよね。
山口 その意味で、わたしはもう少し違う角度からこのジャンルに惹かれているところもあって。実はわたし……はっきり言ってしまうと、人間の演劇をなかなか見ていられないんです。
——というと?
山口 人間の身体を見つめる、ということ自体に、ある種の重さを感じます。視線をめぐっては、例えば男性が女性を見る際のメイル・ゲイズなどといった問題も存在しますが、わたしの場合はそういうことでもないんです。誰かが誰かの身体をまなざすこと自体にどうしても権力的な視線が混ざると思われて、とにかく耐え難く感じてしまうのです。
——演劇のまわりにいる身としても、いまのお話はすごく腑に落ちます。山口さんたちのお仕事の影響もあって、近年若い人たちのあいだでオブジェクトシアター的なものに関心をもち始めている人が増えている感触があるんですが、そこにはいまおっしゃったような問題意識が伴っているような気がします。
山口 俳優の身体を見ることが演劇の基本になっている、その構造そのものに、ある種の不健康さを感じている人が少なくないのかもしれません。もちろん、そうした人間の身体からしか生まれないものはあると思いつつ、モノを挟むことで観客も演じる側も健康に楽しめるし、子どもも入ってこられる場所になる、といったことがあるんじゃないでしょうか。
——いまやSNSなどで身体をコンテンツ化するのが当たり前の時代ですが、一方で、アバターやVTuberといった、リアルなそれとは別の身体を用いたコミュニケーションも盛り上がりを見せつつある。人の身体を見る/人に身体を晒す営みに違和感をもつという肌感覚は、現代のリアリティのひとつとして確かに大きくなりつつあるのかもしません。もちろんそれでも、身体が人間にとって根源的なものであるという価値観は、演劇に限らず根深くあるでしょうが……。
山口 すくなくともわたしは、その前提をそのまま信じきれない人間です。人形遣いには“自分の身体を見せる”ために舞台にいる人が、あまりいないんですよ。むしろ、自分の存在をどう消すか、観客の視線をどうモノのほうに集めるかに、すごく意識的なんですね。ヨーロッパの現代人形劇は、もともとプロセニアム(舞台の枠)の中に人形だけがあって、人形遣いは外の枠から操る形式が基本でした。
それが20世紀に入って、文楽などの影響も受けつつ、人間の身体も舞台上に現れるようになる。だからこそ余計に、自分の身体をどう見せないか、観客の視線をどうモノに集めるかに、意識的にならざるを得なかった。人間同士だと、どうしても人間の身体に目が行ってしまう。でも本当に技術のある人形遣いは、観客の集中をすっとモノに移すことができるんです。
安藤 オブジェクトと、それを操るパフォーマーとの関係があって、そのオブジェクトを見つめる観客との関係があって……というように、関係性のキャッチボールのなかで人形劇は成立しているんだということは、わたしのような素人の目から見てもとても面白いんですよね。⼈形遣いって、お客さんを置き去りにしないんですよ。⼀⽅的に「これを⾒せます」じゃなくて、お客さんがいまどこを⾒ているかをちゃんと感じ取りながらモノを動かしている。そうした関係性を築くということを、人形劇の専門家たちは技術としてもっているし、それはSIPFのようなフェスティバルの場を構築することにも、構造が似ているなと実感しています。
(上)アルファ劇場による『ドン・ファン』より (下)カンパニー・チャイカの『かもめ』より。オブジェクトシアターと言っても、作品ごとにモノをめぐる距離感や角度は目まぐるしく変化する
前説、朝ごはん、ジャーナル
——お話を聞いていると、SIPFの名物となっている、公演ごとにおふたりが行う前説や、毎日アーティストのトークを聞きながら食べられる朝ごはん、これまた毎日発行されるジャーナルなども、作品をめぐる視線や関係を持続させるための装置だったように思えてきます。それぞれ、どうやって生まれたのでしょうか。
山口 上演前の挨拶は、わたしが海外のフェスティバルを回るなかで、ずっと気になっていたことなんです。日本だとスタッフが出てきて「携帯電話の電源をお切りください」と言うだけで始まることが多くて、なんとなく場が冷えてしまう。そうではなくて、責任のある立場の人がちゃんと「来てくださってありがとうございます」と語りかけたほうがいい。
安藤 わたしとしては山口さんひとりでやってもらっても構わないんですけど……(笑)。とはいえ海外からの観客やパフォーマーもいるので、ひとりで日英2言語を操りつつ前説を行うと、どうしてもサムくなってしまうのを避けて、わたしが日本語、山口さんが英語で、掛け合いになるようにしました。基本的に運営に必死でして、明朝のトークに誰も来なかったら困るとか、まだこの公演のチケットはあるよとか、ほぼ宣伝をしていたわけなんですが、それが結果的に場をほぐしていたみたいです。
——観客としては、前説は、個々の作品の説明や導入である以上に、フェスティバル全体に参加しているのだという気持ちの高まりを準備してくれているように感じました。そうして上がっていった客席のボルテージは結果的に、モノへのまなざしを準備するものにもなっていたと思います。
山口 そうやって考えたうえで設計していたわけではないんですけれど、結果としてそういう機能をもっていたのかもしれませんね。朝ごはんの会も正直にいうと、美しい理念から始まったわけではないんです。下北沢のホテルが高すぎて、海外アーティストの宿を朝食つきで取れなかったのが発端でした(笑)。だったら、自分たちで美味しい朝ごはんを用意して、みんなで食べるついでにトークもしてもらおう、と。
——制約から生まれた工夫だったんですね。結果として、前夜まで舞台上と客席に分かれていた人たちが、翌朝には同じテーブルを囲む状況を生んだ、と。
安藤 朝ごはんを食べていたら隣にパフォーマーが座っていたり、バーで初対面の人と今日観た作品の話になったりする。そうやって、お客さんがただ観るだけじゃなくて、関係のなかに入ってきてくれる。そこのキャッチボールがあるかどうかで、場が動き出すかどうかが決まると思うんです。
山口 SIPFの宣伝文句で書いたことがあるんですが、「ここでは演じる人も、観る人も、手伝う人も、遠巻きに眺める人も、みんな一人の『人形劇人』」なんです。役割が固定されない場をつくりたかったんですね。
——モノが人形遣いと観客のあいだに置かれることで別の生命を帯びるように、食事やジャーナルといった場が、そこに行き交う人びとの身体の役割をそのつど変えていく。そもそも人形劇では、観客の視線が1カ所にとどまらず、モノから人形遣いの身体へ、さらには観客自身の想像へと目まぐるしく移っていく、その運動自体がとても魅力的なわけですよね。
山口 はい。人形劇って、すごくパースペクティブが変わるんですよね。あるモノにすごくクローズアップしたと思えば、それを操っている演者が「えっ、何これ?」というようなアクションをしてモノを相対化することもあり、別のモノへ焦点が移っていくこともあり──。そのパースペクティブは、お客さんがどこに集中するかでも変わる。そうやって知覚を揺さぶってくるのも、人形劇の好きなところです。
安藤 パースペクティブという点でいえば、作品を観ることだけがフェスティバルではないと思っています。観た後に誰かと話すこともあるし、話さずにひとりで街を歩くこともある。ジャーナルを読むこともある。そういう時間も含めて、作品の体験が続いていくような場にしたいんです。
サイドプログラムを行っていた下北沢アレイホール。朝ごはん・人形・ジャーナルをあいだにおきながら、アーティストと参加者が垣根を超えて交流していた
【WORKSIGHT SURVEY #65】
Q. 「人形が演じる劇」と「人が演じる劇」を比べたとき、「人が演じる劇」のほうに違和感を感じることがある?
記事のなかでは、「人間の身体を見つめることの、ある種の重さ」が語られていました。あなたは「人形が演じる劇」と「人が演じる劇」を比べたとき、「人が演じる劇」のほうに違和感を感じることがありますか?ふだん演劇に触れる機会がない場合は、人が演じる映画やドラマについてのコメントでかまいません。ぜひ皆さんのご意見をお聞かせください。
【WORKSIGHT SURVEY #63】アンケート結果
スープはデザインの最小単位?キッチン、旅、歴史、身体──ひとつの鍋がつなぐ世界(5月26日配信)
Q. 「食事をともにすること」を、日常のコミュニケーションで重視していますか?
【はい】食べることは生きることの基本なので、自ずと本来の人、生き物のとしてのその人が現れることがあるので、食事をともにすることは最も根源的なコミュニケーションだと思います。
【はい】一日の中で家族が同じことに向かう数少ない機会なので。
【はい】ランチコミュニケーションを重視してきましたが、今はランチ代が高騰しすぎて個食が進行しているので、社員が行きたくなるような社員食堂の創設やオヤツ時間を作るとかコミュニケーションを高めるような施策を考えないといけないような時代になっている気がしますね。
【はい】食べることは人が生きる源である。それをともにすることは最大の仲間意識が生まれる瞬間であると思うから。
【はい】I believe that sharing meals fosters deeper connections and creates a relaxed atmosphere for open communication.
次週6月9日は、都市空間の新たなあり方を模索する、WORKSIGHT編集長・山下正太郎による連載シリーズ「『場』の編集術」第6弾を配信。地域に開かれた次世代の学び場として注目を集める北海道安平町の早来学園。そのICT空間設計を担った、チームラボの堺大輔氏に話を伺います。お楽しみに。













