時間はいつ「線」になったのか:年表の発明と忘れられた時間観
時の流れを思い浮かべるとき、わたしたちは過去から未来へとまっすぐ伸びる1本の線を、無意識のうちに想像してしまう。ところが、そうした時間のイメージを支える「年表」は、比較的新しく発明された図法であり、意外にも歴史が浅いという。わたしたちはいつから、時間を線として考えるようになったのか。そして、それ以前の人びとは時間をどのように捉えていたのだろうか。
年表という画期的な図法を発明した科学者ジョゼフ・プリーストリーが、1769年に制作した『A New Chart of History』(歴史の新図表)。世界の主要な帝国の興亡を視覚的に整理するために制作された Public domain, via Wikimedia Commons
過去の出来事を1本の線上に整列させることで歴史を可視化する「年表」は、わたしたちにとってあまりに身近な図法ではあるものの、哲学史家のエミリー・トーマス氏によれば、時間をめぐる長い思索の歴史のなかにおいて、その手法は比較的新しく現れたものであるという。さらに彼女は、その背後にある「線形の時間」という発想そのものも、歴史を可視化するために構築された装置にすぎないと指摘する。
わたしたちは年表を、歴史を客観的に記述するツールだと捉えがちだが、そこには必ず作成者がクレジットされており、その人固有の価値観もまた自ずと織り込まれている。近代以前の人びとが親しんでいた、曖昧で豊かな時間区分や循環的なリズムは、そこからこぼれ落ち、時間は何かを成し遂げるための尺度として、またはわたしたちを先へ先へと追い立てるものとして、いまもなお立ち現れている。
時間は本当に、ただ均質に流れるだけのものなのか。その前提を疑うことで、わたしたちは時間がニュートラルであるという固定観念を乗り越えることができるかもしれない。トーマス氏が専門とする年表の歴史をたどりながら、直線的な進歩史観、歴史観との距離の取り方を考える。
interview by Anna Nakai, Miki Watanuki, Hidehiko Ebi
text by Anna Nakai
エミリー・トーマス|Emily Thomas イギリス・ダーラム大学哲学部教授。時間や空間をなど、形而上学の歴史を専門とする哲学史家。これまで哲学史のなかで十分に顧みられてこなかった女性哲学者の研究にも取り組む。2020年、フィリップ・リーバーヒューム賞を受賞。主な著書に、旅行の哲学を扱った『The Meaning of Travel: Philosophers Abroad』(2020)ほか、時間に関する学術書を複数執筆。
年表の起源を考える
──時間の哲学史を専門とするトーマスさんは、研究の題材のひとつに「年表」の歴史があると伺いました。今回は年表の歴史を主軸に、時間観の変遷についてお話をお聞きしたいのですが、そもそも年表という題材に対する関心は、どのように生まれてきたのでしょうか。
ここ15年ほど、わたしは時間についてのさまざまな理論がどのように論じられてきたのかを研究していますが、19世紀末から20世紀初頭にかけての議論を掘り下げているうちに、その根本に「時間は線である」という認識が当然のように定着していることに気づきました。
今日、「時間が直線的である」と考えるのはごく自然に思えることで、これは永遠の真理のように、直感的に正しいようにも感じられます。しかし、実際にこうした発想が定着したのはここ250年ほどのことで、その事実に強く惹かれました。
──250年ですか。
はい。イギリス人科学者ジョゼフ・プリーストリーが1765年につくった『伝記図表』(Chart of Biography)が、世界初のタイムラインと言われています。プリーストリーは線を使って時間を表すとき、年表に添えた小冊子に「なぜ時間を線で考えることが自然なのか」を延々と説明していたんです。いま現在、当然のものとして受け入れられているタイムラインを、彼は当時、何ページもかけて正当化しなければならなかったことに驚きました。プリーストリーをきっかけに、このアイデアは他の思想家たちにも広がりました。
ちなみに、 『時間と自由』でも知られる哲学者アンリ・ベルクソンは、時間が線形化されることに対して強く反発したと言われています。20世紀初頭の段階では、時間を線として考えることが、いかに奇抜な発想であったかがうかがえます。
──『伝記図表』以降、いわゆる線形の時間としての「年表」は、どのように広まっていったのでしょうか。
プリーストリーの年表は、イギリス国内に限らず、10数カ国に上る国々で翻訳されるなど高い評価を集めました。アメリカ議会図書館が最初期に購入した書物のひとつでもあり、彼のアイデアは急速なスピードで模倣され、普及していきました。
その後19世紀に入ると、進化論を唱えたダーウィンが登場します。進化論が対象とするのは「Deep Time」、いわゆる地球規模の長い時間軸です。何百万年、何千万年といった、人間の物差しで捉えきれない範囲をページ上に描き出す、ダーウィンも年表を使って種の変遷を描きました。進化論が多くの人の関心を集めるなか、線形的な時間観も社会に根付いていったんです。
さらに、20世紀初頭には「4次元」という発想が数学の世界で登場します。チャールズ・ヒントンをはじめとした数学者らが、縦・横・高さに続く第4の空間を描き出そうと試みました。興味深いのは、それが後に「時間」と結びつけられ、当時の哲学者に大きな影響を与えたことです。また、1895年に発表されたH・G・ウェルズの『タイム・マシン』をはじめ、タイムトラベルを扱ったSF小説が大衆文化のなかで広がったことで、「時間の線の上を移動する」というイメージは社会全体に定着したと思います。
上:プリーストリーによる『伝記図表』(Chart of Biography)。世界各国のあらゆる分野の偉大な人物を一堂に集め、彼らの寿命の長さを、1本の線的時間軸上に置かれた横棒で示している Public domain, via Wikimedia Commons 下:2002年公開の映画『タイムマシン』におけるタイムトラベルのシーン。ニューヨークの町並みや自然の風景が急速に変化していく様子が、CGを駆使して描かれる。本作の監督を務めたのは、H・G・ウェルズの曾孫にあたるサイモン・ウェルズ
忘れられた時間論
──そもそも、時間を線として考えるようになる以前、人びとはどのような時間観をもっていたのでしょうか。
年表が発明される以前の西洋には、たくさんの時間観が存在していました。古代では時間を星の運動と結びつけていたので、それは実在するものであると考えられていました。星が実在するなら、時間も当然実在するだろう、と。
また、西洋の歴史を遡ると、古代ギリシアやローマの時代から「循環的時間観」と「線形的時間観」は共存していたといいます。
──ふたつの時間観はどのような違いがあるのでしょうか。
前者は、昼と夜、月の満ち欠け、1年の日々、季節の変化と同じように、時間はめぐるものだという考え方です。後者は、年表の考え方に近しく、一回限りの出来事の連なりとして時間を見ていました。
進化生物学者のスティーヴン・J・グールドは、古い時代ほど循環的時間観が優勢だったと述べていますが、旧約聖書を見ると、世界の創造、預言者たちの登場、そしてメシアの予告といった出来事は、二度と繰り返されることのない歴史的な節目であり、ユダヤ思想は一回性に重きを置いていたとも言われています。
──年表の考え方が登場するまでは、複数の時間観が並存していたんですね。
他にも、17世紀にアイザック・ニュートンらによる「絶対時間」という概念が現れると、時間を一つひとつの出来事を包み込む「容器」のように捉える理論も発生します。空全体に星や月、彗星が動いているとき、それらが時間の外側に存在することを人間は想像できません。であるならば、時間はたとえ宇宙の中身をすべて取り去ったとしても消えない、実在の基底にあるものだと考えられたのです。
ところが18世紀に入ると、イマヌエル・カントがこの前提に疑義を呈します。カントは、たしかに人間は時間を取り除いた宇宙を想像できないけれども、それは「人間の精神のつくられ方」についての事実にすぎず、時間が現実そのものの根本構造であることを意味しないと論じました。人間の心は空間と時間を通してしか物事を捉えられないため、実在そのものが時間をもっているかどうかについては判断を保留すべきだという立場です。
興味深いことに、21世紀の物理学では、このカントの直感を支持するような理論も現れています。量子重力理論の一部は、実在の最深部には時間が存在しない可能性を示唆しており、カルロ・ロヴェッリも『時間は存在しない』のなかでこうした議論を展開しています。もしこれが正しいなら、人間の心は時間のなかで生きるようにできているけれども、「実在そのもの」は必ずしも時間のもとにあるわけではない、ということになります。
──時間観の変遷は、市井の人びとの生活にどのような影響をもたらしてきたのでしょうか。
かつての農作業では、午前と午後といった緩やかな時間の区切りのなかで人びとは動いていましたが、やがてオフィスで9時から5時まで働くような生活が主流となり、タイムクロックによって労働が管理されるようになりました。
こうした日常生活の変化は、哲学的な時間観の変遷と無関係ではありません。わたしたちの生活を支配し、管理し、追い立てるこの力は、「線形的な時間観」に支えられています。
──物理学をはじめとした他の分野の科学的な発見は、この流れをどのように変化させたのでしょう。
20世紀に入って、アインシュタインの相対性理論が登場するまで、物理学と哲学は、時間と空間の問題においておおむね歩調を合わせていました。しかし、相対性理論によって、時間は哲学の手から離れていきます。空間と時間が「時空」として統合され、時間は運動状態に応じて相対的なものだと定義されたからです。
これにより、科学が扱う「時間」はますます精密になり、日常の感覚からはかけ離れた背景情報のような存在へと変わっていきました。他方、哲学は現在も「過去と未来は実在するのか」「なぜわたしたちの考える時間経験が、物理学の描く時間とこれほど違うのか」といった大きな問いに向き合い続けています。
ローレンス・スターンの小説『トリストラム・シャンディ』の口絵(上)と、文中に挿し込まれるスケッチ(下)。脱線に脱線を重ねてなかなか先に進まないストーリーが特徴の本作。その語りの構造を、非線形的なスケッチで表現している top: image by Bettmann / Getty Images, bottom: Public domain, via Wikimedia Commons
ソーシャル・メディアの“タイムライン”
──「時間は線である」という発想は、その後の進化論や大衆文化を通じて社会全体に浸透したわけですが、現代のデジタルプラットフォームでも当然のように「タイムライン」という形式が採用されており、出来事を時間順に並べて連続した流れとして捉えるというパラダイムが、いまも強く受け継がれているように思えます。この現象はどのように捉えるべきなのでしょうか。
ソーシャル・メディアのタイムラインは、とても即時的でリアルに感じられ、かつ同時に多くの欺瞞を含むものでもあります。タイムラインとずっと向き合っていると、世界中のあらゆる場所でいま起きていることが表示されているという錯覚に陥りますが、実際には、数分前の情報から、半日前、時には何年も前の情報まで、異なる種類の時間性をすべてごちゃ混ぜにしたものが表示されています。
──ソーシャル・メディアのアルゴリズムが、わたしたちの時間の感覚を撹乱しているということでしょうか。
そうとも言えるでしょう。何を表示するかは、その情報をつくった人間の意図によって決まります。アルゴリズムが、あなたに多くの広告やクリックされやすいコンテンツを見せようとしていることは、すでによく知られています。これは、わたしたち自身の意識のなかにある個々の時間の流れとはまったく異なる、外的な時間感覚が背後で作動しているということです。
──なるほど。ここまで「現在」を起点とする時間のあり方について考えてきましたが、同じ線上にある過去や未来のことは、どのように語ることができるのでしょうか。
話を噛み砕いて説明すると、哲学には時間経験についての議論が数多くあります。そのなかで、ある人たちは、わたしたちがほんの数秒の出来事を知覚するとき、意識そのものがその数秒にわたって延びていると考えます。別の人たちは、そうではなく、わたしたちの意識が直接的に捉えることができるのはほんの一瞬だけで、そこに過去数秒の「記憶」が組み合わさっていると考えます。
これは、時間をどのようなものとして捉えるのかという議論に関わってきます。例えば、時間がミクロ単位の現実の構造に組み込まれていると考える前者の立場に立てば、では過去も実在するのだろうか、という別の問いが生まれます。他方、後者の立場に立てば、もし過去の記憶も合わせて時間が成り立っているのだとすれば、わたしの意識は過去のどこにまで広がっていくのだろうか、という問いが生まれてきます。あるいは、わたしたちの意識が本当にごく小さな瞬間しか捉えていないのだとすれば、存在しているのはその現在の一点だけなのだろうか、とも考えられるでしょう。
──現在主義(Presentism)とも少し違うように聞こえますし、「いま、この瞬間」に意識を集中させるマインドフルネスの話にも、どこかつながる気がしました。
過去や未来にばかり意識を向けることは、自ずと実在しないものに向き合うことになります。そういう観点から、マインドフルネスがなぜ現代に必要とされるのかを説明できるかもしれません。
少し話は逸れますが、マインドフルネスと最も深く結びつく哲学は、「注意(Attention)の哲学」だとわたしは考えています。哲学者・作家のアイリス・マードックらが語ったのは、注意とは世界や他者に対して、できるだけ正しく、誠実に向き合おうとする態度であり、注意こそがあなたが世界に与えられる最も大切なものであるという考え方です。とりわけ他者に対して真摯に注意を払うことは、ある種の愛情の表現とも言えます。
現代のSNSやニュースフィードは、目新しいものやキラキラしたものを次々と差し出し、わたしたちの注意を引こうとします。マインドフルネスが、そうした環境のなかで、いまいる場所や目の前の世界へと注意を向け直す実践なのだとすれば、それは有効な対処法だと思います。
年表につきまとう権威性
──今日の世界のなかで、年表について考えるというのはどのような意味をもつのでしょうか。
年表はいまでも、歴史的な出来事や情報を視覚的に伝える上で非常に効率的なツールです。だからこそ使われ続けているのでしょう。しかし、年表は先ほど語ったアルゴリズムと同じように、決して中立的なツールではありません。何を取り上げ、何を選ばないのかは、それをつくった人の視点と意図によって決まってしまうからです。その年表を通して、誰がどのような歴史を語ろうとしたのかは、詳しく調べると必ず見えてきます。
──年表は中立的ではない……もう少し詳しく聞かせてください。
プリーストリーがつくった『伝記図表』に話を戻します。彼は約2000もの著名人の生没年表をまとめたのですが、この年表のうち、女性はわずか9人しか見つけられません。
プリーストリーは、現在に近づくほど重要な人物が増えているこの年表を通じて、「世界は進歩している」ということを示そうとしましたが、ここで彼が言う「進歩」とは、名声のある白人男性たちの功績を指すことになります。
──現代の視点から振り返ると、明らかに問題があると言えますね。
他にも、ブルガリア出身のジュリア・クリステヴァをはじめとするフェミニスト哲学者たちは、「線形的な時間の概念は、女性の身体的サイクルを見落としている」と主張しています。女性が経験する月経や出産は、極めて身体的であり、循環的なものです。
実際に、時間についての理論をつくってきたのはほぼすべて男性ですし、だからこそ線形の時間が強調されてきたと説明することもできそうです。
──今後、線形的な時間観は別のかたちへと更新されていくのでしょうか。
どうでしょう。少なくとも、時間を何らかの図法で表出するとき、その背後には、それがなぜ、どのようにつくられたのかによって決まるという根本的な構造は変わらないと思います。わたし自身、時間を線形以外のかたちで考えることは本当に難しいと感じていますし、それほどまでに、時の流れは線であるというイメージは現代社会に染み込んでいます。
ただ、アメリカのメディア『Cabinet Magazine』のWebサイトに掲載されている「A Timeline of Timelines」(年表の年表)を見ると、表や円環、樹木など、奇妙な図形で時間を表現していた過去の事例が数多く紹介されています。昔の人びとが、時間をさまざまな形式で描こうと試みていた歴史は、決して忘れてはいけません。
上:2001年9月11日のアメリカ同時多発テロに関する年表を読む人びと。2006年、ニューヨーク photograph by Carolyn Cole/Los Angeles Times via Getty Images 下:ドイツの教育者アドルフ・ライヒヴァインがティーフェンゼーの農村学校で行った歴史授業。1930年代 photograph by: United Archives/Henning Nolte/Universal Images Group via Getty Images
旅は時間を空間化する
──トーマスさんの活動のなかでとりわけ興味深いのは、形而上学だけでなく「旅」を主題とした著作も上梓されていることです。空間を移動することが、時間について考えることと関係があるかもしれないので、最後になぜ旅について論じられているのかご説明いただけますか。
旅について言えば、鉄道が発明されたとき、当時の人びとの多くが、速い列車によって空間感覚が圧縮されるように感じたそうです。わたしも飛行機に乗るとき、同じような感覚を覚えます。本来とても遠いはずの場所が、急にずっと近く感じられる。逆に、バスや電車、あるいは徒歩で街を移動すると、世界はこんなにも広いのかと感じますよね。
──移動手段が変わると、世界の大きさも変わるように感じられる、と。
わたしたちは、旅することで時間を空間へと置き換えているのかもしれません。空間を移動しているあいだにも、時間は刻まれている。通り過ぎる場所ごとに、またひとつ時間が経っていく。すると、空間の移動と時間の経過がとても密接に結びつくようになるんです。
移動していると時間をより意識するという意味で言えば、多くの哲学者たちが、時間の流れを列車に例えてきたというのは偶然ではないと思います。
──なるほど。エミリーさんが旅に興味をもっている理由は何ですか。
わたしは時間観の歴史を10年以上追いかけていますが、実を言うと、わたし自身はなるべく「現在」に意識を向けるよう心がけているんです(笑)。過去のことを考えたり、次の日のことを考えたりすると、心が散漫になってしまうので、なるべく現在に集中しようと思っています。
それで言うと、旅は自分の意識を「現在」へと強制する側面があります。見知らぬ街で地図だけを頼りに歩くとき、注意を払いながら慎重に移動するように、旅には自分の行動に常に集中する必要があって、そこが旅の好きなところでもあります。
──過去の著作では、「他者に出会うこと」の重要性に関連づけて旅を論じていましたね。
哲学者のルネ・デカルトは、若い頃は兵士として各地をめぐり、その後もヨーロッパのさまざまな都市を点々としながら暮らしていたことで知られています。「世界という大きな書物」と向き合うために、デカルトは生涯を通じて旅をしていたんです。
自分にはごく自然に思える習慣が、他の場所ではまったく一般的でないことや、自分が当然視している前提、本当に大事にしている原理が何なのか、そして、その一部が実はかなり馬鹿げているのかもしれないということに気づくことができる。旅は、自分がいかに小さな存在であるかという感覚も鮮明にしてくれますし、その感覚は人生においてとても大切なものだと思います。
エミリー・トーマス氏の著書『The Meaning of Travel: Philosophers Abroad』の中国語版『旅行的意义』。启真馆より2026年内に刊行予定
【WORKSIGHT SURVEY #58】
Q. 「時間は線である」という考え方以外に、別の時間の流れを感じることはありますか?
「年表」というツールの発明以降、時間は過去から未来へと一直線に流れるものとして捉えられるようになりましたが、かつては季節や身体のリズムと結びついた循環的な時間観など、異なる捉え方も存在していました。あなたは、日々の生活や映画・小説といった表現に触れるなかで、「時間は線である」という考え方以外に、別の時間の流れを感じることはありますか? ぜひ皆さんのご意見をお聞かせください。
【WORKSIGHT SURVEY #57】アンケート結果
クラブでテクノ読書会?ブッククラブTREVARIと本をめぐる新たな経済圏(4月21日配信)
Q. TREVARIのような会員制ブックラブに参加してみたい?
【はい】1人で読書するより捗りそう。
【はい】身近な場所でも読書会は開催されているが、ジャンルは小説が中心で、内輪の集まりというイメージが強い。専門家から学べて、好きなジャンルの本について語り合えるような場があればぜひ参加したい。
【はい】会費を払うならば、参加しなければと思うようになるし、運営もしっかりしていて、参加者の声を反映してもらえるならば、より参加しやすいのでは、と思いました。
次週5月5日のニュースレターは、GWのためお休みします。次回5月12日は、スロベニアの出版史にフォーカス。社会主義体制下の国家主導出版から、1980年代の知識人による反体制的言論、そして1991年独立後の市場経済化まで、通史的に歴史を辿りながら、出版が国家全体に果たした役割について、ワシントン大学教授のマイケル・ビギンズ氏に話を伺います。お楽しみに。










