予備校化する社会?:気鋭の教育社会学者と語る、「知的なアウトサイダー」と教養主義のゆくえ
公の教育の外で、若人の人生に密かに影響を与えてきた予備校や私塾。しかしそれらがもたらし、社会の隅々に根付いてきたオルタナティブな知の輪郭は、まだはっきりとしていない。一方でYouTuberたちがまるで予備校講師のように喋り、複雑な概念や議論を鮮やかに解説するアカデミシャンたちが人気を博す社会にわたしたちは生き、そうした社会を構成している──予備校が世に溶け出したかのような現在を、専門家と見つめた。
江戸期の寺子屋の授業風景を描いた、二枚続きの錦絵。「文学万代の宝(始の巻・末の巻)」、歌川花里(一寸子花里)画、弘化年間(1844~1848)頃(東京都立図書館所蔵、パブリックドメイン)
公教育の場ではなかなか出会うことがなかった、一風変わった講師が、魅力的な語り口で受験テクニックを語ったり、雑談のなかで思わぬ教養を披露したり……そんな場面に刺激されてきた人は、少なくないだろう。ときにわたしたちの人生に影響を及ぼしてきたにもかかわらず、そうした予備校という場やそこで提供される知のありようは、大学入学後に省みられることはあまりなく、浪人生の減少に伴って予備校自体も社会的な存在感を減じつつある。
しかし研究の一環としてこうしたテーマにアプローチする藤村達也さんは、むしろ現代の日本社会全体が、どこか予備校化しているのではないかという。日常の端々にとけこんだ、オルタナティブな知の現在とは。
interview by Fumihisa Miyata, Anna Nakai, Soma Ikeyama and Hidehiko Ebi
text by Fumihisa Miyata
藤村達也|Tatsuya Fujimura 1992年、大阪府生まれ。奈良女子大学文学部 人間科学科特任助教。京都大学教育学部卒業。京都大学大学院教育学研究科博士後期課程、同研究科助教を経て現職。専門は教育社会学、歴史社会学。
まるで「ミネルヴァの梟」のように
──予備校文化をめぐる語りをよく目にするようになり、そういえばその社会的な影響をきちんと考えたことがなかった……と気づくなかで、藤村さんに取材のお声がけをさせていただきました。
ここ最近、予備校文化や受験文化にスポットライトが当たる機会が一気に増えていて、そういう時期が来ているのかなと不思議な感慨を抱いています。2026年2月に教育ジャーナリスト・小林哲夫さんのご著作である『予備校盛衰史』(NHK出版新書)が刊行されて話題を呼んでおり、『中央公論』2026年4月号では「予備校文化は消えるか」という特集が組まれて小林さんたちが登場されるとともに、わたしも「予備校文化の盛衰と拡散:市場性を利用した対抗運動とその帰結」という文章を寄稿させていただきました。メディア史の専門家であり、『輿論と世論:日本的民意の系譜学』(新潮選書)など数多くの著書で広く知られる佐藤卓己さんは、これもまたNHK出版のnoteで「『合格体験のメディア史』(仮題)への覚え書き」(2025年4月~12月)という連載をされていたので、間もなく書籍化されるのではないかと思います。
「ミネルヴァの梟は迫りくる黄昏に飛び立つ」ということばではないですが、予備校文化がまさしく終わろうとしている時代に読者の皆さんも含めていろんな方々がこうして関心をもたれていて、わたしにも寄稿や今回のインタビューのようなお声がけを続けざまにいただいているんですよね。そうした静かな盛り上がりを感じつつ、お話しできればと思っています。
──『中央公論』の文章では、「予備校文化」のことを「正規のテキストやカリキュラムを無視して哲学や文学、人生論を語る教養主義的な講師や、学生運動の経験を語り生徒をデモへと動員するかつての全共闘闘士、奇抜なファッションに身を包み卓越した話芸や派手なパフォーマンスで生徒を魅了するタレント的講師など、多種多様な講師を中心」にして形成された「独自のサブカルチャー」だと書かれていましたね。
そうした予備校文化のピークは、世に浪人生が多かった時期、つまりは第一次ベビーブームの頃に生まれた世代が大学に進もうとした1960年代後半から、第二次ベビーブーム世代が大学を受験した1990年代初頭ぐらいまでだと思います。わたしが浪人生活を送った2011年頃でもその残り香が完全に消え去っていたわけではないですが、例えば三大予備校の一角を占めていた代々木ゼミナールが、浪人生減を受けて2015年以降に一気に校舎を閉じたり、城南予備校が2020年度から集団授業型を一斉に取りやめて、個別指導とAI教材による体制へと全面移行したり、といったニュースが相次ぎました。このようにエドテックの導入も進んでいますし、いま指導に当たっている若手の講師たちもかつての予備校文化の土壌を共有していない人が多くなってきていて、よりスマートに受験の技術や知識を伝授しようとしている印象です。
──なるほど。そうしたなかで、にわかに予備校を再考する流れがきている、と。
予備校文化自体は終焉を迎えつつも、予備校的なものが社会においてもはや珍しくなくなってきている、といえると思います。まず教育現場そのものの話からすると、教育の市場化や商業化が進んできている。予備校や塾の講師が高校で指導することは珍しくないですし、大学進学実績における高校間の競争が激化したり、教員の評価制度が導入されたりというのは、これまで予備校同士が競ったり、受験生による授業評価をされる立場の講師間で卓越化の競争が起きたりしてきた流れを受け継いでいる。予備校の固有性がなくなって、おそらく2000年代以降、むしろ教育一般、社会一般にその文化が普及していっているのではないでしょうか。
より広くとらえてみると、ホワイトボードを使って喋るYouTuberってかなり増えてきましたよね。ホワイトボードを前にして、説得力をもってわかりやすく喋るその語り口が、非常に予備校講師的になっていく。あるいはそうした語りをネタにする芸人なども出てくる。これは、かつては実際の予備校の校舎に行かないと出会えなかったカリスマ講師の授業を、衛星授業の普及や映像配信の拡大によって全国的に受講できる環境が整っていき、そうした話法に人びとが触れる土壌が耕されていったということだと思います。特殊な場であった予備校がどんどん外側に広がっていくなかで、それまではある種の秘儀とされていた語りが世に満ちていく。それは予備校の勝利と敗北、表裏一体の現象なのだと考えています。
お笑いトリオ・ハナコによるコント「ホワイトボードに近すぎて、書いた字どんどん消える先生」。コロナ禍のリモート環境のなかで制作されたコントが、予備校講師の授業の映像配信における不条理を映し出す作品となっている
ダークヒーローたちは語る
──藤村さんご自身は、ご研究の一環として、なぜ予備校というテーマに向かっていったのですか。
高校生の頃まで遡ると、受験勉強をスタートした時期に、2chの大学受験板を覗いたのが事の始まりです。そこにはアングラな受験参考書カルチャーが広がっていて、一般的に書店で流通している参考書ではなく、絶版になっているような参考書のあれがいい、これがいいと、板の住人たちが意見を戦わせていました(笑)。それを参考にして、予備校講師の個性が滲んでいる参考書を手に取ったら成績も伸びて、これは面白いな、と。
結局一浪することになったのですが、駿台予備校の大阪南校というところに通ったら、まさに予備校文化の残り香が漂っていた。例えば、大学に入ったらこの本は読んだほうがいい、映画はあれを観ておくべきだ、といった教養主義的な語りですね。そんな「知的なアウトサイダー」としての大人たちがたくさんいて惹かれました。初回の授業でなかなか来ないなと思ったら、教室の後ろの窓から入ってきて「さあ始めましょうか!」なんてパフォーマンスする英語講師もいて(笑)、しかしその先生の授業はわかりやすく、知的な雑談もしてくれる、という感じだったんです。
──原体験としての、ギリギリ残っていた予備校文化との邂逅があるのですね。
大学の卒業論文では伊藤和夫という、「受験英語の神様」と呼ばれた人のことを研究しました。「構文主義」といわれる英文解釈法の体系をつくった人で、現在の受験英語においてもこの「構文主義」の継承/乗り越えが繰り返されています。面白いのは、伊藤はとにかく英文がいかに読めるようになるかを構造的に語ろうとして、教養主義的なことを語ることに禁欲的だったんですが、しかし伊藤自身は教養人だったということなんですね。予備校ではすべての語りがパフォーマンスになり、商品として回収されてしまうことを警戒していたからこそ、大切な教養をその場で語ることに禁欲的だったというのが実際のようです。そんな研究の延長線上のものとしてわたしが大学院で執筆した修士論文のタイトルは「予備校文化と教養主義」でした。
伊藤は教養を語ることを避けましたが、しかしむしろ予備校では、生徒から支持をされれば何を語っても許されるという構造があります。商品としてきちんと評価されるのであれば、むしろ教養を存分に語ることもできる。予備校という場に、受験対策だけに回収されない教養主義的な知の系譜があるのだとすれば、それは「予備校なのに」教養主義が例外的に発展したのではなく、むしろ「予備校だからこそ」育まれたというべきなんですね。そうした教養の語りは、屈折した思いを抱えている浪人生たちに、現役でストレートに大学入学していたら得られなかった知識を獲得できる“背伸び”の快感や喜びをもたらしてきたはずです。
──市場主義による限界はありつつも、オルタナティブな知を提供する土壌が生まれた背景がそこにあるわけですね。
そこで提供される語りはすべてが商品化されるという点において、講師と生徒のあいだには疑似的な対等関係が成立します。そこで面白おかしい雑談を展開するなかで、キャッチーなかたちで教養も語っていけば、本来であれば興味をもたずに届かなかったような層まで、その知がもたらされる可能性がある。しかしそれが大衆化すればするほど、ポピュリズムのような状況に陥っていく危うさもまた存在します。ここには予備校文化の両面性が見えるわけですね。
……というようなことは、予備校を研究する立場の人間としてきちんとロジカルに説明する部分ではあるんですが、自分としてはもうすこし、シンプルな面白さに魅了されて調べ続けているという側面もあるんです。
──といいますと?
従来あまり言語化してこなかった話なのですが……予備校の講師たちは、どこか露悪的といいますか、教育におけるダークヒーローのような役割を積極的に担ってきているのではないか、と考えているんです。公教育の学校の教師が建前を守らなければいけないのに対して、予備校の側は「いや、我々はビジネスでやっているんで」という“本音”を隠すことなく偽悪的な立場をとることができるし、であればこそ予備校にならできる教育がある、という価値づけをしていく。その姿勢がすごく面白いな、と。例えば漫画『ドラゴン桜』のような新自由主義的なリアリズムも、こうした系譜の先にあるものだと思います。
とはいえ、そうした露悪的な態度をとりつつも、予備校という場は学歴や経済的な価値だけがすべてだとはいわず、どこかで教育的かつ精神的な関係性を探ろうともしている。そこに不思議な危うさと魅力を感じるんですよね。
──「知的なアウトサイダー」というと小田実などをはじめとして、数多くの知識人が講師として予備校の教壇に立ってきた歴史も思い返されます。
そのあたりは小田実やそのすこし下の世代である全共闘世代が予備校で教えたり、あるいは戦後文化を形成したりした歴史につながる話であるように思います。全共闘世代が運動の終焉後、70年代以降に消費社会や新自由主義的な社会を支えたという議論は、これまでもさまざまな論者によってなされてきています。例えばコピーライターとして一世を風靡した糸井重里のように、広告や出版の業界に入っていく人も多かった。そうして流れ込んでいった先のひとつが、予備校や塾の世界なんです。
ここには、独特のアイロニーがあると思います。大学解体と叫んでいた人たちが、予備校の講義を通じて大学に生徒たちを送り込んでいくわけですし、資本主義に批判的であったにもかかわらず、まさに市場原理を貫く予備校での授業を生業にするのですから。そうした葛藤はありつつも、「あえて」消費社会に乗っかるなかで文化的な抵抗運動をしていくのだというアイロニーが、そこには存在したはずです。東大全共闘代表であり科学史家としても大変著名な山本義隆が駿台物理科の講師であり続けたというのは象徴的ですよね。もちろん大学の権威性はいまやほぼ解体されているという点において、ある意味で全共闘世代の目標は達成されてしまっているわけですが、いずれにしても学識をもち、ロジカルに喋ることができ、アジテーションもうまい彼らが予備校で花開いたというのには、必然性があります。
1985(昭和60)年に発行された『河合塾五十年史』(河合塾五十年史編纂委員会編、学校法人河合塾発行)より、講義風景(資料提供:藤村達也氏)
偏在し、日常化した先で
──すこし別の角度からうかがいます。歴史を遡れば、例えば福澤諭吉が創設した慶應義塾大学はもともと私塾である蘭学塾であったように、公教育と私教育の境界は曖昧であるように思います。より時間の針を巻き戻せば、江戸期の儒学者や国学者による学び舎などまで遡及できる気もしますが、藤村さんはどうお考えになりますか。
おっしゃるように予備校的・私塾的なもののルーツにはさまざまなものがあると思います。明治初期に設立された予備校はそもそも官立学校を目指す生徒たちが受験準備をする私的な機関でしたが、そうした予備校が学校化していく過程もあり、さらには駿台も河合塾も高等教育の関係者が開いた予備校でしたから、公私の区別は判然としない状況だったのです。戦後になって受験産業がビジネスとして拡大していくなかで、公教育と分化し、予備校文化を形成するプロの講師たちも世に出てくる。こうした予備校や私塾と公教育の接近→離反→再接近……という流れはずっと繰り返されてきていて、いまは相互に浸透しつつある時期なのだと思います。
──なるほど。近年人気を博すアカデミシャンによる入門的な書籍が、予備校文化の先にあるものではないかとも藤村さんは論じていらっしゃいますね。
例えば哲学者・千葉雅也さんの『勉強の哲学:来たるべきバカのために』(文藝春秋、2017年→増補版・文春文庫、2020年)は、その入門のさせ方が、非常に予備校的だなと感じています。「勉強」という方法を、本来は難解な現代思想によって説くわけですが、それを「ボケ」と「ツッコミ」という、思いきって単純化した概念によって説明していく書籍ですよね。いったんはまず、こういうふうに理解してしまえばいいんですよと、あえて言ってみせる。理解しづらい知識を脱秘儀化して伝えるという点で予備校的であるともいえるし、千葉さんは、露悪的なダークヒーローの立ち位置を引き受けるという意味でも、やはりどこか予備校的なマインドをもっておられるように思います。
英語学の研究者・北村一真さんが伊藤和夫の系譜を継承した『英文解体新書』シリーズ(2019年~、研究社)や、一般的な読者にも波及してベストセラーになっている日米文化史研究者である阿部幸大さんの『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』(光文社、2024年)なども、アカデミックな背景をもつ教員たちが予備校っぽい語り口で語る知の伝達のありようなのではないでしょうか。哲学者の入不二基義さんや、惜しくも亡くなられてしまいましたが社会学者の立岩真也さんなども、予備校で教鞭をとられてきた方々です。北田暁大さんの『実況中継・社会学:等価機能主義から学ぶ社会分析』(有斐閣、2022年)は語学春秋社から刊行されている大ヒット参考書の「実況中継」シリーズへのオマージュで、なかでも特に北田さんがかつて学んだ河合塾の伝説的な地理講師で、早くして亡くなった権田雅幸に捧げられています。こうした予備校文化の種は、至るところに播かれていると思いますね。では逆に、いまの予備校自体は何を語るのか、という問題もまた生まれてくるわけですが。
──そうした知の語り口がヒットし広がっていくわたしたちの社会は、ここまでのお話全体からしても、どこか予備校化している気がします。
ざっくりとした話ではありますが、予備校的なロジックや知識の脱秘儀化、市場原理に露悪的な物言い、ポピュリズム的な評価……と今日のトピックを並べていくだけでも、社会の予備校化というような現象は起こっているように感じられます。予備校を予備校たらしめていたものがひとつずつ、現代社会に溶け出していっているようなところがありますよね。
──イヴァン・イリイチ(イリッチ)が1971年に発表した著書『脱学校の社会』(東洋・小澤周三訳、東京創元社、1977年)をどこか彷彿とさせる議論のようでもあります。イリイチは、近代的な産業社会全体が学校化されているというロジックのもと脱学校を唱えたわけですが、良くも悪くも脱学校が果たされた先には、より進展した産業社会が現れたという見方も可能かもしれません。予備校講師のように語るYouTuberは、その象徴のようにも見えます。
予備校が社会全体に敷衍していくとき、市場性と強く結びついている予備校が常に抱える両面性のようなものが、外側にも滲んでいっているといえるのかもしれません。先ほど申し上げたように、予備校と公教育のあいだの距離感は絶えず近づいたり離れたりを繰り返してきましたが、それに類した揺れは今後も随時起こりえるのだろうと思います。
全共闘世代が唱えた大学解体や、あるいはイリイチが考えたような脱学校は、現代の社会ではある意味で達成されてしまっているというのが、ここまでの議論から見えてきた話ですよね。それが予備校化した社会だというならば、もしかしたら、「脱予備校」というフェイズを考えるべき段階が訪れるのかもしれないですね。
【WORKSIGHT SURVEY #52】
Q. 「知的なアウトサイダー」に出会える場は減っている?
藤村さんは記事のなかで、予備校文化は衰退しつつも、そこで育まれてきたオルタナティブな知のあり方は、むしろ社会の各所に広がっているのではないかと語っています。あなたは、現代の日本社会において、「知的なアウトサイダー」に出会える場は減っていると思いますか? 減っていないと考える方は、その役割をいま誰が、あるいはどのような場が担っていると思いますか? みなさんのご意見をお聞かせください。
【WORKSIGHT SURVEY #51】アンケート結果
グランドセオリーを乗りこなす:生態人類学者・安岡宏和に学ぶ「人類史」との距離感(3月24日配信)
Q:グランドセオリーと言われるような書籍や学説をよく読みますか?
【はい】土や病原菌や金属など特定の事物に基づき、具体的で大きなストーリーに発展させているところにダイナミズムを感じるから。科学的な学説としてというより、大河ドラマのように人間文化をとらえる壮大なナラティブとして読んでいるところに面白みを感じます。学説のように一本筋の通った正しさではなく、複数あってもいいさまざまな考え方の一つとして十分面白いです。
【はい】物事を体系づけて理解しようとしてしまうから
【いいえ】グランドセオリーは論旨を知っておく、というスタンスでいる。精読するのはミクロな調査や複雑な議論。時間的にも労力的にもそうする事で自分としてはバランスが取れる。
【いいえ】神は細部に宿ると思っているので
次週4月7日は、令三社の山田裕嗣さんへのインタビューを配信。AI導入による従業員削減のニュースや、イーロン・マスクに象徴される強いトップダウン経営の台頭によって、企業に属して働くことの意味や立ち位置は日々揺らいでいます。一方で欧州では、「労働者主体の自律分散型組織」の実装が現実のものとなりつつあるといいます。組織のあり方を探究し、国内外の先進事例を発信してきた山田裕嗣さんに、その最前線を聞きました。お楽しみに。




