生者と死者が通い合う:野田真吉〈民俗神事芸能三部作〉を観る【畑中章宏 寄稿】
戦後日本に残った民俗神事を映像に記録し続けた「知られざる巨匠」野田真吉。彼が捉えたのは、単なる地域の伝統を超えた、人間・自然・死者が交差する世界の“構造”そのものだった。民俗学者・畑中章宏が、その独特の視線を読み解く。
『冬の夜の神々の宴 遠山の霜月祭』(1970)より
社会問題から民俗芸能へ
戦前から活動を開始し、1990年代までの長きにわたり作品を発表しつづけた映画監督・野田真吉(1913~1993)の特集上映、「野田真吉特集──ゆきははなである」が、ポレポレ東中野(東京)ほかで12月から開催される。
今回上映されるのは、
『農村住宅改善』(1941)
『谷間の少女』(1949)
『機関車小僧』(1950)
『忘れられた土地 生活の記録シリーズII』(1958)
『冬の夜の神々の宴 遠山の霜月祭』(1970)
『ゆきははなである 新野の雪まつり』(1980)
『異形異類の面掛行列』(1988)
『生者と死者のかよい路 新野の盆おどり 神送りの行事』(1991)
の8作品で、劇映画から記録映画まで野田の作品の幅広さを実感できるプログラムといえよう。
野田真吉は愛媛県八幡浜市生まれ。本名は亘真吉(わたり・しんきち)、父親は南宗派の画家の野田青石(せいせき)。早稲田大学文学部仏文学科在学中に、「サーカス」や「汚れつちまつた悲しみに……」などで知られる詩人・中原中也に師事し、詩を発表するようになる。大学卒業後は、P.C.L映画製作所に入社(入社の年に東宝映画に改組)。文化映画部に所属し、『郵便従業員』で監督デビューしたものの、1940年に召集される。
敗戦後は東宝撮影所に復帰するとともに、日本共産党に入党。東宝争議の後1952年からフリーとなり、企業PR映画や教材映画、日米安保条約反対闘争や社会運動と連携した記録映画などを手がける。
「映画批評の会」(大島渚、吉田喜重らと)、「現在の会」(安部公房、島尾敏雄らと)、「記録芸術の会」(安部公房、花田清輝、佐々木基一らと)、「現代詩の会」(長谷川龍生、黒田喜夫、関根弘らと)などのグループに所属する一方、『真実は壁を透して 松川事件』(1954年)、『忘れられた土地 生活の記録シリーズ II』(1958年)、『マリン・スノー 石油の起源』(1960年)など社会問題に迫る作品を発表した。
60年安保闘争後の1964年に「映像芸術の会」(松本俊夫、土本典昭、黒木和雄、東陽一、小川紳介らと)を結成して、機関誌の編集に携わるとともに、映画評論を積極的に執筆するようになる。67年には佐々木基一らと杉並シネクラブを設立し、自主上映活動に取り組んだ。
1974年に民俗学者の野口武徳、宮田登、映像作家の北村皆雄とともに「映像民俗学を考える会」を結成。78年には「日本映像民俗学の会」を創立する。著書に、『日本ドキュメンタリー映画全史』(1984年)、『ある映画作家:フィルモグラフィ的自伝風な覚え書』(1988年)、『中原中也:わが青春の漂泊』(1988年)、『映像:黄昏を暁と呼びうるか』(1991年)がある。また『奈落転々』(1978年)、『暗愚唱歌』(1982年)の2冊の詩集を出版している。
野田真吉|Shinkichi Noda|1913年愛媛県生まれ。1937年にP.C.L.(同年に東宝映画に改組)に入社し文化映画部に配属される。このとき、のちに日本の文化・記録映画の歴史に大きな足跡を残した巨匠・亀井文夫と出会い、影響を受ける。主な監督作品に『郵便従業員』(1939)、『砲台のあった島 猿島』(1988)など。
精霊の祭りに迫る
今回の特集上映で、筆者が最も注目するのは野田の作品群中で〈民俗神事芸能三部作〉と呼ばれる3本の作品である。
1970年以後野田は、『冬の夜の神々の宴 遠山の霜月祭』を皮切りに、自主製作で、伝統芸能、民俗行事の映像記録に取り組むようになる。その後、1980年に『ゆきははなである 新野の雪まつり』、1991年に『生者と死者のかよい路 新野の盆おどり 神送りの行事』を撮影、発表した。
「遠山の霜月祭り」は旧暦の11月(霜月)に、長野県の南端近く、天竜川の支流遠山川に沿って広がる遠山郷で行われる湯立神楽(大釜で湯を沸かし、その熱湯を笹などで周囲にまくことで、無病息災や五穀豊穣を願う神事)をいう。生命力の弱まる冬至の時期に、日本中の神々を湯でもてなす儀式で、山間の集落に鎮座するいくつかの神社で12月に行われている。
神社内に湯釜を設け、一昼夜にわたりその周囲で神事や舞を行う。神社によって細部は異なるが、午後から祭場の祓いと神名帳奉読による神迎えに始まり、湯立てと舞を繰り返す。
野田の作品は遠山の霜月祭のうち、下栗でおこなわれる祭りを撮影したものだ。標高997メートル、遠山郷で最も高所にある飯田市上村下栗の拾五社大明神で行われる。土地の伝承では、悪政に苦しめられた領民が一揆を起こし、遠山領主とその家族や家臣を殺したところ、飢饉と悪病が続いたため、遠山氏一族を神として祀り、その鎮魂の祭りとして始めたのが起原とされている。
いまから半世紀前に発表されたモノクロの映像は、“記録映画らしさ”があり、同時代に撮影された民俗学者が撮影した写真との比較してみたい誘惑に駆られる。
そこで真っ先に思い浮かぶのが、日本列島の各地を歩きつくし、スチールによって記録を残した宮本常一の写真だ。宮本と野田の大きな違いは、民俗学者たる宮本は祭りそのものに驚くことなく淡々と記録していないのに対し、野田は山間で古くから行われてきた祭りそのものに純粋に驚き、また神、あるいは精霊の存在に畏怖の念を抱いていることである。
一方、宮本と野田で共通するのは、カメラのレンズを、祭りの舞台である神社の湯釜の周りだけに向けるのではなく、祭りを見る村人の姿もしっかりと捉えている点である。民俗学者の興味が、祭りを支えている人びとにも注がれるのは当然のことだが、映画監督が祭りのそうした部分を理解していたのは炯眼だといえるだろう。映像上は一見、夾雑物のように見える観客たちも祭りの重要な構成要素だからである。
ちなみに、「日本中の神が、湯に浸かりに訪れる」という霜月祭のモチーフは、宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』と通底するところがある。
──小さなおふろに神様が入るというのは何か参考にされたものがあるのでしょうか。
宮崎 「霜月祭といって、日本中の神様を呼び出してお風呂に入れて元気にするっていう非常に面白いお祭りがあるんです。静岡とか岐阜の方にあるお祭りなんですけどね(ロマンアルバム編集部編『千と千尋の神隠し──Spirited Away』)
宮崎監督は静岡や岐阜といい、長野県の遠山郷とずれているが、『千と千尋の神隠し』におけるの湯船の描写に、遠山郷の霜月祭や天龍村の霜月神楽といった長野県の山間部の湯立神楽が反映されていることは間違いないようだ。
折口信夫が“発見”した祭
『ゆきははなである 新野の雪まつり』は、完成までに7年をかけ、1980年に発表された。
「新野(にいの)の雪祭り」は、雪を豊年の吉兆とみて田畑の実りを願う祭りで、1月14日の夜から翌朝にかけて長野県下伊那郡阿南町新野にある伊豆神社境内で行われる。
田楽、舞楽、神楽、猿楽、田遊びなど民俗芸能の源流とされ、鎌倉時代に伊豆の伊東小次郎が新野にたどりつき、奈良の春日神社に奉仕していたことから薪能を伝えたとも、室町時代に伊勢から来た関氏が、田の神送りを伝えたともいわれている。
五穀豊穣祈願の祭りで、「祭りの日に雪が降ると豊年になる」といわれている。20種近い面形(おもてがた=仮面)のほかに、駒、獅子頭、馬形、牛形が加わり、朝までさまざまな神々、精霊の劇が演じられるのだ。野田の映画は、一般の人の目にふれない、諏訪神社における祭りの準備から追っているところが貴重だ。共同体にとって祭りというものが“本番”だけにとどまるものではなく、その前後も合わせて“祭りそのもの”だからである。
『ゆきははなである 新野の雪まつり』(1980)より。長野県阿南町で1月14日夕方から夜を徹して行われる「新野の雪祭り」は1977年に国から重要無形民俗文化財に指定されている。
この祭りが世に知られるようになったのは、民俗学者の折口信夫が1926年に初めて訪れたことがきっかけだった。
此祭りを、雪祭りと通称して居ますのは、譬ひ一握りの雪でも神前に供へなければ、此日の祭儀は行はれないと信じられて来て居たからです。それで若し、近辺に雪のない時には、二里余も西北に隔つた平谷峠あたりまでも出かけて雪をとつて来る相です。此は、言ふまでもなく、雪を以つて田の作の象徴と見るので、祭りの夜に当つて雪が降らなければ、当年の成り物は望みがないと考へたところから出た、変化であります。(折口信夫「信州新野の雪祭り」)
山形国際ドキュメンタリー映画祭2023の「野田真吉特集:モノと生の祝祭」のカタログで、プログラム・コーディネーターの田中晋平は、次のように評価する。
大作『ゆきははなである 新野の雪まつり』(1980)は、冬に舞う雪を、やがて訪れる春の豊穣な生命の予兆として読み換える祝祭の記録である。自然と人工物が絡み合い、生者と死者が通い合うその映像は、人間中心の思考を離れた世界を照らし出している。(田中晋平「変移するモノ、生命へのまなざし」)
「生者と死者が通い合う」という形容は、〈民俗神事芸能三部作〉の特質を大変よく表わしている。そしてレンズを死者にも向けること、あるいは映像作品制作における死者への畏怖は、民俗というモノに対する理解がなくては、作品から漏れてしまいがちなのである。
柳田国男が称えた“亡霊祭却の古式”
1991年の『生者と死者のかよい路 新野の盆おどり 神送りの行事』で取り上げられた「新野の盆踊り」は、三味線、笛、太鼓といった鳴り物を使わないことが大きな特徴で、櫓の上にいる音頭取りの「音頭出し」と、その下で踊る踊り子の「返し」の声だけで踊りが進められる。それは、民俗学者・柳田国男が1926年に訪ねたときから変わらない。
この盆踊りは室町時代の末期に始まったといわれている。踊りの種類は7つ。扇子をもって踊る「すくいさ」「音頭」「おさま甚句」「おやま」と手踊りの「高い山」「十六」「能登」で、このうち「能登」は17日の朝方「踊り神送り」のときにだけ踊られる。
踊り神送りは17日の明け方、市神様の前で御嶽行者が和讃を唱えるところから始まる。やがて切り子灯籠が櫓から下ろされると、太鼓を叩いて行列をつくり、村はずれの太子堂でまた和讃を唱える。しかし、盆踊りが終わってしまうのを惜しむ踊り子たちは、「能登」を踊りながら、行列が進むのを阻止しようと、円陣をつくって踊り続ける。瑞光院の広場まで来ると、切り子灯籠を積み重ね、その前で御嶽行者が呪文を唱えて九字を切り、刀を抜いて道切りの式をする。号砲を合図に切り子灯籠に火が点けられると、「秋歌」を歌いながら、人びとは振り向かないで家に帰る。
「これが仏法以前からの亡霊祭却の古式であることは、この土地だけでは多くの論弁を要しないようであった」と述べたのは柳田国男であった。
あるいは昔の人にはこうして送られて去るものの姿が、ありありと目に見えたのかも知れぬ。それにしたところで仏道の新しい教えがほんとうの魂祭(たままつり)の解説を一変してしまった後まで、新野のように古くからの方式を保存していた例も珍しい。(柳田国男「新野の盆踊り」)
筆者は、この数年の間に何度か、この盆踊りに足を運んでいる。そこで、30数年前に撮影された映像を、現在と比較して見ることになる。そして結論から言えば、30数年前といまを比べてみると、踊りに参加する人の数は減ったものの、祭自体はまったく変わっていないし、それだけでもこのカラー記録映像は貴重なものである。そして前2作と同様に戦後日本、現代社会にまで持続する生者と死者の濃密な交流を、映像はしっかりと捉えているのである。
『生者と死者のかよい路 新野の盆おどり 神送りの行事』(1991)より。野田真吉最晩年の監督作品。『ゆきははなである 新野のゆきまつり』の舞台ともなった長野県阿南町の盆踊りと神送りの行事を、5年かけて追いかけ完成させた労作。
民俗写真と民俗映画
田中晋平は前出の文章でこんなふうに述べてもいた。
かつて詩人の黒田喜夫は、野田の映画を、「物と生のあわいの持続したうた」と表現していた。人間と非人間、生物と無生物といった境界を超えた、「モノ」と「生」との関係を見据える特異なまなざしが、野田の手掛けた映像には認められるのだ。
黒田喜夫をはじめとした野田と同世代の戦後詩人たちと野田の作品および映画監督としての軌跡を比較することは大変意義のあることだろう。
一方で筆者は、野田より20歳以上若い戦後写真家たちの仕事を、野田の仕事と重ね合わせてみることも意味のある試みだと思う。具体的に写真名と写真集のタイトルを列挙すると、以下のような作家および作品群である。
・土田ヒロミ(1939~) 『俗神』(1976年)
・森山大道(1938~)『遠野物語』(1976年)
・須田一政(1940~2019)『風姿花伝』(1978年)
・内藤正敏(1938~2025)『婆:東北の民間信仰』(1979年)
・北井一夫(1944~)『村へ』(1980年)
彼らの多くは60年安保から70年安保の時代を生き、社会問題に目覚めて活動し、その途上から、日本列島各地の村落共同体と民俗に目を向けたのである。その軌跡は驚くほど、野田真吉の歩みと似ている。そして彼らも野田と同様に、政治的問題や都市で目につく問題だけではなく、民俗のなかに見られることもまた現在進行形の社会性をもった事態、現象であることに気づいていたのである。
「野田真吉特集―ゆきははなである」(配給:ノーム)予告編。12月6日(土)ポレポレ東中野ほか全国にて順次公開となる
【WORKSIGHT SURVEY #31】
Q:伝統的な「民俗」を記録することには、ただ「過去を記録する」以上の意味があると思いますか?
野田真吉が残した作品は、貴重な民俗を残した、貴重な記録映像である以上の意味があると、民俗学者の畑中章宏は、文章の最後でこう語っています。「民俗のなかに見られることもまた現在進行形の社会性をもった事態、現象である」。伝統的な民俗を「記録」することの意義を、みなさんはどのようにお考えでしょうか。それは、ただ「記録」としてだけ意味があるものなのでしょうか。それとも、それ以外にも意義はあるのでしょうか。ご意見をぜひお聞かせください。
【WORKSIGHT SURVEY #30】アンケート結果
キーボード、つくってみたらどうなった?:自作キーボード専門店・遊舎工房が広げた「つくる」コミュニティ(11月25日配信)
Q:サポートが整った環境があれば「自作」してみたい?
【自作してみたい】手首への負担が少ないキーボードが欲しくてネットを徘徊していた折、つい先日、遊舎工房さんのホームページを拝見していました。もともとメカニカルキーボードが好きで、電子工作も好きなので、ぜひ自作してみたいです。
【自作してみたい】実はもう自作しています!自分の好みに完全にマッチするキーボードを作るのは楽しいです。
【自作したいとは思わない】昔から手先が不器用なので自作したいとは思わないが、オーダーが出来るならそのオーダーとアイデア出しはしてみたい。例えば、シンセサイザーのように音を割り当てたり、トラックボールでスクラッチさせるとか、入力はされないピアノやドラムキーをつくったり、キータッチで聴いている音楽を勝手に変容させたりしてみたいです。
【新刊案内】
photograph by Hironori Kim
書籍『WORKSIGHT[ワークサイト]29号 アーカイブする? Archive?』
データがあふれる時代に、わたしたちは何を未来に伝えるべきなのか。今号では、謎多き個人アーカイブ「Archive of Modern Conflict」や「コクヨの生活社史」プロジェクトの営みをはじめ、企業アーカイブの現在地、“人と知が出会う風景”としての図書館設計、さらには円城塔、ティム・インゴルド、今日マチ子らが語る「アーカイブの哲学」など、「なぜ残すのか」という問いを起点に記録と記憶の関係を見つめ直す。
書名:『WORKSIGHT[ワークサイト]29号 アーカイブする? Archive?』
編集:WORKSIGHT編集部(ヨコク研究所+黒鳥社)
ISBN:978-4-7615-0937-8
アートディレクション:藤田裕美(FUJITA LLC)
発行日:2025年11月10日(月)
発行:コクヨ株式会社
発売:株式会社学芸出版社
判型:A5変型/128頁
定価:1800円+税
次週12月9日は、フィールドワーカーとして活動しながら、シンクタンクでも調査を行う民俗学者・辻本侑生さんへのインタビューを配信します。人類学や民俗学のなかで磨かれてきた調査手法であり、近年はビジネス領域でも耳にする機会が増えた「フィールドワーク」について、辻本さんの実践と思考の軌跡をたどりながら、その限界と可能性を考えます。お楽しみに。








