著作権の「グレーな部分」:山田奨治と内沼晋太郎と考えた〈権利保護〉と〈フェアユース〉のあわい
宝島社がこの8月に刊行したムック『はじめてのZINE』をめぐる騒動から浮かび上がったのは、「保護」と「利用」の間にある微妙な線引きだった。そもそも著作権は何を守るためにあり、どう運用されるべきものなのか。『〈海賊版〉の思想』で知られる情報学者と、ポッドキャスト「本の惑星」を主宰するブックコーディネーターとともに考えた、著作権と、その曖昧な部分。
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近年、ZINEや同人誌などの自主制作文化は再び注目を集めている。個人の創作が自由に流通する一方で、著作権や引用をめぐる議論も活発化している。2025年、宝島社のムック本『はじめてのZINE』の表紙に複数のZINEの書影が許諾なく使用されたことがきっかけとなり、SNSを中心に大きな議論が巻き起こった。権利保護が叫ばれる一方で、同人文化は二次創作やパロディ、トレースといった“グレーな実践”を通じて文化を育んできた歴史をもつ。創作物の保護と自由な利用、そのあわいをどのようにバランスすべきなのか。『著作権は文化を発展させるのか:人権と文化コモンズ』の著者である情報学者の山田奨治と、バリューブックスの内沼晋太郎が、書籍をはじめとする文化を発展させるために、いまわたしたちに求められる著作権の考え方を語り合った。
moderated by Kei Wakabayashi
text by Sho Kobayashi
山田奨治|Shoji Yamada 1963年生まれ。情報学者、文化研究者、国際日本文化研究センター教授。筑波大学大学院修士課程医科学研究科修了。京都大学博士(工学)。日本IBM株式会社勤務、筑波技術短期大学助手などを経て現職。ハーバード大学ライシャワー研究所、ケンブリッジ大学、京都国立博物館、国立西洋美術館などで客員研究員などを歴任。主な著作に『著作権は文化を発展させるのか:人権と文化コモンズ』(人文書院)など
内沼晋太郎|Shintaro Uchinuma 1980年生まれ。ブック・コーディネーター、クリエイティブ・ディレクター。株式会社NUMABOOKS 代表取締役。株式会社バリューブックス 取締役、本屋B&B(東京・下北沢)共同経営者として、新刊書店の運営と「本と人との出会い」をつくる活動を続けている。著書に『本の逆襲』(朝日出版社)『これからの本屋読本』(NHK出版)など
「文化の発展」のための著作権法
──2025年8月に宝島社から刊行されたムック本『はじめてのZINE』の表紙には、複数のZINEの書影が掲載されていました。発売後に、これらの書影は許諾がないままに使用されていたことが、ZINE制作者によって明かされ、SNSを通じて広く拡散されました。権利侵害の観点から厳しい批判があった一方で、内沼さんが出版に関わる人びとに向けて、書影の利用の観点からの議論を提案していたことがとても印象的でした。今回はこの件を入り口に、著作物などの保護と利用について考えていければと思います。まずは、内沼さん自身の狙いについて最初にお伺いしたいです。
内沼 『はじめてのZINE』でZINEの書影が無断使用されていることが判明した後、SNS上では「書影には著作権があり、許諾なく使うのはダメだ」という論調が広がりました。今回のケースでは、編集者がZINE制作者に対して許諾を取るべきだったのは間違いありません。しかしながら、あたかも「書影を使用するためには、権利者に許諾を取らなければいけない」ということが絶対的なルールのように受け取られてしまっている状況に危機感を覚えたんです。
わたしは法律の専門家ではないのですが、基本的な認識として、著作権という制度は、著作者の権利をただガチガチに守るためだけにあるのではなく、人類の表現や創作といったものが発展していくためにある、と捉えています。実際、引用などの要件を満たしていれば著作物の利用に許諾は必要ないわけです。適切な方法を用いれば、書影を本のなかで使用することは可能だということをちゃんと伝えたかったんです。
山田 内沼さんの問題意識は、わたしとも非常に近いところにあると感じました。著作権法の第一条には、「この法律は、(中略)文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与することを目的とする」と書かれています。このとおり、著作権法の目的とは、文化の発展に寄与することなのです。重要なのは「著作者等の権利の保護」が謳われている一方で、それには「文化的所産の公正な利用に留意しつつ」という留保があることです。つまり、著作権法は、文化の発展のために、著作物の利用と権利保護のバランスをとることを大前提として求めています。
例えば、現在の日本文化を牽引するコミケで頒布される作品の多くは二次創作のものですよね。著作権として考えるのであればグレーな領域ですが、実態としてそれが黙認されるなかで文化の発展が活発になってきたこともまた事実でしょう。著作者の権利保護が緩いところで育つ文化もあります。
内沼 ZINEカルチャーもまた、権利に縛られない自由な活動のなかで発展してきた文化だと考えています。例えば、ファンジンのルーツをたどれば、好きなミュージシャンのレコードジャケットを勝手に使ったり、雑誌の切り抜きを貼ったりしながらつくられてきた歴史もあります。それなのに、つくり手側が「許可を取らなければいけない」という理解ばかりに囚われてしまうと、自分たちで自分たちの文化を苦しめてしまうのではないか、という強い危惧がありました。著作者が不当な扱いを受けないことは大切ですが、作品は作者のためだけでなく、文化の健全な発展のためにあるものなのではないかと考えています。
山田 著作権法には「公正な利用」(広い意味でのフェアユース)の観点から、制限規定というものが設けられています。私的使用のための複製、引用、時事報道のための利用など、この規定の対象となっているものについては、著作権が制限されており、利用者は自由に使うことが可能です。
──『はじめてのZINE』においては、書影の利用が引用にあたるかどうかがひとつの焦点となりました。引用の要件や今回のケースについての整理を山田先生にお願いしてもいいでしょうか。
山田 そうですね。ただ、あくまでもこれから述べる説明は、著作権と文化の関係を研究してきた情報学者の立場からの意見であって、法的助言ではないことに留意いただければと思います。引用は、著作権法第32条に「公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行われるもの」であるときは、公表された著作物を引用して利用することができると規定されています。これをもとに、裁判実務のなかで、現在ではいくつかの要件が整理されています。例えば、「引用部分と自己の著作物の区分が明瞭であること」「引用部分が主従関係において従であること」「引用の必然性があること」などです。今回のケースでは、特に「主従関係」が明確であるかどうかが問われることになるでしょう。
わたしも実際に書籍を購入して検討してみましたが、本文中でのZINEの書影の扱われ方については、正当な引用にあたるかはかなり疑問で、いわば「濃いグレー」とでも言うべきものです。というのも、引用の根幹である主従関係が逆転していると考えられるからです。書籍のなかでは、引用であるはずの書影が大きく扱われている一方で、それに対する論述やコメントの部分が非常に短い。これでは、ZINEの書影の画像が主で、それに言及している部分が従という構図に見えてしまう。もしわたしが同じような構成の本をつくるなら、もっと文章をしっかり書き込み、書影は小さくするか、あるいは白黒で掲載するなどして引用目的上の最小限度に留めると思います。そして、文章のなかで「書影がないと理解できない内容」を扱うようにします。そうすれば、正当な引用の要件を満たすかたちになるはずです。
内沼 わたしも同意見です。一方、表紙についてはいかがでしょう。書籍の中面で紹介されているさまざまなZINEの書影を並べて構成していますが、引用として扱う余地はあるのでしょうか。とはいえ、わたしもSNSでの議論が起こったあとで知ったのですが、実際は書籍のなかで紹介されていないZINEまでもが表紙に使われていたようで、根本的に制作プロセスに問題があったのは間違いないと思っています。
山田 中面が正当な引用とは言えない状況であれば、表紙への書影の利用を引用として扱うのも無理があると思います。わたしならば許諾を取りますね。『はじめてのZINE』のケースは、やや軽率に書影を使ってしまっている印象があります。
書影の権利と出版界の「慣習」
──出版物の編集をしていると、ブックガイドや書籍のレビューなど、書影の画像を利用する機会が頻繁にあります。一般論として、本の表紙デザインには必ず著作権が認められると考えておいたほうがいいのでしょうか。
山田 書影に著作権が認められた裁判例は存在しますし、著作権は〈あるかもしれない〉と思っていたほうがいいと思います。しかし、どんな書影にも著作権が生じるかというと、それは違います。書影の著作物性(著作権法第2条第1項第1号では「思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」と規定)が個別に問われ、最終的には裁判所が判断することになります。例えば、一般的なフォントで文字が並べられているだけの表紙など、創作的要素が乏しい非常にありふれた表現のものであれば、著作物性が否定され、権利が認められない場合もあるんです。
──書影やアルバムジャケット、ポスターなどの画像については、現在の出版業界や編集現場では無許諾で利用することが多いのが実情です。また、音楽や映画などといった関係する業界もそれを黙認するのが慣習化されています。
山田 実際、業界の慣習として黙認されるケースは多いのではないでしょうか。書影やCDジャケットは宣伝素材でもあり、人びとに関心をもってもらうためのもの。それが広まることはプラスに捉えられ、権利者もあえて権利を主張しないほうが得策だと考えていると想像できます。
内沼 わたしは出版社も運営していますが、以前に比べて、メディアで書影を使用するための許諾の問い合わせが増えたと感じています。これは一見「丁寧」になっているようにも思えますが、その結果として、許諾を取る/与えるという手続きばかりを増やしているだけなのではないかと思うこともあります。
本の売り上げに影響のあるメディアとして、例えば「王様のブランチ」などのTV番組はSNSの普及以前からずっと大きな影響力をもっているのですが、一方でそれ以外の新たな場はなかなかあらわれていない状況です。こうしたなかで出版を盛り上げていく視点に立つと、SNSでのバズを含め、いろいろな人の力を借りて本が話題になりやすい環境をつくっていくべきだと考えます。小さな媒体の書評でも、個人のSNSでの投稿でも、本を紹介するときには表紙の画像があったほうが効果的なのは明らかですよね。であるのに「表紙には権利があるから勝手に使うのはダメ」という一面的な理解が浸透してしまうことで、本を広めるための活動を躊躇する人が現れ、結果的に出版という文化自体が萎縮することへつながっていくのではと危惧しています。
──とはいえ、「宣伝になるから問題はない」という論法は、フェアユース的な利用を擁護する際によく使われますが、やや議論としては弱くないですか?
山田 そうですね。それを利用者があまり強く言ってしまうのは、やはり使う側の論理でしかなく、むしろ制作者の神経を逆撫でしてしまうことにもなりますよね。誰かの著作物を利用する上では、「使わせてもらっている」という意識をもつことが基本だと思います。それに加えて引用の例外規定にあてはまるかどうかを丁寧に判断する必要があります。
内沼 姿勢としての謙虚さは、わたしもとても大事だと思います。使う側が「宣伝になるからいいだろう」と主張することは傲慢だし、相手との関係性を損ねる可能性もありますよね。ただ、実際の編集現場では、引用の要件を満たすかどうかの判断が難しい場合が多いのも現実だとは思います。本当は引用の要件を完全に満たせるのが理想ですが、微妙なケースもあります。そういうときに、「どう考えても相手に不利益を与えない」と信じられるなら、ある程度の判断で制作を進めていくことも必要だと思っています。もしそれすら疑ってしまうと、結局は許諾を取ろうということになるわけですが、手続きばかりが増えて文化的な活動自体が滞ってしまうことは、望ましい状況ではないのではないかと。
──しかしながら「相手の不利益になるかどうか」をこちらが一方的に決めてしまうのも、やや強引かもしれません。権利者に対してというよりも、「これは読者にとって紹介する価値がある本だ」と思えるか、ですとか、出版人としては「それを社会に出すことが意義があるかどうか」といった観点から利用を正当化できるかどうか、といったあたりが基準になるのかなと個人的には思ったりもします。それも利用する側のエゴだと言われれば、そのとおりではありますが。
内沼 たしかに、そう考えるほうがよいかもしれません。相手に対する利益/不利益の観点だけだと、正当な批判をすることに委縮してしまう可能性もありますしね。ただ、いずれにしても引用の要件をきちんと満たそうとすることが、やはり前提にはなるんだろうとは思います。
「許諾は行わない」の裏の意味
──この議論に関連して、KADOKAWAがWebサイトに掲載している書影の使用に関する指針が、SNSでも取り上げられていました。これがなかなか面白い書き方をしています。 図書館における書影の使用には利用規約が設けられている一方で、個人での使用についてはこのようにだけ書かれています。「個人のお客様への書籍・雑誌の表紙(書影)・カバー、パッケージ画像などの許諾は行っておりません」。この指針は、山田先生がお話しされた著作権の「グレーな部分」への対応の表れだと感じました。「勝手に使っていい」とも「絶対に使うな」とも、あえて言わないのが面白いなと。
山田 非常に曖昧な言い方ですよね。あくまでも「許諾は行っておりません」であって、「禁止します」とは言っていないわけです。法律の専門家が助言したものだと推測します。
書影のなかには、他者の著作物が使われているケースもあります。そうなると、出版社側だけではそもそも許諾を出せない場合もあるわけです。だからこそ、出版社としてはあえて「許諾を行わない」という言い方をする。あらゆるケースを一律に判断できない以上、そうした表現にせざるを得ないんですね。最終的には、個人が指針をどう解釈して行動するかということになります。「使うのはやめておこう」と考える人もいれば、「引用として成立する」と判断して使う人もいる。どちらもあり得ると思います。
内沼 わたし自身も過去に、ある本を紹介する目的で書影の利用を出版社に問い合わせて、断られてしまったことがあります。しかしその本は著者がすでに亡くなっていて、初版の出版社も廃業した状況から復刊されたものだったので、権利が複雑だったのだろうと推察しています。出版社としては自分たちだけで許諾を出せない事情があったのだろうと。しかし同時に「聞かれたらNGを出さざるを得ないが、本来的には紹介してもらえるほうがよいので、聞かずに勝手にやってほしかった」というニュアンスも感じ取ったんです。書影利用に関する出版業界の慣習は、わたしのように藪蛇になるのを避けながら、あくまでも基本的にはプラスになることだという感覚から許可を取らずに掲載を行う判断がされているように感じます。
そもそも著作権侵害は基本的には親告罪で、著作権者が訴えなければ刑事罰にはならない。実はこうした仕組み自体に、文化的な配慮があるんじゃないかと思うんです。つまり、第三者が権利をもち出して止めることができてしまうと、作者にとっても文化の発展にとっても望ましかったはずの作品の利用が阻まれてしまう。それが本来の流れを止めてしまう。だからこそ、親告罪にしておくことによって、「文化的発展」を黙認できる余地が残されているのではないか……と思うんですが、これは極端な見方なのでしょうか。
山田 著作権法で定められている著作者の権利は著作財産権と著作者人格権に分類されるのですが、このうち、著作財産権の観点からはあながち間違いではないと思います。著作財産権は、権利者の経済的利益をいかに確保するかという発想から成り立っています。ですから、権利者が「この使われ方では損害は発生しない」と判断すれば、訴訟を選択しないことも現実にあり得ます。親告罪として扱われているのはこうした観点からだと思います。ただし、2018年の法改正により、ウェブ上に海賊版を配信するような行為は非親告罪として扱われることになりました。また、著作者人格権の一部も非親告罪です。財産権と異なり、人格的な侵害には経済的損得だけでは割り切れない側面があるんです。
とはいえ、著作権にまつわる独特の話として、「グレーだけども、こういう世界があることによって文化が発展する」という領域は確実に存在します。この点を意識して、著作権に関わる議論については寛容に接することが重要だとわたしは考えています。
著作権法は文化を阻害する?
──そもそも、日本の著作権法はどのような歴史的なプロセスを経て成立したのでしょうか。
山田 日本で初めて著作権法が成立したのは明治32年(1899年)です。その背景にあったのは、幕末以来の不平等条約を改正したいという当時の国家的な悲願でした。条約改正の交渉を進めるなかで、列強諸国から求められた条件のひとつが「法律制度の近代化(西洋化)」でした。この一環として、著作権保護の条約であるベルヌ条約に加盟すること、そのために著作権法をつくることも求められました。旧著作権法は、そうした要求に応えるために、ある意味でいうとしぶしぶつくられた法律だったんです。当時の法律には「文化の発展を目的とする」という理念は明記されていません。旧著作権法の第1条に記載されていたのは、「著作者は複製権を有する」(著作物ノ著作者ハ其ノ著作物ヲ複製スルノ権利ヲ専有ス)といった、きわめてシンプルな条文だけです。
内沼 当初は「文化の発展」が目的ではなかったんですね。「しぶしぶ」というのはどういうことなのでしょうか。
山田 興味深いことに、著作権法の法制化に対して明治時代の文化人たちから強い反発があったんです。彼らは「著作権法が成立すると、日本の文化が衰退する」という、現代からすると逆説的ともとれる意見を主張しました。というのも、当時の日本は西洋文化を積極的に受け入れようとしている時期であり、文化人たちにとっては、海外の書籍を翻訳して紹介することが日本の文化を発展させることだったからです。著作権法が成立しベルヌ条約に加盟すると、翻訳書の出版には海外の権利者の許諾が必要となってしまう。それまで「自由に」翻訳や複製を行っていた日本にとって、それは文化の発展を妨げることに他ならなかったのです。
──著作権法が成立する以前、いわゆる「海賊版」のようなかたちで翻訳書が次々につくられていたというのは驚きです。山田先生は2024年に『〈海賊版〉の思想:18世紀英国の永久コピーライト闘争』を復刊していますが、著作権法との関係から言及しておくべきことはありますでしょうか。
山田 この本は、18世紀のイギリスでコピーライトをめぐって行われたドナルドソン裁判の顛末を記したものです。イギリス最初の著作権法であるアン法は1709年に成立しました。当時出版社が独占的に書籍を保護できる期間は新刊の場合最長28年間とされていました。スコットランドで活動していたアレクサンダー・ドナルドソンは、権利が切れた売れ筋の書籍の複製本(海賊版)を出版していたのですが、もともとの書籍業者が「著作権は永久のもの」と主張して裁判になりました。
最終的にイギリスの最高裁は、コピーライトは慣習法に基づく永久の権利ではなく、法律でつくられた人工的な権利であり、期限付きのものであるということを確定させました。これは著作物というものが一定の保護期間を終えた後は、パブリックな共通文化になるという原則を明確にしたという意味で非常に重要な判決でした。
──著作権があくまでも人工的で期限付きの権利であるという判決は、著作物を多くの人が利用していく社会のあり方を考える上で非常に重要なものだったということですね。
山田 まさにそうです。著作物とは〈著作者のもの〉であるだけでなく、社会全体、つまり〈みんなのもの〉でもあるということが「文化の発展」を考える上でとても大切な視点となります。
日本の話に戻りましょう。現行の著作権法が制定されたのは1970年(施行は1971年)です。この改正で初めて「文化の発展」ということばが目的として謳われるようになりました。不思議なことに、この法律は「文化」や「文化の発展」については定義を曖昧にしているんです。ある著作権法の大家の先生は、「この法律に書かれてあることが文化の発展になることなんだ」という、一種の循環論のような構造で文化の発展を解釈していました。
個人的な経験の話になってしまいますが、わたしが大学生だった1980年代までは洋書の海賊版というのは簡単に手に入る時代だったんです。学校の近くの店に平然と並んでいましたから。わたしより上の世代の偉い先生たちの回顧録を読んでいても、安価な海賊版で学生時代に勉強した様子が記されていることが結構あります。日本の科学的な発展に海賊版が貢献していた構図というのは昭和の時代にも確実に残っていたものだったのです。
内沼 面白いですね。その後の時代に著作権法が厳格に運用されていく契機があったんでしょうか。
山田 1980年代のレーガン大統領時代のアメリカで、プロ・コピーライト(著作権推進)政策が推進されるようになります。アメリカは1976年に著作権法を全面改定しており、例えば著作権の保護期間の延長なども行われています。この時代を通して、著作権は文化の保護と発展のための仕組みから、グローバルなコンテンツ産業の推進のためのツールへと大きく変質していくことになります。日本もそれにならった政策を1990年代末以降に推進しました。こうした影響から、国内の著作権法の厳格化は2000年代以降も続いていくことになります。私的複製に対する規制は拡大していますし、違法ダウンロードが刑事罰化されるなど、著作者の権利の保護の強化は現在も進行しています。
ちなみに、1976年のアメリカ著作権法改定にあたって、自分たちの所有するIPが著作権切れになる恐れがあったディズニーが保護期間の延長のためのロビー活動を行っていたという話は知られていますね。
18世紀イギリスで著作権を永久に独占しようとした大書店主たちに挑み、「パブリック・ドメイン」を勝ち取ったドナルドソンの法廷闘争をドラマチックに描いた『新板〈海賊版〉の思想』
写真のトレースを考える
──文化の発展のための権利保護とフェアユースを考えるための題材としては、最近もうひとつ話題になった事例があります。マンガ家・江口寿史さんがルミネ荻窪の「中央線文化祭2025」のキャンペーンポスター用に描き下ろしたイラストが、ポスター掲示後に、モデル・文筆家の金井球さんがSNSに投稿した写真を元に描いたものであることが判明しました。この件は、江口さんと金井さんの話し合いのもと、金井さんの同意を得てイラストを修正し、再公開されたことにより個別の案件としては解決しています。一方で、写真の被写体のポーズやスタイリングなどを写し取ってイラスト化する、いわゆる「トレース」と呼ばれる手法が注目され、もとの写真の著作権や、被写体の肖像権、パブリシティ権などがどのように取り扱われているのか議論が広がっていくことになりました。
内沼 複数の権利の話が複雑に重なっており、それぞれの権利がどの程度法的に侵害されているかを理解するのは難しいと感じました。ただ少なくとも、SNS上でトレースの手法を単純なパクりとして扱って「元ネタ特定ゲーム」のようなかたちで盛り上がっていたことには危惧を覚えました。江口さんのSNSでの対応が適切とは言えなかったのもあり「かっこ悪い」「ファンとしてがっかり」といった感情論と相まって炎上したと思うのですが、法的な観点からはどう考えればいいのでしょうか。
山田 現段階でこの件は当事者間ではすでに和解が成立し、解決をみているものです。いまからわたしたちが問題を掘り返す必要はないというのを前提に、権利保護と公正な利用の観点から検討してみることにしましょう。
まず、写真の著作権という観点では権利を侵害しているとはいえないのではないかと思います。「トレース」とはいっても、陰影や構図など写真に特徴的な創作的表現の部分が完全に写し取られているわけではないですから。
このケースではパブリシティ権の問題が最も大きいと考えられます。パブリシティ権とは、著作権のように法律で明確に定められている権利ではなく、裁判所の判例の積み重ねによって認められてきた権利です。これは、芸能人やモデルなど、その容姿自体に経済的価値をもつ人たちが、自らのイメージを無断で利用されない権利を指します。パブリシティ権の侵害が成立するとされるのは、その人の姿形がもつ「顧客誘引力」(人を惹きつける力)を目的として第三者が商品・サービスの宣伝や広告に用いた場合です。今回の「中央線文化祭」のポスターでは、モデル本人が特定可能であり、かつルミネ荻窪という商業施設への顧客誘引を目的とした広告であるという点がパブリシティ権を検討する上で重要な要素になると思われます。ただし、権利の成立・侵害の判断には複数の視点が必要ですし、制度的には確定的ではないため、慎重に検討すべき領域です。
しかし、ここで非常に難しい論点が生じます。元の写真がマンガ家のフィルターを通して変形・再構成されていることです。江口さんのイラストが、元のモデルが「誰だかわからない」かたちで利用されている場合、それでも有名人の「顧客誘引力」を利用したと言えるのかどうかは、判断しかねる部分です。例えば、似顔絵や風刺画、あるいはパロディのような、変形・創作性が加わる表現手法の場合、パブリシティ権の適用範囲は明確ではありません。今回のケースは、すでに当事者間で解決が図られていますが、もし法廷で争われた場合、どこまで変形・再構成すれば「創作」と呼べるかが争点となり得ます。
──パブリシティ権が有名人の姿形の「経済的価値」を守る権利であるのに対し、肖像権は「人格権」としての側面が強いとされています。この違いについてはいかがでしょうか。
山田 肖像権は、憲法13条に基づく人格権の一部として、判例上認められてきた権利です。誰もがみだりに自分の肖像や全身の姿を撮影されたり、撮影された写真をみだりに公開されたりしない権利となっています。ただし、この権利の行使を過度に認めすぎると、例えば街中での撮影や報道活動といった社会的に有益な行為まで制限してしまう恐れがあります。そのため、裁判所は表現の自由との調整を行いながら、行使を抑制的に考える傾向にあります。判断基準のひとつとして「社会生活上の受忍限度」というものがあります。肖像の利用がこの限度を超える場合には侵害とされますが、公共性の高い報道や一般の風景撮影などでは「受忍すべき範囲内」と判断されることもあります。
こうした保護と利用のバランスを考える上では、近年デジタルアーカイブ学会が整備している肖像権ガイドラインが非常に参考になります。このガイドラインは、肖像の利用が受忍の限度を超えているかどうかを判断するための具体的な目安(被撮影者の社会的地位、撮影の場所、撮影の態様など)を提示し、スコア付けして評価できるようにしています。無断利用を一律に禁止するのではなく、適切な範囲での利用を許容する指針を示そうとしているのです。
──江口さんのイラストのリファレンス元として、SNSで拡散された写真のなかにはファッション誌が掲載したものもありました。現在の著作権法上は、こうした雑誌に掲載された写真の著作権はカメラマンに帰属しているかと思います。しかしながら、江口さんのイラストがもつ髪型やファッションなどの現代的な魅力を担保しているのは、モデルのポージングやスタイリング、ヘアメイクなど、多くの協力者によってつくられた価値だと考えることもできます。こうした人びとに対する権利のようなものは議論されているんでしょうか。
山田 たしかに、モデル、ヘアメイク、スタイリストといった人たちも創作的な仕事をしているとは思います。でも、その権利が保護されている世界を想像してみるとどうでしょう。美容院でなりたい髪型の写真を見せてお願いしようとしたら、「許諾が取れていないのでこの髪型にはできません」と言われるような世界で暮らしたいでしょうか(笑)。すべてのものに権利を与えないことが、社会全体の利益になるというような判断が法制度上にはあるのだと思います。
グレーゾーンの考え方
──社会の利益や文化の発展という観点から、実は著作権法をはじめとする法律には、自由に著作物を利用するためのグレーな領域も多くあることが見えてきました。実際、デザインやアートの分野でも、「似ている」「引用している」といった境界は常に曖昧にならざるを得ないようにも感じます。何かをつくろうとする人びとは、こうした「グレーな領域」とどのように向き合っていくのがよいのでしょうか。
山田 もともと、創作というのは真似から始まる行為です。誰かの表現を参考にして学び、それに新しい要素を加えていくことで、これまで数多くの作品が生まれてきました。ですから、本来であれば「参考にする」「影響を受ける」ということ自体はやましい行為ではないはずです。
先ほども触れましたが、2000年代以降、日本の著作権はグローバルなコンテンツ産業の中核となるものとして、特に著作財産権の保護の観点から著作者の権利保護が進んでいる状況にあります。こうした国家的な潮流と対応しているかのように、近年のわたしたちの権利意識も非常に強くなってきたように感じるのです。今回の件に限らず、さまざまな領域のデザインやアートにおいて「少しでも似ていたらアウト」というような風潮が広がっています。法律が定める範囲内であれば問題はないはずなのですが、その外側の「モラルの問題」としてしばしば炎上し、糾弾される構造は、制作者の活動を萎縮させ、創作文化にとってはマイナスに働く面もあります。
内沼 法的な正しさと道義的な正しさは必ずしも合致しているわけではないというのもありますよね。今回取り上げた『はじめてのZINE』や江口寿史さんの件でも、法的な議論だけではない範囲も含めて炎上が起きました。そこには、社会的な不満などの別の意図が紛れ込んでいることもありますよね。例えば今回であれば、大手出版社や有名クリエイターといったある意味での「権威」に対する道義的な反発のようなものもあったかもしれません。ただ、そうした道義的な主張が、法律という「盾」にすり替えられて、攻撃が正当化されてしまう構造そのものに、わたしは危うさを感じます。
結局、SNSでは「注目を集めた人が勝つ」構造があります。極端な意見や断定的なことばほどバズりやすい。そうなると、専門家でもない人が「これは著作権侵害だ」と根拠の薄い断言をし、ある種の潔癖さを求める無数の個人が一斉に裁きを行うような現象が生まれてしまう。結果として、わたしたちのさまざまな文化を育んできたはずの「グレーゾーン」を、わたしたち自身がモラルの名のもとに次々と切り捨てていく危険性があります。
山田 そもそも、文化というのは誰かひとりの所有物ではなく、社会のなかで共有されながら育っていくものなんです。作品はもちろん著作者のものではあるけれど、いったん世に出た瞬間から、人びとの記憶や感情のなかに入り込み、みんなのものにもなっていく。そのあわいの部分こそが、これまで話してきた「グレーゾーン」なのです。法律的な正しさだけでなく、「みんなのもの」としてどう使われ、どう受け継がれていくかという視点をもつことが、これからの文化を考える上でとても大事だと思います。
──こうした状況のなかで、著作権とフェアユースの関係をわたしたちはどう考えていくのがいいのでしょうか。
内沼 フェアユースというのは、法律の抜け穴ではなく、文化が呼吸するための〈隙間〉だと思います。重要なのは、利用する側が文化の発展に自分がどう関わっていけるのかという目的意識をもつことなのかもしれないと、今回のお話を通じてあらためて思いました。批評や再解釈もまた文化を更新する行為であり、そのために例外が認められている。著作権はただ著作者の権利を守るためだけの仕組みではなく、使いながら生かしていくためのルールでもあるので、そのバランスをよりそれぞれが自覚的に学んだり、発信したりしていくべきだと思いました。
山田 繰り返しになりますが、文化はグレーな領域があるからこそ発展してきたという歴史を忘れてはいけません。著作権法もまた保護と利用のバランスをとりながら運用されてきました。
だからこそ、社会全体が「寛容さをもつ知性」を育てていくことが重要です。すぐに白黒をつけようとするのではなく、「どこまでが許され、どこからが侵害か」を考え続ける態度そのものが、文化の成熟を支えます。フェアユースの精神とは、創作が息づくための空気のようなもの。作品は作者のものであると同時に、いずれはみんなのものにもなっていく。そのあいだに広がる余白を恐れず、そこに創造と対話の可能性を見いだしていくことが、これからの文化を支える基盤になるはずです。
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【WORKSIGHT SURVEY #28】
Q:著作権の保護期間「70年」は長い?短い?
本文では、『はじめてのZINE』をめぐる議論などを手がかりに、著作権法の「文化の発展」という目的と、「権利を守ること」と「公正な利用」のバランスについて考えてきました。2018年の法改正によって、日本では著作権の保護期間が著作者の死後50年から70年へと延長されました。著作者の権利が手厚く保護された一方で、次の世代が作品を自由に使いにくくなる面もあります。現在の保護期間は、著作権法の目的から考えたとき、バランスの取れたものなのでしょうか? みなさんのご意見をお聞かせください。
【WORKSIGHT SURVEY #27】アンケート結果
ゲームが仕事になるまで:ブラジルが拓いたゲーム産業の第3の道
(11月4日配信)
Q:ブラジル発のゲームをプレイしたことがある?
次週11月18日は、WORKSIGHTプリント版・29号「アーカイブする?」の刊行にあわせて、本誌に収録されている編集長・山下正太郎の巻頭言を転載してお届けします。お楽しみに。






