自助の道具:人間の残酷とレジリアンスについて【佐久間裕美子・特別寄稿】
2022年の春から夏にかけて一般公開された展覧会「生活のデザイン ハンセン病療養所における自助具、義肢、補装具とその使い手たち」。社会から隔離させられたハンセン病患者たちが、創意工夫をこらしてつくった「自助の道具たち」。『Weの市民革命』で知られる文筆家・アクティビストの佐久間裕美子さんは、そこに人間の残酷とレジリアンスの両極を見たと語ります。
ブリキの義足 全生病院(現 多磨全生園) 明治末期に患者が発案し、患者作業でつくられていたもの。写真提供(以下すべて)=国立ハンセン病資料館
text by Yumiko Sakuma
photographs courtesy of The National Hansen's Disease Museum
8月の最終週、東京都東村山市の国立ハンセン病資料館に向かった。「生活のデザイン ハンセン病療養所における自助具、義肢、補装具とその使い手たち」と題された企画展を見るためだ。編集者である妹が、Facebookでポストされている情報を見たという。オンラインの展示のページを見たら、どうしても見逃してはいけないような気がして、苦手な早起きをして電車に乗った。
西武池袋線の清瀬駅からバスで10分。資料館が設立されたのは1993年だが、1909年に開園した国立療養所多磨全生園の敷地内にある。清瀬駅ができたのが1924年だった。
自助の道具たち
ハンセン病について、私たちはどれだけのことを知っているだろうか。私自身、かつて感染症として猛威をふるい、たくさんの罹患者たちが迫害を受け、世間から隔離されたという教科書で得られる程度の知識しかもたなかった。
呼称は違えども、日本書紀や聖書にも登場するハンセン病だが、その原因となるらい菌を発見したノルウェーのアルマウェル・ハンセン医師の名にちなんでこう呼ばれるようになった。
19世紀後半、日本に最初に、社会から拒絶された罹患者たちを受け入れ、治療や食事を与える場所をつくったのは、フランス人宣教師だった。その後、各地に私立の療養所がつくられるようになったが、1907年、明治政府は感染者を隔離するための療養所を全国に設置することに決めた。国立療養所多磨全生園の設置も、この一環だった。
1930年代に入ると、ハンセン病罹患者をそれぞれの地域社会から排除することで感染を一掃しようとする「無癩県運動」が生まれ、在宅や路上の患者たちが強制的に療養所に収容されるようになった。
塀や垣根の向こうに閉じ込められた人びとは、生き方や暮らしにまつわる自己決定権を奪われた。医師や看護師、職員の数は常に不足していたから、患者たちは病気をかかえながら労働や作業に従事し、所内通貨が流通した。患者同士の結婚は許されたが、夫婦が同じ場所に暮らすことは許されず、出産は禁じられて、男性は断種手術を、女性は中絶手術を強制された。
行政は療養所を設立し、「生涯隔離」政策のもと、患者たちを恒久的に施設に閉じ込めたが、治療や支援を提供したわけではない。入所者には「相愛互助」「同病双憐」といったスローガンのもと、自助が求められた。
「生活のデザイン ハンセン病療養所における自助具、義肢、補装具とその使い手たち」で展示されるのは、そんな希望のない状況に置かれた患者たちが、創意工夫をこらしてつくった道具たちだ。世に流通する義足にかかる金銭をもたなかった患者たちがブリキと木でつくった義足は、時代の流れとともに、石膏やアルミを取り入れて改良されていく。知覚障害によって手の動きが不自由になった人たちは、カトラリーや刃物にさまざまな方法で持ち手をつけ、ボタンをかけるための道具をつくった。
上:取っ手付きの茶缶(多磨全生園) 手指に障害がある人が、飲みたいときや、部屋に友人が来たときに、いつでもお茶を入れられるように取っ手を付けている。下:山内きみ江さんのオーダーシューズ(多磨全生園)2019年撮影 ベルトに花飾りがあしらわれている。黒と茶の2足を装いに合わせて履いている。
治らないといわれた病気と生きながら、そして永遠に出られないといわれた塀のなかでの生活を強いられながら、道具を生み出した人びとのレジリアンス(強さ・耐性)はどうやって生まれたのだろうか。入所者たちが詠んだ歌を読みながら、はたして歌やことばは彼らの生活を助ける道具になったのだろうかと考える。
国立療養所多磨全生園の人口がピークに達したのは1945年。入所者の数が1221人になった翌年の1946年に治療薬プロミンが登場し、これによって、ハンセン病患者の数はついに減り始めた。国の政策によって人権を奪われた人びとの復権運動が始まり、1996年には、隔離を正当化してきたらい病予防法が廃止された。とはいえ、罹患による障害を抱え、家族や故郷から引き離された人びとが社会に復帰することは容易ではない。それから20年以上が経ったいまも、療養所には暮らしている人がいる。
碁を打つ(駿河療養所)1955年撮影
マジョリティ至上主義の残酷
資料館の常設展で、ハンセン病や療養所の歴史を学びながら考えたのは、マジョリティ至上主義の社会のあり方についてだ。感染症の患者たちから自己決定権を奪い、見えない場所に閉じ込めたり、ひっそりと自宅にて自らを隔離していた人を当局に密告したりした行為の背景にあったであろう公衆衛生という大義の残酷性は、当時の大衆にどう説明されていたのだろうか。
ハンセン病の感染の経路は、罹患者の鼻汁や組織浸出液だが、感染力は決して高くはない。発症時期は幼少期が多く、自然免疫の抑止力も働いたから、大人から大人への感染はむしろ珍しかった。ただこうした事実が判明したのは、20世紀も後半になってからのことで、それまではむしろ、科学的根拠や症例よりも、恐怖や偏見が社会の対応を牽引した。
企画展「生活のデザイン」は終わってしまったが、常設展には、療養所の入所者たちがつくり出した道具の一部が常に展示されている。ハンセン病資料館の展示は、人間の残酷性とレジリアンスの両極をこれでもかと見せつける。そして世界の大半では終わったこととされているハンセン病の感染にまつわる状況が、終わっていないことを教えてくれる。
私たちの生きる世界には、いまだにハンセン病とともに暮らす人がいるし、人間たちが犯した大きな過ちによってつけられた人間の傷は、歴史にしかと刻まれている。
企画展「生活のデザイン」室内風景。
*展覧会「生活のデザイン ハンセン病療養所における自助具、義肢、補装具とその使い手たち」は、2022年3月12日〜8月31日まで国立ハンセン病資料館にて開催されました。
佐久間裕美子|Yumiko Sakuma 文筆家。カルチャー、ファッション、政治、社会問題など幅広いジャンルで、インタビュー記事、ルポ、紀行文などを執筆。著書に『真面目にマリファナの話をしよう』(文藝春秋)『My Little New York Times』(Numabooks)など。2020年12月に『Weの市民革命』(朝日出版社)を刊行したのをきっかけに、読者とともに立ち上げたSakumag Collectiveを通じて勉強会(Sakumag Study)や出版・制作活動を行っている。
次週10月25日は、山形を拠点とするデザイナー𠮷田勝信さんが注目する、世界のユニークな「フォレジャー(採集家・採餌家)」たちの活動をご紹介します。実りの秋、収穫の秋にぴったりの記事です。お楽しみに。