繰り返す時間の年齢縁:沖縄に息づく干支の祝いから
沖縄をはじめとする南西諸島では、干支の観念とそれに基づく年齢の数え方が今日でも生活のなかに溶け込んでいる。西暦の直進的な時間とは違い、12年で巡る円環の時間は、個人化と多様化が進む社会のなかで普遍的に人びとを結びつける契機になりうるかもしれない。十二支に根ざした「年齢縁」の可能性を、民俗学に軸足を置く編集部員がフィールドワークとともに探索する。
2025年巳年の沖縄本島・読谷村の楚辺集落「生年合同祝賀会」にて。舞台の袖で獅子舞の出番を待つ、祝賀対象の13歳を含む子ども会の演者たち photograph by Saki Kudo
かつて血縁や地縁、宗教、会社などに紐づいていた固いつながりはほぐれ、生きる上で関わる相手は選びやすくなった。自分の希望に沿った学校や職場、住まいを選択できる機会が増え、ソーシャルメディア上ではムードの合う仲間を無数に見つけられる。しかし見方を変えれば、それはつながりを自らの手で掴み取らなくてはならないシビアな社会でもある。拠り所のない個人主義の宇宙のなかで、どうすれば自らを世界につなぎ止められるのだろうか。その手がかりが「干支」にあるかもしれない。
沖縄を含む南西諸島各地では、「生年祝い(トゥシビー祝い)」と呼ばれる、その年の年男・年女の息災を願う祝いの行事が毎年正月に行われる。古くから家単位で行われてきた生年祝いの一部は、戦前戦後の生活改善運動による祝宴の簡素化によって、地域単位での合同開催へと変化。これによって、数え年で13歳から97歳までの、同じ干支のさまざまな世代の人びとが12年おきに一堂に会するという独特の場が生まれることとなった。そこには同じ十二支という“だけ”で他者と結びつけられる、柔らかな引力が存在している。12年というスパンで巡り来る円環的な年齢システムと、そこに生じる「年齢縁」の兆しを、沖縄本島と宮古島でのフィールドワークと、民俗学の視点から考える。
text by Saki Kudo
無重力の個人主義
思えば、12歳の頃に苦手だったクラスメイトと同じ近所の中学に行くか、受験して知り合いのいない隣街の中学に行くかの二択で悩んで以来、今日まで無数の選択肢のなかを泳ぎ続けているかのようだ。わたしたちの生活は、子ども時代の小さな意思決定に始まり、日々口に入れるもの、休日の予定、通う学校、暮らす街、働き口に至るまで、あまねく自律的な選択のムードに満ちている。
喜ばしいことに、親族や共同体、ときには国の都合で、当人に関わることが不本意に決められてしまうということは随分と少なくなった。西洋近代化とグローバル資本主義がもち込んだ自由と物質的豊かさを曲がりなりにも享受した日本では、「個人の人格と自由は平等に守られるべきもの」という尊い建前は、まだギリギリのところで体裁を保っているようだ。
とはいえ、自分で探して選ぶというのは正直なところ骨が折れる作業でもある。Chat GPTを開いて旅先の膨大な宿泊施設の海のなかから条件に合う宿を見繕ってもらうときでさえ、ブラックボックス化されたアルゴリズムに自分の未来を託してしまう不安と同じくらいに、選ぶ行為を誰かに委ねることへの心地よさを感じてしまう。
ましてや、人間関係の選択ともなればなおさら大儀なものだ。前近代の世から外圧的に人同士を結び合わせていた、家、村落、宗教集団、会社などの枠組みはもはや普遍的強度を失い、そうして手に入れたコミュニティの流動性と引き換えに、他人と縁を結ぶ行為は信じられないほど複雑なものになってしまった。自立した個人同士のあいだでは、過度な干渉は疎ましがられる。運良く親密になれても、ケアを怠れば自然に関係は薄れていってしまう。まるで個人主義社会という無重力空間のなかで、たったひとりで、あるいはごくわずかな通じ合える相手とだけ手を取り合いながら、無数の人びとが寄る辺なくふわふわと浮かんでいるようだ。
アイデンティティ・ポリティクスは、ジェンダー、セクシャリティ、人種、民族などの属性によって連帯できる集団を形づくるかに見えた。だが市井の議論はいつも、「あなたは何にでもなれる!」というアイデンティティそのものの構築性に揺られ、「当事者か否か」という二元的な底なし沼に陥ってしまう。分断に陥らないまま、世界のなかに自分をつなぎとめる命綱を編むということが、果たしてまだ可能なのだろうか。
ひとつ、おぼろげながら手がかりになりそうなアイデアがある。「年齢」という属性にかかわる話だ。
当たり前のことだが、この世では誰もが同じスピードで年を重ねる。たとえ20歳の人間と同じ速さで走ることができ、同じバンドの音楽を好んで聴いていたとしても、60年前に生まれた人は60歳でしかあり得ない。時間の普遍性を宿した年齢という絶対的な属性に、改変の余地などない。
他方で、例えば法事か何かで40歳の人が10歳や70歳の人と対峙してみれば、「かつては自分もこのくらい若かった」とか「いつか自分もこの人のように老いるのだな」といった具合に、過去や未来に思いを馳せることもあるだろう。このとき、自分が40代であるという当事者意識の範囲は、少なくとも一瞬の想像のなかでは、他の世代にも広がっているわけだ。
この「時間の普遍性」と、「当事者意識の拡張性」は、宙ぶらりんの個人主義の空間に柔らかい引力をもたらす、「年齢縁」という考えを示してくれるかもしれない。
干支の意外な文化園
年齢の属性として具体的に考えてみたいのは、「干支」、要するに生まれ年の十二支のことだ。日本で暮らしていれば、スーパーの飾りや年賀状、メッセージスタンプのモチーフとして年に一度は十二支の動物を意識するだろう。というかむしろ、それ以外で思い出すことは少ないかもしれない。
これに加えて、2010年代のはじめ頃から、毎年旧正月の時期にグッチやプラダといったグローバルラグジュアリーブランドがアジア圏の消費者向けにその年の干支のキャンペーンを打つのがすっかり恒例となった。これらが富裕層をターゲットにした打ち手であることはともかくとして、少なくともこの春節の盛り上がりからは、現代における中国文化圏の人びとの干支への関心を垣間見ることができる。
そもそも干支は、古代中国の陰陽五行思想にルーツをもっている。そこから朝鮮半島や日本列島、台湾などの東アジア圏はもちろん、ベトナム・ラオス・カンボジア・タイなどインドシナ半島を含む東南アジア圏、そしてモンゴルを経由し、ロシア、そしてブルガリアやイランなどの東欧・中東にまで伝搬したというから驚く。暦に関わる慣習が残っている程度はそれぞれだが、興味深いことに、日本の十二支の「亥」は、中国や韓国をはじめとする多くの地域ではいわゆる猪でなく豚のことだし、マレーシアに至っては亀になるという。ベトナムでは「卯」の枠に兎でなく猫が当てはめられている。十二支の象徴は、個別の地域ごとに身近な動物を用いてローカライズされているのだ。
日本へは、干支は5世紀頃に伝来したとされる。古くは朝廷を中心に暦法、祭政、占術、医学、農業などに応用されてきた。その後、陰陽道に基づく暦や占いの生活実用本として近世に読まれた「大雑書」によって、干支の観念が広く民間の生活に根付いていったようだ。
また、干支はいまやほとんど十二支のみを指す語として用いられているが、本来はそれだけではない。「干・支」ということばは、陰陽五行思想における「十“干”」、すなわち甲(木の兄=きのえ)、乙(木の弟=きのと)、丙(火の兄=ひのえ)、丁(火の弟=ひのと)……といった具合に連なる五行×陰陽で示す10分類と、「十二“支”」の12分類との最小公倍数である60の組み合わせを指す語だ。60歳になると、還暦だといって赤い服を着て祝うのも、まさにひとつの人生を生ききって60の暦が一巡し、また赤子に還ることを寿いでいるというわけだ。
ロシアでは日本と同じように、年末になると来年の干支のカレンダーや置物が出回る。写真はロシア・ヤロスラヴリの街頭で、2010年の寅年を翌年に控えたホリデーシーズンの露天に並ぶ虎グッズ photograph by Own,CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons
12年周期の円環
いまの日本に暮らすなかで、その年の干支ならばともかく、自分の生まれ年の十二支を特別に意識する場面は、さほど多くないと思われているかもしれない。しかし、地域によっては必ずしもそうではないことがある。
例えば青森・津軽地域には「一代様(イチダイ様)」と呼ばれる、自分の生まれ年の干支に対応した守護神仏にお参りをする慣習がいまでも色濃く残っている。筆者も一応は津軽で育った子どもだったので、受験の前には、未年生まれの守り本尊である大日如来を祀るとされる、大鰐町の大圓寺に家族でお参りに行った。もちろん他の干支も、丑・寅生まれなら岩木山神社の東の森にある虚空蔵菩薩を祀る求聞寺、卯生まれなら弘前高校近くの文殊菩薩の最勝院……といった具合に、祈願に行く先が十二支それぞれに定められている。いま思い返せば、もう少し自分の機転が利きさえすれば、同級生の早生まれの友人を誘って同じイチダイ様に初詣に行く、という同い年ならではの冬休みの思い出もつくれたのかもしれない。
一方で、南のほうに目を向けてみる。南西諸島の人びとの生活に、干支の意識は深く根付いている。老年の人に出会うと、歳を聞かれる代わりに「あんたは何年(生まれ)か?」と、干支を尋ねられることも多い。「未生まれです」と答えると、やれあそこの家の誰々も未で二回り上だ、あの子は歳は近いが申生まれだから1歳下だ⋯⋯といった具合に、あれよあれよと知人の関係図のなかに自分の存在が位置づけられていく。
どうやら長い時間を生きてきた彼らの頭のなかには、直線的な西暦の時間とは異なる、12年周期の円環が形づくる干支の年齢システムに基づくネットワークが存在しているらしい。そうであればこそ、こうして干支を尋ねられることで、自分という個人を大きな円環の時間のなかに組み込んでもらえたような、何か生命としての根源的な喜びに近いものを感じるのかもしれない。
ところで、奄美・沖縄・八重山を含む南西諸島各地には、「合同生年祝い」と呼ばれる干支に関する年祝いの慣習も存在している。これがとりわけ興味深い行事で、毎年正月はじめに、その年の干支生まれの人の祝宴を開き、食事や余興をする。つまり、巳年に行う合同生年祝いであれば、数え年の13歳に始まり、25歳、37歳、49歳、61歳、73歳、85歳、97歳の巳年生まれが一堂に会するという、何とも不思議な場が生じるということになる。
ただ同じ干支生まれだというだけで、これだけの多世代が集う機会というのはそうそうない。この合同生年祝いという行事のなかに、干支という共通点でつながる年齢縁、ひいては「干支縁」とでも呼ぶべきものの糸口を探すことはできないだろうか。
丑・寅年生まれのイチダイ様である、岩木山麓の求聞寺。本堂の手前には牛と虎の像が置かれている photograph courtesy of Amazing AOMORI
祝宴のシェアと生活改善運動
生年祝いは「トゥシビー祝い」とも言われ、こうした干支の観念に基づく息災祈願と祝宴の習俗だ。かつては祝いというより厄払いの側面が強く、毎年、年明け最初の当人の干支の日に、家庭のなかで行われていた。時代が下るにつれて、毎年ではなく生まれ年の干支の年のみに絞られ、12年に一度の年祝いとして行われるようになっていく。
生年祝いは、家庭にとっては豪勢で出費がかさむ行事でもあった。年が明けると、特に長寿者の年男・年女の家には親類縁者がお祝いに押し寄せるので、家の女性たちはご馳走と来客の準備でてんやわんや、費用の大きさによっては年間の生活費に影響することもあったという。
現在では、祝宴を自宅で催すのではなく、レストランや宴会場を借りて行うことも一般的になった。沖縄のホテルや飲食店などではよく、「トゥシビープラン」などといった生年祝いのための宴会プランのチラシを見かけることがある。SNS上でも、例えば沖縄・南風原町の料亭で、親族を呼んで85歳の生年祝いを行った人の投稿などを見ることができる。
しかし、戦前・戦後に国民生活の改善を意図して全国的に進められた生活改善運動によって、衣食住の改善とともに、冠婚葬祭をはじめとする華美な行事は、簡素化・合理化へと舵を切ることになる。南西諸島各地で華々しく行われていた生年祝いの祝宴ももちろん例外ではなかった。そこで、家庭ごとに祝うのではなく、地域合同で生年祝いを行うことで出費を減らそうとしたのが、「合同生年祝い」のはじまりだった。
つまり、あくまで倹約のために地域合同で開催したことで、結果的に同じ干支生まれの住民が集う場ができたのであって、はじめから多世代が集うことを目的につくられた場ではなかったというわけだ。
合同生年祝いは、主に集落の字(あざ)単位で、自治会や青年会、婦人会などの運営によって開かれるようになった。しかし、現在も親族単位で行う地域が多く残っていることからもわかるように、すべての地域が順調に合同化に至ったわけではなかった。集落の各家庭へのアナウンスがうまくいかず、結局家での祝いと地域での祝いの二重出費に陥って取りやめになったという字も少なくないし、端から合同化はせず家庭での祝いを続けた地域も多い。
あるとき、筆者は那覇の東町にある小料理屋に立ち寄った。店の座敷の壁には、首里の古地図や、人間国宝・玉那覇有公の紅型が額に入れられている。聞けば、店主は首里の士族の流れを汲む家系とのことだった。何の気なしに合同生年祝いについて尋ねてみたところ、そのときの彼の口ぶりには、「地域で一緒にやるところもあるそうですね」というような、どこか控えめに距離を取った響きが感じられた。ここからは想像の域を出ないが、琉球士族に関わるような由緒のある家の人びとにとって、伝統に倣って親族単位で行うトゥシビー祝いは、家柄とその矜持に関わるものでもあるのかもしれない。行事としての生年祝いへの向き合い方がその家や地域の性質を映すというのは、決してあり得ないことではないだろう。
同窓会、敬老会、もしくは芸能祭
合同生年祝いは、生活改善というスローガンがもはや遠い時代のものになった現在でも、そこここで行われている。例として沖縄本島・読谷村のある一集落で毎年行われる合同生年祝いを実際に訪れてみれば、その賑やかさに面食らってしまうかもしれない。
日本で最も人口が多い村である読谷村の楚辺集落では、毎年1月上旬の週末に、地域の公民館で「生年合同祝賀会」を開いている。この楚辺の自治会は、運営体制も規模もいち地方自治体の役所かと見紛うほどに整っていて、青年会、婦人会、班長会といった地域組織との連携や、役割分担の手際の良さには圧倒される。
実際に2025年の「巳年生年合同祝賀会」に足を運んでみた。公民館の大ホールに集まった来場者は、祝賀対象の巳年生まれだけでなんと169名もおり、親族や付き添いも含めると、350名を超える。ステージの裏では、巳年生まれの数え年13歳を含め、大勢の青年会・子ども会の面々が、緊張した面持ちで、余興のための着替えや化粧、振り付けのおさらいをしている。その規模の大きさと15以上に及ぶ演目の多さは、もはや地域を挙げた芸能祭といった様相だ。この晴れ舞台は、いまや集落の古典芸能継承の場としての機能をも担っているという。
2024年辰年の生年合同祝賀会で自治会が制作したショートムービー。祝いの対象である生まれ年の人のなかでも年配者は来賓としてもてなされる
これだけ盛大な会なのだから、世代間の交流もさぞ賑々しく行われているのだろうと想像してしまう。とはいえ、実態は必ずしもそうではない様子だ。
楚辺では戦前の1938年から合同生年祝いが行われているが、かねて祝いを受けるのは数え年61、73、85、97歳の長寿者たちだった。2000年代に入ってからは13歳も祝賀の対象に加えるようになったとはいえ、やはりそのベースには長寿祝いとしての性格があるようだ。それこそ現在の「生年合同祝賀会」という名目になる以前、1971年まではこのトゥシビー祝いが「敬老祝賀会」という名前で行われていたほどだ。
2025年の会場の様子を末席から見ていても、「ステージで芸能を披露する若年者」と「来賓として客席で鑑賞する高年者」という立場の違いがその場に明確に表れている。招待客のテーブルは中心となる61、73、85歳の年齢ごとに準備されているので、一度着席してしまえば、基本的には同い年の同級生との思い出話に花を咲かせることになる。あちこち転々と挨拶して回るマメな参加者も時折見かけるが、そういう人は稀だ。
華やかな宴から一夜明けた日曜日の公民館は、ひそやかに静まり返っていた。事務室のソファには、地域の相談役として一目置かれる人物が腰掛けている。彼は、生年合同祝賀会は確かに同じ干支の多世代が集う稀有な機会だが、参加者同士は交流を「タテでやらない」のだと零す。話を聞く限り、楚辺では同級生の模合(もあい:南西諸島各地に見られる、毎月集まって積み立てを行う相互扶助のグループ)によるヨコの結束が固い。しかし、それがむしろ、同輩同士のコミュニケーションが優先される遠因となっている節があるという。
干支を介してひとりの人間を円環型の年齢システムのなかに組み込んで位置づけなおすような、沖縄で出会う古老たちの仕草に似た実践は、あくまでこの催しの中心にあるわけではないようだ。この楚辺の合同生年祝いが、同窓会的なヨコのつながりの確認や敬老意識を超える、拡張的な干支縁に溢れた場であるとは、いまの時点では言えないのかもしれない。
「あれ、あの人もお祝いなんだ」
しかし、いまより規模の小さな旧公民館時代の写真の、ござの上に集った楚辺のトゥシビー祝い参加者たちのくつろいだ様子を見ると、かつては違ったのではないかと思えてならない。
話は移るが、沖縄本島と台湾の中間地点、西に石垣島を望む宮古島にもまた、合同生年祝いの行事がある。宮古島北部の狩俣集落で行われる「合同同窓会」は、年齢縁の現場、という視点で見ると画期的とすら言える特徴をもっている──長寿者だけでなく、12歳から96歳までの全世代が等しく年男・年女として祝いの場に参加するのだ。そのうえ、全員が(96歳はしばしば免除されるが)、何かしらの余興を披露することになっている。
加えて、ここがとりわけ個性的なところだが、運営に自治会や青年会などの地域組織がまったく関与しない。つまりその年の干支生まれの人、具体的には36歳を中心に24〜48歳の3世代が中心となり、前年から参加者に連絡を回し、演目や食事の準備を行うのである。辰年の合同生年祝いは辰年生まれの人間だけでつくる、というわけだ。会を準備する過程で、同じ干支集団のつながりが意識されることも多いという。
狩俣のホスト=ゲストという様式は、しかし運営体制の持続性という点のみで見れば、不安定なことこの上ない。それぞれの干支の集団が各々のやり方で運営しているので、他の干支の年のノウハウを受け継ぐ機会は少ない。実際に、人口減少も相まって、2025年には巳年生まれの中堅世代が集まらず、パンデミック期を除けば、1969年の開始以来初めて外的な要因なしに中止になってしまった。しかしそれでも、干支を介した年齢縁を12年おきに結び直す場としての性質には、特筆すべきものがある。
狩俣の集落で行われた、辰年生まれの2024年「合同同窓会」の様子。12歳から96歳までの全世代が揃う Photograph courtesy of Miyako Shinpo
思うに、先の楚辺の生年合同祝賀会のような仕組みは、大勢の来賓をこれまた大勢のスタッフで接待し、またそれを毎年継続するという必要に応じて、システマティックな運営体制が求められたが故の産物なのかもしれない。実際に、楚辺の生年合同祝賀会は来年も再来年も、自治会という運営組織がある限りその方法を受け継ぎ、安定して続けていけるだろう。
日曜の公民館で話した楚辺の相談役は、「このトゥシビーのときさ、干支(を意識する機会)というのは。『あれ、あの人もお祝いなんだな、巳年だったのか』って」とも語っていた。かつては楚辺の合同生年祝いの場も、干支に基づいたネットワークを頭のなかに張り巡らせる場として機能していたのではないだろうか。
聞けば、ここ数年は楚辺の自治会長が自ら働きかけて、49歳や37歳も会に同席するケースが増えているという。事実、2025年の会場にも、49歳のテーブルが加えられていた。13歳と25歳を含む若年層の演者、61歳以上の高年層の鑑賞者、そして彼らをもてなす運営組織という現在の3すくみの構造も、今後の会の設計次第では、実質的な世代間の邂逅の場としてまた立ち上がってくるのかもしれない。中堅世代の新たな参入は、その兆しのようにも思われた。
1986年字楚辺第53回午年生年合同祝賀会の様子。午年生まれの高年の招待客と、舞台裏に控える青年会メンバー(比嘉豊光・村山友江編『楚辺人』〔字楚辺誌編集室、1992年〕より pp12, 66 写真:比嘉豊光)
「選べない縁」が結ぶもの
そもそも縁の一種としての年齢縁を考えようとしたとき、かねてより語られてきたつながりの枠組みのなかに、年齢縁、あるいは干支縁はどのように位置づけられるだろうか。上野千鶴子はかつて、1985年に国立民族学博物館で開かれた「日本人の人間関係」をテーマとしたシンポジウムに際し、その報告書で「血縁」「地縁」「社縁」という枠組みを「選べない縁」として分類した。そして、その外側に「選択縁」、すなわち「選べる縁」を置いた(上野千鶴子「選べる縁 選べない縁」『日本人の人間関係』ドメス出版、1987年)。生まれる家や場所としての「血縁」と「地縁」はもちろん、本来は同志的な関係を指す語である「社縁」もまた、会社組織などを例に考えれば、食い扶持のために降りたくても降りられない拘束性をもっている、というわけである。
上野が言うところの「選べる縁」とは、ときにはメディアを介して結ばれ、過度に社会化された役割からも降りられる、拘束性がなくて自由なつながりのことだ。それはある時代には理想に近いものであったろう。だが、あらゆる形式のソーシャルメディアが跋扈し、流動的でいつでも降りられるコミュニティが歓迎される時代に生きるわたしたちにとってもそうだと、手放しで言うことはできない。
これに対し、年齢縁は「選べない縁」だ。生まれる年やタイミングを自ら選んでこの世に生を受けることはできない。しかし、同じく選べない縁である「血縁」「地縁」「社縁」と「干支縁」が決定的に違うのは、負の側面としてのヒエラルキーを伴った社会的な役割の強制性と拘束性が薄いところだ。寅年生まれは積極的に家事をするように言われるとか、酉年生まれであることが足枷になって就職が決まらない、などということは、少なくとも日本では考えにくいだろう。
日本では、としたのは、例えば中国では生まれ年の十二支に対して社会的なイメージの勾配があるためだ。日本と同じく流動的な都市生活者の若年層にとってはあまり響かないであろう観念ではあるが、例えば辰(龍)は神聖かつ力と富の象徴として一番人気の干支である。辰年であった2024年には、縁起にあやかる人の多さ故か、2017年以来下がり続けていた中国の出生数が初めて52万人の上昇に転じたという。干支による性格付けや相性診断への関心も、日本と比較すると強い傾向にある。
近代的な学校教育によって同世代で輪切りにされてきた人間から見れば、この干支による性格づけは「同じ年生まれの人間がみな同じ性格であるわけがないのに」と、いかにも滑稽に感じられるかもしれない。しかし、かつては教育や生業が家庭内・地域内で行われてきた──すなわちある個人が、段階的な同輩集団ではなく、多様な年齢が入り交じる機能集団のなかのひとりとしても存在していた──ということを鑑みれば、12年周期の性質を個人に見いだす干支の性格診断を一笑に付すのは早計かもしれない。これもまた、大きな円環の時間のなかで、集団内の個々の人間を捉える方法であったのだろう。
先日、本ニュースレターでも世代論に関するインタビューを行ったティム・インゴルドは、『世代とは何か』(奥野克巳・鹿野マティアス訳、亜紀書房、2024年)のなかでこう語っている。
彼ら(引用者注:若者と老人)は『まだ』と『すでに終わった』を行き来しつつ、現在というまばゆい光を取り囲んでいる影の部分の中に溶け込んでいく。目標達成型の中間世代である親世代とは違うやり方で、祖父母と孫は生のより永続的なリズムと接している。それは、通時的な交替や継承の時間ではなく、天気や季節、砕ける波や流れる川、植物の生長と衰退、動物の往来、息や心臓の鼓動の継続的な再生の時間である。これは新しい天使(歴史の天使)が切望していた時代である。
このインゴルドの世代論は、まさに年齢という属性がもつ「時間の普遍性」(永続的なリズム)と「当事者意識の拡張性」(『まだ』と『すでに終わった』の行き来)を象徴している。円環型の年齢システムとしての干支は、彼が言うところの「継続的な再生の時間」そのものではないのだろうか。
多世代が共に過ごす場で、年齢に基づいた干支という属性が大きな意義をもっていたであろうことは、沖縄や宮古で出会った聡明な先人たちが教えてくれた通りだ。彼らは干支を尋ねることで、自身が生まれて死ぬまでの時間すら超越しうる大きな円環の時間のなかに、初めて出会った、どこから来たとも知らぬ宙ぶらりんの個人をつなぎ止めてくれた。合同生年祝いはもちろん、まだ見ぬ干支縁が紡がれる場を探し、ときには新たにつくってみることで、その手つきを少しでも真似ることができたらと願うばかりだ。
次週4月22日は、世界中から届く「木の棒」を紹介する動画/画像を日々投稿しているInstagramアカウント「Official Stick Reviews」のインタビュー記事を配信。アメリカ・ユタ州育ちの青年ふたりが立ち上げたこのネットコミュニティは、現在300万人を超えるフォロワーを抱え、「インターネット上で最も心温まる空間」として多くの人に親しまれています。なぜこれほどの支持を集めているのか、運営者本人たちに話を聞きました。お楽しみに。