対話から辿り着く「真実」がある
「『共生先進社会』アフリカに学ぶ :後編」「客観的真実」か?「和解と癒やし」か? アパルトヘイトや虐殺がもたらした分断を乗り越える「対話型真実」とは何か。松田素二先生に聞きました
ルワンダ南部の町、キベホにあるカトリック教会で礼拝に参加する礼拝者たち。この教会では1994年に大虐殺があり、数千人が犠牲になった (Photo by Per-Anders Pettersson/Getty Images)
アフリカ地域研究を専門とする総合地球環境学研究所の特任教授の松田素二先生に、アフリカの知恵から、考えが異なる者同士が共生するためのヒントを伺う本企画。前編では、揉めごとを当事者同士が対話によって解決する「パラヴァー」という方法と、その前提にあるアフリカの人間観「ウブントゥイズム」について学んだ。後編では日本社会と「ウブントゥイズム」の親和性について考える。さらに、アフリカの「パラヴァー」と日本の裁判制度の違いから見えてきた本当の「真実」とは──。
photographs by Naohiro Kurashina
interviewed by Saki Kudo / Kaho Torishima / Jin Furuya
text by Saki Kudo / Kaho Torishima
日本に宿る「ウブントゥイズム」
──現代の日本では西洋近代的な人間観がベースになっていますよね。
私たちは小さい頃から、個性をもって自立して自由に生きるのが素晴らしい人間のあり方だと意識的にも無意識的にも教えられてきましたので、たとえば「個性がない」「自立していない」と言われると、まるで自分をけなされているように感じますよね。学校でもディベートの時間がありますが、そこでも相手を論理的に徹底的に批判することで自分の正しさを証明することが求められます。勝ちと負けしか存在しない、いわばゼロ・サムゲームの世界です。われわれが学校教育によって受け入れてきた人間観というのは、そういうものなんですね。でも、おそらくそれは人間観のひとつのあり方でしかなく、たとえばアフリカ社会における人間観というのは、自立して自由に生きる人間を理想とはしないものなのです。
──必ずしも「自立」や「独立」が求められない。
スワヒリ語に「ムトゥ ニ ムトゥ クワ サバブ ヤ ワトゥ」(Mtu ni mtu kuwa sababu ya watu)という諺があります。「われわれがわれわれであるのは、われわれがその社会のなかにいるからだ」、という意味です。つまり、自分は自分だけで存在しているわけではなく、常に他者を思い、他者との関係のなかに自分がいる、というわけです。アフリカ社会では完全な「自立」ということはあり得ないのです。しかしだからといって、自分というものが存在せず常に社会の大勢に流されていくという、集団主義とも異なります。社会とつながり、その一部でありながら、それによって自分らしさをつくり出す、そうした人間観が、誰かに教えられるわけでなく、小さい頃から時間をかけて内面化されていくのです。
──では、日本にはウブントゥイズムとの親和性はまったくないのでしょうか。
現代日本社会における理性主義、厳密さを求めて論争するような世界は、近代以降にかたちづくられ、とりわけ戦後の公教育のなかで強化されてきたものです。もともとの日本社会には、もっと曖昧で、もっと融合的で、いい意味でも悪い意味でも「いい加減」なところがあったはずです。絶対的な神や絶対的正義というものを想定する一神教的思考方法は、日本にはなかなか根付きませんでした。ですから、日本にやってきたアフリカの哲学者や人類学者は、調査で訪れた佐渡や三陸地方の農山漁村社会に息づく民話や神話、伝説、口承などにはウブントゥイズムと共通するものがあると言います。それが近代以降、理性や論理を頂点とする認識論のヒエラルキーが生まれ、法や行政制度が整備されていくなかで、どんどん貧弱化し不可視化していったのだと思います。そして今の公教育のなかでは、個性があって、自分の意見がきちんと言えて、自立していて、感情的にならずに理性でコントロールできるのが望ましい人間像として常識化され、それ以外のあり方が否定されるようになってしまったわけです。
トップなき無頭制社会
──個人だけではなく、組織も同様でしょうか。
日本では、組織自体にも完全性(コンプリートネス)を求めますよね。たとえば企業の場合、利潤追求という組織目標があって、そのために一番合理的なシステムをつくります。そして、そのシステムに従って、上に立つ人たちだけではなく、なかで働く人全員が自分に与えられた役割を果たすわけです。そうやって、ひとつのコンプリートな組織ができていくのだと思います。アフリカでも、首長制の社会や、王国として王様や首長(チーフ)がいる社会、官僚制がある社会、あるいは今日ではIT企業などでは、そうした組織原理に基づいて活動します。しかしながらアフリカには、それとは真逆の組織原理を採用してきた社会も少なくないのです。たとえば私が長年調査してきた西ケニア社会もそうです。そこは、伝統的に王様やチーフといった統治者を置かない「無頭制社会」なのです。
──トップがいないと、物事を進めるのが難しそうです。
無頭制社会というと、人々を指導したり指示したりするリーダーが存在しない社会を想像するかもしれませんが、そういうわけではありません。必要に応じて、誰かがリーダーとなって人々を導くのです。たとえば、戦争するときには戦略眼を備えた人が戦争指導者になります。あるいは、日照りが続いたときには、先を読む能力をもつ人が地域の占い師になり、雨を降らせます。つまり固定的な役職があるのではなく、社会のなかで、そのときの状況に対処するのに相応しい人がその都度リーダーになっていくのです。そういう不定形な組織のつくり方になじんでいるので、彼らが集団や組合などを組織するときも、そのときに必要な人がリーダーになり、絶えず変化していきます。今はもちろん近代的な組織原理が入ってきて、社長や会長、プレジデント、チェアマンなど、さまざまな役職をつけたりもしますが、常に絶対的なリーダーがいて自分たちを統治するということに慣れていない無頭制は、社会全体がとても自由なのです。
──状況に応じたリーダーは、どのような方法で決まるのですか?
立候補や選挙ではなく、集会のなかでみんなが推して、自ずと満場一致で決まるようです。「あの人は争いごとに巧みだ」「あの人の占いはよく当たる」というようなことが事前に共通認識としてあるのでしょうね。戦争指揮者になっても、戦いが終わったら普通の農民に戻ります。そうした卓越した軍事指導者がカリスマになって周囲に多くの家来や信奉者を作り出す、という社会もありますが、無頭制社会では、リーダーはミッションが終わると元の居場所に戻っていくのです。
──その都度、最適な人が上に立つ。柔軟ですね。
19世紀末、イギリスがケニアを植民地として支配しようとした際に一番困ったのは、この「無頭制」でした。西アフリカや南部アフリカには王様や首長がいますから、彼らの領土を攻め、彼らと協定を結んでイギリスに服従させるというやり方ができたのですが、無頭制社会では誰と交渉していいかわからないわけです。地域の長老と交渉して和平協定を結んでも、その長老は統治者ではないので、至るところで反乱が起きてしまいます。ですから大衆不在で上に立つ者同士で話し合って物事を決める「ボス交(ボス交渉)」ができない無頭制社会を植民地支配するというのは、とてもコストがかかるのです。ヨーロッパによる植民地支配に最も強く抵抗したのは、そういう固定した統治者ををもたない不定形な社会でした。不定形でありながら無秩序状態にはならない、注目すべき組織原理だと思います。
「ウブントゥイズムとは、もともとはアフリカ哲学の用語だったのですが、今のアフリカでは、政治的にも社会的にも文化的にも通用することばなんです」(松田先生)
「対話型真実」こそが「真実」
──話はパラヴァーに戻りますが、日本の裁判だと物的証拠があるものが事実として扱われ、その事実こそが最も重要になってきますよね。
日本の裁判所は、当然のことながら「物証主義」です。それが正義を実現するためにとても大事な原則であることは間違いありません。しかし、それ以外の視点で正義を捉えることも可能であることを、アフリカのウブントゥイズムは私たちに教えてくれます。たとえば、個人的な経験ですが、私は自分の母親が広島で被爆したということもあって、学生時代から、戦時中に朝鮮半島から半ば強制的に連行され広島で被爆した朝鮮の人たちの補償をめぐる運動などに関心をもっていました。
──そうなのですね。
そういった運動のひとつに、今から20年以上前の1995年、50人ほどの韓国在住の元徴用工被爆者が原告団となり、日本国に対して起こした裁判があります。裁判のなかで彼らは「自分は村長さんに命令され、警察と三菱のマークのついたヘルメットをかぶった男たちに釜山港から広島へと連行され、三菱の軍需工場で働かされた」と、自分たちの記憶を語りました。国側はそこで当然「証拠を出してください」と言うのですが、徴用先の記録などは、もちろん空襲や原爆で焼けてしまっています。日本の裁判では、記憶に基づく当事者本人の語りや証言がいくらあっても、文書記録がないと事実としては認定されません。従軍慰安婦の問題で、おばあさんたちが「日本兵に慰安所に連れて行かれた」と証言しても、「日本軍が関与させたという公的な記録がないから認められない」となっているのも同じ理屈です。
──個人の記憶は、事実としては扱われないということですね。ではアフリカのパラヴァーでは「事実」は、どこまで重要視されるのでしょうか。
南アフリカでは、数十年間にわたって国家が合法的に人種差別と人権侵害を行ってきたアパルトヘイトにより蓄積された諸問題の清算と解決にあたるために、ネルソン・マンデラさんが1994年に「真実和解委員会」というものをつくりました。ノーベル平和賞を受賞したデズモンド・ツツ大主教が議長を務め、事実の調査に加え、被害者への賠償とリハビリの提供、さらに、情報を開示した加害者への恩赦の検討が行われました。真実和解委員会は、南アフリカ各地を巡回して公聴会を開催し、そこに被害を申し立てた被害者(本人及び遺族)と加害者が出席し、それぞれが何が起きたか、何を思っているのか、という個人的意見や感情を聴衆の前で時には何日もかけて告白し、最後に「あなた(被害者)は加害者を赦しますか」という委員会の問いかけに答えて終了するというスタイルを取っていました。それこそはパラヴァーの一種でもあったわけです。この真実和解委員会というスタイルは、南アフリカだけではなく、軍事独裁政権下で多くの人が失踪したり殺害されたりした南アメリカをはじめ、世界中で採用されてきましたが、こうした委員会のなかにも、「真実追求に重点を置く立場」と「和解と癒やしに重点を置く立場」があります。
──アフリカ社会のなかでも考え方が分かれるのですね。
真実重点派は、何が起こったかというのを徹底的に明らかにする、つまり事実、真実こそが重要であるという立場を取ります。これは、日本の法廷でも馴染みの深い考え方ですが、イギリスやアメリカの人権NGOなど、グローバルな価値観と正義を肯定する人たちに多いものです。その一方で、ローカルなNGOや宗教界の人たちは、そうやって突き詰めていけば、たしかに真実は明らかになるかもしれないけれども、その結果社会が20年、30年、50年という長きにわたって癒やされることなく分断されたとしたら、その責任を誰が取るのか、という考えから、和解を重視すべきと考えます。こちらが和解重点派です。
──「真実」が必ずしも正解ではない、と。
アパルトヘイトの被害者が「この人に捕まえられて拷問された」と語っても、そのとき発行された逮捕状などの書類は白人政権崩壊時に処分されたりして資料としてはなくなってしまったものも少なくありません。そうした状況のなかで「真実重視」の立場をとることは、物証がないという理由で拷問自体をなかったことにしてしまう点で、被害を受けたアフリカ人にとってアンフェアでもあります。そこでマンデラさんたちは、真実を2種類に分けて考えることを提案しました。
──真実には2種類あるのですね。
はい。彼らは、私たちが「常識」とする、公文書や物的証拠によって認定される真実を「顕微鏡型真実」と呼び、それとは別に、お互いの主観的な記憶に基づくコミュニケーションのなかで導き出される真実のことを「対話型真実」と呼んでいます。そして真実和解委員会の報告書の冒頭には「私たちは対話型真実を重視する」と明言しているのです。その考え方の背後にあるのがウブントゥイズムでありパラヴァーであることは、もうおわかりのことと思います。
──対話で真実に辿り着けるのでしょうか。
たしかに「対話型真実」においては、先ほどお話しした通り「私は殴られた」「私は殴っていない」と主張の食い違いも多く出てきますが、その場合でも「対話型真実」の追求は、あくまでもお互いのコミュニケーションのなかで行われます。その結果、悪く言えば、いわゆる文書的な「事実」とは違ったところに「真実の落としどころ」を見いだすことになるのかもしれませんが、パラヴァーにおいては「真実」ということばの意味そのものも違いますし、おそらく、厳密で狭い意味での真実よりももっと重要なものがあるという考え方なのだと思います。
──日本の裁判システムには、こうした「対話型真実」という考え方はないですし、私たちの日々の生活のなかでもそうした発想はないですね。
公文書を破棄したり焼き捨てたりするのは、大体が悪いことをした人たちが、「事実」を証拠として残さないためにするわけですね。であればこそ、戦争や公権力の暴力の被害にあった人たちは、自分の身に起きたことを「事実」として証明する手立てを、はなからもつことができません。日本に限らず多くの先進諸国の法廷では、まず物証、続いて公文書、権力に近いところにいるエリートの私文書やインタビューなどの資料、そして庶民の私文書と続き、信頼性の階梯の最下位に、庶民の主観的な語りや記憶が置かれています。「対話型真実」を一部であれ認めることは、実は私たちの社会の正義を規定するヒエラルキーを覆すことでもあるわけです。そう考えると、私たちの社会は、「対話型真実」には、まるで程遠いですよね。
──しかし、アフリカ社会が教えてくれる共生へのヒントはたくさんありますね。
日本から遠いアフリカ社会の人間観、ウブントゥイズムや、紛争や共生の実践哲学ともいえるパラヴァーのこと、さらには、そこから派生する「真実」観などを通して、これまで私たちが自明としてきた「当たり前の思考や前提」のもつ不自由さや欠陥が見えてきたり、それとは異なるもうひとつの人間や社会のあり方を想像したりできるようになります。それは私たち自身をより解放することにもつながるでしょうし、これから先の未来世代が築く社会の方向性を指し示すものにもなるのではないでしょうか。
松田素二 |Motoji Matsuda 1955年生まれ。総合地球環境学研究所特任教授、京都大学名誉教授。ナイロビ大学大学院修士課程を経て、京都大学大学院文学研究科博士課程中退。専門は社会人間学、アフリカ地域研究。主な編著に『新書アフリカ史』『集合的創造性:コンヴィヴィアルな人間学のために』など。
次週8月9日は、「WORKSIGHT」編集長・山下正太郎が、これからの「つくる」を考えるための3冊をセレクトする「つくるためのBook Guide:1」(仮)をお届けします。
現状の自分の真実の捉え方や多くの考え方が既存のシステムをベースに成り立っていることがよく理解できました。それはとても怖いことで、それをどのように更新できるのだろうかと不安に思いました。
日本で経験した教育では対話を行う機会はかなり少なく、実際に社会にでても対話をすること自体がどこか敬遠されてるように感じています。
もし自分が対話的真実を追い求めようとした時に、自らがその行為を実際に実行できるのか、またその結果に納得できるのかと疑問に思いました。しかし、同時にその行為を経て対話を行った相手の背景やそのもっと視野の広い視野を感じることが出来るのではとも感じました。