1956年、当時の南ローデシア(現在のジンバブエ)南西部マタベレランドで暮らすカランガ人の村の寄合 (Photo by Bert Hardy/Picture Post/Hulton Archive/Getty Images)
私たちは日々、さまざまな場所で他者と対峙している。家庭や友人関係、職場、学校、SNS、公共空間…。そこでは思いがけないトラブルや、意図しないすれ違い、意見の衝突など、どうにも避けられない軋轢が生じることがある。そのようなとき、どうすれば分断のない解決を導くことができ、どうすればわかり合えない相手とも同じ世界で共に生きることができるだろうか。
長きにわたり抑圧され断絶を強いられてきたアフリカ社会には、たくさんの対立の種が埋め込まれている。それらは時々爆発して、争い、憎悪、内戦、虐殺を引き起こし、グローバル・メディアによって「アフリカの悲劇」として報道されるが、こうした悲劇の種を植え付け育ててきたのが、欧米による植民地支配やその後のアフリカ蔑視(軽視)政策であったことは報じられない。しかしながら、紛争の絶えない社会としてイメージされるアフリカ社会は、実のところそのイメージとは正反対に、異なるものとの共生と協働を可能にする知恵と仕組みを発展させた先進社会だったのである。そのなかで、現代世界にとって、そして私たちが暮らす日本社会にとって特に重要だと思われるものに、当事者同士が向き合い話し合うことによって揉めごとを解決する、「パラヴァー」と呼ばれる素晴らしい知恵があるのだという。
「Diversity and Inclusion」を手放さずに違いや軋轢を乗り越える方法を探るべく、アフリカ地域研究を専門とする、総合地球環境学研究所の特任教授、松田素二先生にお話を伺った。すると、単なる問題解決のための方法論ではなく、その背景にあるアフリカ社会の人間観「ウブントゥイズム」が見えてきた。自立や個性を至高のものとせずに、互いに不完全な存在として補い合う「ウブントゥイズム」には、わかり合えない私たちが共生するためのヒントがあるのかもしれない。
photographs by Naohiro Kurashina
interviewed by Saki Kudo / Jin Furuya / Kaho Torishima
text by Saki Kudo / Kaho Torishima
「パラヴァー」って何ですか?
──私たちは、難しい問題が勃発すると、法律だったり、会社のコンプライアンス部だったりといった第三者に合理的な裁定を仰ぎます。価値観の多様性や、価値の異なる人たちとの「共生」が盛んに謳われるなかで、争いを解決するための法に基づく解決法は有効である反面、ある状況では逆に分断を生み出し固定してしまっているようにも感じます。先生が研究されているアフリカの「パラヴァー」という慣習には、私たちが抱えるこうした矛盾を乗り越えるためのヒントが隠されているのではないかと思われます。まずは、「パラヴァー」とはどのようなものなのか、簡単にご説明いただけますでしょうか。
アフリカ社会は、16世紀以降の奴隷貿易、さらには18世紀以降の植民地支配によって、それまでのありようが外部の力で強く捻じ曲げられた社会です。ですから、ちょっとした窃盗事件から、民事の婚資の争い、ジェノサイドのような殺戮、あるいはアパルトヘイトのように何十年も制度的に人権侵害を行ってきたことまで、さまざまなレベルで対立の種が社会のなかに埋め込まれています。そうした紛争や対立が起きたとき、最終的には法と法廷で裁定するのが私たちが生きる法治による社会の常識となっていますが、アフリカ社会には、一方が他方を論理的に否定(論破)して自己の正しさを証明するという「ディベート・スタイル」とはまったく異なる、日常のおしゃべりや雑談、感情的な表現やジョークを交えた対話によって合意に至る「パラヴァー」というやり方があるんです。
──おしゃべりから合意に、ですか。
それはたとえば古代ギリシャの市民が理性に基づく対話で政治を行うという理想モデルとも異なる、もうひとつの対話モデルといってもよいものです。そういうと、対話は素晴らしいけれど、実際のところ争いが「対話」で解決したら警察や裁判所は要らないだろうと思われるかもしれません。しかし大小さまざまな揉めごとを抱えてきたアフリカ社会で、この方法が実際に機能してきたのです。
──「パラヴァー」においては具体的にどのように問題が解決されるのでしょうか。
「パラヴァー」で解決される問題は、本当に多様です。村の小さな諍いの解決から、ルワンダのジェノサイド(1994年)や南アフリカのアパルトヘイトのような国際的にも大きな問題の解決までに、「パラヴァー」が活用されています。たとえば村で事件が起きたときには、ビレッジミーティングというものによって解決します。私が調査した西ケニアの村の場合、週に一度、教会の庭に村人が集まってきて、申立人と、被告に当たる人が呼び出されます。村の長老たちが申立人、被告の双方から話を聞き、証人の話も踏まえつつ、判断していきます。村人は誰でも参加でき自由に発言することができます。長老たちの判断の大前提にあるのは、「事件後も当事者同士は社会で隣人として暮らしていく」という原則です。ですから、加害者を刑務所のような場所に隔離し、残った人たちの間でのみ平和な秩序が保たれるといった解決の仕方にはなりません。殺した側も殺された側も、盗んだ側も盗まれた側も、そのコミュニティで共に生きていく。それがアフリカ社会で揉めごとに対処する上での基本的な姿勢なのです。
──加害者は罰を受けないのでしょうか。
身内が殺されたりしたら、誰だって償いをしてもらわなければ収まりませんよね。日本では、加害者に刑罰を求めたり賠償を求めたりしますが、村の法廷では、加害者を拘束し身体罰を与えることはありません。代わりに、加害者の家族や一族の人たちが共同で、被害者の家族や一族の人たちに、たとえば牛10頭を5年かけて払うというような形で解決していきます。近代の刑法システムに慣れ親しんだ人からすれば、「人を殺しておいて身体罰なしで牛10頭?」と思われますよね。加害者には相応の身体罰を与える必要があり、それによって被害者の被害感情も軽減されると考えるわけですが、アフリカでは先にも言いました通り、加害者と被害者が、事件の後も共に暮らしていくということが念頭に置かれることになります。ですから、ルワンダであれだけの規模の大量殺戮行為が起きても、もちろん政治的にジェノサイドを煽った指導者たちは司法において裁かれますが、自分の親族を無慈悲に殺した犯人が、村でその後も共に暮らしていくことを前提とした解決が行われます。その情景は私たちからしてみると想像を絶するものですが、それがルワンダの人たちが選択した対立の解決の仕方だったのです。
アフリカの人間観「ウブントゥイズム」
──対話によって合意に至るということですが、どうやって両者が納得するのでしょうか。
私が出会ったアフリカの人たちは例外なく、普段は物静かな年配の男性でも女性でも、やんちゃな若者でも、そういう場に立つと、とても雄弁に語るんです。自分がどれだけひどい目にあったか、といったことを、とうとうと演説するわけです。相手はその語りを聞いたあと、今度は反論します。一方が「相手が悪い」と言って、一方は「悪くない」と言うわけですから、普通なら水掛け論というか、無益な論争になりそうですよね。私も観察しながら、「いったいどこが落としどころなのだろう」と気が気でないのですが、そうした弁論を相互に何度か繰り返して徹底的に対話していくうちに、不思議と必ずどこか合意できるところが見えてきます。両者のほぼ真ん中にそれが見つかる場合もありますし、どちらか一方に有利な地点に落ち着くこともあります。ただ、その合意というのは、必ずしも理屈としてお互いが納得するというふうに訪れるわけでもないのです。そこにあるのが「パラヴァー」の秘密かもしれません。
──納得することが合意すること、ではないのですね。
それは、相手は間違っているように思えるけれど、自分もやっぱりどこかでは間違っているかもしれないという、自分をインコンプリート(不完全)な存在だと認識する意識です。それこそが、一見不可能に思われる両者の合意に至る鍵になるのです。別の言い方をしますと、加害者や敵を排除するのではなく、最終的にはお互いがインコンプリートな、何かが欠けた存在として共に補い合ってその社会に存在している、そうしないと自分たちの関係性も社会も成立しないんだ、ということを確認するのがパラヴァーだともいえるのだと思います。
──被害者も「自分も間違っている」と考えるのですか?
人はひとりでは生きていけませんから、お互い助け合いながら生きていますよね。特に多くのアフリカ社会のように、経済的に貧しくて公的な扶助制度も整備されていない生活環境においては、互いに支え合わないと生活も生存も困難な状況なので、こうした人間観が彼らの生を可能にしているように思えます。
松田素二 Motoji Matsuda|1955年生まれ。総合地球環境学研究所特任教授、京都大学名誉教授。ナイロビ大学大学院修士課程を経て、京都大学大学院文学研究科博士課程中退。専門は社会人間学、アフリカ地域研究。主な編著に『新書アフリカ史』『集合的創造性:コンヴィヴィアルな人間学のために』など。「パラヴァーは、コンゴの思想家であり社会学者であり、独裁政治に反対する社会運動の政治・軍事指導者でもあったワンバ・ディア・ワンバという人が、アフリカの未来を見据えて、伝統的慣習の中から見出し、理論化した実践的な思想なのです」と語る。
──人間観についてもう少し詳しく教えてください。
アフリカでは、社会に100%依存するのでもなく、逆に、100%個人主義で自分が思うように自由勝手に生きると主張するのでもない、特別な相互依存的な生き方を「ウブントゥイズム」といいます。サハラ砂漠以南のアフリカにおいて広範に話されているバンツー系諸語では、人間を表す言葉が類似していて、その語幹は「-ntu」です。たとえば「人間性 humanity」を表す言葉として、東アフリカのスワヒリ語では「untu」、南アフリカのズールー語では「ubuntu」となります。このようなアフリカの言語状況を背景にして、アフリカにおける人間観をアフリカ人が表現する言葉として注目されているのが「ウブントゥイズム」です。
──なるほど。
「ウブントゥイズム」は人というものの「不完全性」を前提にしています。自律した自由な個々人が手をつなぎ合うというのは、ヨーロッパの近代以降の個人主義的な人間観ですよね。それは、コンプリート(完全)な人間が他の人間を論破したり凌駕したりして自分の世界を築いていくことにもつながります。一方で、不完全で相手を凌駕しないような個人がつながっていくというのがアフリカ型の人間観の基盤にあります。そう考えると、たとえば紛争の解決にあたっても、そもそも、ベースにある人間観がまったく違っているわけですから、解決の仕方が変わってくるのも当然なのです。私たちの信じる個人主義的人間観に立てば、加害者を特定し社会から隔離して処罰することが「正しい解決方法」ですが、アフリカの人間観に従うと、加害者を社会のなかにとどめ、これからも共に生きていくための方策が「正しい解決法」になるわけです。
──被害者の感情が本当にそれで収まるのだろうか、と思ってしまいますが。
以前ルワンダのジェノサイドによって身内を殺され、ケニアまで逃れてきた難民の人たちのインタビューをしたことがあるのですが、彼らにももちろん憤りや悲しみはあります。夫や兄を無慈悲に殺した相手について「けだもの」「人間じゃない」といった表現を使うこともありました。ただ、その一方で加害者の置かれた状況を想像して相手を慮ることもします。おそらく感情や理屈を超えて、ある状況になったら自分もまた人を殺したりものを盗ったりする立場になり得るんだという、立場の相互転換を、彼らは日常の何気ない生活場面において常に自然に行っているように思えました。
──加害者の立場も自然と想像できるのですね。
アフリカの人間観「ウブントゥイズム」から見たら、この点を何度も質問する私のほうが不自然で不思議だったのかもしれません。相手を否定したり打ち負かしたり、相手にマウントを取ったりすることで関係性をつくっていくという近代西洋型の思考や行動規範自体を相対化する、つまり、別の視点で見る必要があるのだと思います。
レンガ製造工場で勤労奉仕に従事する、ブタレ監獄に収監されているルワンダ大虐殺の加害者たち (Photo by Per-Anders Pettersson/Getty Images)
次週8月2日は「『共生先進社会』アフリカに学ぶ :後編」で、引き続き松田素二先生にお話を伺います。日本社会における裁判と、アフリカ社会のパラヴァーにおける「真実」の違いとは──? お楽しみに。