「社会的実験」をアートスペースから進める哲学| 岸本佳子・選【つくるの本棚 #6】
これからの「つくる」を考えるべく、各界の識者が本を紹介するシリーズ「つくるの本棚」。第6回は、近年東京で最も注目を集めるオルタナティブなアートスペースのひとつ「BUoY」代表・芸術監督の岸本佳子に、「社会的実験」をテーマに選書してもらった。ラディカルなプログラムの劇場空間やギャラリー、リラクシングなカフェを通じ「異なる価値観と出会う」場を目指す、その営みを支える哲学はどんな読書で培われてきたのか。
東京の東部・北千住の駅から、飲み屋が軒を並べる味わい深い通りを隅田川方面へ抜け、街外れへ歩いていった先のビルに「BUoY」はある。20年以上放置されていた場所を再生させ、地下の元銭湯は主に演劇やダンスの公演を行う空間に、2階の元ボウリング場はカフェやギャラリー、稽古場スペースとして改装。2017年にオープンした。
地下スペースで行われる公演には、飴屋法水、柳美里率いる青春五月党、増田セバスチャン、君島大空といったアーティストたちが登場してきた。2023年11月中旬からはその地下スペースを開放する「無為フェス vol.2」も予定されている。2階のカフェはプリンの写真がSNSでバズり、休日には行列ができるほどの人気を博しつつ、その横にあるギャラリーではアナルコ・フェミニズム・クィア・パンクバンド主催による“パンクと革命”をめぐる展示などが開かれてきた。普段隣り合うことのない人びとが、各フロアで/階を巡り、交錯する。その複層的な空間のなかで、自分たちが生きる社会への問いが共有され、新たな文化が胎動する。「BUoY」はそんな「社会的実験」の場だといえよう。
「BUoY」立ち上げメンバーのひとりにして、ディレクションを担う岸本佳子は、演出家・ドラマトゥルク・翻訳家でもあり、また国内外で学術的研鑽も重ねてきた人物だ。日頃の実践と、バックボーンとしての知は、どのように結びついているのだろうか。独特のブックリストは、わたしたちを静かにアジテートする。
interview & text by Fumihisa Miyata
photographs by Kaori Nishida
【つくるの本棚 #6「『社会的実験』をアートスペースから進める哲学」岸本佳子・選】
『過去と未来の間:政治思想への8試論』
ハンナ・アーレント|引田隆也、齋藤純一・訳|みすず書房
『東洋史観1 悠久の軍略』
髙尾義政|髙尾学館
『芸術家よ、くたばれ!』
タデウシュ・カントール|鴻英良・訳|作品社
『カディッシュ:タデウシュ・カントルに捧ぐ』
ヤン・コット|坂倉千鶴・訳|未知谷
『Worstward Ho』
Samuel Beckett|Calder Publications
本を選ぶにあたって、「社会的実験」というテーマをBUoYの取り組みに照らし合わせながら考えてみたんです。すると、哲学者ハンナ・アーレントが語るところの「複数性」や「公共性」を民間で体現することはできるのか──ということに日々向き合っているんだ、と改めて感じました。そうしたものを実現へ導く社会的実験をめぐって、わたしたちは普段、試行錯誤しているのではないか、と。アーレントにとっての公共性は常に他者とともに立ち現れるものだというのはよく語られるところでもありますが、その公共性の実現に、常に実践のなかでトライしている感じです。
BUoYの地下スペースとカフェ Photos courtesy of BUoY
選書外ではありますが、アーレントは『人間の条件』のなかで、「現れの空間」(出現の空間)という概念を用いています。活動と言論によって、それに参加する人びとのあいだにつくられるというこの「現れの空間」は、わたしと他人がそれぞれにとって、代替不可能な「現れ」となっていく空間だとされています。
BUoYもまた、社会に対して何かしらの批判的な視座をきちんと提供することで、自他にとっての「現れの空間」となることができる、そんな活動をアーティストたちに行ってほしいと考えています。だからこそ、他の公共施設などではなかなか実現が難しいアーティストのプログラムも組み込んできました。例えば、「明日少女隊」という「慰安婦」やトランスジェンダーの権利の問題などを扱うフェミニスト・アーティスト・グループの個展や、ダンサーのアオキ裕キさんと(元)路上生活者の方たちで構成されるダンスカンパニー「新人Hソケリッサ!」の公演などを開催してきています。
今回の書籍も、こうした視点にもとづいてセレクトしていきました。とはいえ、バラバラに読んでいた本と本のあいだの密かな関係性というものには初めて気がつきましたし、そもそもわたしはなかなか考えをうまくことばにすることができないところがあるので、今回の機会だからこその選書であり、なんとか語ることもできそうだという並びになっています。
「自由は食席に招かれている」
アーレントに関しては『人間の条件』には影響を受けましたし、この本では演劇のことも語られているのですが、しかしそんな『人間の条件』以上にわたしに刺さったのは、『過去と未来の間』、特にその序の一節でした。
『過去と未来の間:政治思想への8試論』(ハンナ・アーレント|引田隆也、齋藤純一・訳|みすず書房) 20世紀を代表する政治哲学者である著者の、思想のエッセンスが詰まった一冊。歴史や伝統、権威と自由、現実の教育や大衆文化、そして宇宙空間をも征服しようとする科学と人間のありようまで、1950年代から60年代にかけて書かれたテクストが8本収録されている
序「過去と未来の間の裂け目」においてアーレントは、ナチスに対するレジスタンスに参加したフランスを代表する詩人・作家ルネ・シャールの文章を引きながら、以下のように書いています。
自由(フリーダム)が出現したのは、かれらが暴政(テイラニー)や暴政に優る悪に反抗した──連合国軍の兵士全体についてはそういえる──からではなく、かれらが「挑戦者」となり、自らイニシアティヴをとり、そのことによってそれと知ることもあるいは気づくこともなしに、自由が姿を現わすことのできる公的空間をかれらの間に創造し始めたからである。「われわれが一緒に食事をとる度に、自由は食席に招かれている。椅子は空いたままだが席は設けてある。」
この一節が、BUoYを続けていくにあたって、わたしの思考に大きなブレイクスルーをもたらしました。というのも、アーレントがいう複数性や公共性は、日常生活のなかではなかなか見えないし気づくことは難しいけれども、たしかにそこに存在するのだな、と思わせてくれたからです。
例えばカフェを毎日のように開けるのは、とても骨が折れることです。もちろんスタッフたちの力があってこそ成り立つわけですが、それにしても、飲み物や食事の仕込みをして、掃除をして、毎日のシフトを埋めながらお客様を迎えるのは、やはり大変なことではあります。その小さな積み重ねを続けているときに──決して芸術に実用性があると言い張りたいわけではないのですが──「椅子は空いたままだが席は設けてある」、そんな自由のための“待つ空間”をつくっているのだと頭のなかで考えられるということは、個人的に本当に希望につながることなんです。
日常の営為における、ほんの微かな尊厳につながっているとでもいいますか。自由は認識されずともそこに存在しているのだと思えることが、BUoYを運営しながら生きることの支えになり、生活を豊かにしてくれるんです。
加えて、この一節の最後に引かれているのはルネ・シャールのことばです。わたしはアーレントを読むことなしにルネ・シャールの詩に自力でアクセスできたとは、なかなか思えません。わたしはBUoY以外にも、ドラマトゥルク(劇作家や演出家と共同作業し、リサーチや制作をサポートする役職)としても活動してきたのですが、ドラマトゥルクが媒介者といわれるように、ここでアーレントもルネ・シャールとのあいだで媒介してくれていると感じます。その意味でも、とても励まされる本ですね。
算命学理論・マネジメント・価値観
『東洋史観1 悠久の軍略』著者・髙尾義政さんについては、ご存じない方のほうが多いかと思います。算命学理論と呼ばれる、古代中国由来の学問を日本で独自に体系化した第一人者の方であるようです。わたしは普段から、自分がまったく知らない分野の文章や本を読むことがあるのですが、この本も経営者の方が参考にしている書籍というような記事のなかでビジネス本などに混ざって出ていて、なんだろうと思って手にとった記憶があります。読んでみると、BUoYという場をマネジメントするにあたって、かなり参考になることが書かれていたんですね。
『東洋史観1 悠久の軍略』(髙尾義政|髙尾学館) 算命学は古代中国の陰陽説と五行説をもとにした「占い」を本来意味し、政治や軍略といった文脈で活用されてきたという。これを髙尾義政(1941-1990年)は独自に発展させ、昭和40年代に算命学理論として公開したようだ。神保町・原書房などの専門書店や、髙尾の教えを継ぐ髙尾学館のホームページなどで入手可
文字通り軍略に関する本ではあるのですが、その背景として、人間とは何か、社会とは何かということを論じている書籍でもあります。例えば、「世に軍師、軍略家とよばれる人は、概ね天下を取ることが出来ません。なぜならば軍師が己の才能にたよるからであります」といったことが書かれています。どうでしょうか、先ほど触れたアーレントの複数性や公共性といった話と、一方は極北、他方は(こんなことばは存在しないでしょうが)極南でつながっているような気がしないでしょうか(笑)。
続く文章には、「徳人とは、総体的にみると、どこかぬけているものを持っているものです。才人にはスキがありませんが、徳人はスキだらけであります」、「才人に才で立ち向ったら戦いになるだけです。徳人に徳で向っていったら、いつまでたっても戦いは終らないでしょう。(中略)徳人には才で、才人には徳で対処するところに争いは消えていくのであります」といったようなフレーズがあります。これもまた、他者に自分の声を聞いてもらい、他者の声に自分が応答していくといったように、自他が呼応していく公共性の地平と、どこかでつながっているのではないかと感じています。
あるいは、こんな一節はどうでしょう。
もし政治家や経済人が平和を守ろうとする時、〝悪人〟を排斥したらどんなことになるでしょう。悪人といえども国民であり人間です。人間を排斥したとき平和はくずれていくのです。ゆえに平和とは善悪混在するをいい、動乱とは一国の価値観が一方へのみ片寄ることをいいます。
スペースを構えるという観点で、考えさせられるんですね。動乱といえば価値観がぶつかり合うものだとわたしたちは思いがちですが、「価値観が一方へのみ片寄る」から動乱になるのだ、とここでは語られている。スペースを運営するということは人と人の揉め事を次から次へと片っ端から処理していくということに他ならないわけですが(笑)、その意味でもとても参考になります。
こうして読んでくると、「時間というもののとらえ方と解釈が東洋と西洋では根本から異なる」として暦を論じていく文明論のくだりにも、わが身を振り返らされるところがあります。わたし自身、受けてきた教育のバックグラウンドは欧米であり、芸術業界もまた欧米を中心にまわっていることは事実です。先ほどまで触れてきたアーレントなど哲学分野もまた同様でしょう。しかし、真に複数性ということや、一方での価値観の偏重ということを考えるならば、やはりハッとさせられる本なんです。価値観の多様性などと口では簡単に言えますが、実現するのは本当に困難であって、日頃忘れていた自分の立脚点を自覚・反省させられますね。
芸術が「君臨」させるもの
わたしのバックボーンにあるのは演劇であり、いろいろな作品から影響を受けてきました。生で目の当たりにできたものもあれば、映像で見ることができたものもあり、影響を受けた作品を絞ることはなかなか難しいのですが、例えば実際に体感できたものであれば、まるでひとつの村のような巨大野外劇場をその都度、丸ごとつくりあげていた、松本雄吉氏(1946-2016)が主宰していた演劇集団「維新派」の作品を挙げることができます。自分の“想像力の外”にあるものを突きつけられました。
後から映像で見ることができたものでいえば、ジェンダー、エイズ、セクシュアリティ、人種や国籍などをめぐる問いかけという点でいまも伝説的な人気を誇るダムタイプ『S/N』(初演1994年)に、大学時代に出会えたのは大きかった。あるいは、クリストフ・シュリンゲンジーフのパフォーマンス『オーストリアを愛せよ』(2000年)を記録した『外国人よ、出ていけ!』(クリストフ・シュリンゲンジーフ/パウル・ポエット、2002年)。ウィーン歌劇場の前に衆人環視のコンテナ・ハウスを設置、亡命希望者たちへの人気投票の末にひとりにだけ滞在許可が出るという、当時の極右政党が台頭する政情に応答した過激なインスタレーションでした。
もうひとつ、映像で出会うことができて衝撃を受けたのが、ポーランドが生んだ20世紀を代表する前衛演劇家、タデウシュ・カントール(1915-1990)の『ヴィエロポーレ、ヴィエロポーレ』(初演1980年、映像記録は1984年)でした。第一次世界大戦を中心にしたポーランドの歴史と、カントール自身の家族や親族の物語が交錯する作品であり、2015年の東京芸術劇場での上映会でようやく見ることができました。
(上)『芸術家よ、くたばれ!』(タデウシュ・カントール|鴻英良・訳|作品社)、『カディッシュ:タデウシュ・カントルに捧ぐ』(ヤン・コット|坂倉千鶴・訳|未知谷)。『芸術家よ、くたばれ!』は、表題作や『ヴィエロポーレ、ヴィエロポーレ』などのイメージ・スクリプト、およびカントールが綴ってきたテクストやインタビューが集められた一冊。『カディッシュ』は代名詞としての「死の演劇」を論じるエッセイ集。 (下)タデウシュ・カントールと、彼が率いた劇団Cricot2が、1988年に『芸術家よ、くたばれ!』のリハーサルをしているとされる一枚。カントールはリハーサル中のみならず、作品によっては本番でも舞台に上がり、指揮棒を振っていた。1980年代に度々来日し、公演を行った。 Photo by PAI-Foto.pl / ullstein bild via Getty Images
カントールは、後に触れる演劇界の巨人にしてノーベル文学賞作家、サミュエル・ベケット(1906-1989)を引き合いに出しながら論じられることもあり、20世紀演劇史において外すことのできない人。わたし自身もかねてより存在は知っていたわけですが、日本での本格的な紹介はあまり進んでおらず、同時代的に体験できなかった世代が後から追いかけるのには厳しいものがありました。数少ない手がかりである、本人によるイメージ・スクリプトと呼ばれる断片的なテクストなどを収めた『芸術家よ、くたばれ!』を読んでも、あるいは演劇評論家ヤン・コットによる追悼の書『カディッシュ』を傍らにおいても、わたしはなかなか本質を理解することができず、半ば投げ出してしまっていました。しかし、『ヴィエロポーレ、ヴィエロポーレ』の記録映像を見たとき、わたしは本当に、席から立つことができませんでした。その衝撃の内実は、戦争の表象不可能性をめぐるものでもあって、ことばで説明することは難しいのですが……いずれにしても、ようやく本に書かれていることにも、すこし理解が及ぶようになったのでした。
カントールに関する一般的な紹介をしますと、彼の代表作『死の教室』(初演1975年)から、その作品群は「死の演劇」と呼ばれてきました。『死の教室』は文字通り、古びた教室を舞台に狂騒的なタッチで死者や記憶を扱う作品であり、『カディッシュ』にも「生者とは死者の分身にほかならない。おそらくはそのことが、カントルの言わんとしている最も肝要なことなのかもしれない」と書かれています。ピーター・ブルックによる、バイブル的な扱いをされる演劇論『なにもない空間』における演劇の分類も、カントールの「死の演劇」が念頭に置かれて書かれていると思われます。
しかし、カントールに関する書籍を読み返すなかでわたしの心をとらえたのは、より具体的かつ細部のフレーズでした。『芸術家よ、くたばれ!』に収録された彼自身の短いテクスト「私、現実の」の末尾です。
個人の生活のなかでは/もっとも奥深くにあるもの/もっとも価値ある/ものだが/“世界”の目には/馬鹿げた/ちっぽけな/“貧しい”もの/と見られるものを/人々の目にさらす。
芸術はこの“貧しさ”を/明るみにだす。/それを育てること。/それに君臨させること
これが芸術の役割である。
アーレント、そして詩人ルネ・シャールのことばと同じく、カントールがいうところの「芸術の役割」は、わたしにとって希望となるフレーズです。カントールが書きつけたこの切れ切れのことばたちは、彼にとっての詩なのだとわたしは理解しています。若いアーティストたちと関わりあいながらアートスペースを運営している身としては、いつかたどり着きたい境地であり、カントールはわたしが芸術活動を続けることを根底から支えてくれているひとりです。作品中も舞台上で影のように指揮棒を振っていたことで知られる人ですが、いるようでいない、いないようでいる、その立ち位置も考えさせられるところがありますね。
Fail again. Fail better.
最後に取り上げるのは、サミュエル・ベケットの『Worstward Ho』という、短い小説作品です。ベケットについては、有名な舞台作品である『ゴドーを待ちながら』や、ノーベル文学賞作家であることを通じてご存じの方も多いかもしれません。
今回取り上げる『Worstward Ho』は、わたしを鼓舞してくれる短編小説であり、同時にとても手ごわい作品です。小説といっても、正体不明の語り手が、自ら語ったことを即座に否定するなどしながら、延々と、そして断片的に語り続けるという異形の短編なんですね。実は、長島確さんの訳で『いざ最悪の方へ』(書肆山田)という邦訳が出ており、すばらしいお仕事だと思うのですが、それでもやはり、ベケットがもつ翻訳不可能性というものは、常にわたしたちに問いを投げかけてくるように感じます。
(上)『Worstward Ho』(Samuel Beckett|Calder Publications) ペーパーバックで50ページほどの短編小説。 (下)サミュエル・ベケット、1977年の撮影とされる一枚。小説・戯曲ともに新たな領域を切り拓き、1969年にノーベル文学賞を受賞した。 Photo by Habermann / ullstein bild via Getty Images
わたしがBUoYを「社会的実験」という文脈において続ける上で、最も励まされる『Worstward Ho』の一節は、先ほど述べた翻訳不可能性をめぐる困難を象徴する箇所でもあります。広く引用されることも多い、小説冒頭部分のこんなフレーズです。
Ever Tried. Ever Failed. No matter. Try again. Fail again. Fail better.
翻訳の素人であるわたしが読むと、例えば「Fail better」は「よりよく失敗する」などと訳すことはできなくもないのでしょうが、しかしこの韻を踏むように重ねていくフレーズの豊かさを拾い上げることは本当に難しい。しかもそもそもfailを「失敗」と訳していいのかどうかも、悩ましいところだと感じます。
ここでわたしが考えあぐねていることを、なんと表現すればいいのか……『Worstward Ho』のこの箇所では、失敗しろといわれているわけではなく、むしろやり損ねることが前提となっている、とでも表現すればいいでしょうか。うまくいくことなんてない、ということを織り込んだ“続けていくための哲学”なのだと、わたしは考えています。
どんな行為も、やり損ねることは決まっている。その上で、じりじりと継続していく。『Worstward Ho』という小説が、数限りないfailを前提としながら、なかなか途絶えることなく続いていくように。
ベケットの哲学は、いかなる価値にも回収されずに、最も微細なレベルで抵抗=レジスタンスを続けていくというものだと理解していますし、『Worstward Ho』のこの一節は、そんな哲学に貫かれているテクストだと、わたしは感じます。そう思わない方もいるかもしれません。でも、わたしにとっては、そんなテクストなのです。
岸本佳子|Kako Kishimoto 北千住BUoY代表・芸術監督。演出家・ドラマトゥルク・翻訳家。2017年に、複合アートスペースであるBUoYを立ち上げる。以降、年間プログラム、全体のディレクションを担当。米国コロンビア大学芸術大学院(MFA)修了。東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得満期退学。2009年より多言語劇団「空(utsubo)」主宰。2014年、『林さん』作・演出で芸創connect vol.7最優秀賞受賞。大学講師も務める。
次週11月7日のニュースレターは、"社会性のあるゲーム"のムーブメントをピックアップ。1980年代以降、物語表現ができる新しいメディアとして広まり、メディアのジャンルとして確固たる地位を築いてきた「デジタルゲーム」。分断や格差、紛争などの社会問題を反映したゲームが増加するいま、プレイヤーや開発者を虜にする"ゲームにしかできない表現"について考えます。お楽しみに。
【新刊のご案内】
Photo by Hiroyuki Takenouchi
書籍『WORKSIGHT[ワークサイト]21号 詩のことば Words of Poetry』
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【書籍詳細】
書名:『WORKSIGHT[ワークサイト]21号 詩のことば Words of Poetry』
編集:WORKSIGHT編集部
ISBN:978-4-7615-0928-6
アートディレクション:藤田裕美
発行日:2023年10月20日(金)
発行:コクヨ
発売:学芸出版社
判型:A5変型/128頁
定価:1800円+税