『イーロン・マスク』上・下(ウォルター・アイザックソン著, 井口耕二訳, 文藝春秋)Photo by Kaori Nishida
text by WORKSIGHT Editorial Department
リアリティへの執念
テスラ(Tesla)、スペースX(SpaceX)、ザ・ボーリング・カンパニー(The Boring Company)、ニューラリンク(Neuralink)など革新的なプロジェクト/企業を展開する経営者イーロン・マスク。技術革新をベースとし、一貫して未来志向であり、人類の大きな問題解決を目指すビジョナリーな人物とされている。一方、世界で最もフォロワー数をもつソーシャルメディアでは詭弁を繰り返し、私生活では3人の女性との間に11人の子どもをもつなど(2020年に生まれた子どもの名前は「X Æ A-12」である)、日夜話題に事欠かない。彼は新世代の英雄なのか、はたまた単なるトリックスターなのか。公式評伝『イーロン・マスク』を紐解きながらいま一度考えてみたい。まずは主な経歴と実績を簡単に振り返ってみる。
1971年:南アフリカ共和国プレトリアで生まれる。幼少期からコンピューターとプログラミングに関心をもち、12歳でゲームを開発・販売。
17歳で南アフリカ共和国からカナダへ移住。その後、米ペンシルベニア大学で物理学と経済学の学士号を取得。
1995年:ソフトウェア会社Zip2 Corp.を共同設立。都市向けのガイドとビジネスディレクトリを提供した。1999年にCompaqに約3億ドルで買収される。
1999年:オンラインバンクX.comを設立。のちにPayPalと名称を変え、2002年にeBayに15億ドルで買収される。
2002年:宇宙探査を目的としたSpace Exploration Technologies Corp.(SpaceX)を設立。その後、Falcon 9などのロケットや有人宇宙船 Dragon を開発し、NASAとの契約を含む多くの宇宙ミッションを成功させる。
2004年:Tesla Motors(現 Tesla, Inc.)に参画し、会長およびプロダクトアーキテクト(製品設計担当)となる。2008年、CEOに就任。電気自動車、再生エネルギー製品の製造・販売を行い、環境問題への取り組みを推進する。
2006年:親戚が設立した太陽光発電ビジネスを展開する SolarCity に出資。のちに Tesla, Inc. に統合。
2013年:地下トンネルを使用した新しい高速輸送システムHyperloopのコンセプトを提案。
2016年:脳とコンピューターを直接接続するブレインマシンインターフェースを開発する Neuralink を設立。
2016年:The Boring Company を設立。都市の交通渋滞問題を解決するための地下トンネルの建設を目指す。
2021年:ジェフ・ベゾスを抜いて世界一の資産家となる。
2022年:ソーシャルメディアプラットフォーム Twitter 買収。翌年 X に改名し、言論の自由と決済プラットフォームの統合を目指す。
2023年:真理を追究する汎用人工知能を目指す xAI を設立。
ここ数十年のシリコンバレーを中心としたテックイノベーターと異なる点を挙げるとすれば、複数の産業への横断的な挑戦だろう。決済システム(PayPal)、電気自動車(Tesla)、宇宙探査(SpaceX)、再生可能エネルギー(SolarCity)、ブレインマシンインターフェース(Neuralink)、トンネル建設(The Boring Company)、ソーシャルメディア(Twitter)などを通し、多岐にわたる産業に革命を起こそうとしていることがわかる。そして一見ばらばらなようでじつはプロダクトのほとんどがフィジカルなモノであるという点が共通している。
スモールスタートが可能なディスプレイ上を主戦場とするテックスタートアップ全盛の時代にあって、モノづくりに関わる企業でここまでの成果を出してきた人物は珍しい。同じくモノへのこだわりで比較されるスティーブ・ジョブズがユーザビリティや審美的な価値にこだわる一方で、マスクは生産への強い関心をもつ。そしてそれは経営スタイルにも表れる。会議室で構えるのではなく、自ら生産ラインやテストの現場に入るハンズオン・アプローチを得意とするのだ。ちなみに本書と同じくジョブズの伝記を手掛けたウォルター・アイザックソンによって、ジョブズはデザインスタジオには日参しても工場には一切立ち入らなかったと記されている。
マスクのハンズオン・アプローチを象徴するのが「シュラバ(修羅場)」だ。これは100人を火星に送りこめることを念頭においた二段式大型ロケット、Starshipの生産現場でのワンシーンである。社員を強制出社させ、自身も工場の一角で寝泊まりしながら担当者を厳しく追及する。無茶な期日や仕様を指示しているようで、不思議なことにヒューリスティックに問題は解決されていくのだ。
そのあと数時間、マスクは、手を振り回し、首を少しかしげて組立ラインを歩き回った。ときおり立ち止まって、なにかをじっと観察する。だんだんと表情が暗くなり、立ち止まった姿からも物騒な雰囲気が漂うようになっていく。夜9時、海から満月が姿を現すと、マスクはますます憑かれたようになっていく。
これがなにを意味するのか、過去になんどか最後の審判モードに向かうマスクを見てきた私にはわかった。シュラバを命じたい、総員甲板昼夜兼行の突貫作業を命じたいというじりじりした想いが圧力を高めつつあるのだ。盛大にやらかすケースだけで年に2、3回とよくあることだ。ネバダのバッテリー工場でも、フリーモントの自動車組立工場でも、自律運転の開発チームでもやったし、さらには、ツイッターを買収したあとの1カ月でもやる。盛大に揺さぶりをかけ、マスクの言葉を借りれば「クソを出し尽くす」のが目的である。
(『イーロン・マスク 下』 ウォルター・アイザック, 2023年, 文藝春秋, p.68)
彼の執着はモノに対してだけではない。携わる人たちすべてに厳しい要求をつきつけ、しばしば厳しくなじり、容赦なくクビを切る。仕事にあたる人間には「気が狂いそうなほどの切迫感」をもったハードワークを求め、採用はスキルよりも心構えを重視する。曰く「スキルは教えられても、性根をたたき直すには脳移植が必要」だからだそうだ。
工場は、設計、エンジニアリング、製造を1カ所にまとめるべしというマスクの哲学に従ったレイアウトとした。「組立ラインの人間が設計者や技術者の首根っこをつかまえて、なにを考えてこんなことにしたんだと言えるべきなんだ」とマスクはミューラーに説明した。「コンロに触って熱かったらすぐ手を引っ込めるけど、コンロに触れているのが別のだれかの手だったら、それをなんとかするのに時間がかかったりするからね」
(『イーロン・マスク 上』 ウォルター・アイザック, 2023年, 文藝春秋, p.164)
じつに泥臭く、絵に描いた餅で終わらせない圧倒的なリアリティへのこだわりが見てとれる。そしてそこには事業の垂直統合、部品の内製化、徹底したコストカット、カイゼン、現場主義、すり合わせ、長時間労働、かつてジャパン・アズ・ナンバーワンとまで謳われた日本企業が得意としてきたようなエピソードがこれでもかと登場する。こうした概念をいまやイノベーションを阻害する負の遺産として排除しようとする日本企業の経営者は本書をいったいどう読むのであろうか。
Starshipの巨大なローンチタワー(ロケットの発射台上に建設される、組み立てや整備を容易にするためのタワー)を案内するマスク。Starshipは全長120m、打ち上げ時の質量は5000tにおよぶ人類史上最大・最強のロケットだ
プラグマティストの誤謬
マスクのモノや実験を通じて問題を速やかに解決していく思想には、アメリカ伝統の哲学であるプラグマティズムを強く感じさせる。プラグマティズムは、思考や行動の真実性や有効性を、それがもつ実用的な結果や効果に基づいて評価する哲学的アプローチだが、簡単にいえば「実際の問題を解決する」ことを重視するものだ。実践を通じて解を見つけようとするため、絶対的な真理や前提を是としないことも特徴である。唯一守るべきは物理法則だけだ。彼が日々の仕事を行う上で信念とする「アルゴリズム」と呼ぶ5つのプリンシプルにもそれは表れる(ちなみにこのプリンシプルも自身が生産現場で学んだ末に導き出したものとある)。
第1戒──要件はすべて疑え。要件には、それを定めた担当者の名前を付すこと。「法務部」や「安全管理部」など部門名しか付されていない要件を受理してはならない。必ず、定めた本人の名前を確認しろ。そして、その要件を疑え。担当者がどれほど頭のいい人物であっても、だ。頭のいい人間が決めた要件ほど危ない。疑われにくいからだ。私が定めたものであっても、要件は必ず疑え。そして、おかしなところを少しでも減らせ。
(『イーロン・マスク 上』, p.410-411)
マスクは、宇宙探査、再生可能エネルギー、交通システムなど、これまで誰も手を付けようともしなかった、もしくはチャレンジしても実現にこぎつけられなかった分野で、実際に機能するプロダクトを数多くリリースすることに成功している。生産における材料を疑うのみならず、プロセスにおいても理論よりも迅速なプロトタイピングとイテレーションを行うことでいち早く失敗する。しかもそれを自ら現場でハンズオンで行うのだ。プロダクトそのものだけではない。その周りに存在する規制や、業界での暗黙の約束もまた疑われる前提となる。NASA のようないわゆる軍産複合体も彼にとっては格好の対峙する相手となるわけだ。紆余曲折を経て現在、アメリカが国際宇宙ステーションに人を送りこむ方法は SpaceX を使う以外にない。
実費精算契約のぬるま湯に何十年もどっぷり浸かってきた結果、航空宇宙業界は締まりがまるでなくなっていた。たとえばロケット用のバルブは似たような自動車用バルブの30倍もする。だから、部品はなるべく航空宇宙以外の企業から買えとマスクは指示した。NASAが国際宇宙ステーションで使っている留め金は1個1500ドルもする。スペースXは、トイレの個室に使われる留め金を改造し、わずか30ドルでロック機構を作ってしまった。
(『イーロン・マスク 上』 , p.299)
社会を構成する価値が多様であり、自明性を証明することが難しい現代において、諸問題はプラグマティックに対処するしかないのかもしれない。しかしプラグマティズムは容易に隘路に陥りやすい危うさも有している。例えば社会的、経済的な文脈で有用性が解釈されると、商業的な成功や金銭的な利益が最終的な真実や価値の基準として過度に重視される。社会を一変させるが開発・浸透に時間のかかるものより、イグジットが容易なもののほうが投資家やVCに好まれるのはまさにそれだ。PayPalでマスクと袂を分かったピーター・ティールが、投資家やVC、起業家などを「空飛ぶクルマを望んでいたのに、手にしていたのは140文字だ」と皮肉ったのは、その動向を象徴することばだろう(そしてその140文字をまたマスクが手に入れた)。
経済的な問題だけではない。アメリカでプラグマティズムの薫陶を受けた哲学者・鶴見俊輔は『北米体験再考』のなかで「私は、プラグマティズムの哲学が帝国主義に奉仕する側面をもってきたことを認める。同時に、パース、ジェイムズ、ミードのプラグマティズムを、全体として帝国主義の哲学として捨てきれると思わない」と指摘する。特定の成員のなかでの実践を通じて磨かれた思想や価値観はしばしば、外の文化を排斥し、覇権的な力をもってしまう。それは文化的な帝国主義の温床でもあるのだ。
The Wall Street JournalのYouTubeチャンネルで2023年9月に公開された、『イーロン・マスク』著者ウォルター・アイザックソンのインタビュー映像。17:32から、「要求を疑え」「物理学に目を向けろ」など、マスクが重視するアルゴリズムについても触れられている
実存的リスク、長期主義、効果的利他主義
プラグマティストとしてのマスクは果たしてどのような思想の元に有用性を判断しているのだろうか。市井の人びとのアテンションを食い扶持とするマスメディアやソーシャルメディアでは長らく彼を思想の安定しない奇怪な人物として描いてきた。会見の場で記者たちが度々ダンスをせがむのも、ミームが大量に生まれているのもそうした意識の表れだろう。しかし本書では、ひとつの思想の方向性が提示される。それは人類を「多惑星種」(Multiplanetary Species)にすることである。
マスクはフェルミのパラドックスが気になってしかたがない。イタリア生まれの米国人、物理学者のエンリコ・フェルミが、宇宙人の議論で「では、彼らはどこにいるんだ?」と問うたことからこう呼ばれている矛盾だ。数学的には人類以外にも文明があると考えるほうが合理的なのに、その存在を証明する事実がない。ということは、もしかすると、地球の人類だけが例外的に意識を持てたということなのかもしれない。「ここでは意識というデリケートなろうそくがゆらゆらしているわけです。そして、これ以外に宇宙に意識はないのかもしれない。であれば、守り、維持する必要があるでしょう」とマスクは言う。「小惑星にぶつかられたり、文明がほろんだりする可能性が惑星ひとつに縛られているより、ほかの惑星に行けたほうが、人類意識の寿命はずっと長くなるはずです」
(『イーロン・マスク 上』 , p.141-142)
彼は、気候変動、核戦争、隕石の衝突などによって人類がその存在を脅かされることを阻止し、地球以外の惑星にまたがった新たな文明を築くことを目指す。そして当座の人類の退避先として火星の開拓を宣言しているのだ。確率的には極端に低いかもしれないが、起これば破局的な影響を及ぼすこうした人類が滅亡する危険性は「実存的リスク(Existential Risk)」と呼ばれ、近年、主にシリコンバレーを中心に AI の発展に伴い盛んに議論がなされている。
実存的リスクの議論の中心にいるのが哲学者ニック・ボストロムである。ボストロムはオックスフォード大学未来人類研究所(Future of Humanity Institute)の所長として、実存的リスクやテクノロジーの進化、特にスーパーインテリジェンス(超知性)の出現とそのリスクについて研究を行っている。ボストロムは、シリコンバレー界隈に実存的リスクの強迫観念を植え付け、人類は宇宙人の壮大なシミュレーションゲームの演者でしかないという「シミュレーション仮説(Simulation hypothesis)」、そして最も重要な「長期主義(Longtermism)」を提示している。長期主義は、我々の行動や決定が遠い未来の世代に及ぼす影響を最も重視する思考やアプローチだ。具体的には、数千年後、あるいは数百万年後に生きるであろう未来の人びとの幸福を最大化する行動を選ぶという考え方である。
2005年7月、ニック・ボストロムは「人類の3つの課題」と題したプレゼンテーションをTEDで行った。このなかで、遅かれ早かれ実現するであろう「未来の技術」として、VRなどのIT技術、遺伝子工学、向知性薬(脳の認知力を高めるための薬)、AI、そして人間の能力を超越するAIの”スーパーインテリジェンス”を紹介している。この9年後の2014年、ボストロムは『Superintelligence: Paths, Dangers, Strategies』を上梓した(邦訳は『スーパーインテリジェンス:超絶AIと人類の命運』倉骨彰訳、日本経済新聞出版社、2017年)
約20年前にボストロムによって提唱された長期主義は初めから広い支持を集めたわけではない。そこにはもうひとりの立役者が存在する。こちらもシリコンバレーに影響を与えているオックスフォード大学哲学准教授ウィリアム・マッカスキルである。彼の提唱する「効果的利他主義(Effective Altruism)」が説かれた『What We Owe The Future』が世界的なベストセラーになることで、亜種である長期主義に注目が集まったのだ。マッカスキルはオックスフォード大学の大学院生時代に哲学者ピータ―・シンガーに影響を受け、質素な生活を送り、自身の奨学金のほとんどを寄付するという活動を開始した。効果的利他主義とは、金銭、時間、能力など限られたリソースを、最大限ポジティブな影響をもたらす方法で活用することを科学的かつ理論的に追求することである。いってしまえば道徳的に「より良いこと」を数字でもって定量的に判断する一種の功利主義である。例えば、マッカスキルは途上国に存在する搾取工場の製品をボイコットしたり、フェアトレード商品の購入は結果として世界を良くすることにならないと説いたりしている。消費者が追加で支払った資金が労働者に直接は届かず、さらには無駄な商品が過剰供給されることにつながるからだ。それよりも直接、貧困撲滅に対してアプローチしている慈善団体に寄付するほうが効果が高いとしている。
2018年10月、TEDで「現代における最も重要な道徳的問題とは?」と題されたプレゼンを行ったウィリアム・マッカスキル。この4年後、長期主義の重要性を説いた書籍『What We Owe The Future』が発売され、ベストセラーとなった
人類滅亡の可能性を憂う、長期主義、効果的利他主義がなぜ世界の大富豪、経営者たちに支持されるのだろうか?それは端的に言えば、加害者である大富豪を世界を救うヒーローへと転換するロジックだからである。格差社会、気候変動など、自分たちが引き起こしたかもしれない数多くの社会問題を、自らが救世主となって解決へと導く自作自演の舞台装置なのだ。自力に乏しい市井の人びと、いや、地球そのものを救うことができるのは自分しかいない、そしてそれを実現するためにはより多くの富が必要であるとつぶやくのである。こうしたテクノユートピア主義や選民思想のなかに彼らはどっぷりと浸かっている。
ボストロムもそれを裏付ける言動を行っている。2019年に発表したエッセイのなかで、常に間違ったテクノロジーを発明し、使い方を誤ってしまう恐れがある人類に対し、全人類の集団監視をする必要があると主張した。ジョージ・オーウェル風の響きをもった「フリーダム・タグ」というネックレスをぶら下げる未来を提案しているのだ。極めつけは、1996年に自身がメンバーであったエクストロピアンというトランスヒューマニストのコミュニティに宛てたメールで、IQテストによって科学的に証明されたとして「黒人が白人よりも愚かである」と書いたこともわかっている(今日、IQテストをもって知性とする考え方は否定されている)。
何よりこのイデオロギーが危険な理由は何か。数万年先の人類存続の可能性のために、現在あるいは近い将来の人びとの生がないがしろにされてしまうことであろう。ビジョナリーといえば聞こえがいいが、長期主義者にとってみれば、今日明日の災害で失われる命は取るに足らない些細なことであり、自分が救うべき対象にはならないのである。
かねてより長期主義を糾弾する作家エミール・トーレスは、Google を追われた人工知能倫理学者ティムニット・ゲブルーとともに「テスクリアル(TESCREAL)」という造語を生み出している。トランスヒューマニズム、エクストロピアニズム、シンギュラリタリアニズム、宇宙主義、合理主義、効果的利他主義、長期主義という、シリコンバレーのテクノロジストを中心に同時に語られることの多いイデオロギーの頭文字を取ったことばだ。トーレスによれば、これらの一見ばらばらな信念体系は、優生学への永劫回帰を示しているという。
長期主義者は、そのほとんどがトランスヒューマニストでもあるが、自分たちは前世紀の優生主義者よりもはるかに賢明であると主張したがる。ボストロムが論文「トランスヒューマニストの価値観」で書いているように、トランスヒューマニズムの中核的な価値観は、人体工学技術を使って自分自身を根本的に「強化」することだと説明している: 「人種差別、性差別、種差別、好戦的ナショナリズム、宗教的不寛容は容認できない」。同様に、世界トランスヒューマニスト協会のFAQ(ほとんどがボストロムによって書かれたもの)には、「(前世紀の優生学プログラムに関与した)強制を非難するだけでなく、トランスヒューマニストは、それらが基礎とした人種主義的、階級主義的な前提を強く拒絶する」と書かれている。しかし、証拠はその逆を示唆している。長期主義や、それが包含するトランスヒューマニズムのイデオロギーには、前世紀の卑劣な優生主義者を活気づかせたのとまったく同じ、人種差別的、外国人嫌悪的、階級主義的、能力主義的な態度がしばしば吹き込まれている。
(Nick Bostrom. Longtermism, and the Eternal Return of Eugenics, Truthdig, Jan 23, 2023)
長期主義者のように実存的リスクを憂うことと先述したプラグマティズム、その根っこはダーウィニズムによって密接につながっている。歴史家ジェニファー・ラトナー=ローゼンハーゲンの『アメリカを作った思想:五〇〇年の歴史』の一節だ。
劇的に新しい世界観が出現しつつあるときに働いていた思想的諸要因のすべてを確実に特定することは決して容易ではない。しかしプラグマティズムの場合は、ダーウィンによる進化の説明と、それが一九世紀後半の思想の全領域にもたらした革命とが決定的な役割を果たしていた。ダーウィンは、自然界をたえず変化するものと捉えるヴィジョンを掲げ、そのダイナミズムを生み出す力にはランダム性や偶然のみならず有用性も含まれると論じた。彼は自らの進化観を理論化したばかりでなく、自らの主張を支える証拠も提供した。科学的テストと証拠とによって世界のダイナミックな作動を露わにしようとするこの衝動は、さまざまな名をまといながら一九世紀後半の世界を駆け巡った。たとえば科学主義、自然主義、科学的自然主義、実証主義、そしてもちろん、ダーウィニズム。しかしこれらすべての中心にあったのは、安定することのない自然界における探究の範囲は、真理主張のうち経験的に検証可能なものに限られねばならないという考えである。
(『アメリカを作った思想:五〇〇年の歴史』ジェニファー・ラトナー=ローゼンハーゲン, 2021年, 筑摩書房, p.183)
そして社会を激変させたダーウィンの遺産は、プラグマティズムだけではなかった。ダーウィンの従兄弟であり統計学の祖とされるフランシス・ゴルトンらによって曲解されて「優生学(Eugenics)」を産み落としたというわけである。
1932年8月22日、ニューヨークのアメリカ自然史博物館で”平均的なアメリカ人”を象徴する像を見つめる来館者。この像は、約10万人のアメリカ戦争帰還兵の採寸データからつくられ、同所で開催された優生学会議にて発表された。Photo by KEYSTONE-FRANCE/Gamma-Rapho via Getty Images
マスクを理解することの困難
多くの論考でマスクは長期主義者であると批判の声が上がっている。実際にマスク自身も、ニック・ボストロム著『スーパーインテリジェンス:超絶AIと人類の命運』について「読む価値がある。AIには細心の注意が必要だ。これは核兵器よりも危険な可能性がある」とツイートしているし、ボストロムのオックスフォード大学未来人類研究所に多額の寄付をしている。マッカスキルとの距離も非常に近しい。そして、本書で初めて明らかになったことだが、ウクライナ政府からのクリミアにおけるスターリンクの利用要請を拒否したのも、核戦争が勃発し人類の尊い文明が失われるのを恐れてのことだ。古典的でヒロイックな筆致を得意とし、『レオナルド・ダ・ヴィンチ』(2017)や『スティーブ・ジョブズ』(2011)を上梓してきたウォルター・アイザックソンに公式評伝を書かせていることも、SpaceX の工場内に自身をモデルにしたアイアンマン像を鎮座させ愛でることも、長期主義者に見られるヒロイズムに酔っているといえるのかもしれない。
マスク自身、常に危険と隣り合わせの南アフリカ共和国で生まれ、毒親やいじめなど生死にかかわる壮絶な幼少期をサバイブし、自分の生存戦略について考えさせられる人生を送ってきた。本の虫であった彼は当初、その答えをニーチェ、ハイデガー、ショーペンハウアーなどの実存哲学の本に求めたという点も、実存的リスクに飛びつく理由のようにも見える。
1980年代の南アフリカは血なまぐさい場所だった。機関銃による攻撃やナイフによる殺人が日常茶飯事。反アパルトヘイトのコンサートに行く途中、電車を降りたら、頭にナイフが刺さって死んでいる人がいたこともある。イーロンもキンバルも血の海を歩いて渡るしかなく、その日は、スニーカーについた血が歩くたびにいやな音をたてたという。
(『イーロン・マスク 上』 , p.14)
しかし、なぜかマスクが本当の意味で長期主義者であるという確信をもてない。まずもってシリコンバレーのテスクリアルたちとことごとく反りが合わない。本書のなかでもピーター・ティール、Googleのラリー・ペイジ、効果的利他主義の伝道師として知られたサム・バンクマン=フリード、OpenAI のサム・アルトマンなどとの仲違いが描かれている。本記事の執筆時点でピン止めされているツイートでは「本当の戦いは右翼と左翼の戦いではなく、むしろヒューマニストと絶滅論者の戦いだ」と、彼らと対決する姿勢を明確にしている。
何より、幼少期の彼に最も影響を与えたのは、実存哲学の書物ではなくSFだったそうだが、宇宙を舞台に真理の探究とイギリス流の皮肉とナンセンスが交じり合った古典的傑作、ダグラス・アダムス著『銀河ヒッチハイク・ガイド』に人生を救われたようなニヒリストが果たして、筋金入りの長期主義者などになりうるだろうか。マスクは世界で最も大金持ちであり、世界的なコミュニケーションプラットフォームをもち、全世界に対して多大な影響力を有している。しかしその中心には、ゲームコントローラーを握り無邪気にただ戯れている少年がいるように思えるのである。
マスクにとってツイッターとは、心が恋い焦がれる場なのだろう。究極の遊び場なのだ。子どものころ、マスクにとって遊び場とは殴る蹴るのいじめにあう場所だった。子どもの集まる場で感情的にうまく立ち回る器用さなど、マスクには望むべくもなかったのだから。骨の髄まで痛みが染み入り、ちょっとしたことに過剰な反応をするようになってしまった面もあるが、同時に、この体験があったから、マスクは世界に立ちむかえるようになった、必ず最後まで全力で戦い抜くようになったのだ。オンラインでもリアルでも、へこまされた、追いつめられた、いじめられたと感じると、父親にディスられ、クラスメートにいじめられた、あの超痛い場所に心が立ち返ってしまう。その遊び場を自分の手中に収められる日がついに来たのだ。
(『イーロン・マスク 下』, p.210)
マスクは日本時間の2023年7月24日、Twitterの象徴であった青い鳥のロゴを廃止し、運営会社の名前と同じ「X」にブランド名を変更すると発表した。当日のTwitter(現X)のツイートでは「もうすぐ、私たちはTwitterのブランドに別れを告げ、徐々ににすべての鳥に別れを告げることになる」と述べている。Photo Illustration by Rafael Henrique/SOPA Images/LightRocket via Getty Images
次週10月31日のニュースレターは、各界の識者が「これからのつくる」のヒントとなる本を紹介するブックガイドシリーズ「つくるの本棚」第6弾。パフォーマンス空間やギャラリー、カフェなどを備える東京・北千住のアートセンター「BUoY」の代表・芸術監督であり、ラディカルなプログラムで注目を集める岸本佳子さんに、「社会的実験」をテーマに選書していただきました。お楽しみに。
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【書籍詳細】
書名:『WORKSIGHT[ワークサイト]21号 詩のことば Words of Poetry』
編集:WORKSIGHT編集部
ISBN:978-4-7615-0928-6
アートディレクション:藤田裕美
発行日:2023年10月20日(金)
発行:コクヨ
発売:学芸出版社
判型:A5変型/128頁
定価:1800円+税
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イベントでは、ウィトゲンシュタインの洞察をもとに、「しっくりくる/しっくりこない」言葉についてのお話から、ゲーテ、吉岡実、そしてChat GPTまでトークを繰り広げながら、「詩のことば」の秘密に迫ります。
詩を読むのがきっと楽しくなる。詩になじみの薄い方はもちろん、詩が好きな方はお気に入りの詩集を片手に、ぜひお越しください。
【イベント概要】
■日時:
2023年11月1日(水)19:00〜21:00
■会場:
六本木 蔦屋書店SHARELOUNGE内 イベントスペース
東京都港区六本木6丁目11−1 六本木ヒルズ けやき坂通り
■出演:
古田徹也(東京大学准教授)
若林恵(黒鳥社)
■チケット(税込価格):
①書籍+会場参加チケット:3,480円
②会場参加チケット:1,500円
③書籍+オンラインチケット:2,980円
④オンラインチケット:1,000円