他者と経験を分かち合う3冊| 原田裕規・選【つくるの本棚 #5】
これからの「つくる」を考えるべく、各界の識者が本を紹介するシリーズ「つくるの本棚」。第5回は、ラッセンやCGなど広く親しまれている視覚文化をモチーフに、多様な表現活動を行うアーティスト・原田裕規さんが登場。搾取的なスタンスに陥ることなく「他者と経験を分かち合う機会をつくる」ことをテーマに、3冊セレクトしていただきました。
原田さんの語りには、”均衡”という言葉が何度も登場する。
美術業界でアウトサイダーと位置付けられることが多いクリスチャン・ラッセンを、中心/周縁ではない概念から見つめることはできないか。見知らぬ誰かの写真を自身の作品で利用するとき、自分が払う対価はどのようなものであるべきか。遠いハワイの地で移住者たちが継承してきたものを、搾取することなく表現に昇華するには何をするべきか。
それぞれの状況において「対となるもの」を冷静に見つめ、真摯に”均衡”を追い求める姿。それはアートの枠組みをゆうに超え、自分/他者という普遍的な関係性を考え、築く上で大きなヒントになるだろう。
今回の選書にも、そのような原田さんの価値観が存分に反映されている。原田さんご自身による書籍紹介とともに、ぜひ「他者と経験を分かち合う機会をつくる」というテーマについて思いを巡らせてみてほしい。
interview & text by Saki Kudo
photographs by Kaori Nishida
【つくるの本棚 #5「他者と経験を分かち合う機会をつくる」原田裕規・選】
『〈新版〉フジタよ眠れ:絵描きと戦争』
菊畑茂久馬|花乱社
『忘れられた日本人』
宮本常一|岩波書店
『DREAMSCAPES & ARTIFICIAL ARCHITECTURE:IMAGINED INTERIOR DESIGN IN DIGITAL ART』
Gestalten|Die Gestalten Verlag
選書にあたって、ぼく自身のいくつかの作品を例に、美術的な観点について軽く触れたいと思います。
ぼくは大きく3〜4種類の作風の違うプロジェクトを並走させています。最も長く継続しているのが、マリンアートで知られるクリスチャン・ラッセンにまつわるプロジェクト。2012年には「ラッセン展」を共同企画し、2013年には論考集『ラッセンとは何だったのか?:消費とアートを越えた「先」』(フィルムアート社)を上梓しました。
ラッセンを語るとき、”アウトサイダー・アート”という概念がもち出されることがあります。これは、美術の正規教育を受けておらず、美術システムの周縁にいる人たちによって制作された作品のことを指す言葉です。ぼくは、その周縁にある対象を「美術」という制度のなかにいる人間が取り上げるときに、搾取的な関係に陥らないアプローチについて考える必要性を自然と感じるようになりました。
また、ぼくが「心霊写真」と呼ぶ、所有者不明の写真を大量に集めるプロジェクトもあります。その代表作である《One Million Seeings》は、知らない誰かの写真を1枚ずつ、24時間にわたってひたすら見続けるというパフォーマンスを収めた映像作品です。持ち主がいないものを取り扱うことは、欠席裁判のように一方的に「見る」状況を生み出します。一方的に「見られる」写真を映像作品に登場させるにあたり、ぼくが払うべき対価を考えたところ、24時間という長い時間にわたって、自らの身体を拘束する必要があると思いました。
《One Million Seeings》原田裕規, 2019年, 2チャンネルカラービデオ, 24時間5分21秒。作家によって集められた「行き場のない写真」を見届ける様子を記録した映像作品。「行き場のない写真」の「行き場」をつくるための試みでもある。第1作は原田さん自身が出演し、24時間にわたって実施した。2作目以降も、ほとんどの場合で同様の構成をとっている
また、ぼくは2019年からハワイでのリサーチを開始したのですが、そこで出会ったピジン語(ふたつ以上の言語が接触したことで生まれる混成語)に着目したプロジェクトにも取り組んでいます。
19世紀以降、世界中の人びとがハワイへ移り住みました。なかでも日本からの移民者は多く、ぼくの出身地でもある瀬戸内海沿岸地域の出身者がその多数派を占めていました。そこで独自に発展した「ピジン英語」で物語の朗読を試みたのが《Shadowing》という作品シリーズです。
移住者が互いの言葉をなぞり合う過程を、英語学習で用いられる"シャドーイング"に見立てて、ぼくが後から追いかけるように発語する。そのときのぼくの表情の動きをフェイストラッキングし、デジタルヒューマンがその動きをなぞる。現地の方々の継承してきた言葉や伝承を尊重するために、自分が風上に立つような手法は避けたいと思っていました。その結果、このようなアプローチで提示することに決めたんです。
《Shadowing》原田裕規, 2022年, ヴィデオ(QVGA, カラー, サウンド)16分24秒。ハワイ出身の日系アメリカ人をモデルに制作されたデジタルヒューマン/映像作品。ハワイで活躍した作家・歴史家のグレン・グラントが日系アメリカ人から聞き取った民間伝承「オバケ・ストーリー」を、デジタルヒューマンの視点に翻案した上で、その内容をピジン英語化。次に、ハワイ生まれの日系アメリカ人が物語を朗読し、その音声を原田さんがシャドーイング(復唱)。その表情の動きをフェイストラッキングでデジタルヒューマンがシャドーイング(同期)している
ぼくが作品を制作する過程では、自分が優位に立つような手法や非対称的なアプローチではなく、いかにして他者と自分の関係性における"均衡"を実現するか、ということを重視しているといえるかもしれません。
振り返ると、"均衡"という状態そのものに惹かれてきた過去があるように思います。伝統的な彫刻においては、物理的に自立する騎馬像のように"均衡"が保たれたものが美しいとされますし、絵画においてはヴァルール(画面における、色彩の相関関係による「色の価値」)のバランスが重視されるという価値観もあります。
このような”均衡”はいかにして成立しうるのか。それは「他者と経験を分かち合う」方法を考える手がかりにもなるでしょう。そのような観点から、今回は3冊の本をご紹介できればと思います。
イデオロギーの振り子の根元
1冊目は、菊畑茂久馬による『フジタよ眠れ:絵描きと戦争』です。
「フジタ」は、戦前日本の画壇のトップに君臨した藤田嗣治のことです。第二次世界大戦後、戦争画家としての責任を負わされて日本からフランスへ亡命し、レオナール・フジタと改名しました。藤田の戦争画は終戦後にアメリカ軍に接収されて以降、アメリカに保管されることとなり、1970年に無期限の貸出というかたちで米軍から日本に返還され、現在は東京国立近代美術館に収蔵・展示されています。
藤田は画家として一身に戦争犯罪の責任を負ったわけですが、実際には、他にも多くの画家が戦争画に協力していました。しかし、そのほとんどはその後も責任を負わされることなく活動を続けました。ですから戦後の日本の美術家たちにとって、戦争画というのは耳が痛い、できれば忘却したい亡霊のような存在だったんです。この黙殺されていた戦争画をどう語るのかを考えて書かれたのが、菊畑茂久馬の『フジタよ眠れ:絵描きと戦争』でした。
『〈新版〉フジタよ眠れ:絵描きと戦争』(菊畑茂久馬|花乱社)。終戦後長らく忌避されてきた藤田嗣治たちの戦争画に接近し、画家である菊畑自身の幼少期の戦争画への陶酔の記憶に触れつつ、政治的イデオロギー以前の根本にある絵画表現について批評する
もちろん当時、まったく戦争画が語られていなかったわけではありません。ただそこには一定のパターンがありました。戦争画を「正当」に批判する立場にある画家や評論家たちが戦後、「ほら見ろ、あれは良くないと言っただろう」と全面的に断罪するという流れです。
一方で、この本の著者であり、戦時中に子ども時代を過ごした画家の菊畑は、幼少期に戦争画に強く魅了されたという個人的な経験から話を始めます。
しかし、かつて戦争中、絵の好きな一人の少年が見上げたあの大画面のふるえるような感動の意味を、多少考察が粗略になるとしても、今わたしはどうしても問いたださなければならないのである。
(『〈新版〉フジタよ眠れ:絵描きと戦争』菊畑 茂久馬, 2021年, 花乱社, p.13)
戦時中の大政翼賛的な思想と、戦後にイデオロギーから戦争画を全面的に断罪する思想。戦争画の「賛美」と「断罪」はこの振り子の両極を行ったり来たりするわけですが、菊畑はその根元にある「表現」に立ち戻らないといけない、ということを話しています。イデオロギーの振り子に依るのではなく、不透明な主体である自分自身の内省的な語りとして、幼少期の経験を持ち出しながら戦争画に向き合う姿勢が、菊畑の『フジタよ眠れ』のなかの語りから読み取れるのではないでしょうか。
責任を負う不透明な主体
2冊目は民俗学者・宮本常一の代表作『忘れられた日本人』です。今年、山口県周防大島にある日本ハワイ移民資料館で個展『やっぱり世の中で一ばんえらいのが人間のようでごいす』を開催したのですが、そのなかで展示した《Shadowing》シリーズの編集過程では、宮本常一が書いたテキストやインタビューの語りを参照しました。
(上)『忘れられた日本人』(宮本常一|岩波書店)。日本全土を歩いて各地の伝承を調査した民俗学者・宮本常一による代表作。項目や語彙を中心にして採集される民俗とは異なり、日本の周縁に暮らす人びとの営みを、老人たちをはじめとする人びとのライフヒストリーから描き出している。(下)山口県周防大島にある日本ハワイ移民資料館で開催された個展『やっぱり世の中で一ばんえらいのが人間のようでごいす』の記録動画。周防大島とゆかりの深い「ハワイ移民」や島出身の民俗学者・宮本常一の著作をモチーフとした映像作品シリーズ《Shadowing》が発表された
宮本は市井の高齢者たちへの聞き取りに力を注いでいましたが、有名なものに、土佐に生きた博労の男の生と性の遍歴を描いた「土佐源氏」があります。
聞き取り、つまりインタビューを行うとき、インタビュアーの存在は透明なものとして扱われることが多いですよね。それは、読者にとっては聞き手の話より語り手の話のほうが重要だから。でも、「土佐源氏」の冒頭の場面は違います。
「あんたはどこかな? はァ長州か、長州かな、そうかなァ、長州人はこのあたりへはえっときておった。長州人は昔からよう稼いだもんじゃ。このあたりへは木挽や大工で働きに来ておった。大工は腕ききで、みなええ仕事をしておった。
時にあんたは何が商売じゃ? 百姓じゃといいなさるか、百姓じゃァあるまい、物いいがちがう。 商売人じゃないのう。まァ百姓でもええわい。わしの話をききたいといいなさっても、わしは何にも知らんのじゃ、何にもなァ。ばくろうしておったから牛や馬の事なら知っとる。しかしほかの事は何にも知らん。
どうして盲目になったといいなさるか。盲目にのう、盲目になって、もうおっつけ三十年が来る。ごくどうをしたむくいじゃよ。まァ、ずいぶん極道しよったでのう。 極道がすぎて、まともなくらしもようせなんだ。
あんたは女房はありなさるか。女房は大事にせにゃァいけん。盲目になっても女房だけは見捨てはせん」
(『忘れられた日本人』宮本常一, 1984年, 岩波書店, p.131-132)
この場面では、語り手の老人がインタビュアーの宮本に「お前はどういうものか」と尋ねることで、聞き手である宮本の姿が描写されています。宮本自身が不透明な主体としてしばしば登場するのです。そのせいか若干フィクションのような印象を受けることも。実際に、宮本の聞き書きの一部は創作ではないか、とも指摘されています。
ぼくは、『忘れられた日本人』に収録されている「梶田富五郎翁」の、梶田翁への聞き取りをした際のノートブックが残っているということで、周防大島にある宮本常一記念館を訪ねたことがありました。現物のメモに書かれていたのは、そのおじいさんが何年何月にどこを訪れたかなど、箇条書き的な情報だけ。それなのに「梶田富五郎翁」のテキストには、梶田翁の豊かな語りが記述されています。もちろん記憶に頼って書いた部分もあるかもしれませんが、語りをすべて正確に記憶していたとはやはり思えない。だからなのか、この本自体も読者から半分創作として読まれているようなところがあります。
そのような創作混じりの書き方が事実上許容されているのは、記述の責任者がはっきりしているからかなと思っています。先ほどの菊畑茂久馬もそうなのですが、記述の責任主体が明確に示されているんです。文化人類学などの領域では、エスノグラフィーの書き手の責任を問うという行為は自明のことかもしれませんが、美術の世界ではまだ共通認識といえないところがあります。
聞き手である宮本が登場人物としてテキストのなかに登場するという表現は、つくる主体として語り手の話を引き受けるという態度の表明とも受け取れるのではないでしょうか。
この作品はフィクションです
先の2冊は、語り手と聞き手の言葉やテキストをどう扱うかという問いに関わるものでしたが、最後に紹介する本は、視覚的な情報を人と共有するときに問われる倫理に関係するものです。
『DREAMSCAPES & ARTIFICIAL ARCHITECTURE:IMAGINED INTERIOR DESIGN IN DIGITAL ART』(Gestalten|Die Gestalten Verlag)。現実とファンタジーの間を漂う夢のような風景や、非現実的な建築物のCG作品を集めたビジュアルブック。物理的制約をもたない空想の世界を、意図的なCG技法によって描くデジタルアーティストの作品が収められている
『DREAMSCAPES & ARTIFICIAL ARCHITECTURE:IMAGINED INTERIOR DESIGN IN DIGITAL ART』は、タイトルの「Dreamscapes」(=夢の風景)が示すように、架空の風景や建築物の画像が連綿と連なる、CG作品のビジュアルブックです。CGといえば建物などの完成予想図を描くために用いられることがありますが、この本に収録されている作品はすべて、CG技術を視覚表現として使っています。
絵画や写真などはメディア(絵の具や印画紙)そのものに触ることができますが、CG作品の場合、モニターに触れることはできてもCGそのものに触れることはできませんよね。この「触ることができない」という特徴に自己言及するようなCG作品が2010年代後半から世界的に増加し、2020年頃より「レンダリング・ポルノ」と呼ばれるようになりました。
2020年春、インスタグラムに投稿された邸宅「ヴィラ・サラチェーニ」の画像。デザイナーのリカルド・フォルノーニとシャーロット・テイラーがレンダリングソフトで制作した、現実には存在しない建物だ。シュルレアリスム作品のような奇妙さを擁しながらも、どこか癒やしすら与えるデザイン画像は「レンダリング・ポルノ」と呼ばれるようになった。この潮流を受け、原田さんは架空の風景が延々と映し出される作品《Waiting for》を制作。この作品では、レンダリング・ポルノに通じる「揺らぎ」や「ざわめき」の感覚にフォーカスしている
CG作品では伝統的に、見る人にそれをCGだと認識させないための仕掛けが施されてきました。カメラのモーションブラー(手ブレ)のぼかし表現などもそのひとつ。ぼく自身の経験だと、子どもの頃に遊んだ『バイオハザード2』というテレビゲームで、ある場所からカメラに向かって発砲すると、画面にバリン!という音とともに穴が開く描写がありました。それによってプレイヤーはゲームの世界と現実の世界がつながっているような衝撃を受けるのです。
そのような仕掛けは人を騙す目的で用いられてきたのですが、この本には一見して「現実の風景ではないな」「これはCGだな」とわかる作品が並んでいる。それはつまり、制作者側が「わたしが見せているのはCGです」と自白しているということです。
こうしたレンダリング・ポルノを見ていると、先ほどの宮本常一のフィクションが入り混じった話を、半分創作であると自覚しながら読む感覚に近いものを感じます。CGの特性を意図的に使うことで、誰かの脳内のビジョンであると意識しながら見る、というメタ的な視点が鑑賞者に備わるような表現の仕方ができるのかもしれません。
しらふの鑑賞者
「他者と経験を分かち合う」というテーマに立ち返ると、つくる主体、すなわち作者にとっての"他者"には、美術の外のモチーフ──ラッセンの絵や、インタビュアーの語り手などの存在に加えて、当然それらの作品の受け取り手である、鑑賞者や読者の存在もあります。
こうした受け手の人びとが、作品の世界に没入したいという欲求をもってアクセスしてきたとき、それに自覚的に応えるコンテンツは世の中に数多く存在します。でもそこで没入することは、受け手がコンテンツに酔っ払ってしまっている状態ともいえるのではないかと思います。
ぼくが作品を通して取り組んでいるのは、こうした没入状態の逆で、鑑賞者が常に醒めてしまうような状態、作品の世界から締め出されているような感覚をつくることです。自分はいま何を見せられているのか、何を読まさせられているのか──それを常に意識させられる状況が、特にセンシティブなモチーフを使うときに必要な態度ではないかと考えています。
美術の外にいる"他者"を作品のなかに呼び込む上で、立場の均衡を考えること。そして、作品を受け取る"他者"が自覚的に醒めた状態で鑑賞できる状況をつくること。評論、聞き書き、視覚表現などの異なる領域で、それらの「他者と経験を分かち合う」実践に成功しているのではないかと思われた魅力的な先行例が、今回紹介した3冊の書籍です。
原田裕規|Yuki Harada 1989年山口県生まれ。2016年東京藝術大学大学院美術研究科修士課程先端芸術表現専攻修了。とるにたらないにもかかわらず、社会のなかで広く認知されている視覚文化をモチーフに作品を制作している。2019年以降は断続的にハワイに滞在し、「ピジン英語」に代表されるトランスナショナルな文化的モチーフに着目。近年の個展に『やっぱり世の中で一ばんえらいのが人間のようでごいす』(日本ハワイ移民資料館、2023年)、『Unreal Ecology』(京都芸術センター、2022年)、『Waiting for』(金沢21世紀美術館、2021年)。近刊予定の単著に『とるにたらない美術』(ケンエレブックス、2023年)など。https://www.haradayuki.com/
次週10月3日は、9月13日に世界同時発売された、イーロン・マスク初となる公式伝記『イーロン・マスク』上下巻に関するスペシャルニュースレターをお届けします。お楽しみに。
書籍『WORKSIGHT[ワークサイト]20号 記憶と認知症 Memory/Dementia』
わたしたちは他者と記憶を共有している。だからこそ集団のなかで大きな物語を描くことができ、他者から自分であることを認められ、自らの生活を営むことができている。認知症をもつ人を抱えた高齢化社会、国家や地域社会の衰退による集合的記憶の喪失など、「記憶の共有」をめぐる社会問題が浮上しつつあるいま、オランダとフランスでオルタナティブな社会実践を試みる、認知症や精神疾患のケアの現場等を本誌編集長が取材。約90頁にわたる取材旅行の省察と見聞録のほか、ルネサンス期の情報爆発と記憶術を研究する桑木野幸司氏、レバノン内戦の都市の記憶とその傷跡をテーマに音楽作品を制作したベイルートの音楽家・建築史家メイサ・ジャラッド氏へのインタビュー、記憶をめぐるブックガイドを収録。記憶と認知症を手がかりに、来るべき社会のための態度や今日的な問いについて思索する。
■書籍詳細
書名:『WORKSIGHT[ワークサイト]20号 記憶と認知症 Memory/Dementia』
編集:WORKSIGHT編集部
ISBN:978-4-7615-0926-2
アートディレクション:藤田裕美
発行日:2023年8月25日(金)
発行:コクヨ
発売:学芸出版社
判型:A5変型/128頁
定価:1800円+税