お金は普遍になりすぎた:ローカルな価値が反映されるマネーを構想する【RadicalxChangeマット・プルーウィット論考】
市場に参加する人びとの意思決定を通じて形成される"価格"。市場のグローバル化が進む現代では、購入者の知識や意思にかかわらず価格が形成されていくため、その情報のなかに大きな歪みやノイズが入っている。お金という精妙な社会的制度をより良いものにするためには、どのような方法が考えられるだろうか。RadicalxChange財団のプレジデント、マット・プルーウィット氏が思案する、お金の新しい使い方。
中世の農業、1340年頃。Photo by SSPL/Getty Images
text by Matt Prewitt
translation by Kei Wakabayashi
10歳のとき、世界の問題を解決するために自分だったら何をするかを作文にまとめろと先生に言われた。この世の諸悪の根源はお金にあると考え、「お金を禁止する」と、その作文で宣言した。ぎこちない文章ではあったが、いま書きつつあるこの文章もぎこちないような気がしないでもないので、この文章もまた最大の謙虚さをもって書いている。お金という極めて精妙にして際立ったこの社会的な制度をよりよくするためにやるべきことは、まだまだたくさんある。
お金は、リアルな問題だ。ケインズ信奉者からビットコイン信者に至るまで、わたしたちが価値を測定し、貯蔵し、交換するやり方は、よく言っても欠陥があり、悪く言えば破綻していることを認めている。言語や政府といったものと比べても、お金は理想のあり方から、はるかに遠い。であればこそ、プログラム可能な貨幣の時代に生きることはエキサイティングだとも言える。つい最近まで想像すらできなかったようなやり方で、お金をめぐる制度を解体し再構築することができるのだから。お金のイノベーションにおいて、ブロックチェーン技術が登場したこの10年で起きたことには、正直がっかりさせられてきた。けれども多くの可能性が、ようやく見え始めてきたばかりでもある。
このエッセイでは、コミュニケーション・テクノロジーとしてのお金を捉えることを提案する。ついで、不換紙幣やビットコインとは異なる、より豊かで複雑な世界のための、新しく優れたお金のあり方を生み出すための道筋をいくつか描いてみたい。
お金は言語なり
お金はコミュニケーション技術だ。それは、人びとがメッセージを送るために使うという点で、言語や民主主義、法律、電話網に似ている。
ミルトン・フリードマンが鉛筆の例を使ってこのことを指摘したのはよく知られている。鉛筆がどうつくられているかよく考えてみることを彼は促す。鉛筆をつくるには木を伐採しなければならない。そのためにはしっかりした鋼鉄製のノコギリが必要だ。そのためには鉄鉱石が必要となる。鉛筆に塗られる塗料、お尻につける消しゴム、細かく加工された黒鉛、接着剤、消しゴムを木にくっつける金属片なども必要だ。1本の鉛筆というささやかな奇跡をもたらすのは、八面六臂の職人芸ではなく、単なる価格メカニズムで、それを通じて、世界中の会ったこともない(どころか、フリードマンに言わせれば、憎み合っている可能性さえある)人びとが、協力し合っているのである。
オーストリア学派の経済学者フリードリヒ・ハイエクとルートヴィヒ・フォン・ミーゼスも同様に、経済を情報システムとして捉え、そこでは、人びとが主観的にいつ、どこで、何を、どれだけ必要としているかという膨大なデータを統合するために価格というものが利用されていると考えた。これらの思想家たちと相入れないところはあるものの、経済を価格メカニズムに基づいた情報処理システムとして捉えることには同意だ。お金は、わたしたちが経済を通して人と関わり合う際に、対話し、お互いを理解し合うための言語なのだ。
言語は不完全である
他のあらゆる複雑な情報処理装置と同様、経済の情報出力は、入力されたものに比べて何らかのかたちで圧縮されるか、減少させられてしまう。これはエントロピー、つまり無秩序は時間とともに増加するという鉄壁なる熱力学第二法則と関わるもので、情報理論の基礎に置かれている原理でもある。
こう言ってしまうと、何やら抽象的な話に聞こえるが、考え方は単純だ。夕陽の写真はいつも何かを撮り逃している。言葉はメッセージを完全に伝えることができない。地図は描かれている実際の土地よりも少ない情報しかもたない。情報処理とはそういうものだ。写真、言葉、地図は、要約することでしか伝えられない有益な情報を取り出してくれる。けれども、わたしたちは要約のもつ限界を理解し、その限界と向き合うことでしか、真の意味で前には進めないことを心しなくてはならない。写真家がより良いカメラを求め、言語が進化し、地図製作者の仕事に終わりがないのはそのためだ。
お金もまた、それが情報を運ぶものであるならば、この普遍的な法則から免れることはできない。問題とすべきは、お金がメッセージを混乱させているのかどうかではなく、どのように混乱させているのかだ。
公的資金の徴収や支払いをする役人たち。Photo by Universal History Archive/Universal Images Group via Getty Images
お金が伝える情報
カメラは絞りを通して情報を受け取り、画像を形成する。市場は、人びとが物を売買する、あるいは保留するという意思決定を通じて情報を受け取り、価格を形成する。とはいえ、こうして価格を形成する意思決定にはいったいどのような情報が含まれているのだろうか。価格において、伝わるべき情報が伝わっていなかったり、伝える必要のない余計な情報が伝わってしまっているようなことはないのだろうか。もしそうしたことが起きているなら、わたしたちは、それを信号の歪みやノイズと捉えることができる。そして、レンズがより鮮明な画像に写すのを助けるように、異なる種類のお金が存在することによって、より良い情報を捉えることができるようになり、より良い経済を生み出す助けを得ることができるようになるかもしれない。
売る、買う、保留するといった行動を市場で取るとき、わたしたちは常にほかの選択肢を考慮している。例えば、「a:5000ドルの現金」と「b:美しいアンティークのテーブル」のどちらを手に入れたいか。賢い選択を行うためには、自分以外の人のことを考慮することになるため、この選択は想像以上に複雑だ。例えば、わたしはいま5000ドルがどうしても必要かもしれないし、テーブルが嫌いかもしれない。
けれども、もしそのテーブルに7500ドルを支払ってもいいと考える人が市場にいることがわかれば、わたしの判断は変わってくる。2500ドルの利益を目当てに、わたしは自分が「5000ドルよりもテーブルを望む」というメッセージを市場に送ることになる。とはいえ、実際はわたしは5000ドルに対してテーブルを選んだのではなく、単に5000ドルよりも7500ドルのほうを選んだだけなのだ。
もしわたしたちが、世界中の入札者のなかの最高入札者がいくら支払うのかという情報を、価格というものが表してくれることを望むなら、このプロセスは効率がいいように見える。しかし、別の見方をすれば、ここにはノイズが多く、無駄が多い。結局のところ、市場に参加する人たちはみな、他人のことよりも自分のことをよく知っている。であればこそ、わたしたちは、市場には、自分を含めたあらゆる参加者たちにとって有利な個別的で特別の情報を集めてほしいと願う。 つまり、あなたにとって、テーブルはいくらであってほしいのかという情報だ。けれども、そうする代わりにグローバル市場は、世界で最も裕福なテーブル愛好家がそれにいくら払うかを推測し、その情報をあなたが売買を決定する際に参照することを求める。
別の言い方をするなら、グローバル市場はわたしたちに、わたしたちが特別に知る立場にないことについて考え、判断することを求めているのだ。これは、わたしたちが経済に参加し、意思決定するにあたっての大きな認知的負担となっている。と同時に、このメカニズムは、価格シグナルから他の情報をかき消してしまう。すべての人が市場に参加しているにもかかわらず、市場は、すべての人がモノの価値をどう考えているかを知っているわけではない。市場が知りうるのは、最も高値をつけた入札者の考えだけなのだ。
オーストリア学派が金を好む理由
ここまでの議論は、オーストリア学派の経済学者が、金(あるは現在であればビットコイン)を支持している理由と一部合致している。オーストリア学派によれば、鋳造しにくい貨幣は、貯蓄を簡単にすることで、人びとの認知的負担を軽減する。逆に、鋳造しやすい貨幣はインフレの恐れがあるため、人びとに貯蓄ではなく、投資することを促す。ただお金を貯めこんで将来の計画を練ることよりも、世界的な高値入札者がこの先、ハイテク株やユーロや海辺の不動産といったものにいくらの値をつけるのかを推測し、「市場で勝負」することを求めるのだ。これは分業制というものをめぐる問題でもある。つまり、例えば音楽が得意な人は、せっかく稼いだお金を失わないために、素晴らしい音楽をつくる時間を削って、不慣れな資産運用に時間を割かなければならないということだ。
とはいえ──わたしとザルツブルクの一派はここで袂を分かつことになるのだが──他の人がこの先何を欲しがるかを真剣に考えるよう市場が参加者全員に求めることは、必ずしも悪いことではない。社会全体の資本配分の問題へと分散化された知能を振り向けるという意味で、みなが自分の認知的な帯域の一部をそこに割り当てることには意味があるだろう。
ところがオーストリア学派は、特別な知識もないのに複雑なことを評価しなければならないのは無駄だと考える。厄介なのは、不換紙幣が支配するグローバル市場は、わたしたちにそうした評価を行うことを常に求め続けていることだ。けれども、だからといって誰もが金やビットコインのようなハードマネーを蓄える世界に逆戻りすることは、個人主義、他者の資本ニーズに対する無関心、複合的な権力集中という正反対の極へと振り子を戻してしまうことにもなる。
本当の問題は、一人ひとりの個人と、価格を決定するグローバルな(あるいはその他の巨大な)市場環境との間の規模の差なのだ。個人の関心領域の大きさと市場の広大さの間にあるスケールの隔たりは、人びとが市場に提供する情報をノイズの多いものにしてしまう。
けれども、その市場がグローバルではなく、ローカルな観点から価格を評価するようインセンティブ化されていたら、状況はまったく違ってくる。そうすることによって、売り買いを決定する際の意思決定は、グローバル市場全体が必要としているものではなく、自分たちや自分たちの地域が必要としているものだけを考慮するものとなる。地域社会はわたしたちにとって身近な存在だ。そして、わたしたちは地域社会について固有の特別な知識をもっている。
1490年頃、ギリシャのロドス島の首都ロドスの風景。古来より政治的・軍事的・経済的に重要な中継都市として発展し、オスマン帝国時代にはイスタンブールとカイロ間の円滑な商品流通に寄与した。 {{PD-old}}
代替通貨の将来性
このことは、地域通貨の魅力を説明するのに役立つ(その一方で困難もあるのだが、それは後述する)。グローバルではなくローカルに流通する通貨は、レンズのように市場参加者の焦点面を曲げ、よりノイズの少ない情報を集めることを可能にする。ローカル経済に参加する人は、マンハッタンにいる専門家があるアンティークのテーブルをいくらで買うかを推測する必要はなくなり、そのテーブルが自分にとって、あるいは自分の知り合いにとっていかほどの価値があるかを考えるだけで済む。
人びとの関心をこのようにシフトさせることで、より健全で自立的な経済コミュニティが生まれる可能性が生まれる。これによってグローバルな貿易ネットワークが消え去ることはないにせよ、地域通貨やコミュニティ通貨は、補完性の原則(意思決定は、それが影響を与える人びとの最も近くで行われるのが望ましいとする考え方)に従って、少なくとも新たなレイヤーをつくり出し、グローバル経済に豊かな質感を与えることができる。
それぞれの地域にとって有意義な情報を価格に反映させることによって、グローバルな取引とは対照的に、ローカルな取引が促進されることになる。例えば、オハイオ州やネパールにいる有能なプロフェッショナルは、似たような少数のグローバル・エージェンシーから得たリモート・ワークだけに我慢することなく、地元企業で働くことで地元経済の活性化に貢献できるようになるかもしれない。
また「地域通貨」は、必ずしも地理的なものに限定される必要もない。多くの通貨ネットワークが交差し、さまざまなやり方で定義されたコミュニティのなかで運営されていることを思い描くことも可能だ。
こうしたローカル経済圏が、果たしてどれだけの富を生み出すかを見積もることは難しいが、こうして価格情報の質を体系的に改善することが大きな意義をもつことは明らかだ。にもかかわらず、それがいまだ実現しないのは、なぜなのだろう。少なからぬプロジェクトが有意義な成果を上げているものの、ここまで語ってきたようには経済に革命をもたらすには至っていない。ERC-20トークンを容易につくることができるようになったにもかかわらず、なぜコミュニティ通貨のブームが起きないのだろう。
「出国=イグジット」という問題
地域通貨は、これまでも絶えず深刻な逆風にさらされてきた。なぜなら、人びとはそれなりの額の地域通貨を蓄えると、より普遍的なお金と交換したくなる傾向があるからだ。実際に交換しなかったとしても、人びとは常にこう考える。「わたしが貯めているお金はいま、いったい何ドルになるんだろう」。
これは当然のことだ。わたしたちはドルを、それを稼いだ場所に限らず、どんな場所でも使うことができるからだ。あるコミュニティで稼いだドルを、より多くが買える別のコミュニティにもっていくことで、わたしたちは個人としてより豊かになったと感じることができる。そして、たしかに交易は利益をもたらす。
けれども、最初に蓄財が発生したコミュニティから見れば、これは風船から空気が抜けていくにも等しい。地域通貨が真に地域経済として維持できるのは、人びとが資本をもって出て行ってしまうのを防ぐことに成功した場合のみである。
言い換えれば、地域通貨がグローバル経済よりも多くの情報を把握するためには、ドルやビットコインを基準にするのではなく、人びとが常に地域通貨を基準にしてグローバル経済を考えるようになる必要がある。これによって、わたしたちの認知的負担は増えるように思えるかもしれない。けれども、ローカル経済においては、世界の反対側にいる見知らぬ人の意思を考慮する必要がないため、あらゆるものの価格設定がよりシンプルにもなるのだ。
問題は、どうすればそれを実現できるかだ。
価値観、インセンティブ、出国税
地域通貨を利用する重要な動機づけは、地域通貨が価値観の共有になるという点だ。コミュニティ通貨を受け入れることは「支援」のシグナルとなる。それを利用することは、帰属意識のシグナルともなる。そしてコミュニティ独自の価値は、結果として経済に反映されることになる。
とはいえ、グローバル経済の誘因という荒風に対抗して、固有のローカルな情報が、共有された特別な価値観の表現であることを維持し続けるためには、そのシステムから資本を引き出すためのコスト(直接的コストか明確な機会コスト)が必要となる。また、そうしたコストに対する見返りは、それがいずれ値上がりするという投機的な信念以外のものである必要がある。
既存のテクノロジーや新たなテクノロジーによって、通貨ガバナンスの実験がこれまで以上に迅速に行えるようになるはずだ。そこで重要なのは、地域通貨やコミュニティ通貨のシステムが選択的な半透明性をもっていることだ。効率的な内燃エンジンのようにエネルギーを内部に貯めておきながらも、輸送タンパク質をもった細胞膜のように呼吸し、外部の経済システムと賢く相互作用できるようにしておくこと。これをいかに実現するかについては、ふたつのインセンティブ構造を考えることができる。
ひとつ目は、通貨を、コミュニティが共有する資産にアクセスできる唯一の通貨としてしまうことだ。これによって通貨を保有しておく理由が生まれる。これらの資産には次のようなものが考えられる。
デジタル部分共有トークン(Digital partial common ownership tokens):あるコミュニティが、不動産、産業設備、計算能力など、現実世界の共有資産のプールを蓄積したとする。それらの資産を利用する権利(米ドルといった他の通貨で二次的に利益を得るためにも使用できる)を得るには、コミュニティ通貨を使用し、その資産をコミュニティから「借りる」(もしくは、SALSAの権利を購入する)必要がある。
コミュニティの二次的資金調達(Community quadratic funding/公益のためにお金を分配する数学的に最適な方法):独自の通貨をもつコミュニティは、参加するためにはコミュニティ通貨が必要となる二次的資金調達プロセスを運営することができる。これによって、共有されたコミュニティ資金を、自分が選択した公共財に配分するために利用することができる。
そしてふたつ目が「出国税」だ。これは、社会的に遠いコミュニティやより豊かな地域コミュニティへと資本を移転する際に、現行のコミュニティに対して、より高い手数料を支払わなければならない税だが、これについては以前別の記事でそのアイデアを素描したことがある。E・グレン・ワイル、プジャ・オールヘイヴァー、イーサリアムの創設者であるヴィタリク・ブテリンが最近の論文で説明したSoulBoundトークンに基づくアイデンティティ構造には、こうした税金を充実させるためのデザイン可能な余地を備えている。これについてはまださらなる研究が必要だが、一般的にいえば、こうした出国税は、ほとんどの人がコミュニティから資金を持ち出すことをあまり考えない程度には高額で、かつ明らかに有益な外部取引が継続して発生しうる程度には安いものとして設定される。また、これらの税金は、資本を持ち出すことの一方的な決定についてのみ適用されるべきだろう。 共同体は、委任された、あるいは民主的な意思決定を通じて対外的な経済関係について、臨機応変に意思決定できるよう制約をかけないほうが望ましい。
お金は普遍的になりすぎた
結局のところ、お金は完璧なものではない。それは歴史を通じて絶えず変化し続けてきたものであり、改善可能なテクノロジーだ。わたしたちが現在お金に失望しているのは、それが、あまりにも普遍的になってしまったせいだ。それは、富の本当の源泉であるコミュニティから、わたしたちの関心を遠ざけてしまう。新しいテクノロジーがもたらす最大の可能性は、人びとが地域社会から「出国」するのを助けることではなく、人びとが地域社会にコミットするのを助けるところにある。それによって世界はより豊かになるだけでなく、より多元的(pluralistic)なものになりうるのだ。
中世イングランドの農村風景を描いた木版画。15世紀の作品。Photo by Universal History Archive/Universal Images Group via Getty Images
*原文:Matt Prewitt. “Matt Prewitt: Let’s Use New Forms of Money to Commit to Our Communities”, CoinDesk, May 12, 2023
マット・プルーウィット|Matt Prewitt サンフランシスコのベイエリアに育ったのち、ブラウン大学を経て、ミシガン大学法科大学院で法学博士を取得。ニューヨーク州南部地区連邦地方裁判所で裁判所書記、法律事務所で弁護士、暗号通貨専門の投資会社で研究員などを務めたのち、2018年よりRadicalxChangeに参加。翌19年にプレジデントに就任。Noema Magazineのコントリビューティング・エディターも務める。
次週9月26日のニュースレターは、各界の識者が「これからのつくる」のヒントとなる本を紹介するブックガイドシリーズ「つくるの本棚」第5弾。登場するのは、ラッセンからCGまで広く親しまれる視覚文化をモチーフに、パフォーマンスから執筆まで多岐にわたる表現活動を行うアーティスト・原田裕規さん。「他者と経験を分かち合う」をテーマに、原田さんの美術へのスタンスが反映された3冊をご紹介いただきます。お楽しみに。
【WORKSIGHTのイベント情報】
© TS Productions, France 3 Cinéma, Longride–2022
映画『アダマン号に乗って』上映会&アフタートーク
『WORKSIGHT[ワークサイト]20号 記憶と認知症 Memory/Dementia』の刊行を記念し、同書で取り上げた映画『アダマン号に乗って』の上映イベントを9月29日(金)に開催いたします。
本誌の巻頭企画「記憶をめぐる旅の省察」にて取り上げた、フランス・セーヌ川に浮かぶデイケアセンター「アダマン号」。精神疾患と向き合う入居者の日常を、現代ドキュメンタリーの名匠ニコラ・フィリベール監督が優しい眼差しで映し出した映画『アダマン号に乗って』は、第73回ベルリン国際映画祭にて金熊賞を受賞したほか、世界各国で絶賛されています。
イベントでは同作の上映後、アダマン号の取材に同行したWORKSIGHTコンテンツ・ディレクターの若林恵が登壇。参加者の皆様の感想をうかがいつつ、実際にアダマン号を見学したときの印象、本誌未掲載の取材の裏話、また、今後求められるケアの形について考えたことなどをお話しします。
皆様のご参加をお待ちしております。
■日時
2023年9月29日(金)19:00 - 22:00
■タイムテーブル
18:30 - 開場・受付開始
19:00 - 20:50 映画『アダマン号に乗って』上映(109分)
20:50 - 22:00 アフタートーク
■アフタートーク登壇者
若林恵(WORKSIGHTコンテンツ・ディレクター)
宮田文久(WORKSIGHTシニア・エディター)
■開催場所
ツバメスタジオ/Tsubame Studio 3階(東京都中央区日本橋小伝馬町13-2)
■参加費
入場券:1,500円(税込)
書籍付き入場券:2,980円(税込)
■定員
30名
■主催
WORKSIGHT/黒鳥社
■協力
ロングライド
書籍『WORKSIGHT[ワークサイト]20号 記憶と認知症 Memory/Dementia』
わたしたちは他者と記憶を共有している。だからこそ集団のなかで大きな物語を描くことができ、他者から自分であることを認められ、自らの生活を営むことができている。認知症をもつ人を抱えた高齢化社会、国家や地域社会の衰退による集合的記憶の喪失など、「記憶の共有」をめぐる社会問題が浮上しつつあるいま、オランダとフランスでオルタナティブな社会実践を試みる、認知症や精神疾患のケアの現場等を本誌編集長が取材。約90頁にわたる取材旅行の省察と見聞録のほか、ルネサンス期の情報爆発と記憶術を研究する桑木野幸司氏、レバノン内戦の都市の記憶とその傷跡をテーマに音楽作品を制作したベイルートの音楽家・建築史家メイサ・ジャラッド氏へのインタビュー、記憶をめぐるブックガイドを収録。記憶と認知症を手がかりに、来るべき社会のための態度や今日的な問いについて思索する。
■書籍詳細
書名:『WORKSIGHT[ワークサイト]20号 記憶と認知症 Memory/Dementia』
編集:WORKSIGHT編集部
ISBN:978-4-7615-0926-2
アートディレクション:藤田裕美
発行日:2023年8月25日(金)
発行:コクヨ
発売:学芸出版社
判型:A5変型/128頁
定価:1800円+税