「間離化せよ」とロズニツァは言う:現代美術家・藤井光が語るスターリン・ウクライナ紛争・正義
カンヌなど国際映画祭常連にして受賞も多い一方、観客を困惑させ続ける現代映画の旗手セルゲイ・ロズニツァ。ロシア・ウクライナ問題に世界が揺れ動くなか、独自の視点から「現代」を抉るロズニツァ映画に強い関心を抱く、日本の近現代を鋭く問うてきた美術家・映像作家の藤井光。懇意の民俗学者・畑中章宏、そしてWORKSIGHT編集部との対話から、一筋縄ではいかないロズニツァの作品世界を掘り下げてもらった。
セルゲイ・ロズニツァ監督作、映画『ドンバス』より ©︎MA.JA.DE FICTION / ARTHOUSE TRAFFIC / JBA PRODUCTION / GRANIET FILM / DIGITAL CUBE
セルゲイ・ロズニツァという人物の立ち位置の説明は、一筋縄ではいかない。1964年にベラルーシで生まれウクライナに育ち、全ロシア映画大学で学び、その後ベルリンを拠点とし、現代映画の第一人者となった。そんなロズニツァは2022年2月、ロシアへの直接的な批判を行わなかったヨーロッパ映画アカデミーを脱退。しかしその直後の3月、ロシア映画のボイコットを世界に呼びかけるウクライナ映画アカデミーを批判し、追放された。
既存の認識の枠組みから身を引きはがすようにして制作を続けるのは、藤井光も同様である。例えば近現代日本のナショナリズムに付随してきた暴力性を、一概に批判するのではなく「再現・再演」するワークショップや映像インスタレーションは、幾重にも張り巡らされた問題意識の賜物だ。編集者の立場として藤井の図録を手がけた経験のある畑中章宏とともに、ロズニツァ映画から見える“現在”を語り合った。
interview and text by Akihiro Hatanaka/Kei Wakabayashi/Fumihisa Miyata
photographs during interview by Shunta Ishigami
「正義」に安住しない映画
畑中 わたしがセルゲイ・ロズニツァという映画作家の作品を観なければならないと思ったきっかけは、旧知の仲だった藤井さんがFacebookでロズニツァの『ドンバス』(2018年)について投稿していらしたからなんです。ロシア・ウクライナ間で戦火が上がったことを受け、日本では2022年5月から緊急公開された作品ですね。
藤井 『ドンバス』は試写で観まして、感想を投稿したのが5月の中頃のことですね。
畑中 藤井さんは、世界中に広がる「正義」のなかに安住することは、むしろ「忘却と無関心を加速させないでしょうか」と問い、『ドンバス』における「ロズニツァ監督のグロテスク・リアリズム」は「憎悪と暴力の傍観者として、私たち人間の精神に潜む自らの邪悪さを顕在化させる」とも書きながら、こう文章を締めくくっていました。
この映画に居心地のよい「正義」のポジションは残されていません。現在のロシアによるウクライナ侵攻の縮図であり、同時に、社会の崩壊を作り出す極限状態に陥った人間の本性を映すのです。忘却と無関心への抵抗は、「正義」の情報化ではなく、あらゆる日常に潜む私たち自身の醜悪な人間性を問い直す「記憶化」のプロセスの内にあるのではないのでしょうか。
藤井 わたしがこれまで観てきたロズニツァ作品は、数が限られてはいるんですよ。日本では《群衆三部作》と名づけられ、ロズニツァ受容の先駆けとなった『国葬』(2019年)、『粛清裁判』(2018年)と『アウステルリッツ』(2016年)をまず観ました。そこから日本での劇場公開順に言えば、『ドンバス』に、『バビ・ヤール』(2021年)、そして『新生ロシア1991』(2015年)といったところでしょうか。
編集部 日本で劇場公開された作品は他に『ミスター・ランズベルギス』(2021年)があり、大学の学園祭で上映された『マイダン』(2014年)、期間限定でウェブ配信された『霧の中』(2012年)や『ジェントル・クリーチャー』(2017年)などもありますが、藤井さんは数が少ないとはおっしゃいつつ大半をご覧になっていますね。ロズニツァ作品は大別すると、①『ドンバス』のような劇映画、②スターリンの葬儀の記録映像を編集した『国葬』などアーカイブを用いたドキュメンタリー作品、③同じドキュメントでも『アウステルリッツ』のようにダークツーリズムに沸く元強制収容所をロズニツァ本人が撮影したもの、と3つのタイプに分けられます。
畑中 ここから詳しく話していくためにも、まず藤井さんの作品や姿勢についてお伺いします。わたしが衝撃を受けて、強烈に藤井光さんのことを意識するようになったのは、2018年に国立国際美術館の開館40周年記念展「トラベラー まだ見ぬ地を踏むために」に新作として出品していらした映像作品『南蛮絵図』を観たときでした。いま中之島にある国立国際美術館は以前、同じ大阪でも千里にあって、1977年の開館時は「日本と海外の美術の交流」を示すという役割があった、ということに端を発しているそうですが……。
藤井 その活動の一環として、国立国際美術館が写真家の奈良原一高さんに依頼し、ポルトガル・リスボンにある国立古美術館蔵の南蛮屏風図を1982年に撮影したんです。そうして撮影された複製写真を、国立国際美術館が所蔵したんですね。わたしはそこに着目して、映像作品にしました。
畑中 奈良原は『王国』などで知られる戦後を代表する写真家ですが、彼が撮った複製写真とその一部が拡大された写真──この複数の部分拡大写真も奈良原が撮っていることが重要になってくるわけですが──を、アフリカ系の人物が国立国際美術館の収蔵庫から運び出して、館内に展示する様子が映されています。最初は、観ているこちらとしても、何の変哲もない南蛮図屏風だと思う。しかしそのうちに、東西文化交流における日本人とポルトガル人という問いが前面に出てきて、さらには南蛮図屏風の細部、つまりは従者または奴隷として描かれた人びとがクローズアップされていくわけです。おそらくは奈良原が意識したこうした「部分」を、藤井さんが再発見したという構図ですよね。
藤井 今回、セルゲイ・ロズニツァについて語るということでお招きいただいたわけですが、まさにわたしがこの『南蛮絵図』をつくったときの意識からして、セルゲイ・ロズニツァのことがよくわかる気がしているんですよ。というのも、国立国際美術館のコレクションは東京国立近代美術館などとともに「独立行政法人国立美術館 所蔵作品総合目録検索システム」としてデータベース化されてネット上で見られるようになっていまして、わたしはここでおびただしい数のコレクションを全部見るなかで、奈良原の写真に注目したわけなんです。そしてロズニツァもまた、とにかく映像アーカイブを、こう言ってよければ変態的な徹底ぶりで観て、調べつくすわけじゃないですか。あの感覚は、よくわかるんですよ。
畑中 アーカイブというものを、どのような態度でご覧になっていくのですか。何か探しているものが明確にあるのでしょうか、それともぼんやりとした想定ぐらいはある、ぐらいの感じなんでしょうか。
藤井 例えば国立国際美術館のデータベースを見ながらわたしが探っていたものは、元来強い関心を抱いている1930年代から1945年まで、つまりは戦争期に関する何かだったのですね。しかしアーカイブを探索するうちに、奈良原の写真が、感性的に引っかかるものがあった。写真の内容はもちろんですが、もっとシンプルに、画としての強度に引きつけられたといったほうがいいかもしれない。ロズニツァにしても、例えば『国葬』のような作品では、もともとあったアーカイブ映像を再編集しているじゃないですか。そして観ていると、「あ、この画を見せたいがために、これまでの前置きがあったんだな」というような、強度のあるカットがありますよね。ロズニツァの、イメージに対する強い執着心を感じるんです。
畑中 たしかに、イメージへのこだわりがすごいですよね。
セルゲイ・ロズニツァ監督作、映画『ドンバス』より。【上】電柱に縛られ街路にさらされたウクライナ軍志願兵を、親ロシアと思しき住民が取り囲み、暴行や非難を加える【中】フェイクニュースづくりのため、用意された台本通りに住民を演じる俳優たち【下】夜間、人気のない道を走行中に突然襲撃される車両 ©︎MA.JA.DE FICTION / ARTHOUSE TRAFFIC / JBA PRODUCTION / GRANIET FILM / DIGITAL CUBE
ロズニツァが影響を受けた人物
藤井 ただ、わたしも最初からロズニツァのことが理解できていたわけではないんですよ。2020年の11月から《群衆三部作》が渋谷のイメージフォーラムで上映されたときに観てはいたんですが、そのときと、ロシア・ウクライナ間で戦火が上がった後では、わたしのなかでロズニツァの見方が変わっているんです。いや、「なるほど」とピンときたとでも言えばいいのか、別の見え方において《群衆三部作》も新たに立ち現れてきて、自分のなかでロズニツァの再評価が起こったんですよ。
編集部 初めて観ると、魅了されつつも困惑させられる作家ですよね。いったいロズニツァは、何に、あるいは誰に影響を受けてきたのでしょうか。
藤井 それがまさに、わたしのなかでのロズニツァ再評価ともつながってくる話なんですが……おそらくロズニツァが影響を受けたのは、スターリンだと思うんですよ。これはもう、間違いないですね。
畑中 (編集部とともに一瞬絶句しつつ)……それは、どういうことでしょうか?
藤井 例えばロズニツァがアーカイブ映像を用いてつくった『粛清裁判』に関して言えば、もともとの裁判自体が、スターリンが形づくった“演劇”じゃないですか。ロズニツァは『粛清裁判』をつくることによって、スターリンの演劇をもう一度やり直している、と言っていいと思います。旧社会主義圏とでも言えばいいのか、東側における最大の芸術家は、まずスターリンですよ。
畑中 それは藤井さんの見解ですか、それとも関係するような議論がすでにどこかでなされてきているのでしょうか。
藤井 例えば、ボリス・グロイスという美術批評家が、『全体芸術様式スターリン』(亀山郁夫・古賀義顕訳、現代思潮新社、2000年)という本を出していて、わたしがいま述べたような話を裏づけるような議論をしています。
編集部 近年も日本で『流れの中で:インターネット時代のアート』(河村彩訳、人文書院、2021年)や『アートパワー』(石田圭子他訳、現代企画室、2017年)といった著作が邦訳され注目を集めている人ですね。旧東ドイツ生まれで、かつて西側に亡命した方だとか。
藤井 順を追って説明しますと、まずグロイスは、ある通俗的な理解に対して反論しているんです。その一般的な常識というのは、以下のようなものです。20世紀初頭に新たな創造を希求したロシア・アヴァンギャルドは、スターリンが打ち立てた社会主義リアリズムによって消し去られた。スターリン文化においては新世界の創設が謳われていたが、しかしその精神はむしろ古い時代のものに退行していた……。しかしグロイスは、その見方は間違っているというのです。ロシア・アヴァンギャルドと社会主義リアリズムには、むしろ継続性があるのだ、と。グロイス自身のことばを見てみましょう。
社会主義リアリズムにとって歴史はすでに終わったものであり、社会主義リアリズムは歴史に占めるべき一定の場所をもたない。(中略)新しい歴史以後の現実において、スターリン美学にとってはなにもかもが新しかった。(中略)だから、スターリン美学にとって、形式上の目新しさを求める必要はなかった。スターリン美学にとって「斬新さ」は、みずからの内容の新しさと超歴史性という全面的な新しさによって自動的に保障されていたからである。(中略)社会主義リアリズムは、まだ存在していないもの、存在してはいないが今後創りだされねばならないものへと方向づけられており、この点で社会主義リアリズムはアヴァンギャルドの後継者であるといってよい(アヴァンギャルドにとっても「美学的なもの」と「政治的なもの」は一致していた)。
スターリン文化は、芸術家の心が、善を求める神聖な渇望と、善を求めるように仕向けてくれた創造主スターリンへの感謝の虜になっているか、さもなければ「破壊分子」の誘惑の虜になっているかのいずれかであると考えたが、この根深いロマン主義が、「内なるユートピア」としての愛に対する独自の崇拝をスターリン文化に生みだし、それがアヴァンギャルドの外在的な機械仕掛けのユートピアにとって代わったのは当然だった。(中略)アヴァンギャルドの芸術家は、世界を機械のように組み立てさえすれば世界は動き出し、生きはじめるはずだと考えていたが、それに対してスターリンは、この機械に命あらしめるには、この機械をつくった製作者=創造主への愛を吹きこんでやらねばならないと考えた。
畑中 なるほど。歴史は一種の最終段階に入っているわけだから、社会主義リアリズムは古いというような話にはならなかったわけなんですね。
藤井 古いという概念自体がないようなものですね。新しい世界を建築していくにあたってふさわしいものをつくる、ということのみで、形式の古さがどうこう言っている場合じゃない、という方向にグイグイ進んでいく。その推進性は、むしろロシア・アヴァンギャルドとつながっているものだというわけです。
スターリンを“反復”する意味
畑中 ロズニツァは例えば、1953年3月5日に死去したスターリンの葬儀に関する記録映像から『国葬』をつくっていますが、ここまでの議論とどう関係してくるのでしょうか。
藤井 『国葬』では、軍人から民衆まで溢れんばかりの人びとが葬列に並ぶ様子が映っていますが、あれによってスターリンは自らの死後に最大の演劇をつくってしまった、と言うことができると思います。スターリンによる、全体芸術の最たるものがあの葬儀であり、それを記録したアーカイブ映像から、ロズニツァは『国葬』をつくっているわけです。
編集部 なるほど。ロズニツァのドキュメンタリーとフィクションの違い、というようなことについて今回伺おうと思っていたのですが、それは愚問になりそうですね……。そんなレベルの話ではないといいますか。
藤井 まあ、そういうことですね(笑)。先ほど、わたし自身のなかでロズニツァに対する評価が変わったという話をしましたが、当初はいまグロイスを援用しつつ語ったような、美術史的・映画史的な観点のみで観ていた、ということなんです。ここに新たな見方が加わって現在に至るのですが、ともあれグロイスの議論を引き続き追ってみましょう。旧ソ連圏におけるポストユートピアの流れのなかで、いわゆるスターリニズムをもう一度反復することで、スターリンから解放されるという手法はこれまでにもありました。例えば1970年代から1980年代にかけて、現代美術の世界ではイリヤ・カバコフといったアーティストなどがやっていることで、グロイスはそれを「ポストユートピア芸術」と名づけています。歴史的なトラウマを乗り越えるためには、コンセプチュアルに反復しないとだめだ、という考え方なんですね。
畑中 ショック療法のようなものですかね。
藤井 ある意味では、そう言えますね。グロイス自身は、このように述べています。
ロシアのポストユートピア芸術は、(中略)スターリン時代を再神話化し美化することでこれを最終的に克服する。(中略)歴史とは歴史から脱出しようとする試行の歴史にほかならないということ、ユートピアとは歴史があらかじめはらみもつ内在的なものであり、歴史の内部でユートピアが克服されることはありえないということ、歴史を完成させようとする〈ポストモダン〉の試行は、果てしない歴史的進化を根拠づけようとする逆の試みと同様、歴史を継続させるだけであるということ──、ポストユートピア的な芸術実践の意義はひとえにこれらのことを示すことにある。
少なくとも美学の面でスターリンを反復することなくスターリンから解放されることはもはやできない。だからこそ新たなロシア芸術はスターリンを美的な現象として了解し、スターリンを反復することでスターリンから解放されたのだ。テクストとコンテクストとを同時に構築し、構築と脱構築とを実践し、ユートピアを企てると同時にそれをアンチユートピアへと送りかえしつつ、新しいロシア芸術はみずから神話的家族の一員たることを欲し、そのことによって神話的な家族は当のスターリンに対してルサンチマンではなく優越感をもって接することができるようになる。「家族には時には出来損ないもいる」というわけだ。
編集部 ああ、面白いですね。スターリンの亡霊が再び召喚された理由がよくわかりますし、ロズニツァの手つきの意味も、だんだん感得されてきたような気がします。
上・中:「Tokyo Contemporary Art Award 2020-2022 受賞記念展」に際し、藤井(写真上)の図録(公益財団法人東京都歴史文化財団 東京都現代美術館 トーキョーアーツアンドスペース発行)は畑中(写真中)が編集を担当した 下:日本公開時の『ドンバス』、『バビ・ヤール』、『ミスター・ランズベルギス』・『新生ロシア1991』の公式ガイドブック
【ロズニツァを観る:現代の映像表象の極点①】
セルゲイ・ロズニツァ|Sergei Loznitsa 1964年、ベラルーシ生まれ、ウクライナ・キーウ育ち。科学者として人工知能の研究に携わった後、全ロシア映画大学に入学、映画作家の道へ。『霧の中』(2012年)が第65回カンヌ国際映画祭国際映画批評家連盟賞、『ドンバス』(2018年)が第71回の同映画祭で《ある視点》部門監督賞、『バビ・ヤール』(2021年)が第74回の同映画祭ドキュメンタリー部門《ルイユ・ドール》審査員特別賞、『ミスター・ランズベルギス』(2021年)がアムステルダム国際ドキュメンタリー映画祭最優秀作品賞&最優秀編集賞に輝くなど、受賞多数。 Photo by Kate Green/Getty Images
『ドンバス』(Donbass|2018)
『ドンバス』予告編 2014年以降、新ロシア派勢力によって支配されてきたウクライナ東部ドンバス地方。そこで日夜繰り広げられる“13のエピソード”を、劇映画として描く。フェイクニュース映像の撮影現場、民間人から資産を巻き上げる警察組織、陰鬱なる地下シェルター、結婚式の狂騒、国境での砲撃の応酬。第71回カンヌ国際映画祭《ある視点》部門監督賞受賞、第91回アカデミー賞外国語映画賞ウクライナ代表作品。日本国内では現在、各映像配信プラットフォームで鑑賞可能
『国葬』(State Funeral|2019)
『国葬』予告編 リトアニアで見つかった、スターリン国葬時に200人弱のカメラマンによって撮影された大量のフィルム。横たわるスターリン、周恩来らの弔問、後に権力闘争を繰り広げるフルシチョフらのスピーチ、数千万人の群衆の姿が映る、幻の未公開映画「偉大なる別れ」のフッテージとされるその映像を、ロズニツァが見事に再構成。映像配信で視聴可能
『粛清裁判』(The Trial|2018)
『粛清裁判』予告編 1930年のモスクワで、8人の有識者が西側諸国とつながりクーデターを企てたとして裁かれた。スターリンによる見せしめ裁判だとされている。この記録映像は、ソビエト最初期の発声映画「13日(「産業党」事件)」にもなった。ロズニツァの手により、粛々と進められる裁判の様子が蘇る。映像配信で視聴可能
再現・再演と「間離化」
藤井 こうして、スターリンがやったように事態を“再現”するという流れがあったわけです。ロズニツァの方法を考えるためにわたし自身の話もしますと、ここまで語ってきたようなスターリニズムの全体主義の流れと地下水脈で連なる日本で、“再現”ないし“再演”するという方法にこだわってきたということがあります。ここ10年ぐらいの自分の作品は、過去のアーカイブを用いながら、もろにナショナリズムを身体的に再現するようなものをつくってきました。例えば現在開催中の森美術館開館20周年記念展「ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会」に出品している『帝国の教育制度』(2016年)という映像も、そうした作品のひとつですね。
畑中 そんな藤井さんがロズニツァをご覧になったわけですから、感じるところは大いにあったでしょうね。
藤井 そうなんですよ。「面白いな、ここにも似たような問題意識をもっている人間がいるぞ」と。ある意味で、アーティスト同士のシンパシーのようなものを感じていたんですよね。その上で、ロシア・ウクライナ間で戦火が上がった後、ヨーロッパとウクライナふたつの映画アカデミーから去ることになったロズニツァのニュースを耳にしつつ『ドンバス』を観たところ、「あ、スターリンのことだけじゃなかったんだな」とも気づいたんです。
編集部 どういうことですか?
藤井 ロズニツァはロシアの右傾化、さらにはウクライナの右傾化についても、徹底的に調べていたんだなということが伝わってきたんですね。国際的に、民族主義の高まりと保守化の流れを政治利用していこうとする高まりがありますが、それに対する応答という側面においても、ロズニツァは“再現”という手法をとってきたんだな、と。要は、世界に対する警告ですよね。その点においても、ああ、自分の問題意識と重なる人だったんだ、と納得したという経緯があるわけです。
畑中 なるほど。スターリンの反復による乗り越えと、民族主義の高揚と保守化という流れの相対化、その双方の意味において“再現”という方法にこだわってきた、と。
藤井 その観点から『ドンバス』を考えると、ラストシーンが象徴的なんですよね。これからご覧になる方のために詳細は伏せますが、カメラがバーッと一気に引いていくんです。あの広角で引いていく感じにこそ、距離をもって事態を眺めようとするロズニツァの態度が滲んでいると思います。それはドイツの著名な劇作家ベルトルト・ブレヒトの、これまたあまりに有名な「異化効果」という話に近いのですが……ただ、日本語で「異化」と言ってもよくわからないですよね。英語では「異化効果」は「distancing effect」で、要は距離化のことなんです。実は、中国語での翻訳が最もわかりやすくて、「間離化」というんですよ。
畑中 「間離化」、いいですね。距離をとるということがわかりやすく伝わります。
藤井 この「間離化」が、ロズニツァのなかでは大きなポイントになっていると思うんです。対象から冷徹に距離をとる、ということですね。2022年初頭のウクライナにおける民族主義、そして世界における「正義」の論調のなか、ロズニツァのような態度をとりながら作品をつくり続けるということは、とてもしんどくて、難しいはずです。もちろんロシアの内部でなんとか「間離化」を図ろうとしてきた現代美術のアーティストたちも、特にここ10年は苦しみ抜いていることが漏れ伝わってきているのですが、その困難はロズニツァにおいても言えるでしょうし、しかもそうした試みをあえてやろうとしている映画監督なのだろうと思います。しかも単に相対主義に終わらず、アクティビズム的に状況にコミットし続けているところが、わたしがロズニツァのことを好きな理由のひとつなんですよ。
「世界を説明する」のではない本
畑中 改めて藤井さんがいま、ロズニツァに共感を覚える点はありますか。
藤井 2022年、ロシア・ウクライナ間での出来事を見て、こんなことがいま起きるのかと混乱しましたし、多くのアーティストが芸術の無力さを痛感したと思います。そこでこの現実にどう応答するかというときに、「民主主義社会」が全世界を覆っていくという理想的なビジョンは、もはやなかなかもつことができない。ロズニツァがロシア映画のボイコット運動に反対してウクライナ映画アカデミーから追放されましたが、彼に対する攻撃と排除は、戦時下の例外状態などではなく、そもそも「民主主義社会」とされる場においてさえ、人は管理され、自由が規制されることを明らかにしました。ロシアのような自分が自由でないことがわかる社会に対して、民主化された社会は、自分たちの自由がどのように操作されコントロールされているかを知ることも感じることすらもできないという意味でより深刻です。
編集部 そんな簡単に整理がつく話ではないわけですよね。
藤井 なので、「正義」の側で安寧としていいのか、と。だからこそわたしは、まだアイデアの段階ですけれど、現代にも連なる過去の帝国植民地戦争、第二次世界大戦、そして(新)冷戦という継続された戦争を、特に日本を含むアジアという観点から、もう一度考え直してみたいと思っています。
畑中 それは楽しみです。
藤井 過去の記憶の集合的な亡霊は、いまの日本のなかにも漂っているわけですが、そこから距離をとるというのは本当に難しいことなんです。わたしの場合、戦争画のデータベースを1日8時間、30日ほどかけて見直すという一種の儀礼を通して(編注:記事末尾の案内を参照)、やっと距離をとることができました(笑)。この儀礼を経た視線で、例えば美術の予備校にいって石膏デッサンを描いている若者たちを見るとするでしょう。すると、あの古代ギリシア・ローマの彫像は基本的に戦士ですから、高校生たちが戦争画を描いている、という見方が可能になるんです。
畑中 そうか、そんな見方ができるようになるんですね(笑)。
藤井 大学に入るために、みんなで戦争画コンクールのようなことをやっているんだ、と。これは、「間離化」の賜物ですよ。生活のそこかしこに、ネット空間のなかにも漂っている、グロイスが言うところの「神話」の只中で、いかに「間離化」を自分たちにもたらすことができるかが問われているわけです。ここまで話してきて思ったのですが、わたしは近年、何かしら「世界を説明してくれる」ような書籍が、なかなか読めなくなってきているんですよ。だからこそ、本を読んできた時間と入れ替えるようにして、アーカイブに熱中しているのだと思います。きっとロズニツァも、そうなのではないでしょうか。これらの記録や資料は、「世界を説明してくれる」本ではなく、いわば「世界をとらえようとしてきた」本なのかもしれないですね。
畑中が編集した藤井の図録には、同じく現代美術界の急先鋒であるホー・ツーニェンが論考「戦争について(の変奏)」を寄稿
【藤井光を観る:現代の映像表象の極点②】
藤井光|Hikaru Fujii 美術家・映像作家。1976年、東京都生まれ。パリ第8大学美学・芸術第三博士課程DEA修了。映像メディアを中心にアーカイブ資料などを扱い、現代とつなげることで、人びとの記憶・歴史や社会の関係性を再解釈し、問い直す作品を制作している。2022年「Tokyo Contemporary Art Award(TCAA)2020-2022 受賞記念展」(東京都現代美術館)に出品された「日本の戦争美術 1946」(かつて米軍が開催した展示を、実物がないままに“再現”する試み)など、その試みは絶えず注目と議論の的となっている。
『南蛮絵図』(2017)
南蛮図屏風→奈良原による写真→藤井による映像という記録メディアの変遷も組み込まれた作品。そもそも国立国際美術館は、1970年に千里丘陵で開催された日本万国博覧会のパビリオンのひとつである「万国博美術館」を前身としている Courtesy of Hikaru Fujii
『帝国の教育制度』(2016)
アメリカ陸軍が軍内部での情報共有のために編集した、日本の教育制度についての資料映像と、その内容を韓国の学生たちと“再演”したワークショップの記録映像の双方を用いた作品。映像の後半では、観客からは観ることができない、戦争にまつわるとある映像をワークショップ参加者たちが観て再現していくというように、さらに多層化した構造になっている。 Courtesy of Hikaru Fujii
藤井光『日本の戦争美術 1946』展(online)
会期:2023年4月26日(水)10時- 5月31日(水)未明
会場(URL):www.hikarufujii.online
次週5月23日は、3Dプリンターを使った新しいものづくりの可能性を模索する「新工芸舎」の三田地博史さんに、2010年代に盛んに謳われたメイカームーブメントやFabのその後、そして「ものづくりの民主化」の現在地についてお話を伺います。お楽しみに。
発せられているのにきこえていない「声」をきき、記録し、伝えていくことは、存外に難しい。世界が複雑化するなか、わたしたちはどのような態度で、人と、そして人以外の存在たちと向き合えばいいのだろうか。どうすれば、行為の一方的な「対象」としてではなく、相互的な「関係」を相手と築くことができるのだろうか。スケートボード、フィールドレコーディング、郷土料理、文化人類学、Chat-GPT……他者の「声」に耳を傾け、書き留めることの困難と可能性を探る。
【書籍詳細】
書名:『WORKSIGHT[ワークサイト]19号 フィールドノート 声をきく・書きとめる Field Note』
編集:WORKSIGHT編集部
ISBN:978-4-7615-0925-5
アートディレクション:藤田裕美
発行:コクヨ
発売:学芸出版社
判型:A5変型/128頁
定価:1800円+税