会社と家と男女の役割と:民俗学者と考える労働・ジェンダー【会社の社会史#3】
性別を異にするわたしたちは、会社や家という組織のなかで、それぞれどんな役割を果たし、どのように働いてきたのだろうか。そしてその枠組みのなかで、いかにもがいてきたのだろう。民俗学者・畑中章宏、WORKSIGHT編集部・山下正太郎(コクヨ ヨコク研究所所長)と若林恵(黒鳥社・編集者)による全7回のトークシリーズ「会社の社会史」。第3回として挑む今回のテーマもまた、一筋縄ではいかない難問だ。
ある家族の散歩。1952年、東京、日曜日 Photo by Smith Collection/Gado/Getty Images
「WORKSIGHT[ワークサイト]」と誠品生活日本橋のコラボレーションによるイベントシリーズ「会社の社会史 -どこから来て、どこへ行くのか-」、その第3回が、2023年1月17日に開催された。「会社」と「社会」の関係を解きほぐした第1回、「勤労」観の形成過程を考えた第2回に続く第3回で取り組むのは、会社と家、そしてジェンダーというお題。
与謝野晶子ら先達たちが交わしてきた議論をさまざまな書籍から学んでいくと、日本社会が近代化するなかで生まれた、ある歪みが浮かび上がってきた。
text by Fumihisa Miyata / Kei Wakabayashi
女性を雇用するインセンティブ
山下 今回、イベント当日を迎えるまでにいくつか批判的な反応をいただきましたね。
若林 今回は会社における男女の違いといった話から、会社と家庭の位相に関する話になりますので、男3人で語るのでは不十分であるのは間違いないのですが、職場にいまなお残る性差の問題や、会社や家庭の関係性がどんな経緯でかたちづくられていったのかは男性の生き方に深く関わる話でもありますので、そんな観点ももちながら、手探りにはなりますが考えてみたいと思っています。
畑中 難しいお題ですが、やれるだけやってみましょう。
若林 話のとっかかりとして、相も変わらず素人ながら少しばかり調べてきたことをお話しできたらと思います。今回わたしが手に取った資料のなかに、村上信彦『大正期の職業婦人』(ドメス出版、1983年)という本があります。著者は在野の研究者といいますか、ジャーナリスティックな手つきで女性をめぐる問題を追いかけていた人のようでして、そんな村上さんが、「職業婦人」というあり方の成立について書いています。
畑中 前段として、少し説明させてください。近代史において「会社と女性」を考えようとするとき、まず工場を会社に含めるかどうかという観点があり、仮に含めるとすると、近代の女性はまず「工女」として工場で働き出すわけです。それが明治期に入ると、次第に「女工」という表現も使われるようになります。特に渋沢栄一が設立に関わった富岡製糸場──正確には官営ですが──といった繊維関係において、「女工」と呼ばれる存在が現れます。細井和喜蔵によるルポルタージュ『女工哀史』は1925(大正14)年のものです。1968(昭和43)年に山本茂実が書いた『あゝ野麦峠』は「ある製糸工女哀史」という副題ですが、こちらは明治後半のことが中心に書かれている本でして、これらから「工女」/「女工」という呼称の時代性がうかがえます。さらには大正期に入って以降、「職業婦人」ということばが出てくるわけですね。
若林 村上さんは、大正2年に雑誌『婦人之友』で特集された、「新しくできた婦人の職業」のリストを列挙しています。ざっと並べてみると、タイピスト、婦人速記者、婦人歯科医、女子薬剤師、女子事務員及び簿記係、電話交換手、女子電信係、為替貯金局の判任官、小学校教員及び音楽教師、女医、産婆、鉄道院の事務員、女髪結、女料理人、仕立屋(裁縫塾)、中等学校教員、幼稚園の保母、自動車運転手、モデル、製糸教婦、印刷局女工、専売局女工、砲兵工廠女工……。
山下 「製糸教婦」は挙げられていますし、それ以外にも「女工」には触れられていますが、いわゆる繊維関連の工場における女工は入っていないわけですね。
若林 そうなんです。村上さんが論じるところの「近代的職業の条件」というものが、必ずしも当時言われていたことと重なるかはわからないのですが、いずれにしても村上さんの整理をもとに「近代的職業の条件」をまとめ直してみると、以下になります。
1. 当事者が自己の意志でその職業についている
2. 自由意志をもち、転業も廃業も自由である
3. 勤務時間の内/外に象徴される、公私の別がはっきりしている
山下 なるほど。こうした「近代的職業の条件」によって区分けされる職業のなかに、繊維関連の工場で働いている女工さんたちは当てはまらなかった、と。
畑中 都市労働といいますか、さらに言えば「都市から都市に働きに出ている人」がかなり増えてきたことが背景としてありそうです。工女/女工の人たちは地方から地方へ、という移動だったのが、「職業婦人」の人たちは都市のなかで、あるいは都市から都市へと勤めに出るようになったんですね。
山下 寄宿舎や寮に入るというよりも、自宅からの通勤ということですよね。
畑中 補足しておくと、繊維と一言でいっても、製糸と紡績では工場のありように違いがあります。製糸工場は、例えば信州・諏訪湖のほとりの岡谷といった地方にあって、寮制になっており、地方から女性たちが出稼ぎに来る。『あゝ野麦峠』は、飛騨のほうから野麦峠を越えて、まさに岡谷の製糸工場へやってきた工女が過酷な労働のなかで命を落としていく話です。工場によって、あるいは工女の出自によって、過酷さに差はあったようなんですけれども。一方で紡績になると、これまた渋沢らが出資した大阪紡績会社が象徴的であるように、基本的に都市型です。
若林 村上さんは和田英『富岡日記』についても書いていますが、それを読む限りでは、富岡製糸場でもそこまで非合理的な搾取は行われていなかったとされています。
畑中 官営の富岡製糸場はその後のモデルになればということで、それこそ和田英のような士族の娘が働いていて、待遇もよかったといいます。元武士である士族の、基本的には手塩にかけて育てられた女性たちが、ちゃんと清潔な環境で働くのが製糸工場なのだ、という模範的な工場をつくろうとした。紡績も含めて、それを民間に真似させようとしたのですが、民間レベルにおりた途端に、まさに「自己の意志」を無視してしまうようになり、紡績工場においては『女工哀史』のような事態に陥ってしまったわけですね。
若林 その契機となったのが「大阪紡績会社」という会社だと、村上さんは書いています。
紡績女工もはじめからのちにみるような悲惨な状態に陥っていたのではなかった。(中略)雇用関係は自由契約で、前借金も年季契約もなく、転廃業も自由であった。(中略)ところが明治十六年に設立した大阪紡績会社が深夜業を採用することによってこの状況は一変してしまった。
具体的に言えば、それまでは12時間操業だったのが、24時間操業になります。操業時間を倍にすれば生産性が倍になりますので。
畑中 いかにも大阪的発想です(苦笑)。
若林 これを「鐘淵紡、東京紡、平野紡、摂津紡、尾張紡、尼崎紡など、次々に採用するものが続出して」いく。しかも、自宅から通いで働きに来ていた人たちは夜間の労働をしたがらないので、通勤工員を寄宿工員に切り替えていく。その結果、工員が地方から動員されるようになっていったと村上さんは説明しています。
山下 過重労働というか、奴隷的労働のひとつの原点が見えますね。
若林 加えて、村上さんの見立てによれば明治初期から、女性の仕事を国家主導で「職業化」する動きが進んでいたそうなんです。例として挙げられているのが、産婆の国家資格化と、女性教員の養成です。前者においては人口政策が、後者においては1872(明治5)年の学制公布に伴う教員養成の必要性という背景があったそうですが、当時、女性を働かせるということに関してはかなり強く経済的なインセンティブが働いていたことが、以下のように指摘されています。
日本政府がもっとも心を動かされたのは、男教師二人の給料で女教師三人を傭えることだった。(中略)明治になって発生した女の職業には文明の発達に伴う国家的・社会的要求によるものが少なくないが、それ以上に大きな動機となったものは女の低賃金である。(中略)女の低賃金の基礎は実に家制度下の女の無償労働にあった。これが企業にとって絶大の魅力だったことは当然だろう。(中略)男の賃金は少くともその人間の最低生活費は保証しなければならないが、女は家にあって家長に扶養されているという建前のもとに、その必要がないとされたからである。賃金は女の自活のためでなく、家計補助で足りる。したがって、あえて言うならば、いくらでもよかった。
山下 身も蓋もないとはこのことですが、ここで、国家の経済の話と家庭における女性の役割の話とがリンクしてくることになるんですね。
大阪紡績会社(出展:大阪府編『大阪府写真帖』大正3年、国立国会図書館デジタルコレクション)
職業婦人と痴漢とルッキズム
若林 時系列としては後のことになりますが、1898(明治31)年に民法が施行され、「家制度」が規定されて女性の戸主権が奪われるとともに、例えば女性がそれまでもっていた財産権もまた奪われることになります。
畑中 この「会社の社会史」の第2回で、日本の民俗社会における私有財産の発祥は女性の「へそくり」だった、という話をしました。その時にはお話しできなかったのですが、歴史学者・網野善彦先生の隠れた名著『女性の社会的地位再考』(御茶の水書房・神奈川大学評論ブックレット、1999年)によれば、10世紀後半の尾張国郡司百姓等解を見ると、男女役割分担といっても、男性は鋤をふるって農業に従事し、女性は養蚕に取り組むというような区別の仕方であったそうなんです。その上で江戸時代の明細帳を見ると、女性が繭や糸を売っていることがわかる。網野先生は、このように書いています。
近世以前の女性はこの分野、繊維製品については最初から、製品をつくって市庭に持っていって、商人に売るまで全部自分でやっていることになります。つまり、完全に生産物を自己管理していたのです。しかも、市庭で物を売るためには相場を見なければなりません。十三世紀後半になると、市庭の商品にはみな相場(和市・わし)が立っています。
ここでの議論にひきつければ、たとえ近世に至って税として米がもっていかれるようになっても、実際に家族が食ベていくためのお金は女性たちが稼いでいた。かつ、相場をにらみながら女性がやりくりしているから、繭や糸をいくらで売っているか男性はあずかり知らない、といったことも起きていたといいます。そう考えると、私有財産の発祥が女性の「へそくり」だったというのもうなずけるわけですが、明治民法によって、これらの「財産」が女性の手から離れてしまうことになるんですね。
若林 明治民法では、基本的に男性が戸主となり、家の財産は戸主のものとされたということですので、先に見た「男には家庭を養える分の給料は払うけれど、女性にはそれを払う必要がない」という考え方を、制度が後押ししてしまっているとも見えます。結果、企業は給与というかたちで男性の家庭は保障するけれど、女性は戸主でもなく自宅から通勤しているだけだから、家計補助ぐらいでいいだろう、という考えが当たり前のものとしてまかり通ってしまったのかもしれません。
山下 その思考はいまもってなお影響力がありそうですから、根深い問題ですね。
畑中 1986(昭和61)年施行の男女雇用機会均等法から、2018年(平成30)年の働き方改革関連法の成立に伴って導入された「同一労働同一賃金」に至るまで、建前としてはさまざまな変化がありますが、それが実現しているとは到底いえなさそうです。
若林 畑中さんが冒頭でおっしゃったように、政府の後押しもあって都市型の「近代的職業」へと女性たちが動員されていったわけですが、そこにはいわゆる「女工」の困難とは異なる、新たな困難が待っていたと村上さんの本は明かしています。というのも、女性がそうやって社会進出を果たした瞬間から、電車のなかで痴漢の被害に遭うようになるそうです。
山下 近代化とともに痴漢が現れると。なんともはやですね。
若林 村上さんの解説によると、痴漢の登場には、男性の側による「職業婦人=不良」という偏見が強く作用していたそうです。村上さんによる当時の男性心理の分析には、リアリティがあるように感じます。以下、引用してみますが、いま読むとなんとも生々しい文章ではある点、ご了承ください。
男たちは職業婦人を社会的に賤しめながら、個人的には特別の関心をもっている。ということは、働く女は貧しい賤しい階級の人間だという観念をもちながら、一方では〈新しい女〉に好奇心を抱いていることである。それは彼等のつねに女を性的対象として見ずにはいられない感覚、職業をもつ女という新鮮な果実を味わってみたい願望、しかもこうした〈貧しい女〉には多少のいたずらは許されるという無責任な考え方と結びついている。
山下 「働く女性はきっと貧しい女性に違いない」という偏見と、職業婦人という新しい存在自体への興味から、「職業婦人=不良」というレッテルが貼られたということですよね。この「職業婦人=不良」という観念をめぐって、女性の側から描いた本に、平山亜佐子さんの『明治・大正・昭和 不良少女伝:莫連女(ばくれんおんな)と少女ギャング団』(河出書房新社、2009年→ちくま文庫、2022年)があります。1915年ぐらいから和文タイプライターが普及し、オフィスで働く大人数のタイピストが必要になったという状況のなかで、1923(大正12)年に丸ビルが竣工し、そこで女性の不良集団「ハート団」が起こした「ハート団事件」というものを、本書は取り上げているのですが、とても興味深い内容です。
畑中 ハート団、いい名前ですね。
山下 そのハート団を統率していたのが、「ジャンダークのおきみ」という人物だったそうです。
若林 Netflixでドラマ化してほしいです。
山下 丸ビルに勤めていた「ジャンダークのおきみ」は、丸ビル一の美人と謳われた女性で、かつ稀代の悪女として報道されていたようです。そもそも当時「丸ビル美人」ということばが流行語になって、どこそこのオフィスのタイピストの誰々さんが美人だとか、ショップガールと呼ばれた店舗で働く女性が綺麗だとか、新聞でも特集が組まれるほど騒がれたそうなんです。見た目によって相当な賃金差もあったといわれています。
畑中 「看板娘」という感じですよね。
山下 当時丸ビルにオフィスを構えていた企業も、機能的な理由から構えていたというよりは、そこにオフィスを構えていること自体に広告的効果がある、という考え方だったようですが、そんな丸ビルでハート団の女性たちが、男性たちをたぶらかして金品をせしめていたというのが、「ハート団事件」のあらましです。当時の女性の月給が男性の半分以下だったといった背景もあるようですが、残されているまことしやかな報告として、丸ビルの落とし物のなかに、毎月500個ものコンドームがあったそうで、しかも繁忙期になればなるほどその数が増えたとあります。ハート団の根城は丸ビルの某喫茶店と、本郷にもう1カ所あったそうですが、要はいまでいう「東大生」を狙っていたからということのようです(「ジャンダークのおきみ」については、詳述している当時の書籍、田村紫峰著『戀の丸ビル』(カネー社、1925年)を、国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる)。ちなみに1929年頃、高群逸枝というフェミニストもハート団事件に触れています。
畑中 追って触れることになる平塚らいてうとも行動を共にした人物で、『母系制の研究』といった女性史研究で知られています。
山下 はい。その高群が、美女によるハート団事件を受けて「男女平等な社会は醜女から美女の勝利へ」移っていくという議論を展開します。それまでは、学力を磨くことで地位や職を獲得していくのは容姿があまりよくない人の領域であったのが、「ジャンダークのおきみ」のような美女が出てきたことにより、変化していく。今後男女平等な社会が生まれたあかつきには美女が勝利するであろう、と高群は言うのですが、彼女はその状況を礼賛しているのではなく、むしろ嘆いているんです。つまり、近代以降の職場領域におけるルッキズムの誕生として、ハート団事件を見ていたといえるかもしれません。
若林 面白いです。
上:1920年から30年頃とされる、タイピストの訓練学校の様子。Photo by Keystone-France/Gamma-Keystone via Getty Images/下:1920-30年のデパートで働く女性たち Touring Club Italiano/Marka/Universal Images Group via Getty Images
母性保護論争のあらまし
山下 わたしが井上輝子さんの『日本のフェミニズム:150年の人と思想』(有斐閣、2021年)という本で学んできたところによると、1911(明治44)年に平塚らいてうが創刊した『青鞜』を中心に、いろいろ論争が起きたそうなんです。例えば1914(大正3)年には、女性のセクシュアリティ規範をめぐる「貞操論争」があった。そうした流れのなかで1918(大正7)年に起こったのが、有名な「母性保護論争」というものでした。
畑中 1918年から1919年にかけて与謝野晶子・平塚らいてう・山川菊栄・山田わかによって『婦人公論』や『太陽』誌上で展開された論争ですね。
山下 はい。女性の経済的な自立と育児の相剋、そして性別役割分業の是非を問う論争だったのですが、端緒となるのは、与謝野晶子が女性の徹底した自立を論じた文章でした。与謝野は、出産や育児に関して国を頼ってしまうと、それはむしろ女性の独立と自立を妨げてしまうと論じました。
畑中 国家の干渉をよしとしないわけですね。そうでないと、女性の徹底した自立は図れないと。それに対して『青鞜』の平塚は、国家による女性の保護は当然だと反論します。
山下 平塚は、子どもというのは国にとって大切な存在であるから、出産や育児をサポートするのは当然だと考え、国による「母性」の「保護」を提案しました。この両者の議論がうまくかみ合っていなかったところに、山川菊栄が参戦してきます。
畑中 与謝野、平塚の議論を整理しつつ、両方斬っちゃうような感じで山川は入ってきます。というのも社会主義者の山川は、資本主義が残っている限りは問題が解決しないという立場だからです。
山下 山川は、マルクス主義フェミニズムの観点から、結局資本主義の問題なのだと論じます。さらに山田わかは、平塚以上に家制度を擁護し性別役割分業を主張することとなりますが、ここで行われた議論は、現在から見ても、必ずしも古びたものではなさそうです。
若林 松村由利子さんの『ジャーナリスト与謝野晶子』(短歌研究社、2022年)では、この母性保護論争において、与謝野がどのような真意で論を展開したのかを分析されていますが、与謝野晶子の面白いところは、母性の問題を父性の問題との関連において語っていたところだとしています。与謝野は、平塚の批判を受けて、半ば皮肉を込めて「寧ろ父性を保護せよ」という文章を発表していますが、そこで「男子はあまりに父性の責任を粗略にしています。(中略)また、そういう習慣に甘んじて、子女に対する親の責任を一手に引き受けている女子もまた甚だしい僭越を敢えてしていることを覚らなければなりません」と書いたとされています。つまり、著者の松村さんの読み解きによれば、平塚や山田が、男性による労働や男性主体の家庭観を当然視したのに対し、与謝野はむしろ「男性の働き方についても目を向け」、「男性の育児参加を促し」ていたということになります。松村さんはこう解説します。
「寧ろ父性を保護せよ」から伝わってくるのは、晶子が「母性」はもちろん「父性」にもこだわっていないことだ。このタイトルは、「母性保護」を巡る論争に少々嫌気が差し、皮肉を込めて付けたものと思われるが、親であることは個々の男女にとって一つの属性でしかないと晶子は考えていた。
与謝野は「家」における男性・女性の役割を、平塚や山田よりもはるかに自由に考えていたということですが、こうした価値観が何に由来しているのかという点について、松村さんは、与謝野が「商人の町・堺で生まれ育ったこと」が大きな影響を与えたと見ています。与謝野は老舗の和菓子屋に生まれ育ち、いわば商家のエートスとともに生きた人で、幼い頃から、男女問わずに勤勉に働いていた人びとの姿を見ていたことが、彼女の家族観に大きな影響を与えたというわけです。
畑中 非常に大阪っぽい感覚ですね。
与謝野晶子(出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
企業体としての「家」
若林 与謝野晶子のこうした視点をめぐっていい補助線になりそうなのが、政治学者の中村敏子先生の『女性差別はどう作られてきたか』(集英社新書、2021年)という本です。この本で中村先生は、近代以前の「家」と、明治民法でつくられた「家制度」の違いを強く強調されています。民法の専門家である加賀山茂先生によると、この明治民法に基づく「家制度」は以下のような内容を含んでいます。
・家は、戸主(家長)とその家族によって構成される(旧732条)
・家族は家長である戸主の命令・監督に服する。その反面,戸主は、家族を扶養する義務を負う
・婚姻には,常に,家長である戸主の同意が必要とされた(旧750条)
・男は30歳,女は25歳になるまでは,父母の同意も必要であった(旧772条1項)
・女は、婚姻によって無能力者となる。たとえ、女が婚姻前は成年として能力者であっても、妻となると、無能力者となってしまい、重要な法律行為をするには、常に夫の同意を得なければならない(旧14条~18条)
・夫婦の財産については,夫婦財産契約も認められていたが、ほとんど利用されず、法定夫婦財産制によって規律されていた。その規定によると、夫が妻の財産を管理する(旧801条)ともに、婚姻より生ずる一切の負担は夫が負担する(旧798条)
中村敏子先生は、この法律によって定義された「家」とそれまでの「家」との大きな違いは、明治民法によって、「戸主」が「男性」という「生物的属性」を根拠とすることになったという点だとしています。逆に言えば、かつての「家」における「戸主」は、必ずしも性別を拠り所にした概念ではなかったということですが、中村先生は、こんなふうに説明しています。
従来「戸主」は男性であっても、その「地位」にあることで「家」を代表すると考えられていたのが、「男性」という「生物的属性」を根拠とする権力という考え方に変化していくのです。
畑中 与謝野が育った商家=「家」における男女観が、裏付けされる感じがありますね。中村先生は、近世には女性が財産を自由に使えたし、女性が実家で蓄えた財産が嫁いだ先の家のものになってしまうといったことはなかったという話もされているようですね。
若林 そうなんです。その上で中村先生は、女性に対する社会的差別は、「従来の『家』の原理である『地位』にもとづく権限という考えが駆逐され、西洋から来た『男性』が『生物的属性』により権力を持つという思想が導入された」ことに由来すると説明しています。つまり、男性性が「戸主」の権力に紐づけられたのは明治民法以降のことで、それ以前はそうではなかったというわけです。さらに、ここで面白い指摘は、近代以前の「家」は、それ自体が「企業体」としてイメージされていたと語られているところです。
そもそも「家」は、夫婦とその子どもが核となる企業体でした。それゆえその根底には、血縁という生物的つながりと愛情があります。その上で各メンバーが役割という衣を着ることで、「家」は運営されていたのです。社会の流動化により「家」から男性の役割が流出し、女性の役割の衣がはがされることで、その根底にあった生物的つながりと愛情が、家族関係の構成原理として現れてくることになりました。
つまり「家」は役割の統合にもとづく企業体であることをやめ、生物的つながりと愛情をその組織原理とする「家族」へと変容していくのです。
山下 なるほど……家がそもそも「会社」だった、と。興味深い議論ですね。家という企業体のなかで、各メンバーそれぞれの役割をもって事業に参加していたということですね。
若林 はい。そうであればこそ、中村先生は、結婚は「女房」という職分を果たす人のリクルーティングと考えられ、「離婚」はいわば転職であって「キャリア」になったと論を運んでいます。江戸時代には実に78回も離婚した女性がいたというんですね。また、次回で触れることになるかと思いますが日本近代史をご専門とする松沢裕作先生の『日本近代社会史:社会集団を市場から読み解く1868-1914』(有斐閣、2022年)では、本来、「家」というものは、「農家や中小商工業セクターのものである」とされ、そのありようをこう説明しています。
社会集団は「家」経営体から構成される。近世社会の「家」とは、代々継承される家業と財産をもち、男性当主から次の世代の当主へと世代を超えて永続する組織である。男女の「家」構成員は「家」という経営体を労働の単位としていた。「家」経営体は生産・営業の単位であると同時に共同生活の単位であるという点で、職住分離の「家庭」型家族とは異なる。
これは必ずしも男女平等であることを意味しませんが、「家」というものや、その構成員のありようは、わたしたちが「家」もしくは「家庭」と言ってイメージするものとはだいぶ異なっていることがわかります。また、柳谷慶子さんの『江戸のキャリアウーマン: 奥女中の仕事・出世・老後』(吉川弘文館、2023年)という本では、そうした経営体・企業体としての「家」における女性の「キャリア」を詳細に明かされています。言うなればCFOもしくはCOOとしての能力を、女性の仕事の評価として見るということだと思うのですが、おそらく与謝野晶子が幼少に見た「家」の景色は、そんなふうに営まれた「家」だったんじゃないかという気がします。
山下 といって、一概に江戸時代はよかった、と言っていればいいという話でもないですよね。
若林 これは中村先生も指摘されているところですが、日本のややこしさは、こうした近世以来の「企業体としての家」というものに、西洋由来の「家父長制」を制度としてかぶせてしまったところにあると考えられます。西洋由来の近代家父長制の考えに則って、男性に戸主としての権力を寄せてはみたものの、それがなんだかちょっと実態とズレている感じがするのは、「亭主元気で留守がいい」のCMじゃないですが、いまでも多くの会社員は「うちの大蔵省」にお小遣いをもらう立場だったりするからです。つまり、近代家父長制を制度上は取ってきたはずなのに、どこかにずっと、それ以前の「企業体としての家」の建て付けが非公式に温存されたままになってしまっているような、どうにも歪な構図を感じるんですね。
山下 なるほど。
若林 言い換えるなら、「家」というものと「企業・会社」「仕事」「財産」といった経済に関わるものごとの位相が、制度と実態の間でズレているとも言えるのかもしれません。そう考えるとこの混線は、案外「母性保護論争」の頃から変わっていないのではないかという気もしますし、母性の問題は男性の「働き方」に関わる問題だとした与謝野晶子のまぜっかえしは、その意味でも、意味ある問いかけだったようにも感じます。中村先生は「性別分業と『男性が上』の考え方が広まったのは明治時代」というインタビュー記事で、その捻れの由来を簡潔に説明されていますので、ご興味ある方はぜひ。
山下 冒頭に、女性の給与は生活補助レベルでいいと企業が考えていたという話がありましたが、こうした企業の判断が、社会において「家庭」をどう位置付けるかということと分かち難く結びついているのだとすると、根深い問題ですし、家庭というもののあり方が多様化し、社会的なコンセンサスがますますつくりにくくなっていくなかで、会社もより繊細かつ深い配慮が求められますね。
1975年。ストライキで電車が止まり、線路を歩いて帰宅するワーカーたち。Photo by Keystone/Getty Images
畑中章宏(中央)|作家、民俗学者、編集者。近刊『五輪と万博:開発の夢、翻弄の歴史』『廃仏毀釈:寺院・仏像破壊の真実』『医療民俗学序説:日本人は厄災とどう向き合ってきたか』『忘れられた日本憲法:私擬憲法から見る幕末明治』など。
山下正太郎(右)|本誌編集長/コクヨ ヨコク研究所・ワークスタイル研究所 所長。京都工芸繊維大学 特任准教授。2022年、未来社会のオルタナティブを研究/実践するリサーチ&デザインラボ「ヨコク研究所」を設立した。
若林恵|編集者。黒鳥社コンテンツ・ディレクター。元『WIRED』日本版編集長。2022年7月リニューアルした「WORKSIGHT」のディレクションを務める。著書に『さよなら未来』『週刊だえん問答』シリーズなど。
【近日発売・新刊のご案内】
書籍『WORKSIGHT[ワークサイト]19号 フィールドノート 声をきく・書きとめる Field Note』
発せられているのにきこえていない「声」をきき、記録し、伝えていくことは、存外に難しい。世界が複雑化するなか、わたしたちはどのような態度で、人と、そして人以外の存在たちと向き合えばいいのだろうか。どうすれば、一方的に対峙する「対象」から、相互的な「関係」へと布置を変化させていけるのだろうか。そのヒントを探るべく、スケーターを撮影し続けるプロジェクト「川」や、野外録音の達士D・トゥープ、スケートボードから都市論を導くイアン・ボーデンへインタビュー。さらには文化人類学者たちのフィールドノート、「津軽あかつきの会」がつなぐレシピ、ChatGPTの動向まで参照しながら、「声」をきくこと・書きとめることの困難と可能性を探る。
■書籍詳細
書名:『WORKSIGHT[ワークサイト]19号 フィールドノート 声をきく・書きとめる Field Note』
編集:WORKSIGHT編集部
ISBN:978-4-7615-0925-5
アートディレクション:藤田裕美
発行日:2023年4月27日(木)
発行:コクヨ
発売:学芸出版社
判型:A5変型/128頁
定価:1800円+税
次週5月2日は、いよいよ発売となる書籍『WORKSIGHT[ワークサイト]19号 フィールドノート 声をきく・書きとめる Field Note』より、「ChatGPTという見知らぬ他者と出会うことをめぐる混乱についての覚書」を転載してお届けします。今年3月に「GPT-4」が登場し、期待と危惧で話題の絶えない対話型AI。それは、ノートのような道具なのか、あるいは「ことば」として、わたしたちはいかに向き合えば良いのか、本誌編集長の考察をお届けします。お楽しみに。