その発信で傷つくのは誰?:障害学研究者・星加良司と考える「メディア」と「当事者」の危うい関係
誰かに、話を聞きにいく。その声を、表象する。本ニュースレターのようなメディアは、そうした行為の繰り返しを常とする。しかしマイノリティとマジョリティの関係が変動しゆく世の中を見渡したとき、自らの営みに、ふと疑問も抱く。「当事者の声」は、本当に聞けるものなのだろうか? そもそもいま、「当事者の声」はどんな状況にあるのだろう。星加良司・東京大学バリアフリー教育開発研究センター教授に尋ねた。
Photo by Andreas Rentz/Getty Images
「社会が変わってしまう」という以前に、社会は変わり続けている。だからこそ、悩む。誰によって、何の資格があって、どんな方法で、何に気をつければ、メディアは「当事者の声」を聞くことができるのだろう。いや、そもそも「当事者」とされる人は自身の声を「当事者の声」として届けたいと思っている、というのも前提としていいのかどうか。いったい、どこから考えていけばいいのだろう……。
本記事は、障害学の第一人者である星加良司教授をお呼びしての、編集部の悩み相談であり、たどり着く先を決めずに続けたお喋りであり、それらに対する星加教授からの真摯な応答である。
interview by Sonoka Sagara / Saki Kudo / Fumihisa Miyata / Kei Wakabayashi
text by Fumihisa Miyata
星加良司|Ryoji Hoshika 東京大学教育学研究科附属バリアフリー教育開発研究センター 教授/組織変革のためのダイバーシティ(OTD)普及協会理事。1975年、愛媛県生まれ。東京大学文学部卒業、同大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(社会学)。東京大学先端科学技術研究センター特任助教等を経て現職。主な研究分野は障害の社会理論、多様性理解教育。
Photo by Chip Somodevilla/Getty Images
「マジョリティでよかった」と言ってるだけ?
──当事者ではないメディアが本当に当事者の話を聞けるのか、よくわからず……星加さんに伺いたく、お声がけしました。
なるほど、大きなテーマですね。
──最近は新聞などで、社会問題の当事者に話を聞きに行った書き手が、自身の感想を編集後記的に加えるケースが散見されます。ただ、「自分のマジョリティ性に気づいた」というニュアンスだと、それもまた引っかかるところがあって……。
「マジョリティ性に気づいた」という言い方に問題を感じるという場合、いくつかのパターンが考えられると思います。ひとつは単純に、自分がマジョリティであることに安心してしまうだけになっているケースです。例えば、学校で障害をもった人の講演会などを行って、子どもたちに感想を求めることがありますよね。そうしたときによく「あの人たちは大変だけど、自分たちは五体満足で元気なんだから、もっと頑張らなきゃいけない」という反応が出てきますが、自分がマジョリティでよかったと言っているだけで、マイノリティとの既存の関係を再生産してしまっているんです。メディアの発信の場合にもこれと似たにおいや気配が含まれていると、批判されるポイントのひとつにはなるのでしょう。
もうひとつ考えうるのは、「マジョリティ性を問い直す」ということばが半ば定型句となり、良心的知識人の振る舞いとしてそれを身につけてしまっているケースですね。反省のことばを加えて一丁上がりというような単純な形式に陥っていないか、本当に問い直す契機になっているのかどうかが、社会的な反応を分けるリトマス試験紙のような基準点になりつつある気がします。
──当事者の声を届けるメディアの人が、「最近は当事者が声を発するのをためらうことも多い」とこぼすのを耳にしたことがあります。インクルージョンが謳われる一方でバックラッシュも激化し、声を発することで何かを失うデメリットに目が向いてしまうのかもしれません。
当事者へのバッシングを生むリスクは、高まっているとは思います。それにはいくつかの文脈があります。ひとつはマイノリティのプレゼンスが以前に比べて高まってきたことです。社会の正当なメンバーとして承認され、権利の主体としてニーズを発信する存在であることが、少なくとも理念としては共有されるようになったことで、以前よりは声を発しやすくなってきました。しかしその反作用として、マジョリティ側に、自分たちが無自覚に享受してきた特権性が脅かされるという潜在的な懸念あるいは内面的な鬱憤のようなものを感じる状況が生まれている。
他方でバックラッシュの言説を発信するメディア環境が、SNSを含めて以前より身近になり、匿名性により発言のハードルも下がっている。こうした状況のなかで、何らかの当事者、あるいはマイノリティの側が声を上げたときに、ネガティブなリアクションが返ってくるリスクは高まっているのでしょう。
──当事者が声を上げるとき、不可避的に起こってしまう事態なのでしょうか。
不可避ではない。少なくとも、そう信じたいですよね。こうした対立的なコミュニケーションを、より協調的・対話的なコミュニケーションにどう変容させていくかが、実践的にも学術面においても大きな課題です。先ほど申し上げたふたつの文脈のうち前者に関しては、ダイバーシティ(多様性)が少なくとも理念的な価値としては重視されるようになっている世の中において、マジョリティ側の反作用が起きないかたちで、いかにマイノリティの声を聞き取るレディネスやマインドセットをつくっていけるかが焦点です。一方でのSNSなどのメディア環境に関しては、人びとの意識に働きかけていく教育的なアプローチと、ある程度の規制をかける技術的・制度的アプローチの双方が必要なのだと思います。
「カテゴライズ」の危険性と有用性
──対話を協調的なものにしていくには、どんなアプローチが考えられますか。
まず基本的な観点として、特権性の自覚をどのように促していくかが重要です。反作用として当事者への反感を抱く人のなかにも、いくつかの類型があると思うのですが、そのひとつとして「そもそも自分が特権をもっていることに気づいていない」タイプがあります。気づいていないからこそ、マイノリティの声がフィーチャーされる状況が生まれると、自分たちよりもマイノリティが優遇されていると思ってしまう。
こういう人に関しては、マジョリティ側の日常が労せずして有利な立ち位置を確保できていることを伝えねばなりません。マイノリティは、そうした立ち位置へ公平にアクセス可能にしてほしいと権利主張しているだけで、特別に優遇せよという話ではないというロジックを、納得性の高いかたちで伝えていくというアプローチですね。
──反感を抱く人は、いろんなタイプがいそうですね。
厄介なのは、「自分が社会のなかである程度優位な立ち位置で生きている、とうすうす気づいているけれども、だからこそそれを手放したくない」タイプです。こういう人に対してお説教をしてしまうと、余計に頑なになってしまう。そこで、できるだけ「内発的な動機づけ」を促すことが重要になります。人から言われて変わるのではなく、「自分のあり方ってやっぱりまずいのかな」と自ら気づいて少しずつ特権を手放していく、あるいはその必要性に思いを致していくという心の動きが生じるよう、働きかけていくわけですね。また、それが難しい場合には、特権を手放すことにインセンティブが生じる制度設計をして、動機づけを後押しするという方法もあります。組織のなかであれば、特権性を手放せば評価につながるような具体的なインセンティブを与えていく、望ましい行為を称賛するといったように、その行為を動機づけていくわけです。
──他方の当事者側も、例えばメディアが「女性」や「障害者」というカテゴリーのもと個人にフォーカスしようとすると、その人自身はそうしたカテゴライズを好まないという難しいケースもありますよね。
個人にフォーカスするとき相手をカテゴリカルにレプリゼントしようとすると、表象の暴力が働いてしまうことがあります。特に社会的マイノリティに関するカテゴリーについては、当事者であるマイノリティの側が使うカテゴリーを優先する、という考え方が基本であるべきでしょう。カテゴリカルに物事を捉える権力を、どちらの側がもつのかという観点が重要です。
マイノリティはこれまで、マジョリティの側から表象されてきたわけです。障害者であれば、健常者が障害者を定義してきた。あるいは女性であれば、男性によって、女性なるもの、女性的なるものが定義されてきた。この権力の不均衡な配置が、問題の根源のひとつです。こうした意味において、どういう場面でどんなカテゴリーを用いるのか、誰がそれを決める力をもつのかが、大事だと思います。
この前提をきちんと踏まえた上で、社会問題をフィーチャーする際に、マイノリティに関するカテゴリーを使っていくことは、社会の偏りや歪みを浮き彫りにするために有効であり、必要な場合が十分にあります。
障害スポーツ大会「Invictus Games」の取材に詰めかけた報道陣。2014年、ロンドン。Photo by Chris Jackson/Getty Images
マイノリティの声を聞かないのはもったいない
──障害学が提起してきたものとして星加さんが言及してきた「障害の社会モデル」に関連するお話ですね。
「社会モデル」は、従来の常識だった認識枠組みである「個人モデル」に対するアンチテーゼとして提起されたものです。「個人モデル」は障害者が体験する困難や不利益というものを、マイノリティの心身の特性から説明したり理解したりしようとする考え方です。これに対する社会モデルというのは──私が最近好む説明の仕方になりますが──マジョリティとマイノリティの間の不均衡な、あるいは非対称的な関係性によって問題が生じている、という理解の仕方です。
既存の社会はマジョリティを基本的なメンバーとして優先してつくられている結果、当然環境に偏りが生じます。マジョリティには使い勝手がよかったり暮らしやすかったりしても、ニーズが考慮されていないマイノリティの側にとっては使い勝手が悪くて暮らしづらい。このように、マジョリティ中心に組み立てられている社会の非対称的なあり方のほうに問題の原因を見いだしていくのが、社会モデルなんですね。
これは「マイノリティ問題」の捉え方に大きな転換をもたらします。従来の個人モデルだと、マイノリティの困難はマイノリティ側の事情で生じていることになりますから、マジョリティにとっては、どこまでいっても「自分以外の誰か」の問題に留まってしまいます。これに対して、社会モデル的な理解では、マジョリティ中心につくられている現在の社会がマイノリティの困難をもたらしている、マジョリティとマイノリティの非対称な関係こそが問題だということになりますから、マジョリティ側も自分自身の立ち位置を問わざるを得ない、つまり「自分事化」して理解していかざるを得ないわけです。
──「社会モデル」は特権性の自覚を促し、分断に架橋する起点なんですね。
「架橋」という点について言えば、私が最近レトリックとして強調しているのは、マイノリティが感じている問題や困難はマイノリティの状況改善のためだけに考えるべきものではなく、マジョリティの側にとっても有用なものなんだという感覚を、双方とももつということです。こうした認識を共有できれば、マイノリティ側も「わがままで言っているわけではなく、社会全体の役に立つことだ」と思えて発言しやすくなり、マジョリティ側も「相手が一方的に要求していることではなく、その声を通じて自分自身にとっても状況がよい方向に変化していくんだ」ということで、過度にディフェンシブにならずにオープンな態度が可能になるのではないか。半ば方便ではあるのですが、そのように考えることで、マイノリティの声の位置づけを少しずつ変容させていくことはできないかと思っているんです。
──「有用」とは、どういうことでしょうか。
マイノリティの声がなぜマジョリティにとって役に立つのかというと、一般論ではありますが、マジョリティの知識や認識というのは、すでに社会に組み込まれている制度や規範や常識に沿うものが多くなりますから、現在の社会のあり方を維持・継続する保守的な方向性につながりやすい。
対するマイノリティの視点には、いまの社会に対する何らかの引っかかりや違和感が多く含まれていますから、これまで当然だと思って問い直しすらしていなかった常識に揺らぎを与え、異なる視点から別の可能性を提示することになる。イノベーションやブレイクスルーということばがありますが、固定観念や先入観にとらわれて得られずにいた新しい発想や物事の捉え方が生まれ、広がる可能性がそこにはあるわけです。
マイノリティの視点は、現状に対するオルタナティブを構想していくための種、ヒントを含んでいると位置づければ、マジョリティも含めた社会全体にとって有益な知識として捉えることができる。もちろんマイノリティの視点のすべてがポジティブな可能性につながるわけではなく、無駄なものも当然あるし、あって然るべきです。すべての声がイノベーティブな発想につながるという話ではまったくないわけですが、とはいえ声をすべて封じてしまっては、そのなかに含まれている可能性もオミットしてしまう。それはもったいない、ということは言えると思います。
──とはいえ、「イノベーティブな社会のために意見を出せ」とマイノリティに声を求めるのもよくないですよね。
おっしゃる通りです。さらに言えば、「マイノリティ側が自らのリアリティについて言語化せよ」という圧力・規範のようなものが、以前よりも強まっている印象があります。それはマジョリティ側からの要請だけでなく、マイノリティ集団のなかからも求められることがあって、それらがある種の息苦しさを生みだしているという面も往々にしてあるはずです。基本的な考えとして、私たちが何らかのコミュニティの一員として生きている上で、自分の意見を表明しろと過剰に要請される事態には警戒したほうがいい。
特に個人にフォーカスするときは、どの場面でどのカテゴリーにおいてどう発言するか、その当事者にコントロール権があることが重要です。自分が必要だと思うなら発言すればいいし、思わなければしなくてもいい。もちろん、企業や大学など、何らかのアウトプットを出すことを存在理由として成り立っているような機能集団、組織のなかでは、その価値の創出に対して一定程度のコミットメントが求められるという意味で、それなりの役割が期待されることはあると思います。ただし、いわゆるコミュニティ・共同体の一員として生きている限りでは、そのような役割を求められる筋合いはないわけですから、そこは文脈を分けて考える必要がありますね。
「『「社会」を扱う新たなモード:「障害の社会モデル」の使い方』飯野由里子・星加良司・西倉実季|音読ブラックスワン#103」。『「社会」を扱う新たなモード』は、生活書院より2022年に刊行された
その「発信」で傷つくのは誰?
──話は変わりますが、当事者の声を表象する上で、フィクションの可能性をどのように感じていらっしゃいますか。近年も、自閉スペクトラム症を抱える女性弁護士を主人公にした韓国発のドラマ『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』などの例があります。
伝えたいメッセージ次第、という気がします。当事者性の発露が有効に働く場面と、ある意味では認識の広がりを邪魔してしまう局面があるような気がしているんです。例えば、ある人に寄付が必要だというメッセージを発信するとき、その当事者の人となりが見えるような具体性はすごく重要で、だからこそ直接的・即時的な応答につながっていく。一方で、問題を自分事化していったり、あるリアリティに共鳴・共振していったりというときには、あまり当事者の具体性が前面に出過ぎると「自分とは違う」と他人事になってしまい、認識の広がりを生む上で壁になってしまうこともありえます。
フィクションの形をとることで、問題が抽象化・汎用化され、むしろ本質が伝わりやすくなり、「それだったら自分にも、自分の周りにもあるよね」と問題が共有されていくこともあるし、「同じような立場で困っている人たちに必要な制度をつくりましょう」という議論につながることもあるでしょう。その上で、とりわけ当事者ではないつくり手がフィクションを通じてメッセージを伝えようとする際には、注意しておくべき点もあります。メディアを含めたつくり手が、感度を上げていく必要があることは大前提ですね。
──メディアのつくり手としては、感度を上げなければならないのはもちろん前提として、いったい自分たちがどのレベルまで公共的な存在なのか、発信を受け取った人が傷ついてしまう危険性にどこまで責任をもちうるのか、正直わからないところがあります。
微妙なところですよね。メディアは経済学的な意味での公共財であるとは限りませんが、多くの人に開かれた存在ではありますし、規模によっては社会に大きな影響を与えていくことがある。そこで受け手が傷つくという場合もさまざまなケースがあるわけで、ではどこで線引きをするのか。今日お話しした内容を踏まえると、不均衡な構造が前提としてあるとき、その発信で傷つくのがマイノリティ/マジョリティどちらなのかを考える、というのはひとつの方針になるのではないでしょうか。他に公共哲学などの領域で語られるアイデアとしては、インターナルなプリファレンス(選好)なのか、エクスターナルなプリファレンスなのかを考える、ということですね。
要は、受け手のライフに直接関連するものなのか否か。よく例として挙げられるのは、同性愛嫌悪の価値観をもっている人が、同性愛が認められる社会のなかで生きるのは自分にとっては耐えがたいという感覚をもつことをどこまで考慮するべきか、というような問いです。
この例の場合、同性愛が認められる社会であるということは、その人自身のセクシュアリティおよび社会生活に対して直接的に影響を与えるものではないので、そういうプリファレンスに関しては、優先順位を下げていいという判断が成り立ちます。逆にその人の生活に直接関連するようなことについてのプリファレンスは、より優先度高く考慮すべきだ、という議論になるわけです。
すべてがクリアに振り分けられるわけではないですが、このようないくつかの観点を組み合わせながら、それぞれのポリシーと照らし合わせて考えていく、ということしかないのかなという気はします。
Netflixでも配信中の韓国ドラマ『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』(2022年)の予告編
次週3月7日は、ITを駆使した「搾乳ロボット牛舎」に特化したサービスを提供するフィンランドの「4d Barn」の取材レポートを配信。ウシとヒト双方のウェルフェアに配慮した、未来の酪農について考えます。お楽しみに!
【WORKSIGHTのイベント情報】
3月8日(水)19:00-21:30
「Kゾンビになってみる:ダンスワークショップ」@黒鳥福祉センター
ゾンビを知るには、なってみるのが一番!このたび、 ゾンビの身体性を一気にアップデートした「Kゾンビ」(=韓国ゾンビ)のムーブをマスターする、またとないワークショップを開催します。
のろくて鈍いゾンビから、屈強、俊敏、アクロバティックなゾンビへ。『新感染 ファイナル・エキスプレス』を筆頭に、『キングダム』『今、私たちの学校は...』といった韓国ドラマは、第一線で活躍するストリートダンサーを振付師として招き、まさにゾンビムーブの新地平を開拓しています。
本ワークショップでは、特集内で紹介したKゾンビの基本ムーブを、現役ダンサーのeriiさん、Jin Furuyaさんを講師に招いて伝授。死んでいるはずなのに驚異の身体性を誇るKゾンビの不思議を、みなさんとディスカッションしながら体感していきます。
また、記事制作を担当したゾンビフリークの編集者・野口理恵さん(rn press)に、WORKSIGHTコンテンツディレクターを務める黒鳥社の若林恵も参戦!おすすめのゾンビ映画やドラマなどを紹介しつつ、みなさんと汗をかきつつ、Kゾンビになる大変さを味わう予定です。
ゾンビ好き、韓国ドラマ好きから、最近運動不足に悩んでいる方まで、みんな大歓迎!さあ、みんなでゾンビになってみよう!
【ワークショップ概要】
■日時:3月8日(水)19:00 - 21:30
■会場:黒鳥福祉センター / blkswn welfare centre(東京都港区虎ノ門3-7-5)
■タイムライン:
19:00 トークセッション(出演:野口理恵、若林恵)
19:20 ストレッチ
19:35 ゾンビダンス基礎編〜Kゾンビについて学びながら4つの基本の動きをやってみよう〜
ゾンビダンス実践編〜みんなでゾンビになってみよう〜
21:30 イベント終了
■ダンス講師:erii・Jin Furuya
■出演:野口理恵(rn press)・若林恵(黒鳥社)
■定員:10名
■主催:WORKSIGHT/黒鳥社
3月9日(木)19:00-21:30
「ゾンビ本コンシェルジュによる一夜限りの対面販売会」@代官山 蔦屋書店
代官山 蔦屋書店1号館2Fのイベントスペースに「ゾンビ本」が一挙集結。一夜限りの「ゾンビ本コンシェルジュ」による、書籍の対面販売会を開催!
ゾンビを取り上げた書籍はもちろん、植民地主義、資本主義、新自由主義をテーマに現代社会を穿つシリアスな著作、哲学書から漫画、新刊からマックス・ウェーバーや福沢諭吉の古典的名著まで。多種多様なゾンビ本をずらりと取り揃えた、代官山 蔦屋書店だけの体験型展示即売会。
WORKSIGHT編集長・山下正太郎、フリー編集者の宮田文久、黒鳥社・若林恵の3名が一夜限りの売り子/コンシェルジュを務めます。それぞれが販売台ごとに分かれ、自身がセレクトした「ゾンビ本」の見どころ読みどころを解説しながら、あなたにぴったりのゾンビ本をおすすめします。わいわいとゾンビ談義をしながら、読みたい一冊に出会う、またとない機会です。
また、イベントの前半には「ゾンビ本コンシェルジュ」3名によるトークセッションも開催。ゾンビ特集の書籍を制作する上で、参考にした書籍や映画、論文の話を中心に、制作背景から、取材のなかで感じたことなど、ざっくばらんにお話しします。
トークセッションはただいまpeatixにて、来店とオンラインそれぞれでチケットを販売中。イベントの後半パート「ゾンビ本対面販売」はチケットの有無問わず、どなたでもご参加いただけます。おすすめのゾンビ本がずらりと並ぶイベントスペースへ、お気に入りの「ゾンビ本」を探しにぜひ遊びに来てください!
【イベント概要】
■日時:2023年3月9日(木)19:00 - 21:30
■会場:
①代官山蔦屋書店(東京都渋谷区猿楽町16-15) 1号館2Fイベントスペース
②オンライン(zoomウェビナー)
*前半パート「刊行記念トーク」のみの配信となります。
■タイムライン:
19:00 - 20:00 刊行記念トーク(18:45 開場)
20:00 - 20:10 10分休憩
20:10 - 21:30 出演者3名によるゾンビ本対面販売
■出演/コンシェルジュ:山下正太郎・宮田文久・若林恵
■共催:代官山 蔦屋書店/WORKSIGHT/黒鳥社