異郷の“庭”に植えるもの:ドイツの市民農園「クラインガルテン」の新時代
ドイツの「クラインガルテン」は、都市に暮らす人びとが小さな区画を借りて野菜や花を育てる市民農園。都市の生態系を支える一方、厳格な利用ルールがあり保守的な独文化の象徴とも見なされてきたが、近年移民が借りるケースが増加中。日本からの移住者であり、最近ユーザーとなった筆者が、トルコ系移民の営みを写すフォトグラファーへ取材しながら(記事後半には写真ギャラリーも)、新たな風景を考察する。
トルコ系の人びとが使用するクラインガルテンでは、観賞用の花よりも野菜が好んで植えられるという。ヒマワリは種が食べられるため植えている人も多い photograph by Emine Akbaba
interview and text by Makoto Okajima
自宅から5分の「世界の縮図」
庭は、世界の最も小さな区画であり、それゆえに世界全体でもある。庭は太古の昔から、幸福にして普遍的なヘテロトピアであった。
——ミシェル・フーコー「他なる場所」(以下、同書からの引用は本稿筆者訳)
フランスの哲学者ミシェル・フーコーは、1967年の講義「他なる場所」において、「ヘテロトピア」(異郷)という概念を提唱した。ヘテロトピアとは、「現実世界の中にありながら、通常の社会的・空間的な秩序とは異なるルールが適用される特殊な場所」を指し、修道院、刑務所、博物館、劇場などがその例として挙げられている。そのなかでも最古のヘテロトピアの一例として、フーコーは「オリエントの庭園」を取り上げた。曰く、庭は単なる土地ではなく、象徴的な意味をもち、多様な文化や歴史が凝縮された「世界の縮図」である。ドイツ語で「小さな庭」を意味するクラインガルテンもまた、このヘテロトピアの一形態であるといえるだろう。
あるクラインガルテンの航空写真。160ほどの小さな庭の区画が並ぶ様子は、まるで小宇宙のよう photograph courtesy of Mariannengärten Leipzig e.V.
そもそもクラインガルテンとは、19世紀のドイツで誕生した小屋付きの市民農園のことを指す。その歴史については後述するが、現代においても趣味のガーデニング用途だけでなく、居住空間の拡大、子どもの遊び場、エコロジーを学ぶ場、地域コミュニティとの接続など、ドイツの都市生態系にとって重要な構成要素となっている。ドイツ・クラインガルテン協会連合によると、現在、約1万3000件のクラインガルテン協会があり、約500万人が利用している。特にコロナ禍ではその人気が高まり、利用者も急増したという。
ライプツィヒに住む筆者は、昨年、150平方メートルほどのクラインガルテンを借りることになった。というのも、子どもが生まれてから自宅が手狭に感じられ、オフィスを借りるか引っ越すかを考えていたところで、クラインガルテンという選択肢に行き着いたのだ。ウェイティングリストに登録して何年も待つことも珍しくないそうだが、近隣のクラインガルテン協会に問い合わせたところ、幸運にもすぐに借りることができた。
9月のよく晴れた日、わたしたち家族(日本に生まれ育った夫とわたし、ドイツ生まれの0歳児)はクラインガルテンの契約書にサインをし、鍵を受け取った。クラインガルテンの敷地内には高い建物が一切ないため、都市にいながら空がとても広く感じられる。野菜や果物を育てるだけでなく、晴れた日はバーベキューやプール遊びができるし、小さな小屋にはキッチンやソファが置かれている。きれいに片付ければ仕事部屋としても使えそうだ。自宅から5分の距離に「リビングルーム付きの庭」を手に入れたことは、想像以上の喜びだった。利用料は年間約350ユーロと格安で、賃貸契約は30年。もちろん途中解約は可能だが、ビザの更新を3年ごとに行っている自分たちにとって、この国と30年という長いスパンで新たな関係を結んだことは、不思議な感覚だった。
自給自足の手段から、秩序・規範の象徴へ
クラインガルテンの歴史を紐解いてみると、その起源は先述の通り、19世紀初頭のドイツに遡る。穗鷹知美『都市と緑:近代ドイツの緑化文化』(山川出版社)や、「ナショナル・ジオグラフィック」ドイツ語版の記事などを参考に歴史をまとめると、クラインガルテンは、都市に暮らす貧困層の自給自足を促すため、市有地が野菜栽培用地として提供されたのが始まりだった。産業革命による急速な都市化と労働環境の悪化により、労働者たちは過酷な生活を強いられ、社会的な不安も高まっていた。これを和らげるため、行政や地主は鉄道沿いや交通路周辺の余剰地を、労働者向けの庭園区画として提供したのだ。
これにより、労働者たちは食糧を自給する手段を得るとともに、都市のなかに私的な避難所をもつことができた。クラインガルテンは、単に貧しい食事を補うためだけでなく、彼らが家族的な感覚を取り戻し、厳しい都市生活のなかで小さな夢を実現するための空間となったのだ。こうしてクラインガルテンは、いわば世界のなかの世界、都市のなかにある個人的な楽園へと発展していった。
ちなみにドイツでは、クラインガルテンは「シュレーバーガルテン」とも呼ばれている。これは、ライプツィヒの教育思想家で整形外科医であり、厳しい教育器具「シュレーバー式矯正器」の開発でも有名なモーリッツ・シュレーバーに由来する。彼は子どもたちの健康的な遊び場の必要性を訴え、彼の死後、その弟子であるエルンスト・イノツェンツ・ハウスヒルトがライプツィヒに児童のための公共の遊び場を設置し、シュレーバーの名を冠したことが由来となった。
その後、クラインガルテンは20世紀の工業化による失業者の食糧対策としての役割を果たすようになった。第二次世界大戦中は、食糧不足を補うためにナチス政権によって保護され、戦後は仮設住宅としても利用されたという。さらに冷戦下の旧東ドイツでは、輸入品が高価または入手困難であったため、社会主義政府は個人の菜園での果物や野菜の栽培を奨励した。さくらんぼやいちご、高価な野菜などは、基本的にクラインガルテンでしか手に入らなかったといい、余剰収穫物は買い取り所にもち込んで売ることができたほか(現在は収穫物の販売は禁止)、個人が収穫物と日用品を物々交換することも一般的だったという。
このように、クラインガルテンは時代とともに社会的役割を変えながらも、常にドイツ社会にとって不可欠な存在であり続けてきた。一方で、クラインガルテンの発展に伴って法律が整備されると、庭の外観や植えてよい植物の種類、雨水タンクやコンポストの設置義務、農薬の使用禁止など、多岐にわたる厳格なルールが設けられた。その結果、しばしば「秩序」や「規範」を重んじる保守的なドイツ文化の象徴として批判されることもあった。
写真上:1928年、ライプツィヒのクラインガルテン協会で行われたサマーフェスティバルの様子。初期のクラインガルテンは、子どもの遊び場としての側面が強かった 写真下:1975年、旧東ドイツ地域のクラインガルテンで、庭で取れた果物を販売用に加工する家族 photograph courtesy of Deutsches Kleingärtnermuseum e.V.
「併存」するドイツ人と移民
さて、クラインガルテンを無事に手に入れたわたしたち家族は、まず小屋の片付けと畑の雑草を抜くことから始めた。クラインガルテンの敷地自体はライプツィヒ市から格安で借りているのだが、庭に植えられた植物や小屋、ビニールハウス、庭仕事の道具などは、前の借り主から買い取って引き継ぐというシステムになっている。自分たちの庭を一からつくり上げるというよりは、過去の借り主たちがつくってきた庭に、少しずつ自分たちの色を足していくような感じだ。
わたしたちの庭の以前の借り主は、高齢のドイツ人男性で、庭作業が難しくなったため手放すことにしたという。どうやら彼はかなり物を溜め込むタイプだったようで、小屋のなかからは100本ほどのフォークやナイフ、80個ほどのグラスや皿、大量のビール会社の販促グッズやミニカーコレクションなどが出てきた。その片付けには途方もない時間と労力がかかった……が、この話だけで別の記事が書けそうなので、ここでは割愛する。
畑づくりと小屋の整理が進むと、「どんな野菜を育てようか」「小屋の内装をどうしようか」と、楽しい想像が膨らんでくる。周囲の庭を見渡せば、借り主それぞれの個性が色濃く反映されている。クラインガルテンには「3分の1ルール」という決まりがあり、敷地の3分の1は野菜や果物の栽培、3分の1は簡易キッチンなどを備えた小屋、残りの3分の1は余暇を過ごすための空間として利用することが義務付けられている。一方で、庭のデザインや植える植物については比較的自由度が高い。数十年にわたって庭を借りているベテラン庭師のおじいさん・おばあさんも少なくなく、美しい庭をつくり上げる、そのしっかりと行き届いた手入れの程には舌を巻く。
しかし、なかでも一際わたしの目を引いたのは、トルコ系やアジア系移民の人たちがつくる庭だった。トルコ系の人びとがトウモロコシやインゲンを育てていたり、アジア系の家族が自作の池で鯉を飼っていたりと、文化的背景の違いは庭のスタイルにも表れる。2018年の調査を見ても、移民の背景をもつ利用者が一定数存在することがわかるが、彼らにとって庭は祖国の農作物を育てる場であると同時に、ドイツのコミュニティに溶け込む手段にもなっている。さまざまな背景をもつ人びとの庭が、それぞれに故郷の薫りを漂わせながら、静かに共存している印象を受けた。
とはいえ、「共存」というよりは「併存」と言ったほうが正しいかもしれない。わたしたちが借りているクラインガルテンでは、借り主同士の関係は挨拶を交わす程度で、それほど深い交流があるわけではない。ただし、借り主には年に6時間のボランティア活動が義務付けられており、その際には共用スペースの清掃や、借り手が見つからず荒れた庭の片付けを一緒に行うことがある。そうした場面では、ドイツ人のおばあさんに枝の剪定方法を教わったり、休憩時間にお互いの庭を見せ合ったり一緒にコーヒーを飲んだりと、ゆるやかな交流が生まれる。
また、園芸初心者のわたしたちの不慣れな作業を見かねた隣人が、道具を貸してくれたり、使い方を教えてくれたりすることもあった。「保守的で厳格なルールがある」と聞いていたクラインガルテンだが、実際には、わたしたち外国人の存在がそれほど特別視されることはなく、むしろ互いにあまり干渉しないことが心地よく感じられる空間となっている。
筆者がライプツィヒでドイツ人のおじいさんから引き継いだ庭。ちなみに、クラインガルテンの小屋に住むことは法律で禁止されているが、数日宿泊するくらいなら問題ない photographs by Makoto Okajima
トルコ系移民の庭を写す
近年、ヨーロッパでは極右勢力が勢いを増しており、ドイツも例外ではない。特に旧東ドイツ地域では極右政党の支持率が高く、移民排斥の傾向が強まっている。外国人である自分にとっても、このような社会情勢は決して安心できるものではない。しかし、そんな世の中の流れとはどこか切り離されたように、クラインガルテンには独自のルールと時間軸が存在しているように感じられる。
「異なる空間」(=ヘテロトピア)としての特性に興味をもったわたしは、クラインガルテンと移民の関係性について調べるなかで、エミネ・アクババさんという写真家の作品「ミクロコスモス・シュレーバーガルテン」(Mikrokosmos Schrebergarten、2013-)に出会った。この写真シリーズでは、クラインガルテンで生き生きと過ごすトルコ系の人びとの姿が捉えられている。エミネさん自身も、ドイツで生まれ育ったトルコ系移民2世。今回、ニュースレターに作品を掲載させていただくとともに、その取り組みについて話を聞くことができた。
──エミネさんは、もともとクラインガルテンについてどのようなイメージをもっていましたか。また、なぜ作品のモチーフにしようと思ったのですか。
いとこがクラインガルテンを借りていたのがきっかけで、興味をもちました。この作品を撮影していた2010年代前半、クラインガルテンを移民の人びとが借りることはまだ一般的ではありませんでした。ドイツ的すぎて、堅苦しく感じられたのです。しかし、夏に庭で人と集まり、共に時間を過ごせる場所があるということに、わたしは魅力を感じました。
しかし、何よりもわたしを強く惹きつけたのは、母の姿でした。彼女が庭で生き生きとしているのを見て、この場所がいかに彼女にとって大切かを実感しました。母にとってクラインガルテンは、故郷であるトルコや幼少期の記憶を思い起こさせる場所だったのです。豆やトマト、ナスを育てることは、単なる家庭菜園ではなく、彼女にとって「故郷」と「自由」の象徴でした。親しみのもてる場所、心の拠り所とも言えるでしょう。そうしてわたしは、これらの庭の風景を記録し始めました。
──作品に登場するトルコ系の人びとは、どのように見つけたのですか。
トルコ系移民が利用する庭を探すため、わたしはさまざまなクラインガルテンを訪れました。トルコ系の家庭が管理する庭を見つけたら、その家庭にお願いして撮影をさせてもらい、さらに親族や知人のつながりを通じて、ほかのトルコ系の人びとの庭を撮影できるよう頼んだのです。
──エミネさんが撮影したトルコ系移民の人びとは、クラインガルテンをどのように利用していましたか。印象に残っているシーンなどがあれば教えてください。
わたしが撮影したトルコ系の人びとの庭では、主に野菜が育てられていました。豆やトマトは特に多く、種はトルコからもち込まれることもあります。これはトルコの文化において重要な要素です。特にドイツへ移住した移民第一世代の多くはトルコの農村部出身であり、わたしの家族もそうでした。彼らは農作業に親しみをもち、それが彼らにとって故郷を感じる手段でもあるのです。そのため、庭は単なる余暇を過ごす場所ではなく、家族が集う場としても機能していました。週末には親族が集まり、家族の祝い事が行われ、料理がつくられ、女性たちはトルコの伝統的なパンを焼きます。まさに「交流の場」としての庭でした。
──極右政党の台頭や外国人排斥の傾向が強まる今日のドイツにおいて、移民がクラインガルテンを利用することには、どのような意味があると思いますか。またその姿を作品として記録することに、どのような意義を感じていますか。
わたしの作品において、ドイツにおける移民の暮らしを可視化することは非常に重要なテーマです。わたしはトルコ系のルーツをもつ人間として、「わたしたちはここにいる」「わたしたちも社会の一員である」ということを示す必要性を感じています。ドイツ社会は多文化的であり、「ドイツ的」「トルコ的」「ロシア的」「アラブ的」といった単純な区分では捉えきれません。文化は互いに影響し合い、混ざり合っています。それは今後も変わることはありません。たとえ極右政党が憎しみに満ちた政治で分断と恐怖を煽ろうとしても、それに負けるわけにはいかないのです。わたしの作品は、まさにその現実を映し出しています。「ドイツの典型的なクラインガルテンは、もはやドイツ人だけのものではない」。それがわたしの伝えたいことなのです。
Mikrokosmos Schrebergarten
by Emine Akbaba
“ミクロコスモス・シュレーバーガルテン”
エミネ・アクババ 撮影
(写真上から)ヒジャブを被った女性たちがベンチで談笑する傍らには、ドイツの庭でよく見られる赤い帽子の小人の置物「Gartenzwerg」が佇んでいる/クラインガルテンでトルコのボードゲーム「Okey」をプレイする人びと。このゲームは、トルコではどの家庭にもあるというほど親しまれている/クラインガルテンにて、「Sac」と呼ばれる大きな鉄板でパンを焼く女性たち/庭の片隅に置かれたトランポリンで遊ぶトルコ人女性。ドイツの庭にはトランポリンが置かれていることが多い。
蓄積する植物と時間
エミネさんの作品に写る人びとの姿からは、クラインガルテンが移民にとっても自律的に運営できる空間であることが伝わってくる。異なる世代や文化的背景をもつ人びとが、それぞれのやり方で庭を耕し、種を蒔き、そして次の世代へと受け渡していく。ここでは、植物を育てること、ゆるやかに分かち合うこと、ルールに従いつつも独自の方法を模索することが、日々の営みとして繰り返されている。その様は、フーコーが庭を例に描写した「ヘテロトピアは、それら自体では相入れないいくつかの空間や場所を、一つの現実の場に並置することができる」ということばと重なるだろう。
2025年2月のドイツ連邦議会選挙では、移民排斥を訴える極右政党「ドイツのための選択肢」(AfD)が第二党となり、152議席を獲得した。ナチスを生んだ歴史をもつドイツでは、これまで右翼への警戒感が強かったが、その均衡が大きく崩れ、不穏な空気が社会に広がっている。こうした状況のなかで、わたしたちはこの国にあとどれくらいいられるのかを考える機会が増えた。
そんなわたしたちが最初にクラインガルテンに植えたのは、子どもの名前にも字が入っている杏の木だった。長年外国で暮らしていると、自分たちが根無し草のように感じられることがある。引っ越しで困らないよう、大きな家具はなるべくもたずにいたわたしたちが、地面に木を植える日が来るとは思ってもみなかった。
クラインガルテンの歴史は、200年以上にわたる継承と循環の積み重ねでできている。庭の区画は綿々と引き継がれ、植えられた植物や土壌の微生物は変化しながらも持続してきた。その意味では、クラインガルテンは私的な空間のようでありながら、同時に強い公共性をもっている。いつかわたしたちがこの庭を手放す日が来ても、杏の木は別の借り手に世話され、やがて土に還る。植物や土、時間が積み重なり、庭は個人の所有を超えた蓄積となる。そうした営みのなかで、この庭は誰かのものになりながら、誰のものでもない場所へと育っていくのかもしれない。
次週3月25日は、人類学の最前線に立つティム・インゴルド氏のインタビュー記事を配信します。氏が最新刊『世代とは何か』(亜紀書房)で主張した、異なる世代の人たちと協働することの重要性とは果たして何なのか。本書の内容に触れながら、ジェンダーとジェネレーションの関係性や、日本独自の世代論など、本書に収められなかった考えや視点についても伺います。お楽しみに。
【研究員募集のお知らせ】
WORKSIGHTの発行母体であり、未来社会のオルタナティブを研究する機関であるコクヨ株式会社ヨコク研究所と、その傘下にある新しい働き方・働く場を探求するワークスタイル研究所で、リサーチャーを募集します。社会や働き方の未来を共に描き、変革を促す仕事です。奮ってご応募ください。
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