グローバルからプラネタリーへ:哲学者ユク・ホイの最新政治技術論【書評・岡本裕一朗】
香港気鋭の哲学者ユク・ホイが提示した新しい政治思想「惑星的思考」は、20世紀から21世紀初頭にかけて世界を席巻したグローバリズムをいかに乗り超えることができるのか。新著『Machine and Sovereignty』(機械と主権)でユク・ホイが描いた国家主権と経済システムの未来図を、同じく哲学者である岡本裕一朗氏が読み解く。
photograph by Federico Magi/Mondadori via Getty Images
text by Yuichiro Okamoto
21世紀が始まった頃、世界には暗雲が立ち込めていた。ほどなくして「9.11 米国同時多発テロ」が起こり、その後アメリカはアフガニスタンやイラクで戦争を引き起こした。戦争とテロが、新しい世紀のキーワードになったように思われた。
それからおよそ四半世紀が経ち、この時代の姿がおぼろげながら見えてきた。そう考えていた矢先、21世紀を展望する本が出版された。香港出身の哲学者ユク・ホイの『Machine and Sovereignty:For a Planetary Thinking』(機械と主権:惑星的思考のために)である。早速読んでみると、極めて広い射程をもったチャレンジングな仕事なので、緊急に取り上げることにした。
あらかじめ、著者のユク・ホイと本書の位置について、簡単に紹介しておこう。ユク・ホイは1985年生まれで、現代思想界の新たなヒーローと見なされている。学生の頃コンピューターサイエンスを学び、エンジニアになる訓練を受けていたが、2011年にフランスの技術哲学者ベルナール・スティグレールのもとで哲学の学位を取得している。
これを知るかぎり、彼の思考がテクノロジーの問題を中心に転回していることは、たちどころに想像することができるだろう。こうしたバックグラウンドがいかんなく発揮されたのが、『中国における技術への問い:宇宙技芸試論』である。これについては、すでに邦訳が2022年にゲンロンから出版されているので、ご存じの方も少なくないかもしれない。
今回の著作『Machine and Sovereignty』は、ユク・ホイが長いあいだ構想してきた体系的なもので、これまで発表された一連の作品の完結編となっている。確認しておくと、第1部が『再帰性と偶然性』であり、第2部が『芸術と宇宙技芸』である。このふたつについては、訳書が2022年に青土社、2024年に春秋社から、それぞれ刊行されている。これを受けて、2024年10月に刊行されたのが、ここで取り上げる『Machine and Sovereignty:For a Planetary Thinking』( 機械と主権:惑星的思考のために|University Of Minnesota Press )である。したがって、この『機械と主権』をトータルに捉えるには、前2作と関連して議論する必要があるのだが、ここではひとつの作品として取り上げることにしたい。
なぜ「惑星的思考」なのか?
今回の本でユク・ホイは、いったい何を主張しようとするのだろうか。まずは、基本的な意図を確認しておこう。
「機械と主権」のタイトルからわかるように、テーマとなっているのは技術(機械)と政治(主権)の問題である。しかし、一般的な理解からすると、このふたつの領域は必ずしも結びつかないのではなかろうか。というのも、機械や技術は、政治とは独立した工学的な手段にすぎない、と見なされてきたからである。こうした一般的な常識に対抗するかたちで、ユク・ホイは本書を「Tractatus Politico-Technologicus」(政治ー技術論考)と呼んでいる。この語を見てウィトゲンシュタインの有名な『論理哲学論考』(Tractatus Logico-Philosophicus)を想起する向きもあるだろう。
「本書は、テクノロジーを政治思想の最前線に持ち込むことを試みる。(中略)わたしたちは、この試みを『政治ー技術論考』と呼ぶことにする」
では、技術と政治の全体的な関係を、ユク・ホイはどのように論じようとするのだろうか。それを明らかにするのが、サブタイトルになっている「惑星的思考」(planetary thinking)である。ざっくり言ってしまえば、「惑星的思考」というパースペクティブから、技術と政治の関係を解き明かすこと。これが本書の目論見だ。
とはいえ、このことば(「プラネタリー」)がそもそも何を意味しているのかは一般には理解されていないだろう。もしかしたら「惑星」ということばから宇宙空間を思い浮かべる方もいるかもしれない。そこからさまざまな誤解も生まれそうなので、何よりもまず、この基本的なコンセプトを理解しなくてはならない。
「惑星的」ということばには、さまざまな含意や使用される背景・歴史もあるのだが、ひとつだけ確認しておくとすれば、これが「グローバル」(Global)に対比して提示されていることばであるということである。「グローバル」も「惑星的=プラネタリー」も地球全体に関わる点では共通だが、両者を対立的に示すために、「惑星的=プラネタリー」が採用されている。
つまり、20世紀に席巻した「グローバリゼーション」や「グローバリズム」を批判し、それとは異なるかたちで地球全体のあり方を構想しようとするのである。図式的に言えば、グローバリズムが終わって、いまや「惑星的思考」の時代になったのだ。その意味で「惑星的思考」は「21世紀の思考」と呼ぶこともできるだろう。
「惑星的思考」の使用例として、ユク・ホイはコスタス・アクセロスが1964年に出版した『遊星的思考へ』を挙げている。あるいは、本書では言及されていないものの、より近い意味としては、2003年に発表されたガヤトリ・C・スピヴァクの『ある学問の死:惑星思考の比較文学へ』(みすず書房)の第3章「惑星的思考」を参照してもいいのかもしれない。
わたしは惑星(planet)という言葉を地球(globe)という言葉の上に重ね書きしようと提案する。グローバリゼーションとは同一の為替システムを地球上のいたるところに押しつけることを意味している。(中略)地球は、わたしたちのコンピュータ上に存在している。そこには、だれも暮らしていない。それは、わたしたちがそれをコントロールすることをもくろむことができるかのように、わたしたちに思わせる。これにたいして、惑星は種々の他なるものなかに存在しており、別のシステムに属している。にもかかわらず、わたしたちはそこに住んでいる。
スピヴァクが「惑星的思考」を提案したのは21世紀の初頭だが、言うなればユク・ホイはこの提案を具体的なかたちで進めていこうとするわけである。しかし、グローバリズムに代わって「惑星的思考」を進めるには、どうすればいいのだろうか?
ヘーゲルやシュミットは有効なのか?
意外に思えるのは、ユク・ホイが「惑星的思考のために」とった戦略である。具体的に言えば、ヘーゲルとカール・シュミットの哲学を経由するという方法が採用されているのである。これはおそらく、柄谷行人の『世界史の構造』に対抗するかたちで、構想されたものだろう。というのも、ユク・ホイも言及しているように、柄谷もまた資本主義のグローバリズムを乗り超えることを目指してきたからだ。
柄谷の場合には、グローバリズムを超えていくために、カントの「諸国家連邦」構想から出発してマルクスの「世界同時革命」論へ向かっていくが、それに対してユク・ホイはヘーゲルとシュミットを経由する。しかしながら、「全地球的」とも訳せる「プラネタリー」な思考のために、ヘーゲルとシュミットは適切だろうか。一見これが不似合いに見えるのは、このふたりが極めて「国家」色の強い思考を推進した哲学者だからだ。にもかかわらずヘーゲルやシュミットが本書で援用される理由は、いったいどこにあるのだろうか。
「惑星的思考」を遂行するため、ユク・ホイはヘーゲルの国家論から出発し、シュミットの国家論へと向かうのだが、ポイントになるのはふたりの国家論がいずれも国家を超える視点を提示していることだ。ヘーゲルはそれを「世界精神」(Weltgeist)ということばで表現し、シュミットは「グロース・ラウム」(Großraum/大空間)という概念を用いて説明した。ヘーゲル、シュミットがともに、見方によっては国家主義的な議論を展開していたとしても、そこにとどまることなく「プラネタリー」な思考へと足を踏み出していたと見ることはできるのだ。
ヘーゲルとシュミットにおいては、注目すべき点がもうひとつある。ふたりがそれぞれ、「技術」に対する独自な考えを抱いていたことだ。ヘーゲルには「精神の外部化」という重要な概念があるが、これにもとづいて「国家」が「メガマシーン」として理解されている(「メガマシーン」という語は技術史を描いたルイス・マンフォードのことばだが)。他方、シュミットは、同時代のエルンスト・ユンガーが「総動員」と呼んだ技術概念に着目し、それを「グロース・ラウム」の概念と結びつけようとしている。
例えば、シュミットが第二次世界大戦中に書いた『陸と海:世界史的な考察』(日経BP)において、次のように語るとき、そこには国家を超える観点と技術の考えが明確に表現されている。
「産業の発展と新しく誕生した技術は、19世紀の段階にとどまることはできなかった。(中略)電気製品、航空機、通信機などが、あらゆる空間概念を変革し、最初の惑星的(planetarisch/全地球的)な空間革命につづく第二の空間革命を生みだすことはなかったにしても、第一の空間革命に新たな段階をもたらしたのである」
そもそも、「惑星的」ということばを使って、技術の広域的な広がりを概念化したのは、ユンガーだった。1930年代には、ハイデガーもまた「技術的に組織された惑星的帝国主義」と語っている。この時代に、ユンガー、ハイデガー、シュミットは、みな技術の重大性に着目し、「惑星的」ということばで表現していたわけである。この点について、本書では言及されていないが、「惑星的思考」をキーワードにするなら、検討する必要があるだろう。
1930年代に「総動員」というキーワードからそれまでの技術論に画期的な転回をもたらしたドイツの軍人、思想家、作家エルンスト・ユンガー。photograph by Ulf Andersen/Getty Images
「技術」こそが根本の問題
「惑星的」な思考は、グローバリズムを批判するだけでなく、カントからマルクスへの世界統一路線にも対抗する。その統一路線を「普遍主義」や「一極主義」と呼ぶとすれば、「惑星的思考」は多様性(ダイバーシティ)にもとづき、多元的な世界を構想するものだと言える。
だとすれば、「惑星的思考」に何が必要となるか、明らかになるだろう。「わたしたちは多様性の新たなマトリックス、すなわち生物多様性・精神多様性・技術多様性(biodiversity, noodiversity, and technodiversity)を提案する」とユク・ホイは述べ、その構想をさらに次のように展開している。
「技術多様性、精神多様性、生物多様性の間のマトリックスの問題は、わたしが認識論的外交と呼ぶものを構成している。それはまた、惑星的政治の未来のために推進したいフレームワークでもある」
ここで語られる多様性のうち「生物多様性」はすでにエコロジーをめぐることばとしてよく知られているが、「精神多様性」と「技術多様性」は必ずしも一般的ではないかもしれない。このふたつの概念は、古生物学者ピエール・テイヤール・ド・シャルダンの「ヌースフィア」(精神圏)と地質学者ピーター・K・ハフの「テクノスフィア」(技術圏)から、つくられたもので、いずれも「多様性」(Diversity)を強調するものだ。
それぞれの多様性は領域が異なるので個別に理解する必要があるが、ユク・ホイは、このうち「技術多様性」が最も根本的なものなのだと言う。
「わたしたちがこれまで示そうとしてきたように、根本的な問題はテクノロジーの問題だ。多様性の問題は、根本的にはテクノロジーの視点から考えられなくてはならない」
つまり、自然を考える場合(生物多様性)も、人びとの精神的なあり方を理解するとき(精神多様性)も、つねに「技術」の様式(技術多様性)と密接に関わっているとユク・ホイは語る。ここから結論として導き出されるのは、多様性を問題にするにあたっては、自然を考える際にも、精神を理解する際にも、テクノロジーの多様性を抜きにしては捉えることができないということである。そのため、技術の介在しない「牧歌的な自然」も、メディア環境抜きの直接的なコミュニケーションも、ここでは擁護されないのである。
技術的多様性はいかに可能か
しかし、「技術的多様性」については、疑問が残ってしまうのではなかろうか。たしかに、近代以前であれば、文化の相互的な交流も少なく、技術にしても地域に根ざしたローカルなあり方は可能だった。ところが、近代以降は、西洋のテクノロジーが世界的に席巻し、「多様性」など不可能に思われる。
あるいは、地域的な多様性と見えたものは、せいぜいのところ後進性にすぎないのではないか。科学にもとづくテクノロジーは、普遍的な基準をもつことで、ユニバーサルな発展を遂げたのではなかったか。これを推進したのが、まさに「グローバリズム」であり、技術的な勝者が世界の覇権を握ることになった。
だとすれば、技術に依拠して「惑星的思考」を形成していくことは、容易な道とは言えない。「惑星的思考」は多様性と多元性にもとづいて推進されるのに、その母体となるテクノロジーは普遍性と一極性によって発展していくからである。だとすれば、「技術的多様性」に依拠して、はたして「惑星的思考」を形成することは可能なのだろうか。このとき、わたしたちはどのような「技術的多様性」を想定すればいいのだろうか。
この問いに十分なかたちで答えることができなければ、「惑星的思考」の基礎が崩壊してしまうように思われる。ところが、ユク・ホイは、以下のようなアンチノミー(二律背反)を提起しているにもかかわらず、それをどう解決するかは示さない。あるいは、このアンチノミーにどう向き合うのかという問いに対してすら、道筋を指し示すことができずにいる。
テーゼ:テクノロジーは人類学的に普遍的なものであり、一部の人類学者や技術哲学者が定式化したように、記憶の外部化であり器官の解放として理解される。
アンチテーゼ:テクノロジーは人類学的に普遍的ではない。それは、単なる機能性や有用性を超えた、特殊のさまざまなコスモロジーによって可能になり、制約されている。それゆえ、ただひとつのテクノロジーが存在するのではなく、複数の宇宙技芸がある。
普遍的で一極的な「グローバリズム」に対抗するため、「惑星的思考」が提唱されたのだから、「技術的多様性」へ向かうのは当然であろう。ところが、これではせいぜいアンチテーゼにすぎず、技術的普遍性と対立したままになってしまっている。これでは「惑星的思考」がいかにして可能なのか、明確に示されたとは言えないだろう。
国家主権と経済の行く末
そこで最後に、「惑星的思考」を具体的に読み解いてみたい。というのも、「惑星的思考」といっても、やや抽象的で、実際のところそれがどんな世界を招来するのか、漠然としているからだ。ここではごく簡単に、ユク・ホイが描く政治的な国家と経済的なシステムの未来図に限って触れておきたい。
まず「惑星的思考」がいかなる社会をもたらすのか。「機械と主権」というタイトルを考えたとき、国家的な「主権」はどうなるのだろうか。例えば、書物の最終章の次のような記述を見ると、ここでどのような未来社会が構想されているのかを具体的に想像するのは難しい。
「今日、主権とメガマシーンの関係は緊張状態にあり、実際両者のギャップはますます拡大している。メガマシーンは法的、社会的、政治的なシステムによって飼いならされることはない。(中略)メガマシーンが惑星的に成長している一方で、主権はメガマシーンの働きに介入する力を失っている」
また、経済的なシステムとして、何が考えられているのだろうか。グローバリズムを批判するにしても、コミュニズムを目指すわけではなさそうだ。また、生態経済学者ニコラス・ジョージェスク=レーゲンの熱力学の法則にもとづく経済学を援用していることから見ると、「脱成長」派に近いのかもしれないが、テクノロジーの進化を推進するのが基本なので、脱成長主義は採用しないのだろう。とすれば結局のところ、ここで経済的なシステムが具体的には示されているとは言い難い。
このように見ると、本書は「政治技術論考」を目指したにもかかわらず、肝心の「政治」と「技術」のあり方が明らかにされるにはいたっていない。基本的な方向性として、15世紀から続いてきた「グローバリズム」に引導を渡し、未来に向けて「惑星的思考」を提唱し、その中心に「技術」の問題を据えたことは、大胆かつ画期的な仕事であることは間違いない。ここから「政治」と「技術」の関係をめぐってどのように思考を展開していくのかは、21世紀に生きるわたしたちにとって大きな課題となり続けるだろう。
次週2月4日は、東京・渋谷区本町に位置するポップアップスペース「nakaya」の取り組みに迫ります。なぜポップアップという形式に着目したのか。本町の魅力を活かしながら、"街に溶け込む"という考え方でスペースを運営をする、空間デザイナー・永井健太氏らに話を聞きました。お楽しみに。
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◉目次
はじめに 会社を問う・社会をひらく 山下正太郎
第1回 会社がわからない
第2回 ふたつの「勤勉」
第3回 家と会社と女と男
第4回 立身出世したいか
第5回 何のための修養
第6回 サラリーマンの欲望
第7回 会社は誰がために
コラム 会社の補助線
・遅刻してはいけない
・虹・市・起業
・速水融の「勤勉革命」
・「失敗」や「挫折」を語れ
・女性とアトツギ
・経団連と自己啓発
・トーテムとしての「暖簾」
・社宅住まいの切なさ
・三菱一号館から始まる
・「事務」はどこへ行くのか
ブックリスト 本書で取り上げた本 246冊
◉書籍情報
著者:畑中章宏、若林恵、山下正太郎、工藤沙希
編集:コクヨ野外学習センター、WORKSIGHT
ISBN:978-4-910801-01-8
造本・デザイン:藤田裕美(FUJITA LLC.)
イラスト:OJIYU
発行日:2025年1月18日
発行:黒鳥社
判型:A5判/224頁
定価:1800円+税