映画『シビル・ウォー』が描かなかったフォトジャーナリズムの現在地【若林恵・寄稿】
大統領選の年を狙って人気製作配給会社「A24」とアレックス・ガーランド監督が放った『シビル・ウォー アメリカ最後の日』。賛否両論を引き起こした問題作は果たして何が問題だったのか。『WORKSIGHT』コンテンツディレクター若林恵による辛口レビュー。
FlixPix / Alamy Stock Photo
text by Kei Wakabayashi
ロイター? マグナム?
アレックス・ガーランド監督の最新作で、ようやく日本でも公開された『シビル・ウォー アメリカ最後の日』(以下『シビル・ウォー』)は、突っ込みどころの多い映画だ。アメリカの政治状況をベースにした内戦の設定が的外れだとか、アメリカの現実を反映していないといった、よくある突っ込みについては、監督自身がそのことにさほど重きを置いていないことが映画の序盤でおよそ察しがついてくるので、まあいいとしよう。
前情報をほとんどもたずに観に行ったため、主人公が報道カメラマンおよびジャーナリストであることに最初は面食らったが、面食らったというのは他でもない、その主人公の設定が、よく言えば古典的、悪く言えば古臭く思えたからだ。
とはいえ策士として知られるガーランドのことだ。そこにも何か仕掛けがあるのかと思って観続けることになるのだが、映画が進みキルステン・ダンスト演じる主人公の報道カメラマンの人物像が明らかになるにつれ、これはもしや、ほんとに古臭いだけなんじゃないかとの疑いは深まっていくこととなる。
ダンスト演じる写真家に憧れる戦場カメラマン志望の若者が語るところによれば、ダンスト演じる人物はロイターのカメラマンで、史上最年少で写真家集団マグナムの一員になった経歴をもっているという。彼女がマグナムの一員になったのは「Antifaの虐殺」を撮影した作品が評価されてのことだということらしいので、少なくとも彼女がマグナム入りしたのは近未来の出来事であると想像できるわけだが、いまこの現時点においてですら「ロイター」と「マグナム」の肩書きをもって「報道」「ジャーナリズム」「戦争」が主題の映画を仕立て上げるのはかなり時代がかっているように思えるところ、それを現在の延長線上にあることを匂わせた近未来においてやるのは、よほどの皮肉でも聞かせない限り、ちょっと厳しいのではないかとも感じたが、ジョークのつもりはなさそうだった。
映画『CIVIL WAR』のトレーラー。2024年3月のSXSWでプレミア上映され、アメリカとイギリスで4月に公開。日本公開は10月4日。
フォトドキュメンタリーの進化
マグナムといえば、スペイン内戦やノルマンディ侵攻を撮影した名作で知られる戦争写真の代名詞的存在ロバート・キャパと、「決定的瞬間」というコンセプトを世界に知らしめた伝説的写真家アンリ・カルティエ=ブレッソンを含む4人の写真家によって1947年に設立された、写真家たちによる写真家のためのエージェント組織だ。
それが世界的な威光をもって写真界をリードしていたのはよくて60年代までだろうというのが自分の認識だが、ある時期からマグナムの威光が目に見えてくすんでいったように感じられるのは、マグナムに所属する個々の写真家が時代遅れになったといったような理由からではなく、そもそも報道写真やジャーナリズムそのものが依拠していた「中立性」や「客観性」といったものに対する社会的信頼が、例えばベトナム戦争のような出来事を通して大きく崩れ去っていったからだろう。
2011年2月23日にDVDがリリースされた『MAGNUM PHOTOS 世界を変える写真家たち』
第二次大戦前においてある意味一枚岩として機能していた「写真家/メディア企業/政府・軍」の関係は、以後それぞれに対する不信感とともに徐々に乖離していくことになる。そもそもマグナムが発足したのも、メディア企業の下請けとしてではないインディペンデントな活動を求めてだったことを思えば、メディアの「戦時体制」が終わった時点からすでに、報道写真の存立基盤は不安定になっていたとも言える。
いずれにせよ、ジャーナリストが「報道の使命」を楽観的に信じることができなくなっていく状況は、70年代にもなると深刻なまでに明らかになっていくが、そのおかげでといってはなんだが、写真の歴史は複雑化しながら素晴らしく面白いものになっていくこととなった。もちろんマグナムとてそうした時代の推移を指を咥えて黙って見過ごしてきたわけではない。
マグナムの名誉のために記しておくと、現在のマグナムのプレジデントは、1975年にスペインで生まれ、現在はメキシコやブラジルで活動するのコンセプチュアルフォトグラファーのクリスティーナ・デ・ミデルだ。
彼女を世界的に有名にしたのは、アフリカのザンビアで60年代に実際に行われた有人宇宙飛行計画をモチーフにした2012年の作品「The Afronauts」だった。その計画はいまからすると冗談にしか思えない代物だったが、デ・ミデルはその歴史的笑劇を写真上で再現することで、フィクションとノンフィクションのあわいにユニークなフォトジャーナリズムを成立させた。マグナムのウェブサイトは、彼女の業績をこんなふうにまとめている。
デ・ミデルは写真と真実との矛盾に満ちた関係を探索する。ドキュメンタリーとコンセプチュアルフォトを融合し、再構成されたものと実際の出来事とを行き来することで、彼女はより多層的な理解をもって対象にアプローチする。自分たちが生きる世界に対するわたしたちの理解がマスメディアによって妨げられているという認識のもと、デ・ミデルは、錆びついた美学的様式を再想像し、事実の代わりに意見を挿し込むことの必要性を訴える。
デ・ミデルの非正統的なアプローチは、10年間フォトジャーナリストとして活動したのちに開発されたものだった。従来のストレートドキュメンタリーから身を離し、最初に制作したのが世界的評価を受けた「The Afronauts」だった。
もちろん、デ・ミデルのキャリアだけをもってストレートドキュメンタリーの終焉を語ることはできないが、ストレートドキュメンタリーに背を向けたのちに、虚実がないまぜになった新たなフォトジャーナリズムを目指すこととなったデ・ミデルのような作家が現在のマグナムのトップであるのは象徴的だ。そのことからだけでも、フォトジャーナリズムと呼ばれていたものが、いかにマグナム設立当初に想定されていたものから遠く隔たっているかはおわかりいただけるはずだ。
現在マグナムのプレジデントを務めるクリスティーナ・デ・ミデルの2012年の出世作「The Afronauts」
デジタル社会は表象されない
映画『シビル・ウォー』における「写真」をめぐる設定は、こうした観点からしてかなりノスタルジックに見えるが、それは例えばダンスト演じる主人公が報道写真家志望の若者に対して、墜落したヘリコプターの残骸を撮影するように促すシーンなどにもよく現れている。
そこで撮影された写真がどのような仕上がりになっていたかは劇中では明かされないので即断はできないが、墜落したヘリコプターの残骸のような、これまで映画やゲームやSNSでさんざん見てきた被写体を通して、熾烈な内戦下にあるアメリカの姿なり戦争の真実なりを表象することができると、酸いも甘いも噛み分けてきたはずの中年写真家が考えたというのは、正直あまり説得的ではない。
そもそも、デジタルテクノロジーを扱うメディアに携わってきた身からすると、デジタル時代におけるメディアの大きな困難は「撮影するモノがない」もしくは「撮影することができない」ところにある。
メタシステムであるところのデジタルインフラストラクチャーは、それ自体を写真に撮ることができない。わかりやすく説明するなら、例えばAIはいまや社会を動かす重要な存在だが、それを写真で撮影することはできないので、「AI化した社会」を表象するためにはイラストやCGといった他のやり方でイメージ化するか、写真を使うにしても相当高度で繊細な暗喩に頼るほかない、ということだ。
ストレートに「被害」を写せば「事件」が自ずと表象されるという信念は、デジタル社会においてはあまりに牧歌的すぎる。企業がハッキングにあったりしたときに撮る対象がみつからず、被害にあった企業が入っているオフィスビルの外観写真ばかりがニュースに溢れかえるのは、現代における「報道写真」の限界を端的に表している。
それはつまり、写真が写すことのできる人やモノや町の「外観」によって、人の内面なり社会の実相なりを表象させることが可能だという了解が、とっくの前から成り立たなくなっていることを意味する。そのことと、少なからぬ人が「真実」のありかを表象にではなく、その背後にあるはずの「陰謀」に求めるようになっているのは無関係ではないどころか、間違いなく相関関係にある。そうしたなか、それでもなお表象において何かを掬い取ることを試みるなら、デ・ミデルのように複雑に練られた手法やアプローチを求めるようになるのは必然でもある。
ところがガーランドは、そうした現状をよそに、報道やジャーナリズムをめぐる使い古されたクリシェをこれでもかと使い回していく。そのうちこちらも、そこに策士ならではの策略があると考えるべきなのかどうか、いよいよ自信をもてなくなってくる。
報道写真家志望の若者を演じたケイリー・スピーニー。 Photo by Murray Close/Getty Images
壮大な「匂わせ」か
こうした疑問を呈しているのは、なにも自分だけではない。例えば「The New Yorker」は本作のレビュー記事にこんなことを書いている。
『シビル・ウォー』は、ジャーナリストの仕事に対する真摯なオマージュではあるが、ガーランドの曖昧な描写がその高邁な意図を阻害している。そもそも主人公たちは、一体どんなプラットフォームのどんな媒体に撮影した写真や記事を掲載するつもりなのか。平時であっても、すでにして崩壊寸前のメディア産業は、完全に崩壊しているように見える。インターネットは寸断もしくは完全に遮断されているように見えるなか、その良し悪しは別にして、ソーシャルメディアの介入や歪曲がないところで憎悪が吹き荒れている。ある登場人物が「ニューヨークタイムズの残骸」を口にする一方で、別の人物は、首都ワシントン付近では報道関係者は即座に射殺されると語る。こうした報道機関の悪魔化には、トランピスト支配の残響(もしくは前兆)を読み取ることもできるが、ここが映画のなかで現実の政治に最も歩み寄った地点だ。そしてホワイトハウスやリンカーン記念堂への襲撃の映像が終末的であればあるほど、ガーランドが描く戦争は、無党派性という霧のなかで姿を失い、短絡的な思考実験へと堕してしまう。
ハイブリッド戦争の語をもち出すまでもなく、現代の戦争にあって情報戦が陸海空における物理戦と同じだけの比重をもつことは、国防における常識になりつつある。そうとは知らずともソーシャルメディアが強力な兵器として使われていることはウクライナやガザでの紛争を見ていれば、いやでも気づくはずだ。デジタルメディア抜きの戦争はすでに存在しない。
加えて、ロイターやAPといった通信社をも含めた、もはや揶揄の対象でしかないMSM=主流メディアは、ソーシャルメディアによってビジネスモデルを切り崩されてきた張本人たちでもある。さらにソーシャルメディアが社会の分断を加速させていると盛んに警鐘をならしてきたのがこれらの旧メディアであったことを思い起こすなら、近未来の内戦におけるメディア人/ジャーナリストの姿を描くにあたって、デジタルメディアに関する言及がないのはどうにも空々しい。
とはいえ、問題はそうした現実を描かなかったことではない。むしろ、それを描かなかったことで「近未来の内戦」という設定が輪郭を失ってしまったことにある。
Xで見かけたあるツイートは「アメリカ内戦って道具立てはただの『掴み』じゃないのかという疑問」を語っているが、それもむべなるかな、ガーランドがただ単に中年戦場カメラマンの実存の危機と、若手カメラマンの成長を描きたかったのであれば、舞台となる戦争はスペイン戦争だろうが、第二次世界大戦だろうがべトナム戦争だろうが何でもよかったようにも思えるし、かつての報道写真家の栄光をオマージュしたかったのであれば、そのほうがよほど相応しかっただろう。
ガーランドが映画の無党派性にこだわるべく設定のディテールを描きこまなかったことは、内戦にいたった政治的な経緯などを省いた点においてはまだしも効果があったかもしれないが、肝心の主題をめぐるディテールの欠如と設定の曖昧さは、主題自体を「どこでもいつでも起こりうる話」にしてしまっている点でむしろ逆効果だった。
実際、『シビル・ウォー』には、公開当初から「予想していたのと違った!」という批判的な意味のコメントが多数ついた。映画に限らず、どんなコンテンツであれ、当初想像していた内容と違っていたからという理由で批判することほど間抜けなことはないが、それでも『シビル・ウォー』に関しては、そう感じた人たちの気持ちに同調したくなる。ガーランドの誘導に従って報道やジャーナリズムといった主題に観客が身を寄せていけば行くほどに、シビル・ウォーという設定はどんどん宙吊りになっていく。そしてその結果、肝心の主題である(ように見える)ところの「ジャーナリズム」自体も宙吊りになってしまう。内戦という設定をただの「掴み」や「釣り」、あるいは壮大な「匂わせ」だと感じとった観客の違和感は、ゆえなきものではない。
インタビューなどを読むと、ガーランドは父親が政治風刺画家で、幼少期から往年のジャーナリストや報道写真家に囲まれて育ったのだという。加えて根っからのソーシャルメディア嫌いというから、現状に対してはなからバイアスがあったとしても仕方ないが、そうだとしても主題らしきものをめぐる設定の薄さは、意図的な曖昧を通り越して杜撰に見えてしまうほどだった。
みんなが戦場カメラマン
しかしながら、その一方で、そうした問題を抱えていればこそ、なおさらガーランドの『シビル・ウォー』には正当性があると語る、示唆に富む投稿も見かけた。こんな内容だ。
フォトジャーナリストがクールなイメージを無批判に追い求めるがゆえに、政治的暴力を引き起こすナラティブに喜んで巻き込まれていくような映画でもあればいいのに。
先の「The New Yorker」の記事も認めていることだが、『シビル・ウォー』で強く現代性を備えた最も興味深い論点は、写真家というものが、激しい現場に行けば行くほどアドレナリンが迸り、道徳も倫理もかなぐり捨てることができてしまうという問題をめぐるものだ。
写真を撮ることと、写真を使うことは、実際まったく別の行為だ。撮った写真がどう使われ、どんな影響を社会に与えるのかなんてことを考えていては、写真家は大事なシャッターチャンス=決定的瞬間を逃してしまう。それは映画のなかでダンスト演じるところの主人公が自分に憧れる若者に伝えたことであるし、同時にダンストは、そうすることによって次第に自分の良心が蝕まれていってしまうことも観客に伝えている。
先の投稿は、トランプがペンシルベニア州バートンで狙撃され、耳から血を流しながら星条旗をバックに拳をつきあげた、あの「決定的瞬間」を捉えた写真についてのものだ。つまり投稿者は、その写真と並べることで、『シビル・ウォー』を「クールな映像を無批判に追い求めるがゆえに、政治的暴力を引き起こすナラティブに喜んで巻き込まれていく」新旧ふたりのカメラマンの快楽と憂鬱を描いた作品と見たわけだ。そして、その観点から見れば「アレックス・ガーランドは完璧に正当化される」と投稿者は語る。
このトランプの写真は、おそらくトランプ支持者からすれば最高にテンションが上がる2024年を代表するイメージに違いないが、反対派からすればプロパガンダの悪夢そのものだ。残念ながら撮影した写真家がどちらの陣営を支持しているのかはわからないが、彼が写真家として成し遂げた行為にこれ以上ない満足感と誇りを感じたとしても、そのこととそのイメージがもたらしうる社会的影響は別物だ。そもそも写真家がイメージの流通においてどれだけの責任をもつべきかという問いはソーシャルメディア以降の世界ではとっくに意味をもたなくなっている。写真というものが、その本質において「切り取り」を生命線とするメディアであることはおいたとしても、何がバズりバズらないかを予測することのできないソーシャルメディアでは、もはや撮影者はおろか投稿者ですら責任を取ることなど不可能だ。
一方で、そうした状況を嫌がって、かつてのメディア企業がそうしてきたように大衆が受け取るべき情報を管理・規制しようと思えば、そこに待ち受けているのは、預かり知らない誰かによる情報操作ということにもなってしまう。
批評家のスーザン・ソンタグは、カメラは高度資本主義の奴隷にすぎないといったことを、いまから50年も前に指摘していたが、その頃からしてすでに、写真が金や権力の流れを自在に操作するためのツールでしかなかったのだとするならば、どっちにしても撮影者は自分の写真がもたらす結果についてなんの権限も責任も負ってはいなかったとも言える。そして、ソーシャルメディアをその状況を極限まで肥大化したものと見れば、撮影者は50年前からいまにいたるまでずっと、アドレナリンを吹き出しながら現場を駆けずりまわり、時代を動かしているナラティブに進んで巻き込まれていく、ただ元気がよくて都合のいい「駒」だったということにもなる。ダンストの悲哀は、あるいはそんなところにも帰因していたのかもしれない。
だが、その悲哀はすでにして他人事ではない。この世の大半の人間がポケットにカメラを忍ばせ、何らかの事態が発生したならすぐにでも撮影できてしまう世界において、『シビル・ウォー』に登場するジャーナリストたちの快楽と憂鬱は、もはやジャーナリストだけに特権的に許されたものではなくなっている。
先の投稿は、例えばこんな問いへとわたしたちを導く。XやTikTokにおける動画が絶えず過激化し続けるのは、スマホをもった誰しもが撮影現場で噴出するアドレナリンがもたらす快楽を麻薬のように追い求めてしまうことに由来するのではないか。誰もがカメラを手にし、即座に誰もが事件に反応できるような状況を「市民ジャーナリズム」と呼べば聞こえはいいが、それはつまるところ、「映え」を追い求めた果てに、わたしたちの全員がアドレナリンジャンキーの戦場カメラマンになってしまっていることを表しているのではないか。そしてそうであるなら、誰しもが戦場カメラマンとしてアドレナリンを分泌するチャンスを待ち構えているこの世界は、あらゆる時間と空間が戦場になってしまった世界だということにもなる。
戦争が戦争写真をつくるのではなく、戦争写真が戦争をつくる。そんな倒錯こそがわたしたちの生きる現実であるならば、「シビル・ウォー」とは、カメラの遍在化によって、日常のすべてが戦場となってしまった、いまここにある状況そのものなのかもしれない。
没入こそすべて
ところで、映画評論家の町山智浩によれば、ガーランドの次回作はこういうものになるらしい。
『シビル・ウォー』が世界的に劇場興行で成功したのは音響による体感アトラクションだったことが大きく、それを自覚しているガーランド監督の次回作『ウォーフェア』はストーリーが無く90分間リアルタイムで実際にあった戦闘を再現する完全な体感映画になります。
映画とテーマパーク型のアトラクションの新たな融合は、ラスベガスのThe Sphereなどにおいてすでに進行している趨勢で、ガーランドがそれに乗ることにはなんの異論もないが、『シビル・ウォー』がその布石となる一手だったと言うのであれば、ここに描かれた内戦が、ただの釣りだったという見立てはあながち間違ってはいなかったどころか、ガーランド自身、内戦という設定はおろか、報道というテーマにさえ、さしたる興味がなかったとしても腑に落ちる。
戦争報道や戦争映画にストーリーや意味なんか求めてもしょうがないっしょ。没入できて、アドレナリンが出てなんぼでしょ。というのが、近未来における戦争と映像の関係の本質だと言うのであれば、『シビル・ウォー』はむしろ一本筋が通っている、と言うことはできそうだ。
撮影現場で談笑する監督のアレックス・ガーランドと主演のキルステン・ダンスト。Photo by Murray Close/ Getty Images
若林恵|Kei Wakabayashi 黒鳥社/WORKSIGHTコンテンツディレクター。平凡社『月刊太陽』編集部を経て2000年にフリー編集者として独立。2012年に『WIRED』日本版編集長就任、2017年退任。著書・編集担当に『さよなら未来』(岩波書店)、『実験の民主主義:トクヴィルの思想からデジタル、ファンダムへ』(宇野重規との共著/中公新書)、『『忘れられた日本人』をひらく:宮本常一と「世間」のデモクラシー』(畑中章宏との共著/黒鳥社)。訳書にジョン・バージャー『第七の男』(金聖源との共訳/黒鳥社)。 photo by Kaori Nishida
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編集:WORKSIGHT編集部(ヨコク研究所+黒鳥社)
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発行日:2024年11月13日(水)
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