「保育」がコミュニティ運動になるとき:ベストセラー『育児の百科』著者が示唆した「社会を編み直す力」
明治生まれの知識人であり、小児科医だった松田道雄。『育児の百科』『私は赤ちゃん』などの著作でも広く知られる松田は、高度成長期で激変する日本の子育て環境を目の当たりにし、その対応として「保育」に希望を見いだしていた。今日でも保育をめぐる問題が絶えないなか、わたしたちは松田の思想、そして戦後日本の保育所づくり運動から何を学ぶことができるのか。立教大学教授の和田悠さんに聞く。
松田道雄が保育所づくり運動にも関わった、大阪府枚方市にある「香里団地保育所」 写真提供: 「香里めざまし新聞」を復刻する会
待機児童の問題や保育士の待遇改善など、「保育」をめぐる問題はこれまでも何かとメディアで話題になってきた。特に2016年に投稿された匿名ブログの「保育園落ちた日本死ね!!!」という衝撃的な文言は、多くの人の記憶に残っているだろう。しかし筆者にとって、恥ずかしながら自分の子どもが生まれるまでは、「保育」はどこか他人事だった。
筆者は今年2月に出産し、ただでさえおぼつかない初めての育児に追われ、かつネット上に溢れる玉石混交な育児情報に疲れていた。そんな折に知人から教えてもらったのが、50年以上前に書かれた育児書のベストセラーである『育児の百科』だった。この本を書いたのは、明治41年生まれの知識人であり、戦後は町の開業医として活動した松田道雄。その著書『育児の百科』を、本稿の筆者は子どもの便秘を心配したときにひもといた。そこには、こう書かれていた──「赤ちゃんをそだてているので、便をそだてているのではないことを忘れてはならない」。このユーモラスなフレーズで、一気に松田道雄のファンになった。
その後、働きながら子育てをするなかで、より「保育」について考えるようになっていった。冒頭に挙げたような社会問題に加え、自分が働くために小さいうちから子どもを預けてもいいのか、といった個人的な逡巡もあった。そんな迷いに対し、松田道雄は『育児の百科』のなかで、繰り返し「集団保育」の素晴らしさを説く。松田は実際に高度成長期の保育運動にも関わった人物であり、保育を単なる託児サービスとしてではなく、地域とつながり、同時に地域をつくり変える、そんな豊かな市民運動として展開させていくようなビジョンをもっていた。
こうした松田の思想を拠り所に、今日において保育を通して社会を編み直すことはいかに可能なのだろうか。松田と保育の研究に長年取り組み、自身もまた保育を通して地域デビューを果たしたという立教大学教授の和田悠さんにインタビューした。松田の思想や保育運動を丹念に追う研究が、和田さん自身の保育経験や市民活動と重ね合わさることで、新たな解像度で保育の「豊かさ」が映し出されていくことだろう。
interview and text by Makoto Okajima
和田悠|Yu Wada 立教大学文学部教育学科教授。研究領域は社会教育、社会科教育。松田道雄と保育にまつわる論文や文章に、「戦後日本における松田道雄の家庭論の位置を探る」(『立教大学教育学科年報』67号、2024年)、「松田道雄の保育思想」(『現代思想2022年2月号 特集=家政学の思想』)、「松田道雄の保育問題研究運動論:1960年代の『季刊保育問題研究』にみる」(『立教大学教育学科研究年報』60号、2017年)など。地域の文化サークル「板橋茶論」や、市民運動「くらしにデモクラシーを!板橋ネットワーク」などを主宰。二児の父。
あなたも“松田節”に影響を受けている?
──1967年に岩波書店から刊行された『育児の百科』ですが、いまは『定本 育児の百科』上・中・下(2008年)として岩波文庫に入っており、気軽に手に取ることができます。30代後半のあるWORKSIGHT編集部員は、1980年刊行の単行本(新版)の赤い表紙が親の本棚で目立っていた、という記憶があるとのことでした。はじめに、2024年現在における松田道雄の世間的な認知度って、和田さんの感覚としていかがでしょうか?
現在の認知度ですか、どうなんでしょうね。わたしは大学の教育学科で教えていて、若い世代の人たちと接点があるわけですが、正直言えば松田道雄なんて知っている学生はほとんどいないんじゃないかな。でも読書が好きな人とか、あるいは育児書を読んで子育てをした活字世代の間では、『育児の百科』や『私は赤ちゃん』(岩波新書、1960年)の著者としてそれなりの知名度と根強い人気があると思います。象徴的なのは、1998年に松田道雄が亡くなったときに、一度も松田道雄と会ったことがないのに「松田道雄先生」と呼びかける投書が新聞にたくさんあったことが、当時の紙面からわかるんです。師弟関係でもなく、かかりつけ医としてでもなく、活字を通じて松田道雄にお世話になったという人が一定数いたんですね。加えて、見かけて面白いなと思ったのが、SNSで松田道雄botや松田道雄の口調を真似たツイートがあったり、松田の本を紹介するツイートがバズったりしていることでした。
──松田を知らない世代も、知らず知らずのうちに松田的な育児観に共感している可能性があるのかもしれませんね。
松田の文体って、「母親は自分のしつけ方がいけなかったのだと思うことはない」だとか、「共ばたらきは、男と女とが助けあわないとやっていけない」といったようなテンションの断定調なんですよね。だからこそ、子育てで迷ったり不安になったりする人たちの心に刺さるのだと思います。
現在は岩波文庫にラインナップされている『育児の百科』は、1967年の刊行以来約160万部を売り上げた大ベストセラー。1960年に刊行された『私は赤ちゃん』(岩波新書)は、若い両親の間に生まれた団地暮らしの赤ちゃんの視点からつづられた痛快な子育て指南書。『育児の百科』と並んで松田道雄の代名詞になった photograph by WORKSIGHT
──わたしもまさに、松田節に元気付けられたひとりでした。和田さんは、「松田道雄と保育」の研究にどのような経緯で行き着いたのでしょうか?
わたしが大学に入学した1995年はちょうど戦後50年で、阪神淡路大震災やオウム真理教の地下鉄サリン事件があったのもこの年でした。翌年には政治学者の丸山眞男や経済史学者の大塚久雄といった、戦後日本を代表する知識人が亡くなり、日本でも右翼的な教科書運動が台頭してきた年です。その中で「戦後民主主義とは何か」「戦後日本とは何だったのか」ということが問われていた感じがあった。そうした言論空間の空気をタイムリーなものとして受けとめていた学生のひとりとして、戦後日本の知識人に興味をもったのが出発点です。
学部生時代には、丸山眞男の弟子であった政治学者・藤田省三について卒業論文を書いたのですが、修士課程に進むに当たって、もう少し暮らしの領域に近いような知識人を扱いたいと思いまして。そのなかで松田道雄が浮上した感じです。それで修士論文では、松田の著作を時系列に並べながら、生い立ちから始めて、戦中戦後にかけての知識人としての生涯をたどるようなものを書きました。その後、博士課程に進んだのですが、そうこうしているうちに自分自身が子育てを始めるんですね。
──そのタイミングで、和田さんのなかでも「松田道雄」と「保育」がつながった、と。
はい、まさにわたし自身が「保育」の世界に入っていったんですよね。わたしは子どもを0歳児から板橋区にある「あずさわ保育園」というところに預けたんですが──いまはそこの理事長をやっています──そこはもともと保護者がお金を出し合ってつくられた共同保育所(無認可の保育所)で、「共同」や保護者の「参加」というものを非常に大事にしていました。保育士さんたちも、子どもたち一人ひとりの人格に向き合って育てることに情熱を注いでくれる人たちで、本当にうちの子のこともよく見てくれました。わたしはそれまで、「個人の尊厳」というものを頭のなかだけで考えていたんですが、思わぬ実体験を得たのです。親よりもよっぽど子どもを大事にしてくれる第三者がいるということが、わたしにとっては大きな発見だったんですね。
──「個人の尊厳」を、第三者たちによる集団的な保育で尊重していく、と。松田の思想につながるようなリアリティを、ご自身が目の当たりにした時期だったのでしょうね。
もちろん子どもが生まれる以前から、松田道雄が保育について発言しているのは知っていましたが、あまりピンと来ていなかった。でも、自分自身の保育の経験を通じて、だんだんと「保育に関わる松田道雄」に関心が移っていきました。
松田道雄(1908-1998) photograph courtesy of IWANAMI SHOTEN
松田道雄がソ連で見た“0歳児保育”
──松田の思想と現代の接点を探る上で、まずは人物像について少しうかがわせてください。松田は戦後、京都で自由診療の小児科医をしていたそうですね。なぜ病院や学校に勤めるのではなく、自由診療の道を選んだのでしょうか?
松田は旧制中学、旧制高校、京都帝国大学出身の超エリートで、戦時中は陸軍病院の医師として、その前は京都府庁の警察部衛生課で結核予防の仕事をしていました。官僚経験もあります。戦時下の日本では、健康な兵士をつくる上で結核対策は非常に大事でした。松田自身は、多くの子どもの命を救いたくて小児結核の研究に進むんですが、戦時中において国民はあくまで人的資源。しかも戦前の官僚というのは天皇の命を受けた部下ですからね。そうした上意下達の世界では、なかなか自己決定ができない。戦後はそういうものから自由でありたいと、保険の適用を受けない自由診療の町医者になることを選びました。一方で、町医者としてだけでは食べていけないので、評論活動や執筆活動をすることで、印税を生活基盤のひとつにしようとしたようです。
──そんな町の小児科医である松田道雄が、なぜ保育に目を向けたのでしょうか?
松田の周りには京都大学の知識人のネットワークがあって、松田の小児科に来るのも京大出身者や京大の教員の家族など、いわゆる都市新中間層と呼ばれる人たちでした。高度成長期になると、だんだんと結核が”死に至る病”ではなく治る病気になり──あくまで松田がいたエリート層の世界での話ですが──松田の小児科へ寄せられる相談、あるいは家庭が抱える問題も、結核のような医学的な努力を必要とするものから、子育てやしつけ方法などへと質が変わっていくわけです。
後に、その是非が戦後社会の大衆的な問題となっていった「母子密着の子育て」や、子どもが遊べる空間・時間が不足していること、子どもに友だちがいないことなど、都市新中間層の子育て問題を早い段階でキャッチできたのは、松田が自由診療を行う身だったからこそかもしれません。そうした問題に小児科医として出会ったときに、社会全体として子育ての変容に向き合わなければいけないという問題意識が松田のなかに出てきます。
──高度成長期以降の団地などでの子育ては、まさに「これまでの日本になかった育児環境」だったんですね。
戦前は「集団」なんて括らずとも、子どもは自然に人と人との間で、あるいは子ども同士のなかで育っていたのに、目の前の社会では「集団」は自然発生的に生まれなくなった。そんなときにタイミングよく、松田道雄は結核医として1957年のソ連小児科学会総会に招待されます。学会後は、自ら希望してレニングラード(現サンクトペテルブルク)に半月ほど滞在し、子どもの施設を回りました。そこで初めて、0歳児からの集団保育の現場を見たといいます。
当時のソ連の政治体制については慎重になりながらも、松田はそこで展開されている乳幼児保育の社会化、そして0歳児からの集団保育を高く評価しました。そして、いかに子どもの健康な育ち方を保障するかという観点から、「集団」というものが大事だと考えるようになります。わかりやすく言えば、「子どもが友だちをどうつくるか」ということですね。ある種の文明病にする対応として保育に希望を見いだした松田は、1960年代から保育運動に関わるようになります。
松田道雄が視察したのとほぼ同時期の旧ソ連の集団保育 photograph by Daily Mirror / Bela Zola/Mirrorpix/Mirrorpix via Getty Images
──1960年代前半は、まさに「三歳児神話」(子どもが三歳になるまでは母親によって育てられるべきという考え方)が喧伝された時期ですよね。それについては、松田はどう考えていたのでしょうか?
松田はこうしたイデオロギーを明確に批判しています。松田が母子密着の育児に強く危機感を持った理由のひとつには、親の過干渉があったと思うんですね。松田は密室の「濃厚保育」と言っていますが、高度成長期の子育ては、狭い住宅のなかで母子密着となり、対等ではない力関係のなかで行われ、子どもが抑圧されていると。子どもには子どもなりの人格があって、子どもとして尊重され、子どもが自分の世界をもてるようになるということを、すごく大事にしていました。だから逆に言うと、変に子どもを甘やかしたり、子どもを子ども扱いしたりすることも非常に嫌ったようです。
保育士に関しても、保育士はお母さんの代わりではなく、あくまで専門性がある職業だと考えていました。「自分には子育ての経験がないのに乳児なんか見られるのだろうか」という保育士さんの不安に対して、松田は「保育はお母さんの延長でできるものではない」と言います。「保育」という人格を育てる大事な営みは、専門職によって担われなければならないと。そういう発言をすることで、保育あるいは保育士の社会的地位を向上させようとしました。
「文化運動としての保育」
──和田さんの論文で、1963年に松田が関西保育問題研究会の会長として全国集会で行った記念講演「文化運動としての保育」について知りました。講演のタイトル自体、なんだかワクワクさせられるものがあります。
「文化運動としての保育」って、何を言ってるのかよくわからないけど、かっこいい響きですよね。松田はメディアで発信する人だったから、そのあたりのセンスはすごくありました。この講演は当時録音されて、保育士さんたちがみんなテープを借りて聞いたくらい話題になったんですよ。
まず、いまのことばに置き換えるんだったら、松田は「文化運動」ではなく「市民運動」ということばを使ったのではないかな。当時、「市民」ということばは「ブルジョア市民」のようにどちらかというと否定的な文脈で使われることが多くて。また、戦後の日本では「文化国家」という目標が掲げられ、知識人たちも「文化」ということばを積極的に使うところがありました。
──具体的には、講演はどのような内容なのでしょうか?
わたしなりにこの講演を分析したのですが、松田は3つのことを言っています。ひとつ目は、「保育運動は文化運動でなければならない」。保育をより良くするための運動は、保育実践を真ん中におきながら、保育に関わる人たちみんなで徹底的に議論するべきであると。だから、保育士の待遇改善のための労働者運動でもないし、保育条件の改善を公約に掲げる政党を支持する運動とも違う。
──なるほど。残りの2点は、どんなことを述べているのでしょう。
ふたつ目は、「保育所づくり運動は文化運動でなければならない」。保育所づくり運動では、保護者たちが平等につながりながら地域に根ざし、しっかりと保育要求を地域に訴えていく。これもまた、労働運動や政治運動とは異なります。そして文化運動としての保育所づくり運動が全国的に広がることで、「市民」的な人間関係を地域社会から生み出すことができると。
3つ目は、「保育方法が文化運動でなければならない」。ある保育士や教育者が掲げる理想的な子ども像を押し付けたり、画一的な保育内容で子どもを集団にまとめ上げたりするのではなく、あくまで子どもたちの「個人の尊厳」を大事にしながら集団をつくるような保育内容でないといけない、ということですね。
──それら3つの要素からは、保育の独立性の担保、そして「個人の尊厳」への松田の並々ならぬこだわりが見えますね。
当時流行していたマルクス主義的な立場にあった保育士さんたちの間では、ソ連のアントン・マカレンコという教育理論家が理論的支柱になっていました。松田自身も若い頃にはロシア革命に魅せられ、ある時期まではマルクス主義者であると自認していました。一方で、極論ですがマルクス主義者のなかには、集団がより良くあるためには、一時的に個人の尊厳が侵されても仕方ない、という考えがないとは言えない。松田は「集団」を重要視しつつも、戦時下での衛生官僚として「個人の尊厳」が侵される場面も経験していましたから、やはり「個」が何よりも大事だと考える人でした。
そのためマカレンコ教育学に対するアンチテーゼとして、松田はルソーの『エミール』を引き合いに出すんですね。『エミール』は家庭教師の物語なんですが、家庭教師で集団保育を正当化する、というのが松田の面白いところ。「集団」があって「個」があるのではなく、まず「個」があって、「個」の差異や自由が尊重される「集団」はどう形成されるのかを考える。ある意味では矛盾を持ちながらも、「個」と「集団」を両立させていく。当時はなかったことばですが、いまだったら松田は「公共性」と言うかもしれません。
18世紀フランスの哲学者であるジャン=ジャック・ルソーの著書『エミール、または教育について』をモチーフにした版画。本書は、家庭教師のルソーが架空の孤児エミールを赤ん坊から青年期まで育てる物語。「個」と「集団」という折り合いにくいふたつを両立する「自由な主体」をつくり出すことを掲げたルソーの教育論・人間論 photograph by Photo12/Universal Images Group via Getty Images
保育所づくり運動の先駆け
──松田道雄が実際に関わった保育所づくりに、「香里団地保育所づくり運動」があります。これは、どういった運動だったのでしょうか?
1955年に日本住宅公団(現UR)ができて、日本全国に団地がつくられていきます。1960年代前半はまだまだ経済的に豊かではなかったので、大阪の枚方市に新しくできた香里団地も、若い夫婦であれば共働きをしないと住み続けられないような団地でした。香里団地の建設当時、住宅公団は「保育施設をつくります」と言っていたらしいですが、蓋を開けてみたらそんな話は一切なくなっていて。これは困ったということで、1960年9月に香里ヶ丘文化会議が発足しました。
──それは必死になるのもわかります。
枚方市は京都と大阪のベッドタウンのような場所で、香里団地の入居者には京都大学の教員や卒業生などが多くいました。それで保育所づくり運動に当たって、京大出身者であり、育児に関する著作家として有名人で、かつ乳児保育に対して一定の理解がある松田道雄に協力を求めたわけです。そして松田を理論的支柱に、1962年に当時としては画期的な0歳児保育と長時間保育を公立の園で実現。まさに高度成長期の保育所づくり運動のモデルとなり、松田も香里団地保育所について『暮しの手帖』をはじめとするあらゆるメディアで宣伝しました。とはいえ、すぐに行政が動いてくれたわけではなかったので、まずは団地住民同士でお金を出し合って、お寺の一角で共同保育所をつくるところから始まりました。
写真上:香里団地A地区の中層住宅群(1996年8月撮影) 。香里団地の前身は、旧日本陸軍の宇治火薬製造所香里工場だった 写真提供: 「香里めざまし新聞」を復刻する会 写真下:現在の香里団地保育所(2023年7月撮影) photograph by Yu Wada
──「ないものは自分たちでつくる」というような、高度成長期の人たちのバイタリティはすごいですね。現代のわたしたちの感覚とはかなり違う気がします。
以前、「保育園落ちた日本死ね!!!」と題した匿名ブログで、待機児童の問題が注目されたことがありましたよね。わたしはあのことばをまったく下品だと思わないし、すごく大事な怒りの声だなと思うんですけど。でも高度成長期だったら、あの声を受けて「だったら保育所をつくろうよ」となった気もするんです。ただし、当時は「過労死」なんてことばがないくらい、いまよりずっと働き方も緩やかで、仕事の後で地域活動をするだけの余裕があったわけですが。
もちろん当時の香里団地の人たちも、補助金も税金も入らないなかで共同保育所をやるのはものすごく大変でした。でも、まずは“自分たちで救いをつくる”ということが、重要だったんです。香里団地では、行政との交渉のなかで徐々に制度化を進めていきました。問題を私的に解決せずに、共同的に、しかもそこまでで良しともせずに、最終的には公共的に行政にやらせる。そういう過程で、例えば市役所や議員に陳情するとか、積極的に行政にものを言うとか、地方自治を学んでいく。さらには同じ目的をもって活動するなかで、地域に友だちができていく。
──高度成長期の保育所づくり運動は、子どもをより良く育てることにとどまらず、大人たちのコミューン的な感覚を育てる運動でもあったんですね。
香里団地に限らず、高度成長期に新しくできた「団地」というのは、すごく近代的だけど閉鎖的で生活が個別化されていることから、「人間的な空間じゃない」というような批判があったんですね。こちら(下記写真)は、香里団地で当時発行されていたコミュニティペーパー「香里めざまし新聞」というもので、副題には「コンクリートの壁をこえて生活の向上をめざす文化活動を」というスローガンが掲げられています。つまり当時の住民たちは、世間から「コンクリートの壁に隔てられた孤独な人たち」という眼差しを向けられていることに対して問題意識をもっていたということですね。香里団地では保育所ができた後、さらに学童保育、病児保育をつくる運動を展開するのですが、このコミュニティペーパーはこうした市民運動にとって大きな武器になりました。保育運動は、まさに地域コミュニティをつくるための運動だったんですね。
写真上:2017年に復刻された「香里めざまし新聞」の冊子を見せる和田さん。同コミュニティペーパーは、1960年9月〜1971年8月まで全109号が発行された。和田さんも復刻に関わり、本冊子の巻頭言を執筆している。 写真下:1962年7月15日に発行された、香里めざまし新聞第8号。香里団地保育所の開設を祝う号で、中央には松田道雄による特別寄稿も 写真提供: 「香里めざまし新聞」を復刻する会
松田道雄は何を語り、何を見ていなかったか
──和田さんご自身は、保育を通じてどのように地域とつながったんですか?
わたしの地域デビューのきっかけは、間違いなく保育ですね。わたしは核家族の一人っ子で、あまり地域の人間関係がある家庭でもなかったし、通っていた中高も家の近くの公立校ではなく私立だったので、周囲の人びととの間で地元感覚のようなものを築いたことがありませんでした。それが冒頭でもお話ししたように、自分の子どもを保育園に預けるようになり、他の親御さんたちと一緒にバザーで焼きそばを焼いたりするようになって。バザーが終わった後は居酒屋で打ち上げをするんですが、わたしはそれまで職場の近くで飲むことはあっても、地域の居酒屋で飲んだ経験がなかったんですよ。
飲み会での保育園トークネタって大体ふたつあって、ひとつは子どものこと、そしてもう一つは夫婦の馴れ初めの話なんですよね。どこで出会ったとか、その話がもう本当に面白くて。この面白いっていう感覚を手放したくなくて、自分でも「板橋茶論」や「くらしにデモクラシーを!板橋ネットワーク」といった地域運動・市民運動をするようになりました。そういう意味では、「保育」という営みに自分自身が育てられたし、同じような感覚が香里団地の人たちにもあったのではないかと思います。
──もともとは子どものためにより良い保育環境を目指していたけれど、いつのまにか大人も保育によって育てられている、と。香里団地の人たちのその後の運動の展開や、和田さんの抱いたような感覚に、松田道雄も共感したと思いますか?
それはどうでしょうね。「知識人」と「民衆」という言い方をすれば、松田は民衆を啓蒙するポジションではあったけど、民衆と共に自分も何かを企んで一緒にやるということはなかった。「知識人」としてすでに完成していて、あくまでも助言や指導をするという立場なんです。だから彼自身、公民館とかにも行ったことはないんじゃないかな。それは、この時代の知識人がもっている時代性というか身体性なのかなと思います。
それから松田は、実は60年代末に保育運動と決裂するんですよね。松田からすると、保育運動が労働組合主導の共産党系の運動になってきて、「保育そのものを良くするための議論」からは離れてきてしまったと感じたようです。『私の読んだ本』(岩波新書、1971年)という松田の著書がちょうどこの2024年8月に復刊されたんですが、書かれたのは保育運動からすでに離れている時期。内容自体は、松田がどんな本を読んできたかという自伝的エッセイなのですが、せっかくやってきた保育運動に対しても、冷ややかな目を向けているというか、否定的に書かれています。
1971年に刊行された『私の読んだ本』(岩波新書)。読書家であった松田道雄が、探偵小説に没頭した中学時やマルクス主義に魅了された青年時代など、「読書」をテーマに自らの人生を振り返る。 photograph by WORKSIGHT
──その結末は少し残念ではあるものの、保育運動と決裂した理由も、ある意味では松田道雄らしいのかもしれませんね。
『私の読んだ本』に書かれているのとは違って、保育運動ってもっと可能性がある空間だったし、もともとは松田自身もその空間に意味や意義を感じていた。ただ松田のような大知識人からすると、保育を通じて大人が成長していくとか、保護者同士が飲み会や私的なものも含めた交流によって地元に愛着を持っていくとか、そのあたりのミクロなところには焦点が合わなかった。そこが、「限界」ということばは安易すぎますが、当時の知識人としての松田の立ち位置だったってことですよね。
一方でわたし自身は、松田のような大知識人になんてなれないし、でも子育てをしながら地域で活動している。そのわたしが松田道雄を研究するということは、「松田道雄が何を言ったか」ということだけではなくて、「何を見られなかったか」「何をうまく記述できなかったのか」を考えることでもあると思うんです。松田が積極的には語らなかった「保育」のなかに、実はすごく松田らしさも表れていて。だから、松田道雄自身がやったけれども、自分では整理できなかった、評価しきれなかった保育運動の経験を、わたしは研究しているのかなと思っています。
次週11月12日は、映画『シビル・ウォー アメリカ最後の日』に関するコラムをお届け。配給・製作会社A24が史上最高の製作費を投じ、近未来のアメリカの内戦を描いた同作は、大統領選挙に揺れるアメリカ、そして現代社会に何を提示したのか。現在日本でも公開中の話題作に、WORKSIGHTコンテンツディレクター・若林恵が挑みます。お楽しみに。