あの人は、今日も石を拾っている:「石の人」氏と考える、現代の石カルチャー
石をテーマにした雑誌の特集に、新作映画の公開。いま石への人びとの注目が、にわかに高まっているようだ。なかでも注目したいのが、ただの石ころを拾う人びと。各地の海や川で石ころを拾い写真をSNSにアップする彼らには、どんな世界が見えているのだろうか。自身の日記やブログ、SNS、写真集などで石拾いの様子と写真を公開している「石の人」氏へのインタビューを交えつつ考察する、”身近な未知”の地平。
「石の人」氏が拾った石たち photograph by ISHINOHITO
interview and text by Saki Kudo
静的な石、動的な石
『ユリイカ』2024年9月号では「石」の特集が組まれ、9月6日より新作映画『石がある』(太田達成監督)も公開されている。物言わぬ石に人びとが惹きつけられていることには、新鮮な驚きを覚える。もちろん、人間が石へ注目し、思索を重ねる行為はいまに始まったことではなく、過去の美術家や作家、哲学者、人類学者たちもまた、石へさまざまに関心を寄せてきた。
とはいえやはり、近年の盛り上がりは特筆に値するだろう。この数年、ソーシャルメディア上で石の写真や話題を目にすることが妙に増えたように感じる。ここでいう石とは水晶やアメジスト、ダイヤモンドなどのいわゆる「鉱石」ではなく、海辺や河原で拾うことができるただの「石ころ」のことだ。とはいえタイムラインに流れてくる写真には、ただの石と呼ぶには忍びないほどに、豊かな色調と模様をもった石ころの数々が収められている。
それらの画像の石は、筆者の語彙で例えるなら、洗練されたホテルの部屋の内装材をスプーンですくい取って丸めたカラフルな砂糖菓子のような……とにかく不思議とグラフィカルな魅力がある。その視覚的な美に人びとが惹かれているということなのだろうか? しかし、もし仮にそうだったとしても、石ころの楽しみ方は静物としての鑑賞に留まらない。そう思えてならないのは、単なる動かない自然物であるというわたしたちの常識に反して、石は人間にもはたらきかけるからだ。
ティム・インゴルドは、著書『生きていること:動く、知る、記述する』(左右社)第二章の冒頭で、読者にわざわざ石ころを濡らして読みながら眺めるようにと指示する。そこで彼は「素材の属性は、客観的に決定されるものでもなく主観的に想像されるものでもなく、実践的に経験されるものである」のだと、考古学者クリストファー・ティリー『石の物質性』を引きながら述べる。ティリーによれば「石らしさ」とは一定不変ではなく、光や陰、乾燥や湿気、観察者の位置、姿勢や運動との関係で絶えず変動するらしい。インゴルドはまた、石がわたしたち人間の文脈のなかで立ち現れているのと同じように人間は石の文脈のなかで立ち現れるのだ、もう一度素材を真剣に受け止めるべきだ、と熱を込める。
素材としての石を真剣に受け止めるとはどういうことなのか──悶々と考えるあいだにも、手元の濡れた石の表面が上から徐々に乾き、風の強い日の雲のように色の濃い部分を押し動かしていく。この石が乾ききるまでの劇的な変身の経過は、いやしくも人間だけが変化する行為者ではないということを示している。鑑賞物としての石の佇まいをただ眺めるのではなく、石の動的な部分ともっと戯れてみたい。自然のなかの石ころを自分で拾ってみたら、何かわかるだろうか? タイムラインの写真の投稿者たちもそうしていた。何より、素敵な石を自分の足で探しに行くなんてすごく楽しそうに思える。
石ころを拾う人びとにとって、"良い"石というのはどこにでも落ちているわけではないらしい。丸くて鮮やかなのがよければ海辺へ、削りきれていない素朴な石なら川辺へ。そのなかでも魅力的な石が拾える定番のスポットというのが、先人たちの経験によってある程度まで絞られている。聞けば青森・津軽の海岸では、それはそれは個性のある、「錦石」という石が拾えるらしい。津軽で採れる、珪酸(SiO)分が豊富な碧玉・玉髄・瑪瑙・流紋岩・珪化木などの美しい天然石の総称とのことだ。その古来の呼称を、筆者は当の津軽出身であるにもかかわらず知らなかったことを恥じつつ、夏の帰省がてら青森の西海岸の名所とされる「七里長浜」で、初めての石拾いに取り組んでみた。
現在公開中、偶然に出会い石拾いなどの行動を共にする人物ふたりを描く映画『石がある』予告編。同作には、濱口竜介、三宅唱、金子由里奈や、話題作『aftersun/アフターサン』撮影のグレゴリー・オークら映画人のほか、社会学者の石岡丈昇、詩人である蜂飼耳、無駄づくりで知られる藤原麻里菜といった面々がコメントを寄せている。
石拾いの聖地で拾ってみる
七里長浜は、津軽半島の西側の大部分、鰺ヶ沢から十三湖のあたりまでを南北に占める、名前の通りの長い砂浜だ。海岸にたどり着くまでの道はいくつかあって、屏風山と呼ばれる県産メロンの一大産地に向かって半島西部を縦断する広域農道「メロンロード」から分岐するかたちで、西に何本か伸びている。広大なメロン農地の上空を風車のプロペラがゆっくりと旋回する、日本最大の陸上風力発電所「ウィンドファームつがる」を抜けた先の道を海側へ曲がると、鳥居をくぐって高山稲荷神社の敷地内まで車が入ることができる。拝殿の先の千本鳥居に向かうであろう訪日旅行客を尻目に、鬱蒼と茂る脇道に入って背の高い草木をかき分けて進む。ゆるやかな丘の砂道に足を取られながらよたよたと歩いた先に、突然日本海の水平線が現れた。
photographs by Saki Kudo
丘を降りた先の浜には、見渡せる範囲で他に5、6人しかいなかった。家族や連れ合いと訪れて、めいめいに波音と潮の香りを楽しんでいる様子だ。何かを拾っているような人影も見える。砂の上には流木からプラごみまでいろいろなものが打ち上げられていて、波打ち際に近づくにつれて石の占める割合が増していく。おもむろに目についた近くの石ころをいくつかもち上げて触ってみると、どれも溶けかけの飴のように角が削れて丸く、卵の殻に似た肌理の滑らかさが指の腹に心地いい。とりあえず1時間ほど時間を取って、ピンと来た石を拾い集めてみることにした。暗いグレートーンの粒が多くを占める視界のなかで、強く存在を主張してくるのは暖色の石だった。焼き立てのベビーカステラを思わせる香ばしい色もあれば、小動物の心臓のような熱を感じさせる色もある。もち上げて眺めると、ランダムな傷跡、惑星のようなグラデーション、珪化木の木目のストライプに至るまで、模様もさまざまに面白く、ほんの十歩の距離を進むあいだにどんどん袋が重くなっていく。石が荒々しい重力でわたしのつま先を砂にめり込ませ、ふくらはぎの筋肉を強張らせているのを感じる。
餌を探す犬のようにしばらくうろうろと石を拾い集めてみて気づいたことがあった。時間が経つにつれて目に入る石の種類が明らかに変わってきている。最初の30分ほどは鮮やかな石に目が奪われていたが、徐々に握ったときの触感や、細かいテクスチャの違いに面白さを感じるようになっていた。石の存在とそれを拾う行為を介して、自分のほうもこの短い時間で変化しているようだ。同行者の友人と拾った石を見せ合うと、友人の集めた石は、わたしが選んだ色面やパターンが明確なものとは見事に傾向が違って、遠目には控えめだが近づくとどれも風景画の絵肌のような表情があった。石拾いたちにとって、「人と見せ合う」という時間が大きな魅力のひとつだというのもよく理解できる。物や人の価値が競争的に評価される場から離れ、自分や相手がどうしても惹かれてしまう無意識の指向をさらけだす機会を、石ころがその形や色で抽象的に媒介してくれていた。
自ら石を拾ってみるという初めての試みは、七里長浜というロケーションの素晴らしさに甘えるかたちで素晴らしい経験となった。では、自分よりも数段手慣れた石拾いたちはどんなことを考えながら石ころを眺めているのだろうか。石ころ拾いの様子や拾った石ころの写真を自身のブログやソーシャルメディアに匿名でアップしている「石の人」氏に、石との向き合い方を尋ねてみることにした。
photograph by Saki Kudo
石を求める人びと──水石、鉱物、パワーストーン
──初めまして。石の人さんはご自身のブログやソーシャルメディア上で拾った石ころの写真を公開されていますが、普段はどんなふうに暮らしていらっしゃる方なのでしょうか。
こんにちは。僕は普段はデザインの制作会社に勤めています。主に広告やパッケージ、グラフィックデザインのアートディレクター兼デザイナーのような肩書きです。WEB上に拾った石の写真を公開していますが、写真のほうは独学です。平日の仕事の合間か、休日の旅行ついでに石を拾うことが多いですね。仕事がフルリモートである程度自由が利くので、出張のついでに拾うこともあります。
──石拾いを始められた経緯も、お仕事と関係あったりするのでしょうか。
若干ですけど関係があります。うちの会社はデザイナーの人数が多く、全員とは言わないまでも変わった趣味をもっている人がたくさんいるのですが、いつだったか社員のひとりが静岡の御前崎で拾った石を会社にもち込んだことがあったんです。その石は丸っこくてすべすべしていて、川の上流にあるようなごつごつしたマットな石とは違うのを見て、さまざまな種類があって面白いなと。大人になってから石を拾うということはなかったんですが、その週末にすぐ自分でも和歌山の串本へ石拾いに行ったんです。日記を見ると、2015年8月9日のことですね。でもそのときはあまりいい石が拾えませんでした。次に伊豆の菖蒲沢海岸に行ったのですが、そこでもうまく見つけられず。どこに行けばいい石が拾えるんだろうと調べていくうちに、石の世界にはまっていったように思います。3回目の糸魚川のヒスイ海岸で、いま写真でネットに上げているような石がようやく拾えて、そこから一気に日本海を中心にいろいろな場所に拾いに行くようになりました。
──ソーシャルメディア上では石の人さんの他にも、個人で石を拾っている方々のアカウントを見かけますが、皆さん似たようなご関心をもっていらっしゃるのでしょうか。
推測ですが、そもそも石の種類自体は昔からさまざまにあったわけですし、人知れずみんな個人で石拾いをやっていたのが、SNS上で可視化されるようになったのだと思います。特にコロナ禍に入って以降、SNS上で石を拾っている人のアカウントがすごく増えた印象があります。その少し後に、石フェスなどのイベントが開催されるようにもなり、小さなブームのようなものを感じてきました。一方で、石拾いをする人のなかにもいろいろなタイプがいます。そして、そもそも大きく「石が好き」という人たちを考えると、石をどう楽しむかという点で、大きくジャンル分けできるようにも思うんですよね。まず、「水石」といって木の台座に乗せられている鑑賞石が好きな方々がいらっしゃいます。水石は、山水石などと言われることもあります。
──よく床の間に飾られているようなものですね。
そうです。自然芸術として石を鑑賞する枠組みとしては、それが国内では一番古いとされています。年齢層も高くて、盆栽の次にやる趣味なんて言われることもありますね。日本へは南北朝時代に中国から伝わってきたそうです。最近だと韓国映画『パラサイト 半地下の家族』で、貧しい一家の長男の元に羽振りの良い名門大学の友人が家庭教師のアルバイトをもちかけるときに、お土産にもってきた山水石が象徴的に使われていましたね。
加えて、すごくファンが多いのはいわゆるミネラルショーなどで売られているもののような、きれいな鉱物ですね。
──鉱物好きの方の層はかなり厚そうですね。
はい、鉱物マニアはすごく多いです。展示会やイベントも多くて賑わっています。あとはパワーストーンのようなスピリチュアルな楽しみ方もあります。「水石」「鉱物」「パワーストーン」の3つが石の大きなファン層としてあって、そこに加えて最近可視化されてきたのが、「ただの石ころ」を拾って楽しんでいる人たち、ということになると思います。ただ先ほど触れたように、石を拾う人のなかにも、さまざまなタイプがいるんです。自分も含めてただの石ころを拾う人──例えば『いい感じの石ころを拾いに』という紀行エッセイも書かれている作家の宮田珠己さんをはじめ、ソーシャルメディア上の石ころ好きのなかでも比較的以前から交流のあるアカウントだと「石好きだ」さんや「麻烏」さん、「石猫」さんなどのような人がいる一方で、ただの石ころではなく鉱物目線で拾っている人もいるわけです。それこそヒスイ海岸では翡翠が取れますし、瑪瑙や水晶など、希少性の高いものに限定して集めているような層ですね。
真ん中に見えるオレンジ色の石が瑪瑙 photograph by ISHINOHITO
理由も意図もないもの
──石ころ拾いは趣味のジャンルとしての輪郭が曖昧なところが興味深いですね。石の人さんから見て、鉱物やパワーストーンではなくただの石ころに惹かれる理由はどこにあるのでしょう。
一般的に鉱物マニアの方は収集が目的の場合が多いのですが、鉱物はそこら辺には落ちていません。一般人がなかなか入れない山のなかに行かないと取れないものもあります。それが、海や川の石ころだと身近な場所で拾うことができるというのがひとつです。あとは、鉱物といってもそれこそダイヤモンドのようにカットや研磨をされる宝石だと、大きさや純度に加えて加工された統一的な美しさが評価されますが、石ころに関しては見た目からして全然違う。純度が高くないので、いろんな鉱物が混ざっています。以前、地質学を専門にしている人に自分が拾った石ころを見てもらったこともあるのですが、やっぱりこれという成分を断言しづらいようです。いろいろな成分が混ざって不思議な模様をつくっているのが面白いなと。
水石は、どちらかというと”作品”のような楽しみ方です。真黒、つまり真っ黒な水石が最高峰という基準があったりしますし、加えて「養石」といって、年月をかけて石を雨ざらしにして風化させていくこともします。ジーンズのエイジングのような感じです。ただの石をそのまま楽しむというのとは、やはり違った趣味なんですよね。僕自身、何回か水石の展示なども見に行ってみました。例えば明治神宮では、年に一回「盆栽水石展」をやっているんです。
──なるほど、明治神宮ですか。
はい。奥が深すぎて、僕にはまだちょっと踏み込めませんでした(笑)。でもその石が伝わってきた歴史的背景や産地の文脈などを踏まえている点はやはりどちらかというと美術作品のような楽しみ方ですし、石ころのように見たままのものを解釈するという世界ではないようです。とはいえ、水石のように自然を鑑賞する方法も、きっと昔の人が近くの川で拾った石が何か山のように見えるね、という原始的な見立ての経験から始まっているわけですよね。ただの石ころ拾いは、その行為を始まりの状態のまま保ち続けているようなものだと思っています。
──石の人さんは、ご自身で石を拾うときどんなことを考えていらっしゃるんですか?
拾っているあいだは雑念がないというか、絵を描いているときに近いかもしれません。ただ10年やっていて、最初に拾っていた頃とはだんだん感覚が変わってきているのは感じます。このあたりにはこういうものが多いとか、これはよく拾っているからとか、自分の「いい石」のかたちが徐々にできてきます。僕は比較的自分から石のことを発信しているタイプなのですが、それだけ客観的になる機会も多く、たまに「いったい自分は何をしてるんだろう」と思うことがあります。解剖学者の養老孟司さんのYouTubeを見ていると、四六時中虫を見つけては分類しているそうなんですけど、分類してもしきれない、ということも仰っているんですよ。分布などから経緯の推測はできるけど、はっきりとは分からない。石もそうですが、自然のものには理由や意図がないので、だからこそ気になり続けるというのはあると思います。
──地質などの科学的な見方が目当てなわけではないんですよね。
そうなんです。でもそういう見方をしている石ころ拾いの人もいます。『日本の石ころ標本箱:川原・海辺・山の石ころ採集ポイントがわかる』(誠文堂新光社)を書かれている渡辺一夫さんはすべての石が美しいということを仰っていて、見た目はもちろんですがその石を構成している成分とか地質的な成り立ちも含めて美しい、という立場だと理解しています。
photograph by ISHINOHITO
目的的な世界から離れて
──石を拾ったことがない人にとっては、「拾ってどうするのか」ということが伝わりづらいかと思うのですが、石の人さんは石拾いのどこに楽しさを見いだしていますか。
いまでこそ石仲間がいますが、まだひとりで拾っていた頃に、石に興味がない人を何とか連れ出そうとするときにいつも言っていたのは、「お土産にできる」ということですね。石拾いではなく旅がメインで、ついでに海があれば石を拾って帰る。例えば熱海とか伊豆とかに遊びに行ったときに、その海岸についでに寄って、自分の面白いと思った石をひとつもって帰って自分の部屋で眺めると、そのとき自分がどうしてこれがいいと思ったのか、ということを鮮明に思い出すことができます。思い出の再生装置としてもそうですし、その土地の自然でつくられた唯一無二のものなので。あとは自分なら手もちの石を12個セレクトして並べてみたり、水盤に水を張って石を入れたりすると、海や川にあったときのように水で濡れた状態も楽しむことができます。
石拾いの魅力について聞かれることは、よくあるんです。石拾いの旅そのものやスポット探し自体が面白いとか、海岸で石を選びながら拾い、その石を人と見せ合っているのが楽しい、などと答えることが多いですね。もち帰って一個のオブジェクトとして眺め直したり、写真で表現したりするのも楽しい、と言ったりもします。ただ実は、拾った後の石はケースに入れて見えない状態で保管しているものが多いんです(笑)。
──そうなんですか(笑)。
石拾いの行為自体のほうが重要なので、写真の撮影と発信をしていなかったら、むしろもち帰らなくてもいいくらいに思っています。僕自身、家にもち帰ることを推奨しているわけではないんです。海にとってはどちらかというともち帰らないほうがいいわけなので。もって帰るときも可能な限り厳選して、あとは戻すようにしています。実際にはそんなことは起きないかとは思いますが、もし今後とんでもない石ころ拾いブームが来たとしたら、いまの石拾いのバランスは維持できないかもしれません。
──ひっそりと、謎めいた行為を少しだけ楽しむ、という現在のスケールが、ちょうどいいのかもしれないですね。
よく考えたら石ころって鉱物の塊ですから、広義にまとめると地球上の金属が混ざったものはすべて石ころともいえると思うんですよね。その辺の人工物のコンクリートや、ガラスや鉄なども。地球自体が鉱物の惑星で、そこから削り落ちたかけらを石ころとして拾っているんです。よく石の写真を見た方からの感想として、マーブル模様などが惑星っぽい、宇宙っぽい、というようなことを言われたりするのですが、事実惑星のかけらを拾っているわけなので、そうして宇宙のスケールについて考えることも楽しんでいるように思います。ただ、そういう魅力を論理的に言語化すればするほど、実態から離れていっている気もするんです。自分のなかでは、どちらかというと普段の思考の箍(たが)を外しに石拾いに行っているところがあるので。
──目的的に捉えられてしまうのも違うと。石拾いには設計的な行為から離れるという側面ももしかしたらあるのでしょうか。
必ずしも意識的ではないにしろ、潜在的にあるかもしれないです。現代社会で生きているだけで、目的と成果が求められるのが常ですから。例えば散歩という趣味でも、痩せるとか健康のためにみたいな目的がある一方で、歩くという行為自体を楽しむこともできるわけじゃないですか。石ころを拾っているときは、ただその行為や対象自体に没頭できているのかもしれません。
photograph by ISHINOHITO
石の人氏との対話から、気づいたことがあった。条件を明示せず自分が目についた石ころを拾うという行為自体に、ゴールと過程を設計しない、偶然性を受け入れる契機が埋め込まれている。加えてそれぞれの人が自分なりの"いい石"の感覚的な基準を保ったままで共にいられるという点を見ても、他のジャンルの石の蒐集とは様子が違っているようだ。雑駁な宇宙の欠片をささやかに拾い上げる試みは、人間を含むあらゆるものが競争的な価値のテーブルに並べられ、目標達成とそれによる成長を迫られる世界への抵抗にもなりうる。そのきっかけは、必ずしも鉱山地帯や海底ではなく、近所の川べりや旅先の浜、あるいは街中に転がる石たちのなかに見つけることができるかもしれない。
次週10月8日は、マイクロソフト首席研究員を務める経済学者グレン・ワイル氏のインタビューをお届け。元台湾デジタル担当大臣オードリー・タン氏との共著『Plurality: The Future of Collaborative Technology and Democracy 』(邦訳版は2024年12月刊行予定)をひも解きながら、多元的な社会に向けた新たなビジョンを伺います。お楽しみに。