「書く」と「つくる」を重ね合わせる3冊|池田剛介・選【つくるの本棚 #7】
これからの「つくる」を考えるべく、各界の識者が本を紹介する「つくるの本棚」。第7回は、京都を拠点とする美術作家であり、アートスペース「浄土複合」でライティング・スクールを主宰する池田剛介に、「つくる」ことを「書く」ことと捉えて選書してもらった。そこには、「書く」ことを通してアートの「わからなさ」を楽しむためのヒントがあった。
「芸術作品をどう鑑賞したらいいのかわからない」「作者が何を言いたいのかわからない」。美術館で作品に対峙しても、そんな不安にかられてすぐに近くの解説文を読み始めてしまうという人は少なくないかもしれない。その反面、SNS映えする展覧会や芸術祭には多くの人が詰めかけ、それっぽい解説や気の利いたコメントが、インターネット上をせわしなく流れていく。
美術作家の池田剛介さんは、2019年に京都市左京区・浄土寺エリアで、制作・発表・批評が交差する複合的なアートスペース「浄土複合」を開いた。同スペースで池田さんが主宰する「浄土複合ライティング・スクール」では、千葉雅也や細馬宏通、百瀬文など第一線で活躍する研究者やアーティスト、批評家、作家をゲスト講師に迎え、年間を通じて展覧会や公演のレビュー、作家・作品論の執筆などに取り組む。
受講生に向けたメッセージによると、そこで志向されるのは「すぐさま消費される情報の生産ではなく、制作者が作品を生み出すように耐久性のある言葉を丹念に造形していくこと」。また「書く」ことにとどまらず、編集やデザインの視点も踏まえながら、ZINEの制作や地元メディアでの記事配信などのスクール外に向けた発信も行うという。
美術作家であり書き手でもある池田さんにとって、作品を「つくる」ことと「書く」ことにはどのような関係性があるのか。そうした問いへの応答として、3冊の本を選んでいただいた。本についての話を聞くなかで、池田さんが実践する「ライティングを通した運動」の輪郭が浮かび上がってくる。
interview and text by Makoto Okajima
photographs by WORKSIGHT
【つくるの本棚 #7「『書く』と『つくる』を重ね合わせる3冊」池田剛介・選】
『芸術原論』
赤瀬川原平|岩波書店
『クレーの日記』
パウル・クレー|高橋文子・訳|みすず書房
『文体の舵をとれ:ル=グウィンの小説教室』
アーシュラ・K・ル=グウィン|大久保ゆう・訳|フィルムアート社
わからないから書かなくちゃいけない
今回の「つくるの本棚」では、「つくる」=「書く」という視点から選書してほしいというお話をいただきました。ぼくが活動している美術の分野では、作品を制作する「つくり手」と、それについて批評する「書き手」が分かれていることが多いです。でもぼく自身は、つくり手をはじめとして、もっといろんな人が書いていいんじゃないかと考えていて。「書く」ことを批評家という枠組みから解放するための試みとして、2019年に浄土複合ライティング・スクールをスタートしました。
スクールで基本的な方針としているのは、「作品の具体的な観察に基づいて書く」ということです。批評家の真似をして抽象的で複雑な概念を扱おうとするのではなく、ある作品がどういう風につくられているか、作家がどのように手を動かしたり、どういうところで迷ったりしているかを観察ベースで丹念に追っていきます。これはつくる側からの視点でもあると思うし、そういう意味でもぼくが書く文章は、制作者としての感覚と結びついているように思います。こういう方法がいいのは、あえて言えば専門的な知識に基づいて書く必要がなく、目の前のものを粘り強く観察して、丁寧に言葉にする姿勢さえあれば、誰にでも可能だと思うからです。
一方で、最近のアートの世界では、やたらと「言語化」ということが言われるように感じます。作品をどういう意図でつくったのか、展示場所とどう関連があるのか、美術史の文脈上はどうかとか……。ある種のわかりやすい「説明」を求める風潮があり、それにともなって理解可能な仕方で説明しなければならないという強迫観念が、つくり手の側にもここ数年で急激に強まっているように感じています。
ぼくは「批評」とは、そのような了解可能な「説明」とはまったく別のものだと思っています。批評的な言葉が必要になるのは、むしろ「よくわからないもの」に出会ったとき。その作品の何が面白いのかよくわからなくて、それでも何か自分に引っ掛かるものがある、そういうときに書くことの動機が生まれる。簡単に説明できてしまうものなら、わざわざ他の誰かが言葉にする必要はないと思います。今回はアートについて書くことのヒントになりそうな3冊を選びました。
京都市左京区・浄土寺エリアにあるアートスペース「浄土複合」(二階部分)。このエリアは京都大学や京都芸術大学からほど近く、銀閣寺や哲学の道などの観光地と静かな住宅地が共存する地域。近くには書店「ホホホ座」をはじめ、ライブハウス「外 soto」や複合スペース「Bridge To」など、個性的なお店や施設が点在している Photo courtesy of Jodo Fukugoh
身の回りの観察から始める
1冊目に選んだのは、赤瀬川原平の『芸術原論』です。今年は赤瀬川が亡くなって10年目で、彼についてあらためて考えるいいチャンスだと思っていたのですが、特にそういう機運もないようなので(笑)、勝手に再考しようかなということで選びました。
赤瀬川は、1960年代から前衛芸術家としてキャリアをスタートさせて、その後、小説やイラストレーション、エッセイ、写真など、さまざまな分野で活躍した人です。ぼくが現代美術について最初に知ったのも、赤瀬川の文章を通じてでした。
『芸術原論』(赤瀬川原平|岩波書店)。千円札模写事件、超芸術トマソン、路上観察など、同時代の既成概念に風穴を開けてきた芸術家・赤瀬川源平。本書は、そんな赤瀬川がさまざまな媒体に寄せた芸術に関するエッセイ集。その型破りな芸術論は、没後10年が経ったいまもなお人びとを挑発し続ける。
赤瀬川と言えば、「千円札裁判」で有名です。1963年に千円札を印刷・複製したものを作品として発表し、その作品をめぐって1965年、通貨及証券模造取締法に違反したとして起訴されることになります。そうした裁判のなかで自分がやっていることをある種「社会化」せざるを得ず、言葉にする必要に迫られて、赤瀬川は文章を書き始めています。80年代頃からは、「路上観察」や「超芸術トマソン」など、身の回りにあるものを新たに見直すような活動を始めていて、『芸術原論』は、そうした時代に赤瀬川が考えたことをまとめたものです。
すごく難しげなタイトルがついていますが、これも赤瀬川流のユーモアで(「原論」とは「原平の論」ということですし)、実際にページをめくると小難しいことが書かれているわけではありません。例えばこの本の冒頭では、子どもの頃に赤瀬川が感じていた「自分」という存在に対する疑問がつづられています。同じようなことを子どものころに考えていたという人は、意外と少なくないように思います。
だから自分は確かに自分なのだけど、両親や兄弟というのはロボットではないかと考えていた。(中略)自分が観察されていると思っていたのだ。どこか別の宇宙に生れて、この子は本当にいろんなことができるのかどうか調べるために、この地球のロボットの家族の中で生活させられているのかもしれないと疑っていた。(中略)自分だけが特別に自分であるということが、どうにもわからなかったのである。それは本当はいまもわからないのだけど、いまはただそれに慣れただけだ。
ほかにも、自分の身の回りで起きた「偶然」を書き留めた日記的な文章があったり、明治時代に『滑稽新聞』という奇妙なメディアをつくっていた宮武外骨について書いていたり。そうした日常や身の回りの謎を観察することと地続きで、美術館で観た作品についても赤瀬川らしい分析をしています。
例えば赤瀬川は、一周まわって日展が面白いんじゃないかということで展覧会を訪れるのですが、日本画が「高い岩絵具を積立貯金のようにちびちびと塗り重ねる方法」で描かれていると言っていたり(笑)。あるいはセザンヌの作品を観たときは、描かれた人物の腕や顔などの中心部分に制作を中断したかのような塗り残しを発見し、「絵が空虚を芯に置いて出来上がっている」ことに、「梱包」や「宇宙の罐詰」など赤瀬川自身の作品との共通性を見いだしています。
芸術について書くというと、なにやら小難しく書かなくちゃいけないと思われがちですが、赤瀬川の文章にはそうした硬さはまったくない。つくり手としての視点と具体的な観察をベースに、身の回りのことの延長上で作品について書くという姿勢を、この本は教えてくれます。
気取らない言葉の裏にある編集的視点
2冊目の『クレーの日記』は、その名の通り画家のパウル・クレーが書いていた日記です。クレーもまた、作品をつくることと書くこと、どちらも並行してやってきたタイプの人ですね。クレーは小さな作品をたくさんつくっていたので、そうした彼の制作スタイルは、ツイッター(現・X)のような短い文章の連なる、この日記の断片的な感じとも繋がっていると思います。
写真上:『クレーの日記』(パウル・クレー|高橋文子・訳|みすず書房)。自己省察のために日記をつけていた画家のパウル・クレー。友人との交流、育児、旅行、第一次世界大戦、芸術に対する考察などが、素朴な言葉でつづられている。2018年に葛西薫のブックデザインにより新装復刊された本書は、手帳のように美しいつくり 下:1924年、バウハウスのスタジオでのパウル・クレー photograph by Culture Club/Getty Images
文章を書く出発点として、日記は始めやすい形式なんじゃないかと思います。赤瀬川と同様に、クレーがつづっているのも基本的には身の回りで起きたことや人間観察、ちょっとした愚痴や皮肉などの他愛のないことで、まさにツイートです。特に好きなのは、息子フェリックスの子育て日記ですね。
フェリックスとリリーと一緒の写真を撮る。
六時から八時までよくしゃべる。
顔をゆがめて手をしゃぶる。
しゃぶって、叫ぶ。
首がすわってきた。
朝の六時から七時半まで泣き叫ぶ。
(ロシア人の舞踏会)
朝六時前に泣いて、食べ物をもらう。リリーはよく辛抱する。
素描画家協会に落ちる。
ほかにも息子の体重を数日ごとに細かく記録していたり、妻のリリーが仕事ばかりで全然手伝ってくれないとぼやいたり、いまで言うイクメンを100年以上前に先取りしています(笑)。あるいはチュニジアでの旅行記や、第一次世界大戦のような時代状況が言葉にされていて、そうしたなかに芸術についての深い洞察や、きらりと光る直感のようなものが混ざっている。
いまは、仕事の手を休めている。すべてがこんなにも深く、こんなにも優しく私の中に染み透ってくる。私はそれを感じ、確信を深めている。あくせくすることもなく。色彩が私を捉えたのだ。もう手を伸ばして色彩を追い求めることはない。色彩は私を永遠に捉えた、私にはそれがわかる。この至福の時が意味するのは、私と色彩とはひとつだということ。私は、画家だということ。
このように、芸術と生活が日記という形式のなかでハイブリッドになっているのが興味深いです。クレーの日記は、その都度に考えたことをただ書き連ねた、いわば書きっぱなしの文章のように見えるかもしれません。でも実は、クレー自身が後から加筆修正をしたり、順番を入れ替えたりと、かなり編集されていることがわかってきています。
クレーの作品も同じように、一見すると子どもっぽく、かわいらしい絵のように思えるのだけれど、実はそのなかにもある種の編集的な操作が行われています(そのことについてはここで書きました)。先に引いた「色彩が私を捉えたのだ」という色彩家宣言と取れる有名な一節も、後から書き加えられた可能性が指摘されています。そういう風に作品と重ねて読んでみるのも面白いのではないでしょうか。
書くことのクラフトマンシップ
3冊目は、アーシュラ・K・ル=グウィンの『文体の舵をとれ』です。先の2冊は、肩肘をはらずに文章を書く際のヒントになるものですが、最後の1冊は書くことの「訓練の必要性」という観点から選びました。ル=グウィンは『ゲド戦記』や『闇の左手』などで知られる、20世紀後半から21世紀にかけて活躍した世界的なSF・ファンタジー作家であり、いわばプロ中のプロの書き手ですね。
写真上:『文体の舵をとれ』(アーシュラ・K・ル=グウィン|大久保ゆう・訳|フィルムアート社)。『ゲド戦記』や『闇の左手』などで知られるル=グウィンが、自身主宰のライティング・ワークショップをもとにまとめた小説家のための手引書。小説を書くという「技術」を、練習問題や実例、ル=グウィンによるウィットに富んだ解説を通して学ぶことができる 写真下:1975年、フロリダのアパートメントでのル=グウィン photograph by Kevin John Berry/Fairfax Media via Getty Images
浄土複合ライティング・スクールでは、普段の生活と並行しながら書き続けていくことを重視してきました。それはそれでよかったと思うんですけど、5年くらいやってきて、本気でいいものを書こうとすると、それはかなり大変なことで、楽しいだけでもないことがわかってくる。ル=グウィンは、この本から想像するに愛はあるけど厳しいおばあちゃんのような感じの人で、書くことの苦しさや難しさと粘り強く付き合っていくこと、そうした訓練の必要性について一貫して語っています。
技術が身につくとは、やり方がわかるということだ。執筆技術があってこそ、書きたいことが自由自在に書ける。また、書きたいことが自分に見えてくる。技巧(クラフト)が芸術(アート)を可能にするのだ。
ル=グウィンは、1996年から本書のタイトルでもある「Steering the Craft」(文体の舵をとること)というワークショップを立ち上げており、この本はそうした経験をもとに書かれたものです。音やリズム、文法、構文、語りの視点など、ライティングの基本となるトピックごとに章立てがされていて、それぞれにワークショップで実際に使用した練習課題や、ジェイン・オースティンやマーク・トウェインなどのプロの作家の実例が入っています。
昨今では、「書く」ことの指南書も多く出回っていて、例えば文章の長さはどのくらいがいいとか、できるだけ受動態を使わないなど、さまざまなライティング・メソッドが言われます。しかし、実際にはそれほど単純化できるものではないということを、ル=グウィンは強調しているんです。一方で、精神論的なことを言っているわけでもなく、むしろ職人的な鍛錬を重視しています。冴えたひらめきで書くというよりも、粘り強く文章を練り上げていくことを基本に、地道に経験を重ねていく。そうした姿勢にはすごく共感しますね。
ル=グウィンの本は、小説のような創作的な文章についてのものですが、作品について書くということで言えば、そもそもアーティストは自分の言語をもっている人だし、それが暗号のように作品に表れていると思うんですね。それを大事にすべきだと思うし、誰にでも説明可能なものである必要はない。「批評」とは、初めに言っていたような「わからないもの」、暗号めいたものを自分の体を通過させることで、また別の言葉に翻訳するような作業だとぼくは思っています。
とはいえ、暗号を暗号のまま口移ししても仕方がなくて、それを可能な限り開かれたかたちにするには、やっぱり文章の訓練や積み重ねが必要になるのではないか。「書く」ことに対していかに楽に構えるかが大事だと思っていたけれど、最近はそうした苦しさについても考える必要があるかなと思っているところです。
仲間とともに「書く」
ル=グウィンが実践していた「ワークショップ的に書く」ということは、ぼくが主宰しているライティング・スクールでも大切にしている部分です。彼女のワークショップは、参加者に練習課題を出しながら文章を書いてもらって、それをみんなで合評するという感じのもの。もちろんひとりで机に向かって書く時間も大切だけれど、ある種のコミュニティをつくるということ自体が、「書く」ことにとって意味をもつと考えています。
浄土複合ライティング・スクールでも、共通の課題に取り組んだり、ディスカッションを重ねたりしながら、ライティングを立体的に学ぶことを目指しています。また「書いて終わり」ではなく、それらを共同で編集してZINEにまとめたり、あるいはロームシアター京都が運営しているメディア「SPIN-OFF」や、NISSHA財団が運営する「AMeeT」などの地元メディアで積極的に公開したり。スクールのなかだけでなく、それをどうやって外に発信していくかまでを含めて考えていきたいと思っています。
実際、美術大学などで学ぶことにどんな意味があるかというと、ひとつはそこで技術や制作環境を得るということがありますが、もうひとつには、「つくる仲間」をつくるということがあるんじゃないかと思うんです。自分の周りで作品制作をしている人に出会って、そういう繋がりが、学校を出た後も制作を続けていくための糧になります。浄土複合でやっているのは、それよりもずっと小さな場ですけど、その繋がりがあることで、「書く」ことを日常のなかに組み入れながら持続的な営為にすることができる。印刷物でもウェブ上でもいいのですが、そこから出てきた言葉を外へと発信する運動が活性化していけば、さらに書くことが開かれていくのではないかと思っています。
写真上:浄土複合ライティング・スクールの様子 写真下:浄土複合が年に1回発行している、アートとライティングが交差する芸術誌『Jodo Journal』。浄土複合ライティング・スクールのゲスト講師によるレクチャーや対談記事などに加え、展覧会レビューや翻訳論稿などが並ぶ。 photographs courtesy of Jodo Fukugoh
池田剛介|Kosuke Ikeda 京都を拠点とする美術作家・批評家。1980年福岡県生まれ。著書に『失われたモノを求めて:不確かさの時代と芸術』(夕書房、2019年)。主な展覧会に「「新しい成長」の提起」(東京藝術大学大学美術館、東京、2021年)、「あいちトリエンナーレ2013」(愛知、2013年)など。2019年より京都にてアートスペース「浄土複合」をディレクション。京都教育大学非常勤講師。
次週9月17日は、米バーモント州を拠点に2000年に立ち上げられた、ハイパーローカルなソーシャルメディアFront Porch Forumについて紹介します。度重なる災害にもオンライン・コミュニティとしてその真価を発揮しつつ、しかしユーザーを中毒に陥らせない、その絶妙な設計。そこには、ソーシャルメディアに残されたひとつの可能性が見て取れます。お楽しみに。