みんなソシオロジストになればいい:環境社会学者・宮内泰介の「自分たちのことを自分たちで調査する」のススメ
社会で起きる問題は、複雑でやっかいだ。それを解決したいと思ったら、社会の複雑さとやっかいさに向き合う技術が必要だ。「社会学」はそこで有用な武器となる。環境社会学の第一人者による、「調査」と「運動」をめぐる新たな提言。
世界情勢や自分の目の前で起きる問題の解きほぐせなさに日々無力感を抱き、すきま時間にネットを見れば、多種多様なはずの主張があまりに簡単かつ即座にジャッジされる。そんな光景で溢れる今日は、誰もが自分で調べること、そして誰かと意見をやりとりし合うことを諦めそうになる時代とも言える。そんな折に、「社会学はゆるくてよい。みんながそれぞれの社会学をはじめよう」と、なんとも風通しの良いメッセージをもった本が出版された。その名も『社会学をはじめる:複雑さを生きる技法』。著者は、環境をめぐる社会問題に取り組んでこられた社会学者の宮内泰介さん。「社会を知るということは、いったいどういうことなのか?」という問いを胸に「調査すること」「社会を知ること」の根源に迫る本書は、どのような経験や試行錯誤を経て生まれたのか。じっくりと話を伺った。
interview by Kei Wakabayashi, Shota Furuya, Atsushi Noda(INTAGE)
text by Atsushi Noda(INTAGE)
photographs(portraits)by Ryoichi Kawajiri
宮内泰介|Taisuke Miyauchi 北海道大学大学院文学研究院教授。専門は環境社会学。著書に『歩く、見る、聞く:人びとの自然再生』(岩波新書)、『実践 自分で調べる技術』(上田昌文との共著、岩波新書)、『なぜ環境保全はうまくいかないのか:現場から考える「順応的ガバナンス」の可能性』(編著、新泉社)など。
社会学を面白いと思えなかった
──本日はよろしくお願いします。まずは宮内さんの新刊『社会学をはじめる:複雑さを生きる技法』は素晴らしい本でしたが、とりわけ「社会というものは意味の複雑な束である。そんな社会を対象とする調査・研究は必然的に対話的な営みとならざるを得ない」という一文にやられました。社会や社会学、社会調査に関する宮内さんの考え方は個人的に膝を打つものばかりで、メディアを運営する自分たちの立場に寄せて読むなら、まさに宮内さんのおっしゃる観点から、編集という営為や、編集者という存在の役割を、いま一度根拠づけることができるようにも感じました。
ありがとうございます。わたしのこれまでの著書の切り口はほぼ問題・テーマ軸でしたので、正面切って社会学について書くのは実はこの本が初めてです。なので、そうやってご自身に寄せて受け取っていただけるのも新鮮で嬉しいですね。
──宮内さんは社会学者でいらっしゃるわけですが、『社会学をはじめる』のあとがきでは、学生時代は社会学という学問をそれほど魅力的に思えなかった、と書かれていますよね。
そうなんです。もちろん学生ながら社会的な問題だとかコミュニティだとかに関心があって、社会学に進みました。でも当時は社会学を面白いと思えなかったんです。
どうしてかというと、まずひとつは、話が抽象的なんですよね、悪く言うと。わたしも田舎の出身でひとりの普通の市井の人間だと思っているんですけれども、その市井の人間になかなか響かないみたいなところがありました。このあたりは、わたしが在籍していたタイミングでの東大の社会学があまり調査をしない、理論重視の風土をもっていたことも関係していると思います。いまの東大はまた違うのですが。
他方で、広く外に目を向けると調査を大事にする社会学ももちろん存在していました。ただ、そこで行われていることの多くが、いわゆるマーケティングの世界のなかで議論されているような、消費者のセグメントはどういうふうに存在しているのかみたいな話とそんなに変わらないように思えて。社会学としてはもっと別なことをやる必要があるのではないかと思っていました。
──宮内さんの目から見た当時の社会学は、『社会学をはじめる』でいうところの社会学とは違った状況にあったということですね。そんな学問の世界の状況にある種モヤモヤを抱えながら、一方では市民運動などの社会的な活動に関わっていかれることになるのですよね。
そうです。わたしが学生自体を過ごした1980年代には、60年代70年代的なものから脱却しようという空気感がありました。それは学問というよりは、政治的なスタンスも含めてということですが。社会運動についても市民主体・オルタナティブというようなキーワードも出てきて、皆が70年代の、あるいはより古い運動とは異なるあり方を模索していたような時期です。ただしオルタナティブといってもそれが何を表すのかははっきりしないし、言っている人の間でもすごく差異がある。そんな80年代から90年代に入ってNPOが出てきて、というような渦中にわたしはずっといて、運動のなかの調査部門担当みたいなふうに徐々になっていくんですね。
「裸足の研究者」を探して
──なるほど。その流れの原点になったようなご経験はありますか。
環境学者の宇井純さんが駒場キャンパスで開いていた駒場自主講座というものに行き始めたら、これがめっぽう面白いんです。石牟礼道子さんが来て話をしたり、公害被害者の方が宇井さんと対談したり。大学の授業に出るよりも全然、「ああ、そうかそうか」という気づきの連続で。
それで講座に出ているうちに、宇井さんの自主講座のグループのひとつ、反公害輸出通報センターにも積極的に関わるようになりました。公害輸出があったらそれをうちに通報しなさいみたいな、本気で付けたのか冗談で付けたのかわからないような名前の団体なのですが。韓国への公害輸出に韓国の人たちと連帯して反対しようだとか、放射性廃棄物を太平洋に捨てる計画をやめさせよう、というような運動をしていましたね。そしていま考えると結構大変なのですが、雑誌を毎月発行していて。その誌面上で情勢分析だとか、世の中で起きていることのレポーティングみたいなことを、ほぼ毎月やっていました。岩波新書で『実践 自分で調べる技術』というのを書いているんですけれども、その共著者の上田昌文さんという人と一緒にやっていたんです。いまで言うなら「OSINT」(オシント/open source intelligence)ですよね。
──調査をしたり、その結果を編集して雑誌を発行したりするような役割を担われていたと。
そうです。ただ当時はまだ運動のなかで調査をやっているという認識で、今回の本に書いたような意味での社会学をやっているという感じではなかったと思います。
その観点からの自分にとっての転機のひとつは、鶴見良行さんとの出会いだと言えるかもしれません。「エビ研究会を一緒にやりませんか」と声をかけていただいたんです。神保町のどこか、ビールが飲める喫茶店でした。鶴見さんはものすごくお酒を飲まれる方だったので(笑)。
──わたしは熱心な読者とはとても言えないのですが、鶴見さんというと、綿密なフィールドワークを土台に『バナナと日本人』や『ナマコの眼』などで、アジアや日本の来し方行く末を問う多くの著作を残された方という印象です。当時の宮内さんから見て、鶴見さんはどんな問題意識をもち調査研究を行われている方、という認識だったのでしょう。
その喫茶店で鶴見さんは、「自分は裸足の研究者を育てたいんだ。市民運動もちゃんと調査をして研究をしなきゃいけない。」というようなことをおっしゃっていました。その言葉が当時のわたしに引っかかったという感じです。
──「裸足の研究者」ですか。
そしてエビの研究が始まって、瀬戸内海に行ったり、築地に行ったりみたいな調査をやらせてもらって。まだわたしはフィールドワークなどほとんどできなかった人間なので、そこでフィールドワークというものを少しずつ覚えていきました。アポの取り方だとか、インタビューの仕方だとか。そんななかで瀬戸内海のエビ漁の船に乗せてもらったりして。そうこうするうちに「これまでやってきたことよりもこっちのほうがずっと面白いな」と思ったわけです。東京で頭でっかちの学生として考えていたことじゃないものにたくさん出会えるわけですよ。わたしもまだ若かったので、人の話を聞くたびに「ああ、たしかにこういう話も大事だよな」と素直に思えたんです。大学のなかで、あるいは市民運動のなかで議論することだけじゃなくて、いろんな大事な話があるよね、というようなことを、そこでいろいろ教えてもらったというような感じですかね。
──なるほど。宮内さんにとって、鶴見さんのグループでの取り組みは自分の歩む道を見いだしていくような体験だったということなのかなと思いますが、そこで見えてきた道というのはどういうものだったのでしょう。
そうですね。そこまではっきりと当時考えていたわけじゃないですけれども、片方には、ある種主張がはっきりした、あるいは固定化した運動というものがある。そしてもう片方には、例えば先ほど挙げたマーケティング調査のような、外部やある種上からの目線の研究がある。そのどちらでもない第三の道を模索していたという感じです。
そしてその第三の道とは、実際に自分が体を動かしていろんなところへ行きいろんな人の話を聞く。そしてそのなかで考えを広げ深め続けていく。そんな調査研究であり市民運動なのではないか、そんなことを考えていたと思います。
写真上:宮内泰介『社会学をはじめる:複雑さを生きる技法』(ちくまプリマー新書)。社会というもののやっかいさの構造を平易な言葉で鋭く概説した上で、そのやっかいさを解きほぐしていく技術としての「社会学」の意義を明かしていく。「ソーシャル化」した現代を生きる上で必須の「知」のありようが詰まった必読の最新刊。
写真下:宮内さんの「社会学の技法」に多大な影響を与えた孤高の研究者・鶴見良行の著書。鶴見と宮内さんの共編著『ヤシの実のアジア学』(コモンズ)ほか、名著として名高い『バナナと日本人』(岩波新書)、『ナマコの眼』(ちくま学芸文庫)ほか。
自分たちのことを自分たちで調査する
──いまの宮内さんのお話をお伺いしていて、民俗学者の宮本常一の活動とも重なる部分があるなと感じました。民俗学というのは宮内さんにとっても重要な水脈のひとつだったりするのでしょうか。
もちろんそうです。鶴見さん自身、宮本常一を意識しているというか、そこから学ぶということはおっしゃっていましたし、「『忘れられた日本人』はぜひ読みなさい」とも言われました。宮本常一と、わたしたちが関わった鶴見さんのグループは実際人脈的なネットワークにおいて重なっていることころもありますし、わたしとしても、精神的な部分での連続性をもっているつもりでいます。
──そうなのですね。その連続性、関連性とはどんなものだと言えるのでしょうか。
民俗学がもつある種の当事者研究性と言っていいのか、広い意味で「自分たちのことを自分たちで考えよう、調査研究しよう」という姿勢ですね。そこが鶴見さんやわたしの考えと深くつながっている部分だと思います。『社会学をはじめる』の最後に書いた、「みんなソシオロジストになればいいのに」ということばにもそのニュアンスを込めています。そもそも誰しもがすでに社会に参画しているわけですから、それぞれの場所で、自分たちのこととして社会について調べたりみんなで話したりしよう、というようなイメージです。
──『社会学をはじめる』での「社会というのはそこにいる本人たちが認識する意味から成り立っていて、誰も社会を外から客観的に見るということは出来ない」「調査というのは、そんな社会の中のプレーヤーの一員として対話的な営みを繰り返していくことである」という宮内さんのご理解が、どのような実践に基づいて形づくられていったのか、その一端がわかった気がしました。
北海道大学のキャンパスを散策する宮内
順応的ガバナンス
──『社会学をはじめる』では、社会学はある意味学問的厳密さみたいなものは追いかけないというか、ゆるく構えを取っておく学問なんだともおっしゃっていますよね。
今回の本でわたしは、ゆるく考えざるを得ないんだという理屈を組み立てて書いてみたということですね。まあ、それはどっちでもいいんですけどね。
──どっちでもいいんですか(笑)
社会学者のなかにもいろんな考えの人がいて、ゆるくなんてダメだという人もいるかもしれない。それはそれでいいのかもしれないけど、というぐらいの感じでしょうかね。
でも、われわれ自身が社会のなかにいるわけだし、われわれ自身が意味の複雑さのなかに存在しているわけです。ですから、厳密にやろうとすればするほど何かを切り落としてしまうことになりますが、そうやって切り落としてしまったものにこそ意味があると考えるのであれば、厳密にやるということはあまり意味がないという話になるわけですね。だから、ゆるいほうがいいし、あくまでもひとつの提案に過ぎないというふうに考えるほうが、より生産的だろうという書き方をこの本ではしました。社会学者からどれほどの支持を得ることができるのかはわかりませんが、感覚的にはわりと多くの人がそう思っている節もあるのかなとは思っています。
──社会というものは複雑で厳密さをもって扱うのは難しいというお考えは、宮内さんが一貫して環境問題に取り組まれてきたことと強く関わっているように感じられるのですが、いかがでしょう。環境問題というのは、カチッとゴールを決めて、マーケティングして、それでソリューションを出していくみたいな考え方というのがまったく通用しない領域であればこそ、別のアプローチが必要だったのではないかと推察するのですが。
それはもちろん大きいと思います。環境に関わる問題というのはまさに人によってとらえ方にかなり幅がある。それなのにわりとはっきりした目標が立てられやすいものでもあるんです。
そんななかで何が起こるかというと、対立が起きるんです。大きく括ると環境保全・自然保護という同じ価値観を共有したメンバーのなかにも、鳥を愛する人もいれば木を愛する人、昆虫を愛する人もいる。また考えるスパンも人によって違うし、考え方としてゆるめの人もかっちりした人もいる。また行政の方なんかはきっちり計画を立てようとするわけですよね。それも1年単位の予算がついていて、1年で何か成果を出さなきゃいけないみたいな。そんな状況なので、あそこに木を植えたほうがいいのか植えないほうがいいのかとか、伐採するのはいいのか悪いのかみたいな感じで、あらゆるポイントで議論になり対立が起こるんですね。
──想像するだけで大変そうです。
大変なんです。そしてやはり対立は不幸なので、それを回避するための考え方として、『社会学をはじめる』にも書いた「順応的ガバナンス」の考え方が必要となりました。順応的ガバナンスというのは、完全にわかることを目標とせずに試行錯誤と軌道修正を繰り返していける仕組みをつくることが必要だ、というような立場ですが、現場で四苦八苦するなかで、こうした立場を取らざるを得なくなったという感じなんですね。
──ただその考え方を現場において浸透・実行していくこともまた手がかかりますし、しんどそうです。
わたし自身もまさに試行錯誤をし続けているという感じですね。やはり運動というものが、当事者にとっても社会にとっても「誰かが何らかのはっきりとした主張をすること」とだけ捉えられていると難しいなと思います。まだ多くの運動では、市民側と行政、専門家側がそれぞれ集めたかっちりしたデータみたいなものがあって、それをぶつけ合うみたいな感じになっちゃっているわけですが、それぞれもっているのは、あくまでも不確実性をもったデータでありエビデンスなわけですよね。それを一緒にぶつけ合いながら合意形成していく、あるいは順応的に試行錯誤していくみたいなふうにならないといけないということだと思います。そうすると、それは運動なのか何なのかもよくわからなくなってくる。それでいいんじゃないかなとわたしは思っていまして。ただ、そのためには運動のようなものに参加する人がもっと増えないと難しいなという感覚もあります。「みんなソシオロジストになればいいのに」というメッセージにはそんな意図も込めています。
実践を生み続ける仕組みとしての調査
──目的性みたいなものどう手放していくか、という話とも捉えました。『実験の民主主義』という本のなかで政治学者の宇野重規さんは、人は何かをした後に自分が何をしているかわかっていく、なので目的というのは、実はやった後に再帰的に発見されるのだ、といったことを語られていますが、これはプラグマティズムの思想に根ざした考え方だと説明されています。
わたし自身も自分のことを根っからのプラグマティストだと思っていまして、宇野さんとは近い世代だとも思いますので、興味関心の重なりもあるのかもしれませんね。
──宮内さんは目的性のようなものを手放す手段、技術として調査というものを捉えられているような気もします。
そうですね。『社会学をはじめる』では、調査とは対話的な社会認識、つまり目的が再帰的に発見されるような営みである、という表現の仕方をしています。本のなかではソロモン諸島のフィールドワークの例を挙げていますが、誰かに話を聞けばまたそこから新たな問題意識が生まれる。あるデータやインタビューの文字起こしを囲んでみんなで一緒に分析してみると、こういうことがやりたいという目的、あるいは本のなかでは「規範」とも書きましたが、そんなようなものが徐々に形づくられていくということが起きる。みんなである物事についてちゃんと調査する、ということの大きな意義はそこにあるのではないかと考えています。
──たしかに。ただ同時に、対話というのは、言うのは簡単だけれども、実際は難しい概念だとも書かれていますね。
そうです。『社会学をはじめる』のなかでは、対話というものについて、哲学者の三木那由他さんの議論を引きながら、単に情報や個人的信念をやりとりするだけでなく、何らかの規範を生み出すものだと書いたのですが、わたし自身まだまだ考えていかないといけない概念だと思っています。いまのところは、何らかの実践をともなうもの、という観点が対話ということを理解する場合に重要ではないかと考えています。自分たちでちゃんと調査をするとなると、口で議論するだけではなく、人の話を聞いて歩いたり、一緒にデータを分析したりすることになる。そんな実践をともなうコミュニティをつくり、継続していくという観点からも、調査という技術や仕組みは有効だと考えています。
──本当にそうですね。実は今回あとがきに書かれている「みんなソシオロジストになればいいのに」ということばを見て、雑誌づくりというものや、編集部というコミュニティは、まさに宮内さんがおっしゃる、「実践をともなうコミュニティ」、もしくは「運動」なんだなと腑に落ちた気がしました。
ああ、そうですね。編集の仕事には、人の話を聞くことも、それをどうまとめようかと思いながらみんなで一緒に分析することも含まれますね。そう考えるとわたしが言う「みんなソシオロジストになればいいのに」というのは、皆がそれぞれの仕事や生活のなかに、この本で書いたような社会学的な側面を見いだすといいな、ということでもあるのかもしれません。わたしもこのインタビューを通して自分の考えを捉えなおすことができたような気がします。今日は対話ができたということなのかもしれません。
次週8月27日は、ドイツ出身の山伏であり修験道研究者であるヨシコ・コジツ氏のインタビューをお届け。近年、国内外で話題を集める日本の山岳信仰「修験道」について尋ねます。そこから浮かび上がってくる現代修験道のリアリティとは?お楽しみに。
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【イベント概要】
■日時:
2024年8月24日(土)
・Session 1:16:00-17:30
・Session 2:18:00-19:30
■会場:
深大寺の家「(HOUSE)」(東京・調布)
■出演:
工藤洋志(BIRD ESTATE)
山田遊(method)
山下正太郎(WORKSIGHT) *Session1のみ参加
若林恵(WORKSIGHT / 黒鳥社)
■チケット(税込価格):
Session 1 (16:00-17:30):1,650円
Session 2(18:00-19:30):1,650円