魔女、ストレンジャー・シングス、憑在論|はじめてのフォークホラー【前編】
カルト教団を描いたホラー映画『ミッドサマー』以降、急速に世界で広まり、リバイバルされている「フォークホラー」というジャンル。魔術、呪文、邪教、儀式、魔女といったキーワードに彩られた不気味な概念は、いったい何なのか。ホラーが苦手な若林恵(黒鳥社)が取り組んだ、夏休みの自由研究。2022年お盆の納涼企画の前編です。
text by Kei Wakabayashi
時代は「ホラー」を求めてる?
「フォークホラー」ということばを初めて知ったのは、ごくごく最近のことで、ひょんなきっかけからだった。「検索の学校」という謎プログラム(企画は弊社)のお題として、「いまアメリカで一番イケてる映画監督を検索せよ」というお題にチャレンジしていたときのことだった。とはいえ、たいしたことをしていたわけではない。「Coolest American Film Director」といったことばを検索ボックスに投げ込んで、検索結果を端から検討していくというようなことを時間をかけてちまちまとやっていただけのことだ。
調べていくと、例えばアメリカのメディアによる昨今の「イケてる映画監督リスト」には、かなりの確率で、「A24」という「イケてる映画制作・配給会社」で検索したなら絶対筆頭にあがってくるであろう企業の看板監督である、ロバート・エッガーズ、アリ・アスターというふたりの監督が上がって来ることに気づくこととなる。あるいはジョーダン・ピールなんていう名前もよく見かける。
最近のアメリカ映画をそこまで熱心に追いかけているわけではないので、これらの監督がどんな作品を撮っているのか調べてみると、3人いずれもが「ホラー映画」で名を挙げた監督であることわかる。ロバート・エッガーズの出世作『ウィッチ』、アリ・アスターの代表作『へレディタリー』『ミッドサマー』、ジョーダン・ピールの代表作『ゲット・アウト』『アス』、いずれも10年代を代表する映画として語られるホラー映画だ。
「イケてる」の語はもちろん、極めて曖昧なものでしかない。が、当然そこには「時代を画する」「いまを代表する」というニュアンスは含まれてはいる。これらの監督が単に「売れている」からだけではなく、その作品になんらかの時代性や時代感覚が反映されていればこそ評価されているのであろうことは映画に詳しくなくとも感じ取れる。とはいえ、そうしたコンテクストにおいて、「ホラー映画」が取り上げられることは、そこまで一般的なことだったっけか? という疑問も湧いてくる。「ホラー」はあくまでサブジャンル、B級のニッチ、という漠然とした認識しかもっていなかった身からすると、ちょっと意外な気もしたのだが、それもこっちの思い違いなのかもしれない。
(遅ればせにお断りしておくと、筆者は、ホラー映画が滅法苦手でほとんど観ない。なぜって、怖いからに決まってる)
とはいえ、それがあながち思い違いとも言えないかもしれない証左が、あるにはある。たとえば新人監督の登竜門として名高い2022年のサンダンス映画祭は、注目すべきホラー映画が目白押しだったという。Grand Jury Prize受賞作『Nanny』は、サンダンス映画史上初めてホラー映画による受賞だった。
2022年のサンダンス映画祭でGrand Jury Prizeを受賞したホラー作品『Nanny』。監督はNikyatu Jusu
インディ映画専門メディア「IndieWire」は、「ホラー映画がサンダンスを独占。来るべき才能に注目せよ」(Horror Movies Dominated Sundance. Pay Attention to the Talent It’s Unleashed)という記事で、ホラー映画が単なるサブジャンルではなく、大手メジャーから低予算のインディ映画にまで適応可能で、かつスケーラビリティももつポテンシャルがあると解説する。2022年のサンダンス映画祭で身体をモチーフにした心理スリラー『Resurrection』をプレミアした映画監督アンドリュー・シーマンスは、ホラー映画の魅力をこう語っている。
ホラー映画では、人の無意識を正面から扱うことができます。その領域を自由に探索することを可能にしますし、矛盾に満ちたテーマや、人が触れたがらないテーマを扱うことも可能です。加えて、ストレートドラマをつくるよりも多くの観客を見込むこともできます。だからホラーをつくるというわけではありませんが、ジャンル映画の方であるほうが、資金集めもしやすいのも事実です。
というわけで、なんとなくホラーが「来てる」ことがわかってはきたところで、ロバート・エッガースのプロフィールを眺めていたときに、本稿の本題である「フォークホラー」の語に出会うこととなる。(前置きが長くて申し訳ない)。
映画レビューサイト「Rotten Tomatoes」のエッガースの項を見ると、エッガースのフィルモグラフィーのなかで最高得点を得ているのが、2021年の『Woodlands Dark and Days Bewitched: A History of Folk Horror』という作品であることがわかるのだが(スコアはなんと100点!)、これが筆者と「フォークホラー」という語の出会いとなった。
とはいえ、熱心なエッガース・ファンであれば、ここで「ん?」となるはずで、この作品は、実はエッガースの作品ではなくエッガースはコメンテイターとして登場するだけで、監督はキアラ・ジャニスというホラー研究家(と、ここではひとまず言っておこう)だ。しかも本作はホラー映画ではなく、タイトルにある通り「フォークホラーの歴史」を描いた3時間超えのドキュメンタリーなのだった。
「そんなしんどそうなものを誰が観るのか」と思われるかもしれないが、予告編を観たら、その考えもきっと改まる。時代を超え、国境を超えた数々の「フォークホラー映画」がつなぎ合わされた予告編の、不気味でいて、どこかキッチュな世界観には、いま観るとたしかに人をゾワゾワさせるユニークさ、面白さがあることに気付かされる。と同時に、エッガースの『ウィッチ』やアスターの『ミッドサマー』を観た人であれば、それらが過去のフォークホラーを明確に意識してつくられたものであることもたちどころにわかるはずだ。
というわけで、「ホラー映画が来ている」という事象の底流には「フォークホラー」という概念(あえてここでは「ジャンル」であるとは言わないでおこう)が人知れず流れていた、ということになりそうに思えてくるのだが、それにしても、フォークホラーとはいったいなんなのだろうか?
『Woodlands Dark and Days Bewitched: A History of Folk Horror』のトレイラー。トレイラーのサムネイルは『The Blood on Satan's Claw』(鮮血!!悪魔の爪/1971)の一場面
グレタとTikTok魔女たち
と、ここから本題に行きたいところだが、そもそもホラーに関心のなかった自分が「フォークホラー」ということば、そして、先のドキュメンタリー『Woodlands Dark and Days Bewitched: A History of Folk Horror』(この後も何度も言及されるはずなので、『WDDB』と略しておこう)の予告編にビビッときてしまったのには、実は映画の歴史とはまったく関係のない伏線もあったので、それを手短に記しておきたい。
メディア美学者の武邑光裕先生の『プライバシー・パラドックス:データ監視社会と「わたし」の再発明』という書籍は、筆者が編集を担当させていただいたもので、2020年に刊行された。主に21世紀のデータガバナンスを扱った内容だが、その最終章には「魔術」というタイトルが付けられている。
そこで武邑先生は、テックに支配されたわたしたちの生存環境がいかに魔術的、あるいは中世的なものとなっているかを語り、そうしたなか、わたしたちの想像力がすでにSF的ではなく、中世的想像力にドライブされていることを指摘している。章は、こんな文章で始まる。
1980年代の映画『ブレードランナー』とウィリアム・ギブソンのサイバーSFノワールが、その後の20年から30年の「未来」を支配してきた。インターネットとデジタル技術には、サイバーパンク作家の超近代的で超資本主義的なビジョンが反映されてきた。しかし、今やそれは過去のビジョンとなった。
凍った北欧の果てから、古い世代の虚栄心をひなんし、大惨事が起こることを警告し、王や女王と対決するためにやってきた予言者の少女、グレタ・トゥーンベリの登場が、すべてを変えた。現代のネットユーザーは、「精霊の領域」やテクノ魔術や黙示録(ディープ・フェイク)に魅せられ、遠く離れた独裁的な地主の捕虜になっている中世の農民のように見える。インターネットは、日常生活の上に置かれた一種の超自然的なレイヤーへと発展し、人びとは恐ろしい力、熱を帯びたビジョン、終末的で精神的な戦いの領域へと容易にアクセスできるようになった。
私たちはサイバーパンクの未来に加速されているのではなく、空想的で魔術的な前近代の過去に放り込まれている。
最近めっきり名前を聞かなくなったグレタさんだが、彼女が、極限に向けて加速し続ける近代や資本主義を断罪するためにやってきた北欧神話の予言者、あるいは精霊/エルフ的なものだとする武邑先生の見立てには、思わず膝を打ってしまうような納得感がある(と思うのだが。ちなみに後編で紹介する『エレメンタリ:鍛冶屋と悪魔と少女』という作品の主人公の少女はグレタさんに似ている)。
ここで提出された、土着的なものと近代的なもの、魔術とモダンテクノロジー、といった対立軸は、まさにフォークホラーの規定をなす対立だが、武邑先生の言う通り、現代のテック環境それ自体が、中世、つまり前近代に向かう方向性をもっているのであれば、そこに生きるわたしたちの想像力が、前近代的なものへと振れていくのも必然なのかもしれない。そして、「フォークホラー」ということばは、そんな視座から世界を見回したとき、なんとしっくりと響くことか。
「世界は中世に向かっている」という武邑先生の指摘は荒唐無稽に聞こえるかもしれないが、決して絵空事ではない。たとえば、Z世代のなかには、実際に中世的な時空を自ら生き始めている人たちが、すでに多数存在しているのだという。
欧米のメディアは、TikTokにおいて巨大勢力化する「#WitchTok」というハッシュタグに注目し、そこで、自ら「魔女」を自認し、占いや占星術、薬草を用いた医術などを披露する少女たちを取り上げ、記事化している。ワシントンポストの記事「呪文からポッドキャストまで:ティーンエイジ魔女の暮らし」(From spellcasting to podcasting: Inside the life of a teenage witch)は、ベネットという名の10代のTikTok魔女を密着取材している。
ノンバイナリーを自認し「They」の代名詞を使うベネットは、まず瞑想し、小さな木のテーブルの上のデッキからタロットカードを選ぶ。ベネットは、そこを「ワーキングエリア」と呼んでいる。その上に並べられた他のアイテムには、心をクリアにして直感力を高めるラブラドライトのクリスタルと、保護的な性質をもつセレナイトでできた魔法の杖が置かれる。少し焦げたジュニパーの束もある。ベネットは、さまざまなエネルギー、神や女神、そしてより深く自分自身とつながることに集中すべくワークエリアを浄め、そこを保護するためにジュニパーを燃やすのだという。
ベネットが実践する魔術は、自然界に根ざしたスピリチュアルな実践であり、その人気は本の売り上げ、ソーシャルメディアでの活動によって高まっている。とりわけアメリカの若者たちは、神秘的な言葉や古代の儀式を、ジェンダーが流動的でインスタ映えする世界に合わせてつくり直しはじめている。ベネットのように、最近ソーシャルメディア上で魔術について議論している多くのティーンエイジャーは、TikTokのハッシュタグ#witchtokが194億回も再生されていることからもわかるように、内なる魂とアイデンティティに触れ、本物と感じられる自分だけのための実践を求めている。
また記事は、こうした実践が環境意識とも明確につながっていることを明かしており、ベネットのような価値観をもつ若者たちが、グレタさんに代表される気候変動ムーブメントと「魔術的感性」によって、つながっている可能性を浮き彫りにしている。近代科学技術と資本主義のなかで逼塞した世界から抜け出す道を、少なくとも現代の魔女たちは前近代的な世界に求めており、それをデジタル空間において実践しているというわけだ。
こうした文脈においてみると、説明されずともすでに、およそ「フォークホラー」というものがどういった方向性をもったものか、そして、なぜいま、それに少なからぬ人びとが惹かれるのか、少しはイメージできてくるかもしれない(「フォークホラー」の語が広まったのは、前述の映画『ミッドサマー』のヒットが大きな契機となった)。お察しの通り、フォークホラーと呼ばれる映画の一群は、前近代的で土着的、民俗的な、魔術、呪術、儀式、非合理な怪異・超自然現象などを扱ったものにほかならない。
しかし、そう言ってしまうと、そんな映画いくらでもあるだろ、ということにもなるだろう。そんなもの新しくもなんともない、という異論もあるだろう。そして実際その通りなのだが(バンパイアものも、ゾンビものも、人狼ものも、ミイラものも、広義にはフォークホラーと言えてしまうので)、ここで紹介し近年(とりわけ『ミッドサマー』以降)、用語として定着しつつある「フォークホラー」というコンセプトは、実際は、もっと狭く、具体的なものだったりする。
というわけで、ここからようやく「フォークホラー」とは何か、という本題となる。
邪悪な三位一体
フォークホラーということばの起源は定かではない。古い使用例は20世紀初頭にまで用例を見出すことができるという見解もあるが、いま盛んに語られる「フォークホラー」の語の広がりは、2010年にBBC4が制作したドキュメンタリー「ホラーの歴史」(History of Horror)のなかで製作者のマーク・ガティスが、ある時期につくられたいくつかの作品を取り上げて解説するに当たって使われたのがきっかけとされる。
BBC4で2010年放映されたドキュメンタリー『History of Horror』
ここで取り上げられた映画に、のちにフォークホラーの元祖として聖典化される作品が登場する。『Witchfinder General』(1968)、『The Blood on Satan's Claw』(鮮血!!悪魔の爪/1971)、そして『The Wicker Man』(ウィッカーマン/1973)の3本だ。フォークホラーの世界では、この3作を総称して「邪悪な三位一体」(Unholy Trinity)と呼んでいるが、それぞれに簡単な解説をつけておくと、だいたいこんな感じになる。
Witchfinder General
舞台は1645年のイギリス。魔術や妖術を根絶するために「魔女審問官」として任命されたと偽っていた弁護士マシュー・ホプキンスの残虐な魔女狩り活動と、婚約者を奪われた兵士の復讐を描く。 10万ポンド以下の低予算で制作された。
The Blood on Satan's Claw18世紀初頭の英国の農村を舞台に、ある農夫が、畑に埋められた謎の異形の頭蓋骨を発掘したことから、村の子ども・若者たちが次第に、悪魔に魅せられ殺人へとエスカレートしていくさまを描く超自然ホラー。
The Wicker Man行方不明の少女を探して、スコットランドの孤島サマリー島を訪れたニール・ハウイ巡査部長を主人公にしたホラー。敬虔なクリスチャンである警官は、島の住民がキリスト教を捨てケルトの異教を信仰していることを知り愕然とするが、やがて悲惨な結末を迎える。
この3本は、想像通り、公開時は必ずしも好意的に迎えられたわけではないが、早い時期からカルト映画としてアンダーグラウンドで地位を高めてきたとされる。ちなみにまったくの余談だが、フォークホラーの語が一般化するはるか前の80年代からヘビメタのインスピレーションにはなっていたようで、ブラック・サバス直系のNWOBHMバンドに「Witchfinder General」の名を冠したバンドがあり、アイアン・メイデンには「ウィッカーマン」という曲もあったりする。
(悪魔崇拝を掲げてヘビメタの未来をつくったブラック・サバスが、これらの映画公開に近いタイミングで登場したことは一考に値しそうな論点だが、ヘビメタとフォークホラーの連関については、今後詳細な研究を待ちたい。さらにどうでもいいことだが、アメリカのメタルバンド、マストドンの最新曲「More Than I Could Chew」のPVは、あからさまなフォークホラー・リバイバル作品となっている)
アメリカのメタルバンドMastodonの最新PV「More Than I Could Chew」には「フォークホラー」の影響がありあり
超自然大国イギリス
おそらくよほどのホラー好きでないかぎり知らないに違いないこれらの3本が「フォークホラー」の元祖とされることに、驚き、あるいは違和感を感じられるかもしれないが、いずれもイギリス映画であることが、さらに意外なところでもある。そう、フォークホラーの発祥はイギリスにある、という点がまずもって重要だ。
「なぜイギリスなのか」という問いは、それを掘り下げるだけで大著が書けそうな重要な問いだが、当然筆者にその力量はないので、ここでは、イギリス発祥ということだけ強調しておいて、あとは、英国の風土や文学史などを振り返ってみても、たしかにイギリスは幽霊や精霊が大好きだし、ケルトの影響はいたるところにあるし、ストーンヘンジやミステリーサークルのお膝元だし、「ハリー・ポッター」の産出国でもあり、要は、イギリスはそもそも魔術・超自然大国でもあったよね、ということを念押ししておくに留めたい。
そうした背景を踏まえた上で、次に、では一体なぜ、60年代末から70年代にかけて、こうした反近代的モチーフに彩られた重要作が生み出されたのかといえば、これについては明確な説明がありうる。これは必ずしも英国固有の事情というわけでもないのだが、いわゆるカウンターカルチャーの勃興が、こうした「フォーク=民俗的」なものへの興味を、社会の表面へと押し上げたという説明となる。ひとまず、フォークホラーの解説書として真っ先に名があがる、アダム・スコヴェルの2017年の著書『Folk Horror: Hours Dreadful and Things Strange』に解説してもらおう。
この3部作は、英国におけるカウンター・カルチャー・ムーブメントによって召喚されたものだと言えるが、その運動の勃興の時期に『Witchfinder General』がつくられ、チャールズ・マンソン事件によってそれが潰えたタイミングに『ウィッカーマン』が制作されたのを見ると、この3作が時代の目印になっているようにさえ感じられる。「カウンターカルチャー」の語は本書を通じて頻出するが、それが指すのは、1960年代に西側世界でダイナミックに進行したソーシャル・ポピュラー・カルチャーの発展のことだ。さらに具体的に言えば、ドラッグカルチャー、セックス革命、前衛思想などが、とりわけイギリス、アメリカで大きなうねりとなったことで、保守的な文化のモードに対して、種々のカウンターナラティブが生み出された事態を指している。
いうまでもなく、ここでいうカウンターカルチャーは、アンチ西洋、アンチ近代といった方向性をもっており、原始的コミュニズムへの傾倒、禅、インド思想といった東洋への憧憬、精神世界もしくは神秘世界への興味・探求といった志向が見られたわけだが、英国における最も目立つ事例としては、ビートルズのインドの思想・文化への傾倒、あるいは、どの程度本気であったかは異論はあるにせよ、ビートルズの戦略的な陰画として悪魔崇拝や黒魔術を打ち出したブライアン・ジョーンズ期のローリング・ストーンズなどが挙げられるのかもしれない。
アダム・スコヴェルの著書『Folk Horror: Hours Dreadful and Things Strange』。フォークホラー研究の嚆矢となった一冊
それは「田舎」の「昼」にやってくる
カウンターカルチャーが、このように、さまざまな方向性・可能性を探っていたなか、フォークホラーは、可能性のひとつの対象として英国の「田園風景」に狙いを定めたところがユニークだ。フォークホラーの元祖とされる3作は、都会ではなく田舎で、夜ではなく昼に「不気味な何か=Things Strange」が起きる/やってくることを大きな特徴としている。
先のスコヴェルは、この3作に共通する特徴点をあげて、フォークホラーの様式を定式化することを試みている。スコヴェルの定式は「フォークホラー・チェーン」と呼ばれ、フォークホラーの4つの特徴点を抜き出したものだが、フォークホラーを説明するにあたって、最もよく使用されるものなので、ざっと概観しておこう。
「フォークホラー・チェーン」は4つのリンクがつなぎ合わさって構成されるのだが、1から4のリンクは、それぞれこう説明される。
1. Landscape:風土
フォークホラーにおいて風土は、単なる背景ではなく、それ自体が主役として存在する。舞台となる場所の風土のトポグラフィックな特徴は、そこに生きる人たちの社会・道徳的アイデンティティに重大な影響を与えている。
2. Isolation:隔離
フォークホラーにおいては、ある風土のなかに、複数の人びと、もしくは小さな集団が、閉じ込められている、あるいは自ら外の世界と隔離している。隔離の理由は地理的な条件の場合もあるが、なんらかの理由で、外の世界から「追放」されて場合もある。また、「隔離」は必ずしも田舎だけに見られる現象ではなく、都会でも起こりうる。
3. Skewed Belief System and Morality:歪んだ価値観、道徳
外の世界から隔絶したことで、外の世界とは異なる価値観や道徳が、時間をかけてある集団のなかで形成されており、その落差が、物語の駆動源となる。これも必ずしも地理的に隔離された空間で起こるばかりとは限らない。
4. Happening/Summoning:ハプニング/召喚
隔離され、歪んだ価値観が形成された空間に、外部から人が侵入もしくは召喚されることで生まれる軋轢から、最も暴力的、そして超自然的であるがゆえに不合理なやり方で惨劇が起きる。
スコヴェルは、必ずもこのセオリーが磐石ではないと認めてはいるものの、アリ・アスターのカルト教団ホラー『ミッドサマー』を例に取ってみても、スウェーデンの隔絶した美しい山野(1)、そこに形成された宗教コミューン(2)、そこで執り行われる不気味で(外から見ると)不穏当な儀式の数々(3)、次々と消え去る来訪者と暴力的なラスト(4)、と作品がきれいに、この4つのリンクをたどっていることがわかる。
ただし、スコヴェルがここで念を押すのは、物語をドライブする「軋轢」を、シンプルに「旧弊な価値観」と「モダンな価値観」の対立として見てはいけないということだ。映画における最もショッキングなポイントは、「近現代」側であるはずのモラルや価値観それ自体が、非合理かつ「ミソジニスティック」であることが突きつけられるところにある、とも論じている。
フォークホラーの面白さは、こうした相対性、もしくは両義性にあるともいえる。『ウィッカーマン』は、孤絶した島の住人たちの神学や執り行う習俗や儀礼のイメージが、19世紀末〜20世紀初頭のイギリスの社会人類学者ジェームズ・フレイザーから援用されていると分析されており、映画のなかで描かれる邪教・異教の描き方が、文化人類学的、民俗学的関心に根づいているとされる。その意味で、底流に文化相対主義的な視点も見え隠れするものの、そうした観点から「異教なもの」に対する興味・関心のなかに明確に共感のようなものがにじむようになるまでには、もう少し時間がかかることになるようだ。
『ウィッカーマン』のラストを想起せずにはいられない『ミッドサマー』のエンディング
ホラー映画のソシオポリティクス
傑作フォークホラードキュメンタリー『Woodlands Dark and Days Bewitched: A History of Folk Horror』(暗がりの森と呪われた日々:フォークホラーの歴史/以下、WDDB)は、ここまで記してきたフォークホラーの起源を紹介したあと、話題をアメリカそして世界へと移していくこととなるのだが、まずここで確認しておきたいのは、このドキュメンタリーの監督、キアラ・ジャニスのことだ。
ジャニスは1972年、カナダ生まれのホラー映画研究者・キュレーターだ。ジャニスの名がその筋で知られるようになったのは、2012年の著書『House of Psychotic Women: An Autobiographical Topography of Female Neurosis in Horror and Exploitation Films』(サイコな女たちの館:ホラー映画とエクスプロイテーション映画における女性の神経症をめぐる自伝的トポグラフィー:意訳)だ。
ファッションECサイトにして優れたカルチャーマガジンでもある「SSENSE」は、「フォークホラー美学に潜むもの」(What Lies Beneath Folk Horror Aesthetics)という記事(日本語訳された翻訳記事は「フォークホラーに潜む史実:キアラ・ジャニスがホラー映画と新作ドキュメンタリーを語る」を掲載している。「フォークホラー」に突っ込んだ日本語オンライン記事としては希少な良記事で、本書をこう紹介している。
『House of Psychotic Women』は、ジャンルを自在に横断しながら「狂った女たち」というモチーフに切り込んでいく。彼女たちは、忌まわしい犠牲者なのか、恐ろしい悪者なのか、あるいはその両方なのか? ジャニスの本は、深い知識と伝染しやすい情熱を併せもち、繊細な配慮をもって、この厄介なテーマに取り組んでいる。(註:原記事より翻訳)
また、映画評論家のティム・ルーカスは、本書をこう賞賛している。
これは、この分野では稀有な本であり、ほとんど小説的な想像力の飛躍をもって対象を選び出し、記録し、部分部分をつなぎ合わせていく。自伝的なパートでは、映画評論家には見られない文才が示され、魅力的で痛快だ。と同時に本書は、ジャニスの批評家としての才覚も証明する。彼女が選びだした映画を見れば、それらの映画への驚くほど徹底した没入がうかがえ、また、単なる娯楽としてこうしたホラー映画を見ることによって、私たちが負うことになるかもしれない微妙な傷について、問いを投げかけている点もポイントが高い
お恥ずかしながら筆者は本書をまだ入手できていないのだが、こうした賛辞を見れば、彼女が「フォークホラー」に対して、どのような態度と熱量をもって向き合ったか容易に想像がつくだろう。100本以上の作品が紹介され(The Guardianはメモを用意してから観るように推奨している)、50人以上の映画監督、専門家、批評家がコメンテイターとして登場する3時間超えの力作は、その情報量だけでも圧倒的だが、ジャニスの単著でも提出されている(と思われる)、ジェンダーや植民地主義などソシオポリティカルな観点からの「フォークホラー」の読み解きは『WDDB』においても顕著だ。SSENSEの記事は、こう解説する。
全篇を通じてジャニスが辿るのは、あらゆる文化に遍在するフォークホラーと、それらが植民地主義によって歪められた歴史、抑圧されたトラウマ、変わってしまった土地との関係についてだ。(中略)
ある重要なセクションでは、北米のフォークホラーが、白人入植者の不安や抑圧された虐殺の歴史の表象として、しばしば 「インディアンの埋葬地」として立ち現れてくることを考察し、先住民の文化を映像として記録する活動を推進する。Indigenous Screen Officeのディレクター、ジェス・ウェンテがそこで寄せたコメントは、このドキュメンタリーのなかでも最も優れたセリフとなっている。「もし非先住民の人たちが、『インディアンの埋葬地』を怖いというなら、教えてあげよう。アメリカのすべての土地が『インディアンの埋葬地』なんですが」
このドキュメンタリーで取り上げられた最もエキサイティングな近年の映画のなかには、先住民族の監督グワアイ・エデンショウとヘレン・ヘイグ=ブラウンによる2018年のカナダ映画『SG̲aawaay Ḵuuna』(Edge of the Knife)がある。絶滅危惧言語ハイダ語ですべて撮影されたこの作品は、このジャンルを破壊的に更新する力がある。(註:原記事より翻訳)
カナダの絶滅危惧言語ハイダ語で全篇撮影された2019年の映画『SG̲aawaay Ḵuuna』(Edge of the Knife)のトレーラー。
アメリカやオーストラリアのフォークホラーの解説は『WDDB』において、極めて重要なパートを占めているが、彼女は、上記のように、植民地主義や奴隷制度、人種をめぐる抑圧といった切り口からサザンゴシックやゾンビ映画までを紹介するだけでなく、オカルティズムとサフラジェットの関係について近代神智学を創唱しニューエイジ思想の源流とも言われるヘレナ・ブラヴァツキーや「黄金の夜明け団」の創立者マグレガー・メイザースと結婚し自身も熱心なオカルティストとして知られるモイナ・メイザース(本名はミナ・ベルグソンで、かの高明なフランスの哲学者アンリ・ベルクソンの妹)などを引き合いに出しながら論じるほか、アメリカのフォークホラーにおける「異教/邪教的なもの」が、非キリスト教ではなく、むしろ奇形化しラジカル化したキリスト教であることが多いと明かすなど(多種多様なキリスト教系カルトのフッテージが紹介されるなかで、統一教会の教祖の姿も挿入される)、フェミニズムから現代カルトまでアクチュアルな論点を挿入しながら、フォークホラーに流れ込んだ多様なコンテキストと、その現代性を浮き彫りにしていく。
かくして『WDDB』は、ジョージ・A・ロメロの『死霊のはらわた』から、トビー・フーパーの『悪魔のいけにえ』、『刑事ジョン・ブック』『トゥルーマン・ショー』などで知られるオーストラリアの名匠ピーター・ウィアの初期の重要作『ピクニック・アット・ハンギング・ロック』、あるいはジョナサン・デミがトニ・モリソンの同名小説を映像化した忘れられた作品『Beloved』など、一見「フォークホラー」と無縁に見えそうな映画をアクロバティックかつポエティックにつなぎあわせていく。
ピーター・ウィア監督作品『ピクニック・アット・ハンギング・ロック』m1975年公開時のトレーラー(上)と、2018年のリメイク版のトレーラー(下)
こうした多角的な視点からフォークホラー・リバイバルを捉えたとき、その代表とされる『ウィッチ』や『ミッドサマー』が、女性エンパワーメントという側面をもっていることに気づくことにもなるかもしれない。双方とも家父長的男性の偽善性を暴く場面をもつだけでなく、それぞれ主人公の「笑顔」で映画がエンディングを迎えるのも意味深だ(主演女優のアニャ・テイラー=ジョイとフローレンス・ピューが、これらの作品を契機に、いま最も旬な女優として大活躍しているのは偶然と言えるのだろうか)。
また同じコンテクストから振り返ってみるなら、90年代のティーン向け女子高生魔女映画『ザ・クラフト』や、2009年公開当時は酷評されたものののちにフェミニズムカルトムービーとして再評価されるにいたったミーガン・フォックス/アマンダ・セイフライド主演のティーンホラー『ジェニファーズ・ボディ』(原作は映画『JUNO/ジュノ』の原作・脚本でも知られるディアブロ・コーディ)などは、それこそ「#WitchTok」へと一直線につながるフォークホラーとして検討し直すこともできるのかもしれない(余談だが、「ザ・クラフト」の2021年のリブート版『The Craft: Legacy』は、家父長制をもろにターゲットにした明確にWokeな作品だ)。
『ジェニファーズ・ボディ』を映画解説チャンネル「The Take」が分析(上)。女子高生魔女映画『The Craft』のリメイク版『The Craft: Legacy』のトレイラー
憑在論から『ストレンジャー・シングス』へ
キアラ・ジャニスが『WDDB』で、フォークホラーという概念(ジャニス自身は「フォークホラーはジャンルだ」と明言しているのだが)に与えた輪郭は、ただ単に過去の様式や手法を懐古する「リバイバル」ということばでは言い表せないアクチュアリティを備えている。「SSENSE」のインタビューで、ジャニスは、フォークホラーと「ノスタルジー」の関係を、こんなふうに論じている。
フォークホラーが本質的に保守的だとは思いません。過去を擁護する人が保守的であることはありますし、保守的な理由からそうすることもあるとも思いますが、それがすべてではありません。特にフォークホラーというジャンルは、会話を封じたり、ただ過去に言及したりするのではなく、会話を誘発するものなのです。映画の中でショーン・ホーガンは、表面的な見方をすれば、フォークホラーは保守的に見えるかもしれないが、実際に作品を観てみると、過去を牧歌的な場所として描こうとしているわけではない、と語っています。ほとんどのフォークホラーは、過去から何を得て、何を残した方がいいのか、どちらとも取れないような余白を残しています。(註:原記事より翻訳)
そもそもフォークホラーにとって「過去」は重要なものだ。民俗的なものは、近代化され、さらにはデジタル化された社会にあっては、単に「異質なもの」とみなさられるのではなく、「古いもの」「過去の遺物」とみなされる。その「古いもの」が、映画のなかにおいて、あるいは、それを見ている観客が生きている環境における「当たり前」を突き崩す怪異としてフォークホラーの「フォーク」な要素は描かれる。
ジャニスは主に「過去」が「現在」に襲いかかってくる、いうなれば「フォークの逆襲」が映画史を通じて世界中で長らく展開されてきた趨勢であることを『WDDB』のなかで明かしているが、「フォークホラー・チェーン」の考案者であるアダム・スコヴェルは、「フォークホラー」がデジタルテクノロジーが浸透しきった社会において、どのようなコンテクストをもっているのかを分析することに腐心している。
そしてそれを分析するにあたって、ひとつの重要な補助線として、ジャック・デリダによって提出され『資本主義リアリズム』で知られる英国の鬼才思想家マーク・フィッシャーが音楽批評において援用した「憑在論」(hauntology /ホーントロジー)という概念を用いている。
この概念をここできれいに説明してのけるだけの知力は残念ながらないので、フィッシャーの批評集『わが人生の幽霊たち:うつ病、憑在論、失われた未来』について、映画・音楽評論家の後藤護さんによる書評から引用させていただくと、フィッシャーの見方は以下のように説明される。
「失うことが失われた時代」──フィッシャーは現代をそのように定義する。イメージ・アーカイヴや動画サイトの発達がもたらしたものは、過去のどの時代のプロダクトも同時に並列存在するようなネットワークの時空間であった。その結果、直進する文化的な時間は乱れ、「進歩」の感覚は喪失した。このような文化的な時間性の危機を、フィッシャーの盟友S・レイノルズは「反時間性(デイスクロニア)」と名付け、それに随伴するノスタルジー狂いの時代傾向を「レトロマニア」と呼んだ。これを踏まえてのフィッシャーの以下の指摘が本書導入の鍵となる。「この反時間性(デイスクロニア)、つまりこの時間的な分離には、とうぜん不気味さの感覚が伴うことが予想されるわけだが、しかし目下における、レイノルズが『レトロマニア』と呼んでいるものの支配が意味しているのは、それが不気味(アンハイムリツヒ)な負荷を失っているということである。つまり、アナクロニズムは、いまや当然のものとなっているのである。」
「レトロマニア」とは「不気味なもの」(フロイト)を喪失し平板化したポストモダン社会が産み落とした必然であった。ゆえにフィッシャーは、フロイトが「ES(それ)」と呼んだ非人称的な不気味な力を賦活するため、「幽霊」の存在を感知する作業に取り組むことになる。本書ではジャック・デリダが『マルクスの亡霊たち』で発明した、憑依(haunt)と存在論(ontology)を組み合わせた概念である「憑在論(hauntology)」を鍵語とし、それをポップ・ミュージックの世界に適用するかたちで、デジタルな音源からアナログな身体性が感知されるものを「憑在論的な音楽」と名指していく。
マーク・フィッシャー『わが人生の幽霊たち:うつ病、憑在論、失われた未来』(五井健太郎=訳、ele-king books)
マーク・スコヴェルは、この「憑在論」なる概念をフォークホラー分析に援用し、現代のオカルティズムとホーントロジーと現代における「怪奇」なものとの関係を丸々1章割いて分析している。
その理路を説明するのは手に余るので諦めるとしても、フォークホラーと「憑在論/ホーントロジー」をつなぐ手がかりとして、ナイジェル・ニールというフォークホラー3部作時代の超重要脚本家、その後2000年代に誕生したイギリスの音楽レーベル「Ghost Box」の奇妙な電子音楽作品群、さらに「Scarfolk」と呼ばれる架空の英国の街を舞台設定として制作されネット上に公開された、これまた奇妙なポスターやデザイン群などが挙げられていることを明記しておきたい。スコヴェルはこう書く。
オカルトの問題、都市の問題、あるいはアナログな技術・技法や、フォークホラーの看板に紐づけられたその他の多種多様な要素を理解する上で重要なのは、それを、その時代の社会学的特性と結びつけることだ。そうすることでナイジェル・ニールの作品を筆頭に60-70年代の数あるオカルト作品の一群、あるいは、映画以外のメディアを通して姿を表した、Ghost Box RecordsやScarfolkにおけるデザインやノスタルジアによってドライブされたデザインや膨大なTV番組を、現代とをつなぐものとして位置付けることができるようになる。
ナイジェル・ニールは「Quatermass」シリーズ、「The Stone Tapes」といったオカルトSFものとでもいうべきジャンルの始祖とされる英国の脚本家だが、この文脈におけるニールの重要性は、おそらくフォークホラー的な怪異を科学技術と結び合わせたところにある。「The Stone Tapes」はまさにその嚆矢となる作品とされており、そこで提出された世界観は、フォークホラーとSFをつなぐ重要な起点となっている。
Cultural Gutterというメディアが2019年に掲載した「森の中へ:アメリカンSci-Fiフォークホラー」(Into The Woods: American Sci-Fi Folk Horror)は、まさに科学技術とフォークホラーが交配していく道筋を、ナイジェル・ニールから語り始め、ホラー映画の巨匠ジョン・カーペンター制作の『ハロウィーンⅢ』に継承されていると論じている。記事は、『ハロウィーンⅢ』がいかに英国のフォークホラーに思わせる感覚をもっているかを語った上で、この作品のオリジナル脚本を書いたのがナイジェル・ニールであることを知って、めちゃくちゃ腹落ちした、と書いている。
そして、さらに記事は、その系譜がいかにNetflixの大ヒット作品『ストレンジャー・シングス 未知の世界』にまで引き継がれているかを説いていくこととなる。
『ストレンジャー・シングス』が、記事の言う通り「(Sci-Fi)フォークホラー」と呼ぶことができるのかどうか、異論があるのは間違いないところだ。先の後藤さんの書評にあった通り『ストレンジャー・シングス』は言うまでもなく「ノスタルジー狂いの時代傾向」=「レトロマニア」を、莫大な制作予算をもって極限にまで押し広げたものであるという意味では、「『不気味なもの』(フロイト)を喪失し平板化したポストモダン社会が産み落とした必然」のようなTVシリーズとも言えるからだ。
とはいえ、スコヴェルが名前を挙げたGhost Box RecordsやScarfolkも、同様に一聴・一見していただければ、それが「まんまストレンジャー・シングス」であることにも納得していただけるはずだ。つまり、『ストレンジャー・シングス』が「フォークホラー」の系譜につながる何かであることもあながち間違いだとも言えないわけだが、これをどう考えるのかは、(自分のオツムでは)ちょっと難しい。
現代の「フォークホラー・リバイバル」と『ストレンジャー・シングス』の大ヒットは、あるいは、同じコインの表と裏のようなものなのかもしれない。
フォークホラーと『ストレンジャー・シングス』をつなぐ水脈としてのナイジェル・ニールの『The Stone Tape』と『Helloween Ⅲ』
不気味なものを待ちこがれること
マーク・フィッシャーのカルチャー評論を集めた『わが人生の幽霊たち:うつ病、憑在論、失われた未来』には、上述したゴースト・ボックスのアーティスト、The Focus GroupとBelbury Polyを論じた「モダニズムのノスタルジー」という文章が収録されている。
2006年に設立されたゴースト・ボックスの創設者であるジュリアン・ハウスとジム・ウェッブがともに学生時代にともに夢中になっていたのがラブクラフトなどのホラーや不気味な習慣やオカルト、さらに英国電子音楽の重要な実験場だったBBCレディオフォニック・ワークショップであったことをテキストの冒頭で明かしたのち、フィッシャーは、その音楽の特質をこう説明する。
ノスタルジーが「望郷の念」(ホームシックネス)を意味するのだとしたら、ゴースト・ボックスのサウンドは、「望郷の念の不在(アンホームシックネス)=不気味なものを待ちこがれること」にかかわるものであり、ブラウン管を通じて慣れしたしんだ環境に侵入してくる不気味な亡霊にかかわるものである。ある意味では、ゴースト・ボックスはTVそれじたいだということもできる。あるいはそれは、失われてしまったTV、それ自体が霊となったTV、いまはもう一定の世代にしか記憶されていない、〈別の世界〉へと通じる電気管なのだといえる。
スコヴェルはゴースト・ボックスの作品に見られる、こうした特質がフォークホラーにも通底していると見立てるわけだが、実際上記のフィッシャーのゴースト・ボックス論にはナイジェル・ニールの代表作「Quatermass」シリーズへの言及もあるので、その線からたどれば、フォークホラーは、まさに「不在の望郷の念=不気味なものを待ちこがれることにかかわる」もの、あるいはそれ自体が「失われてしまったTV」と言える何かなのかもしれない。
また、ここで「幽霊」「亡霊」といった、いかにもホラー好みのことばが用いられているのも、フォークホラーとの関連を考える上では象徴的だ。フィッシャーはマルティン・ヘルグランドのデリダ論『ラディカル無神論:デリダと生の時間』から、以下の文章を引用し、ホーントロジーにおける「霊」をこう説明する。
亡霊の形象にかんして重要なことは、それが完全には現前しえないということである。それは、それ自体においては存在しえないが、しかしもはやないもの、ないしいまだないものとの関係をしるしづける
しかしながら、フィッシャーは、憑在論は単純に「超自然的なものを復活させようとするような試みではない」と強く戒めてもいる。代わりに彼は、憑在論は「潜勢的なものの働き」(エージェンシー)のことだと説明し、「亡霊を超自然的ななにかとして理解するのではなく、(物理的には)実在しないままに作用するなにかだと考える」ことを推奨している。つまり、フォークホラーをホーントロジーによって読み解くことが可能なのであれば、フィッシャーが音楽のなかに憑在論を見出したように、「いまだないもの」つまり「一度も実現されていないもの」として、フォークホラーは見出されなくてはならないということになるのだろう。
また、フィッシャーは、「資本主義リアリズム的な世界が生み出す形式的なノスタルジーを非難する」ものであるところに「失われた未来の亡霊たち」の可能性を見出したが、フォークホラーに、同様の可能性を見出すことはできるのだろうか。
上から:BBCレディオフォニック・ワークショップのTVシリーズ「ドクター・フー」製作時のドキュメンタリー(上)。フィッシャーが論じたBelbury Poly。フォークホラー的モチーフに彩られたBroadcast & The Focus Groupのホーントロジー音楽(中)。Scarfolkの紹介動画(下)
『シャイニング』のボールルーム
フィッシャーとフォークホラーが接近するのは、上記のような系譜的な観点からばかりではない。フィッシャーは「家庭(ホーム)は幽霊(ホーンツ)のいるところ」という文章で映画『シャイニング』の憑在論を書いているが、親密なものとしてあるはずの「ホームリー」(家庭的なもの)が、「アンホームリー」(家庭的でないもの)に転化していくことを、フロイトの「不気味なもの」を引用しながら語っている。フィッシャーは書く。
『シャインニング』をじゅうぶんに理解しようとおもうなら、クローネンバーグの映画『ヒストリー・オブ・ヴァイオレンス』(2005)がメロドラマとアクションのあいだに位置づけられるのと同じ意味で、それをメロドラマとホラーのあいだに位置付けるべきである。どちらの場合も、最悪の〈幽霊〉(シングス)はすでに内側にいて、本当の〈恐怖〉(ホラー)はすでに内側にある......(それ以上に最悪なことはありえない)。
ここでフィッシャーが用いた「シングス」(Things)ということばは、まさに『ストレンジャー・シングス』における「シングス」(Things)でもあるわけだが、興味深いのは、フィッシャーの憑在論に登場するモチーフが『ストレンジャー・シングス』のなかに見え隠れしている点だ。
『ストレンジャー・シングス』のシーズン4をご覧になっていればおわかりいただけるかと思うが、「家」は作品のなかで重要な役割を果たしている。過去に惨劇があったまま幽霊屋敷と化した「家」は言うまでもないが、「家庭」とそこにおける家族間の軋轢がもたらしたティーンエイジャーのメンタルヘルスの亀裂が、〈不気味なもの=Things〉をこちら側へと招き入れてしまう亀裂になっていたことからもわかるように、「最悪の〈幽霊〉(シングス)はすでに内側にいて、本当の〈恐怖〉(ホラー)はすでに内側にある」。
また、フィッシャーの「シャイニング」論では、映画に登場する「取り憑かれたボールルーム」が詳細に分析されているが、ボールルームでかかるビッグバンドによるノスタルジックなダンスミュージックは、『ストレンジャー・シングス』シーズン4で重要な役割を果たすエラ・フィッツジェラルドの「Dream A Little Dream of Me」と通じあってもいる。またそれが使用されるセッティングは、フィッシャーが論じるマンチェスターの電子アーティストThe Caretakerが好んで取り上げる「記憶障害/認知障害」というテーマ系とも絡み合っているのも興味深い。
さらにやや唐突ではあるが、「シャイニングの取り憑かれたボールルーム」は、そっくりそのままスピルバーグの映画『レディプレイヤー1』に登場するものであったことは、直接的な関係性はなさそうとはいえ、興味深いことではある。映画のなかで描かれる「メタバース」が、徹頭徹尾「失うことが失われた」空間であるなら、そこに憑在論的な「幽霊」が顔を出したとしても当然のことなのかもしれない。
映画『シャイニング』の憑在論のバリエーションとしてのThe Caretaker、『ストレンジャー・シングス』、そして『レディプレイヤー1』のメタバース
メディア論としてのフォークホラー
『ストレンジャー・シングス』も『レディプレイヤー1』も、言うなれば「ノスタルジー狂いの時代」の「レトロマニア」を極限にまで押し広げたような作品だ。であればこそ、マーク・フィッシャーの問題意識と重なってくるところがあるのも必然といえば必然なのかもしれないが、フォークホラーからナイジェル・ニール、ゴースト・ボックス、『ストレンジャー・シングス』『レディプレイヤー1』にまでつながるラインをつなぐ、さらに別のコンテキストがあるとすれば、それは「メディアテクノロジー」ということになるのかもしれない。
これまで「フォークホラー」というコンテクストではあまり論じられてはこなかったことだが、フォークホラーの系譜を見ていくと、70年代のナイジェル・ニールの「The Stone Tapes」以来、記録媒体を重要な契機とする作品が少なくないことがわかる。一世を風靡した『ブレア・ウイッチ・プロジェクト』や日本映画『呪い』などがその代表的なものとされるが、ホラー全般を見ても、古文書、本、写真、レコードといった「メディア」が〈不気味な世界〉と〈こちらの世界〉をつなぐ重要なモチーフとなっている例は数多くある。いうまでもなく「心霊写真」は、メディアと不気味なものをつなぐ、極めつけの好例だ。
フィッシャーは、そもそも憑在論がメディアテクロノロジーについての考察だったと説明している。アダム・スコヴェルは『Folk Horror』のなかで、フィッシャーが、Ghost Boxの登場がYouTubeの登場とほぼ時を同じくしている点に注目していたとを指摘している。フィッシャーは「緩やかな未来の消去」という文章のなかで、かつて観た『サファイア・アンド・スティール』という70〜80年代のSFファンタジーTVシリーズの最終回を20年後の2000年代初頭に、改めて観たときのことについて、こう感慨を漏らしている。
そのころにはもう、VHSやDVD、ユーチューブのおかげで、実質的にありとあらゆるものをふたたび視聴できるようになっていた。すべてがデジタルに回収されていくなかで、失うことそのものが失われてしまったのだ。
「失うことが失われた」時代をつくりあげているのは、まさにデジタルテクノロジーの浸透だ。そのなかで、わたしたちは過去を回想することができなくなり、「懐古すること」自体を懐古するしかすべがなくなっている。
「緩やかな未来の消去」が始まったのは、奇しくもフィッシャーが指摘したように、VHSが一般化し、あらゆる過去が自分の意志で視聴できるようになった頃なのだろう。自宅での再生が可能になり、いつの時代のいつの作品もオンデマンドで取り出し、自分の意志で早送りしたり、巻き戻したりすることのできる環境が生まれ、それがデジタルに移行したことで、ますます失われることがなくなった映像や画像やテキストや音声は、亡霊として漂い続けることになる。
そのとき、YouTubeやソーシャルメディアは、あるいは来るべきメタバース空間は、それ自体がすでにして〈不気味なもの〉なのかもしれない。
『サファイア・アンド・スティール』の最終回
召喚されたケイト・ブッシュ
整理のされていないランダムな覚書きのような考察となってしまったが、「フォークホラー」という概念には、検討に値する面白いコンテクストがいくつも流れ込んでいるのはおわかりいただけたのではないかと思う。ジェンダー論から帝国/植民地論、オカルト論、メディアテクノロジー論から憑在論まで、「フォークホラー」には、現代社会に対するアンチテーゼとしての前近代/中世的なものという単純な図式では片付けることのできない、複雑な論点が流れこんでいる。であればこそ、それがいま新たに注目を集め、論じられるようになったことの意義は大きい。
「フォークホラー」は何よりもひとつの固有の美的様式ではあるけれど、それよりも個人的には、それがもたらす漠然とした共通感覚のようなものとして捉えるのがいいのではないかと思う。
フィッシャーがそこにある種の希望を込めて提出した憑在論と、そこで描かれたモチーフは、00年代に書かれたときから、時を経て、『ストレンジャー・シングス』や『レディプレイヤー1』のように、すっかりメインストリームカルチャーへと記号化されて取り込まれ、資本主義リアリズムのなかに回収されてしまったと見ることもできるのかもしれない。ただ、たとえそうだとしても、あるいは、そうであるがゆえに「不気味なものを待ちこがれる」感覚は、ますます昂進しているとも言えるのかもしれない。
『ストレンジャー・シングス』シーズン4において、その最も重要な場面で召喚されたのが、英国ロック史において最も「フォークホラー」的な存在ともいえるケイト・ブッシュだったのは、あざといといえばたしかにあざといのだが、的を射ている。ブッシュの85年の名曲「Running Up That Hill(A Deal with God)」は、突然過去から呼び出され、おそらくは世界のTikTok魔女たちの支持も受けて全英チャート1位にまで駆け上がったことには、たしかに時代の「何か」が映し出されてはいる。
彼女のデビュー曲である「嵐が丘」のPVを改めて観てみたら、それが見事なまでのフォークホラー作品だったことに驚いたのだが、YouTube上には、このPVのダンスを「みんなで踊ってみた」映像が山ほどアップされていて、そのミッドサマー感にも驚いた。
フォークホラーは、一般社会から見えにくいところで亡霊のように漂う、「潜勢的なもの」「実在しないままに作用する何か」を言い当てたことばなのかもしれない。
フォークホラー感満載の「嵐が丘」と、それを踊る世界各国の魔女たち
*後編「暗黒の森にさまよう名作迷作50選」では、フォークホラーの傑作50本を一気に紹介します!併せてお楽しみください!
若林恵|Kei Wakabayashi 黒鳥社コンテンツディレクター。著書に『さよなら未来』、編著に『次世代ガバメント』『ファンダムエコノミー入門』など。ホラーは苦手だが、フォークなものは興味ある。後編にも登場するセルゲイ・パラジャーノフは大好きで、アルメニアにあるミュージアムを訪ねて悶絶した。
次週8月23日は「存在のための文化と著作権」(仮)をお届けします。ソーシャルメディアで誰もが表現者となったいま、著作権は変化のときを迎えている?──お楽しみに。