来るべきホモ・ファベルのための3冊| 山下正太郎・選【つくるの本棚 #1】
「つくるの本棚 #1」いま「つくる」とは? 各界の識者が「これからのつくる」のヒントとなる本を紹介するブックガイドシリーズ。第1回の選者はWORKSIGHT編集長・山下正太郎。とっておきの3冊を選びました。
これまでものづくりは常に未来を創造しつづけてきた。しかし常に「いま」を超える新しいものを生産し積み上げていくことは、とうに限界を迎えている。パンデミックや気候変動を前に、概念自体が揺らぐ「つくる」という行為。未来を奪わずにものをつくり続けることはできるだろうか。
つくることを生業にしながら、つくったものが社会に与える影響への意識から「長期的視点」をもつクリエイター。「いま」の延長線上にはない社会の描き方を探る、各分野の専門家たち。彼女、彼らが、これからの「つくる」を考えるための3冊を選書するBook Guideシリーズ「つくるの本棚」をお届けする。
第1回は「WORKSIGHT」編集長、山下正太郎が「つくるために向き合う相手」をテーマに本をセレクトします。
text by Shotaro Yamashita
photographs by Yuri Manabe
新たに始まる「つくるの本棚」というシリーズ企画に合わせて、寄稿いただく有識者のみなさんの露払いとしての解題を試みるとともに、僭越ながら私からも本をいくつか紹介したい。
企画の背骨である「つくる」とは人間を人間たらしめる行為である。哲学者アンリ・ベルクソンは主著『創造的進化』(筑摩書房)において人間の根源的な特徴を「つくること」に見いだし、「ホモ・ファベル」(工作する人)と定義した。
われわれの種を定義するのに、人間と知性の変わらぬ特徴として有史時代と先史時代が提示するものだけで我慢して、それ以外のものには決して頼らないならば、われわれはおそらく、ホモ・サピエンス(知恵のある人)とは言わず、ホモ・ファベル(工作する人)と言うだろう。つまるところ、知性本来の歩みであるように思われるものを検討すると、知性は、人工物、とりわけ道具を作るための道具を製作し、そしてその製作を無際限に変化させる能力である。(p.179)
しかし単に道具をつくるということだけでは、アリ塚に木の枝を突っ込みアリ釣りをするチンパンジーと何ら変わりがない。ベルクソンは人間と動物を隔てるものとして、自分自身を認識する知性を挙げ、機械論的にではなく、創造的な「つくる」行為を通じて自らを省みさまざまな方向へと進化していく「生の弾み」(エラン・ヴィタル)が人間の特徴であると指摘した。
「つくること」が人間自らをつくること、つまり人間社会をつくることと同義なのであれば、その射程はずいぶんと広くなる。具体的なモノをつくる以外にも、選択すること、使うこと、捨てることといったモノ自体の循環についてはもちろん、それに関わるコミュニティ、歴史、文化、法などのさまざまな関係性や制度も含まれる。
一方で、現代はつくることについて考えるのが実に難しい時代だ。未来に目を向けても、かつての人びとが描いていたようなわかりやすい世界観はない。いまを見つめても、多様化する価値観のなかでよって立つ自明的な「つくる」理由は見つからない。諸条件の異なる過去に安住することもまた難しいだろう。それでも「つくること」が人間の本質であるならば、私たちはつくらねばならない。
このシリーズでは、つくることに向き合い奮闘する有識者たちが、書籍を通じてこうした硬直化する「つくる」行為を多角的な視点から解きほぐそうという企画なのだ。
さて、1回目のブックガイドのテーマを「つくるために向きあう相手」と置いてみた。
曲がりなりにも研究者を名乗っている私にとって、「つくること」とは概念をつくることを意味する。具体的には、まだ見つけられていないパースぺクティブを掘りあて、ことばにして提示することだ。しかし困ったことにキーボードに手を置くまでに随分と時間がかかる。自分のクリエイティビティの無さに目をそむけたくなり、不意にデスクの掃除をしたりスマートフォンを手にとったりしてしまう。いざ着手してもさまざまな意見が頭をよぎりなかなか主張を絞りきれない。果たして書いたことが世の中に対してどのように影響するのか気になりだすと、ますます仕事が手につかない(結局、何の注目も浴びず杞憂に終わるが)。
つくることと向き合うためには、さまざまな障壁が存在する。先に挙げた心理的なもの以外にも、私たちがつくろうとする際に立ちはだかる大きな相手がいる。その相手と対峙するハードルをいかに下げるかが今回のお題である。
「自然」と向き合う
最初に向き合う相手は「自然」である。つくることが人為そのものであるならば、その対義語でありつくることによって影響を受ける「自然」との境界線にヒントを与えるのが、サイエンスライター、エマ・マリスの『「自然」という幻想:多自然ガーデニングによる新しい自然保護』だ。
『「自然」という幻想:多自然ガーデニングによる新しい自然保護』(エマ・マリス |岸由二、小宮繁・訳|草思社)自然保護はカルトであり不可能な幻想だ──。幅広い自然のあり方を認め、自然への積極的介入を行う新たな保護の形を提案する。
本書は、外来種を排除し過去の「Wilderness」(手つかずの自然)を守ろうとする旧来の自然保護のあり方に疑問を投げかけ、人が自然に対して積極的に介入する新たな実践を通じてその改定を迫る。
議論の出発点として、手つかずの自然を礼賛する思想を一種のカルトだと喝破する。自然は一時として安定した状態ではなく常に動いているものであり、人間が理想として仮定した固定的な自然な状態は空想にすぎず、実は多くの場合、人の手が入ることでより良い環境が実現されているという。たとえば1990年代以降に世界各地で盛り上がる Rewilding(再野生化) のひとつとして人工的につくられたオランダの野生地 Oostvaardersplassen (オーストバールデルスプラッセン) の風景を見るとき、あなたはどのような感情をもつだろうか。
20世紀初頭には数%だった、人間によってつくられた人為起源物質は、自然に存在する生物を超えて地球で最も大きな質量を占めるようになったと試算されている。もはや私たちが考える、手つかずの自然という神話は捨てなければならないのだ。本書の最後には、自然への積極的介入の代表的スタンスが7つに大別されており、ひとつの解に収れんするような単純な話ではないが、自然を過度に神聖化することはなくなり、自然に介入することへの罪悪感もいくぶんか弱まるだろう。
「人為」と向き合う
自然との折り合いがつけば、次に向き合う相手は「人為」そのものだ。近代的なライフスタイルと以前のそれとを分けるものとして、最も大きな違いのひとつが「技術」だろう。卑近な例でいえば、ビッグテックによって 人びとの行動や感情がコントロールされていることが、監視資本主義として社会的に問題視されている。議論の帰結として、私たちはしばしば技術自体を悪と見なしたり、それをつくる主体者だけを断罪しがちだ。
『技術の道徳化:事物の道徳性を理解し設計する』(ピーター=ポール・フェルベーク|鈴木俊洋・訳|法政大学出版局)倫理は技術と対峙させるのではなく、人間と技術との相互作用のなかで形成していくものである。フーコーやラトゥールの思考を辿りながら論じる、新しい技術哲学。
本書の大きな主張のひとつが、人間の道徳が技術によって「媒介」されるということだ。
乳癌遺伝子の例からも分かるように、医療技術は、選択状況の構造を決め、なされるべき選択を示唆することによって、医師と患者の道徳的判断を媒介している。こうした技術的媒介は、病気を防いだり、病気のリスクに責任を持って対処する方法を見つけたりすることに勝るとも劣らぬ道徳との関連性を持っているはずである。我々の行為や経験を媒介することによって、技術は、我々の生活や道徳的行為や道徳的判断の質の決定に介入している。したがって、技術と道徳との関連性を適切に扱うためには、技術倫理は、技術的媒介という現象を扱わねばならないことになる。(pp.12-13)
技術自体は道徳的な価値観を主体的に構築したり発したりはしない。しかしそれが存在することによって、人間の価値判断に考慮すべき選択肢が発生してしまうのだ。遺伝子検査技術があることで、私たち全員は潜在的な病人となり、乳がん診断において乳房の温存か切除かという選択の構造が社会的に与えられるのである。
もうひとつの主張は「自由」の新たな概念である。人間と技術が不可分な関係であり、技術によって道徳が媒介されるのであれば、何かに支配されていること自体が問題なのではなく、支配自体に無自覚であること、その支配との間に有効な関係を築けていないことが問題だとする。その上で、本書では技術を社会的にインストールするためのプロセスが提案されている。
技術は外側から完全にコントロールしきるものではなく、それによって人間が影響を受けるものであり、絶えざるインタラクションのなかからしか適切な利用方法が見つからない。つくることとは、つくられることでもあると本書は教えてくれる。そしてそれを恐れてはいけないのだ。
「デザイナー」と向き合う
最後に対峙したい相手は「デザイナー」だ。手つかずの自然がなくなり、自分たちの生んだ技術とのインタラクションのなかでしかつくれないのだとしたら、私たちはすでに存在するモノをつくった「つくり手」との関係を避けては通れない。
フィリップ・ブードン著『ル・コルビュジエのペサック集合住宅』は、デザイナーによって構築された環境のなかで、使い手が「つくる」行為をどのように展開してきたか、リアリティをもって伝える一冊だ。ブードン自身が「トポソシオロジー」と呼ぶこの研究スタイルは、権威主義的なアカデミアに対してデザイン行為を多様かつ複雑な社会的文脈のなかで捉えなおそうとする60年代後半の学際的動きの走りとしても知られる。
『ル・コルビュジエのペサック集合住宅』(フィリップ・ブードン | 山口知之 、杉本安弘・訳|鹿島出版会)建設以来40年の間に住民たちによって夥しい改作がなされた、ル・コルビュジエ設計のペサック集合住宅。建築家である著者が、これらの変更が「住む」ことに与える意味を考える。
舞台となっている1920年代に出来たボルドー近郊ペサックの集合住宅は、経営者アンリ・フリュジェが、自社の製糖工場で働く労働者のために建てたものだ。フリュジエが近代建築の巨匠ル・コルビュジエの著作である『建築をめざして』に心酔していたこともあって設計が依頼され、彼が提唱する近代建築五原則にのっとったデザインがなされた。
ところが、近代建築のポリシーなど意に介さない住民たちは勝手に住宅をハックしだした。壁を壊し、色を塗り、庭をつくりといった具合に自分たちの好む生活様式に空間を改変したのだ。長らくそれはデザイナーの敗北(少なくともコルビュジエはそう見なしていた)と取られていたが、本書はそれを否定する。コルビュジエや住人のことばとデザインを丁寧に分析することによって、つくり手は自身のつくったものの可能性を完ぺきには理解しえず、また使い手も単なる無能で受動的な存在ではなく空間のポテンシャルを丁寧に読み解いていることを示しているのだ。
私たちは有名無名に関わらず誰かがデザインしたものに囲まれている。しかし昨今の Covid-19 によるパンデミックで浮き彫りになったのは、近代都市や建築がある人物(その多くがエスタブリッシュされた男性)の固定的視点からつくられているという問題だ。有色人種、女性、子ども、障がい者といった立場の弱い人たちにとって不利な状況が可視化された。本書は、こうした近代におけるつくり手による使い手への専制支配という関係を見直し、双方が介入できる新しいデザインのあり方についてヒントを与える。
後日談だが、本書で示された使い手による改変の痕跡は、残念ながら現在はほとんど見ることができない。ユネスコ世界文化遺産への登録に合わせてその姿を「オリジナル」の状態へと戻されたからだ。現在の使い手は、世界的建築家の作品のなかで暮らすことそのものに喜びを感じているようであり、ここにも、先述した自然を相手にするのと同じく、手つかずのオリジナリティを神聖化する力が顔を出す。
今回は、自然、技術、デザイナーといった「つくる」ために向き合わねばならない対象について考えてみた。いずれも一筋縄ではいかない相手だが、素性がわかれば攻略法を考えられるはずであり、そうすることはもう「つくり始めている」と言ってもいいのではないだろうか。
【つくるの本棚 #1「来るべきホモ・ファベルのための3冊」山下正太郎・選】
「自然」という幻想:多自然ガーデニングによる新しい自然保護
エマ・マリス |岸由二、小宮繁・訳|草思社技術の道徳化:事物の道徳性を理解し設計する
ピーター=ポール・フェルベーク|鈴木俊洋・訳|法政大学出版局ル・コルビュジエのペサック集合住宅
フィリップ・ブードン | 山口知之 、杉本安弘・訳|鹿島出版会
山下正太郎|Shotaro Yamashita コクヨ野外学習センター センター長/コクヨ ワークスタイル研究所所長。2011 年『WORKSIGHT』創刊。同年、未来の働き方を考える研究機関「WORKSIGHT LAB.」(現ワークスタイル研究所)を立ち上げる。2019年より、京都工芸繊維大学特任准教授を兼任。
次週8月16日は、「納涼!お盆に観たい〈フォークホラー〉傑作選」(仮)をお送りします。暑い夏に映画でひんやり……お楽しみに。